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Past 3 ロンドンにて


 遠坂凛は、日本から送られてきた封筒を開封した。
 日本を離れている間、冬木市の管理者の権限を一部代行してもらっているアーチャーから、送られてくる月二回の定期報告が、書簡の内容だった。
 その中に、マトリョーシカのようにして、小さく薄い封筒が入っている。こちらには宛先は書いていないが、これもいつもの通りだ。
「士郎」
 アーチャーからよ、と、凛は士郎に封筒を手渡した。
「サンキュ」
 頷いて凛から封筒を受け取った士郎は、ペーパーナイフを投影した。魔術修行の成果か、士郎の投影もかなり早く正確になった。  封筒から中身を取り出して、そういや、初めて、アーチャーからの手紙を目にした時は驚いたな、と士郎は思い起こした。何せ、当たり前といったら当たり前ではあるのだが、アーチャーは、士郎と癖から何から全く同じ字を書くのだから。俺、遠坂に手紙なんか出したっけ? と士郎が思わず首を捻ってしまうくらいに。二人が元々は同一人物だと、ささやかな証。
「今度は何?」
「梅干送った、ってさ」
 毎度の事ながら、到底手紙とは言い難い、大昔の電報かと言いたくなる業務連絡よりも素っ気無い一行だけが記された紙に、士郎は苦笑した。つられるように、凛も苦笑する。
「相変わらずねえ」
「ま、梅干なんか、こっちじゃなかなか手に入らないし、有難いっていや有難いんだけどな」
 士郎は、随分広くなった肩をすくめた。
 人間、特に男性の身体的成長は二十歳くらいまで続く、というが、遅い成長期を一気に迎えたように、士郎は十九歳から二十歳にかけて急激に背が伸びた。アーチャーもそうだったのかしらね、と凛は興味深げに士郎を見上げた。
「それより遠坂、時間、大丈夫か」
「いいのよ、別に待たせたって。向こうだって、どうせ本気じゃないんだし、元々、わたしの趣味じゃないし。所詮は社交辞令よ」
 キャビネットの上の置き時計に目を走らせた士郎が訊くと、凛は少々面倒そうに答えた。
 凛は、この日、とある名門筋の若手魔術師に食事に誘われているのである。これは、特に本人に好意を抱かれてのことではなく、恐らくは自分の大師父が、かの五人の魔法使いの一人である魔導元帥キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグであるためだ、と凛はふんでいる。繋がりが欲しいのだろう。そのため、どれだけこっぴどく振ってやろうか、と物騒なことを考えているのだった。  あーあ可哀相に、と士郎は見知らぬ相手に同情した。遠坂凛がこの素晴らしく美人な外見に反し、どんなに容赦ない性格をしているか知らないなんて。まあ、知っていれば、迂闊な誘いの手を伸ばしはしないだろうが。
「大変だな」
 凛もそうだが、相手の男も。
「こればっかりは、士郎に代わってもらうわけにはいかないからね」
 ふうと溜息をついて、凛はそれでも出かける準備をするため、自室に移動した。
 士郎と凛の借りている部屋は、正に、ここロンドンの誇る名探偵、シャーロック・ホームズのベーカー街の下宿先の間取りを髣髴とさせる、居間と寝室二つの作りになっている。若い男女が同じ家に住んでいる、ということで、その手の誤解には事欠かないが、全くの誤解である。
 凛と士郎とは、あくまでも師弟の関係であり、士郎は一方的にこき使われている立場でしかない。第一、士郎の方は想い人を日本に残してきている。独身女性の同居人として、多分、これ以上の安全牌はないだろう。
 年を追う毎に更に綺麗になっていく凛を目の当たりにすると、本当に何で俺は遠坂じゃなくて、実に面倒くさい男のあいつのことが好きなんだろうな、と士郎は思わないでもない。けれど、脳裏をよぎる面影がもたらす胸の痛みと高揚は、士郎自身でもどうしようもない、息苦しいほどの愛しさだった。
 アーチャー、と心中で呟く。
 会えない寂しさには、大分慣れたけども。一度、セイバー達がイギリスを訪ねてきた時、薄々と予測はしていたが、やはりアーチャーは同行して来なかった。そのせいもあって、一時は、本気で日本に帰りアーチャーに会いたくなって、ヒースローのチケットカウンター前まで行こうかとまで思った。
 それを止めたのは、自分自身に立てた誓いと、確実にアーチャーから返って来ると予測される罵声だった。
『たわけ、自分で決めたことを途中で放り出して来るなぞ、貴様の信念とやらはその程度か!』
 実にリアルに想像できた。それで頭が冷えたのだった。
 ただ、それで、募る恋しさが緩和されるわけでは、全くなく。
 士郎は、便箋の上に記された、アーチャーの筆跡の上にそっと唇を当てる。
 お前が好きだ、と囁く代わりに。


「じゃあ、行って来るわね」
「ああ」
 と、出かけた凛を玄関で見送り、士郎は自分の夕食を済ませた。それこそ、アーチャーが折に触れて米や調味料を送ってくれるので、食事に関しては、幸いにして思ったよりも不自由は無い。イギリス料理の破壊力に関しては、「名物に美味いものなし」の域を軽く越えていると、士郎は凛と共にしみじみ感じたものだった。それこそ、この国出身のセイバーが自国の料理を、唇を噛みながら「……雑でした」と言うのも納得だ。アングロサクソン人は、東洋人に比べると舌に味蕾が少ないそうなので、それもあるかもしれないが、あまり食事に重要性を置いていない国民性なのだろう。何にせよ、食に拘る日本人には辛い話である。
 この日は、特に用事もなく、片付けも済ませると手持ち無沙汰で、何となく士郎は部屋に戻った。
 ふと、机の上に置いた写真立てに目が留まる。
 日本を発つ前に、皆で撮った写真だった。
 その中に、凛とイリヤスフィールにがっちりと、逃げられないように両腕を掴まれて、どうにも不服そうな顔をしたアーチャーが写っている。
 今、どうしてるだろう。ふと思う。
 イングランドと日本の時差は約九時間。こちらが夜が深まってくるのに反して、そろそろ、向こうでは朝の活動が始まろうという頃合か。
 ベッドの上に腰を下ろして、瞼を閉じると、鮮烈に思い浮かぶ、赤い外套を纏った広い背中。両手に握られた、白黒一双の夫婦剣、干将莫耶。精悍な横顔。鋭い鋼色の瞳。
 それが何時しか、アーチャーは褐色の肌を全て晒し両腕を伸べて、士郎を呼ぶ。
『……士郎』
 濡れた声、潤んだ眼差し。乱れた白い髪。
 ずきん、と下半身に疼きを感じた。
 よく我慢している、と我ながら士郎は思う。日本にいた時は、それこそ、ろくに日を置かずにアーチャーを抱くこともあったのに。
 だが、彼が傍にいない今は、我慢する以外にどうしようもない。士郎が欲しいのはアーチャーだけであって、別に人の温もりではないのだから、代償行為として誰かを抱くことなど、考えられなかった。
「アーチャー……」
 それでも、若い肉体は耐え難い劣情を催す時がある。早い話が、欲求不満だ。こうなると、解放するしか身体の熱を鎮める方法は無い。幸い、同居人の凛は不在であるため、物音を心配する必要も無い。さほど苦労することもなく、士郎は記憶の中から、アーチャーの艶かしい姿を掘り起こした。
 荒く甘い息遣いに、熱い、しなやかな肌触りまでもが甦ってきそうだった。
『は、あ……、しろ、う……』
 切ない喘ぎと共に、アーチャーの裸身が士郎にしがみついてくる。抱いてくれ、と言わんばかりに。実際には到底あり得ないことだが、脳内はあくまでも自由である。
 想像だけで、服の上からでも面白いくらいに身体が昂ぶり始めているのが分かる。その股間に、士郎は手を伸ばした。軽く輪郭に触れるだけでも、快感が走る。
 前を寛げて、勃ち上がりつつある自身を取り出した。
 アーチャーの手に包まれた時のことを、思い出す。元を糺せば、彼も己も同じ根から発しているためなのか、自分でしているようなそうではないような、あの、不思議な感覚。
「……アー、チャー……」
 今では、自分の手の大きさも、さほどアーチャーのものと変わらないだろう。そう思うと、余計にアーチャーの手に触れられているような気がして、士郎の興奮が高まる。
 緩く握りこんで、上下させるだけで、たちまちに芯を持って硬くなる。
 既に先端からは、透明な先走りが零れている。ロンドンに留学してからというもの、満たされぬ想いを、こういう形で発散するのは初めてではない。慣れたものだ、というのも何やら物悲しいものがあるが、事実は事実である。
 徐々に、擦り上げる強さを上げる。
『……んっ……』
 やがて、想像の中で、アーチャーが士郎の分身を、微かな声と共に口に含む。そういや、アーチャーは口ではほとんどしてくれなかったなあ、と士郎はぼんやりと思った。いや、手でだってほとんどしてくれなかったが。一応、皆無ではなかったものの、アーチャーは、どちらかというと性的には淡白で、積極的に自分から快楽の追求をして来ようとはしなかったためだ。その彼を喜悦に追い詰めて追い上げて、理性を飛ばし喘ぎ啼かせるのは、士郎の楽しみだったとはいえ、好きな相手に奉仕されるのが嬉しくないわけが無い。
 脚の間に、白い髪が動く様が見えた気がした。それは言ってしまえば真に立派な妄想だが、実際にあった過去が、変なリアリティを持たせてくる。イメージしろ、ってこういうことじゃないよな、とか頭の何処かで冷静に考えているのは、やはり当人が目の前にいないからだろうか。
 根元から先端まで、数度扱き上げる。
『う……ん……』
 すると、アーチャーの指が一緒に上下に動く。悩ましい吐息が洩れて、赤い舌が閃いた。どくどく脈打つ血管が、快感の強さを物語る。
「っは……、アーチャー……!」
 ひっきりなしに汁を滲み出させる鈴口を刺激すれば、アーチャーに甘く吸われた錯覚すら抱いた。呼吸が乱れていく。
 アーチャーが目だけで士郎を見上げてくる。鋼色が蕩けた艶冶な表情に、心臓の鼓動が高まる。突き上げるようにして、腰が動く。それが、アーチャーの温かい口腔の奥にまで導かれて喉の奥に擦りつけられたような、快楽の感覚が止まらなくなる。
 イきそうだ、と手の動きが激しくなる。
『んん――ッ、ん……』
 淫靡にアーチャーに舐めまわされて強く啜り上げられる、それを思い浮かべて、士郎は絶頂に至る。
 噴き出した白い飛沫に、右手が汚れた。だが、なおも、体の裡の熱は波のように引いていこうとはせず、まだ足りない、とばかりに性器が頭をもたげている。
 どれだけ溜まってるんだよ、俺。いくら何でも、もう思春期も終わってるだろ。
 半ば自分に呆れながらも、どちらにせよ、これほどの昂ぶりを抱えたまま寝ることも出来ないので、士郎は自慰行為を再開する。
 抱きたい、と思う。褐色の逞しく、それでいてひどく甘美な肢体を。思う様に貪って、喘ぎ啼く声を聞きたい。好きだ、と言って。
 どれだけ好きだと伝えても、心の底からは受け入れてくれない強情な人に、体でもって分からせるために。
 アーチャーの身体を、眼下に押し倒す想像をする。筋肉の張った脚を抱え上げて、広げる。以前は、一回りも体格差があったが、今では視線の高さを合わせるのも容易だろう。交わる時に、鍛え抜かれたアーチャーの肉体を目の前にして劣等感を抱くことも、きっともう無い。その時のアーチャーの顔を想像すると、何となく口許が笑いの形を描く。
『っあ、ぁう……ああッ……!』
 奥まった場所を貫く感覚を思い出す。久しく味わっていない体。本当にアーチャーを抱く時であれば、念入りに前戯を施すところだが、いくら何でも妄想の中では必要ない。アーチャーが艶かしい嬌声を上げる。
 生々しく鼓膜に甦る声に、どきりとした。手の中に収めた自分の濡れたモノが、膨張する。
「……ふっ……」
 息を吐いた。熱い。  前のめりの姿勢になると、本当にアーチャーの中に入っている気すらしてくる。
 そもそも、士郎とアーチャーが遺伝子レベルで同じ存在であることを考えれば、彼との情交も、ある意味、変則的な自慰行為ではあるのかもしれないが。体の相性が抜群にいいのも、恐らくは。
 けれど、道を違えた自分達は、やはり別々の存在としか思えない。アーチャーの過去はアーチャーのものでしかないし、士郎の未来は士郎のものだ。
 違うけど同じ、同じだけど違う。だからこそ、元のように一つになろうとして、こんなに惹かれてしまうのだろうか。
『や、は、……あ、……んッ……』
 濡れ光る唇が喘ぎを零し、自ら腰が揺らされる。
 アーチャーの狭く熱い体内を思い起こして、そこに包まれる悦楽に身を任せるように、手を動かす。まるで眼の前にいるようにして、名を呼ぶ。
「……アーチャー……、アーチャー……!」
『あふッ……! や、ああぁぁ……っ!! 士郎っ……』
 ぼろぼろと鋼の双眸から絶え間なく涙を流しながら、アーチャーが士郎に応える。
 ごく、と喉が鳴った。
 努力しなくても、克明に思い出せるくらい何度も見た痴態。瞼を閉ざすと、アーチャーが自分に縋りついて、もっと、とねだる様が浮かび上がる。
 自分の切迫した呼吸音が、アーチャーのものと重なって聞こえるようだ。
 欲望が加速する。解放へと向かって、それこそ抽挿しているように、腰を動かしながら繰り返し扱き上げる。
『ッ……、ァ……あっ――!!』
 アーチャーの声と共に、白い光が明滅した。全ての重力から自由になったような浮遊感と共に、精が吐き出される。
 それでようやく、落ち着いた心地になる。
 身体的には。
 精神的な飢餓の方は、如何ともし難い。心身共の満足などという贅沢は、一人前になって帰国するまで、耐えるしかない。
 ああ、本当に、俺、アーチャーじゃないと駄目なんだ……。
 唐突に、寂寥が襲ってくる。
 何故、彼が今、隣にいないのだろうと。何故、ここは彼がいる衛宮邸じゃないのだろうと。
「好きだ……」
 呟く。
「好きだ、好きだ、好きだ――アーチャー」
 恋焦がれるように。
 会いたい。お前に、会いたい。
 だが、まだ。再会の約束を果たすには、まだ早い。こんなに簡単に心が折れそうなくらいでは、到底、あの背中に並び立つ男とはいえない。
 背丈は伸びて、それに相応しく身体も鍛え上げたけれど、それだけだ。胸を張って、愛していると彼に告げられる自信は、未だ無い。第一、時計塔での修了レベルにだって到達していないだろう。
 そろそろ、魔術修行も終盤に入ってきた。気合を入れてかからねば、と、改めて心を引き締める一方で、
「……シャワー浴びてくるか……」
 とりあえずは現実問題の解決をするべく、立ち上がる士郎だった。



「……うん、そう。……あら、そうなの、へえ……」
 ただいま、と凛に指示された分厚い魔道書数冊を借りて帰ってきた士郎は、話す相手のいないはずの部屋から、声が聞こえてくるのに、ああ、電話か、と納得した。しかも日本語だから、相手は彼女の妹の桜だろうか。
 凛が、目だけで士郎にありがと、と伝え、そこに置いておいて、とテーブルを指差す。
「ん? ああ、士郎が帰ってきたのよ。代わる? アーチャー」
 僅かに、士郎はぎくりとした。よりにもよって、何というタイミングだ。昨夜、妄想の中で彼を抱いたというか、ぶっちゃけ自慰のおかずにしたばかりだから、今、電話を渡されたら、さすがに気まずさを感じずにいられない。
 そういや、何時だったか、いきなり『たわけ!』と開口一番に怒鳴られたことがあったけど、あれは何だったんだろう。
「……いいの? ……ええ、そうね。……また、改めてね。……うん、ありがと。じゃあね」
「……桜、何かあったのか、遠坂」
 受話器を置いた凛に、悄然と安堵がない交ぜになった複雑な心境を覆い隠して、なるべく普通の声に聞こえるように注意しつつ、士郎は訊いてみた。
「桜、内定もらえたんですって。それで、電話かけてきてくれたのよ」
 嬉しそうに凛が答える。
「そうか、良かったな」
 士郎もまた、素直に心からの祝辞を述べると、凛は頷いた。
 ちなみに、食事に誘われた凛は、恐ろしいくらいの上機嫌で帰ってきた。その笑顔に、士郎は思わず、あかいあくま、と口走りそうになったが、決して口にはしなかった。地雷踏みだと多くの人に思われている士郎だが、それくらいの危険は嫌でも分かる。伊達に長年、凛と付き合っていない。
「けどそれ、桜じゃなくて、アーチャーが電話かけてきたのか?」
 ふと湧いた疑問を、士郎は投げかける。
「いいえ、最初は桜よ。あなたの家からだったから、アーチャーに代わってくれただけ」
 そう言って、凛はにやりと笑った。
「士郎に代わる? って訊いたら、アーチャーったら『いや、いい』だって。わざわざ電話で話なんかしなくても、通じ合ってるってことかしらねー」
「それ、アーチャーに言ったら、全力で否定されそうだな……」
 あからさまなからかいを、士郎は苦笑でかわす。
 それから、今度は自分が、意識して人の悪い笑みを浮かべて見せた。
「けど、いいのか、遠坂? 元々、アーチャーはお前のサーヴァントだろ。今の、アーチャーは俺のものだって、遠坂の公認を得たって思っていいのかな」
「……士郎の今の顔、すっごいアーチャーに似てた。何だかむかつくわ」
「あ、似てた? あいつの真似してみたんだけど」
 凛が、むっとした表情になるのに、士郎は今度は、はは、と何時もの笑顔になる。
「何よ、士郎のくせに生意気!」
 随分、視線の位置が高くなった士郎に向かって、凛は鼻先に指を突きつけた。
「酷い言われようだな」
 士郎が肩をすくめる。身を翻した凛は、ソファにぽふ、と音を立てて座った。
「まあいいわ。士郎、お茶淹れて。葉はフォートナム・アンド・メイスンのセイロン・オレンジ・ペコでね」
「はいはい」
 逆らうことなく、士郎は師匠の言いつけに従ってキッチンに移動する。
 ティーポットを温めて、湯を沸かす。ティースプーンで茶葉の量を加減しポットに入れて、沸騰した湯を素早く注ぐ。葉を充分に蒸らし、茶漉しを使ってウェッジウッド・ブルーのティーカップに注ぐ。流れるような動作で、凛の前にカップを置いた。
「――仕方ないじゃない」
 執事のバイトで培われた腕前を披露する士郎に、凛はぽつりと言った。何が、と士郎は目で問うた。
「アーチャーが、士郎がいいって、あなたを選ぶんだったら、仕方ないじゃないの。アーチャーとわたしの主従の契約は、もう切れてるんだから、わたしには、あいつの選択に口を挟む権利は無いけど」
「遠坂」
 さっきの話か、と、士郎はテーブルを挟んで、凛の向かい側に腰を落ち着けた。そして、一言。
「お前、娘を嫁に出す父親みたいだぞ」
「ちょっと!」
 それに対して、凛が抗議の声を上げる。
「その例えは、いくら何でも不適当じゃない?」
「そうかな。イメージとしては、かなり妥当だと思うけど」
「いいえ、おかしいわよ! 複数の意味で!」
 凛は不服そうに、士郎を睨んだ。それでいて、常に優雅たれ、の遠坂家の家訓を忘れることない仕草でカップを持ち上げて、口に運ぶ。
「士郎」
 改めて、凛が士郎を呼んだ。
「……幸せにならなきゃ、許さないんだからね」
「ああ」
 士郎は頷く。
 幸せという言葉の意味は知っていても、自分がそれを得ることは考えたこともないだろう、赤の弓兵。自らの理想に傷つき、絶望して、自分の生涯は間違いばかりだったといつも後悔していた。それなのになお、誰かのために戦うことを止められない、底無しのお人よし。
 愛しい、と思う。
 彼が、心の奥底では、今も一人の少女を愛していることは知っている。けれど、その思い出ごと何もかも彼を愛すると誓ったのだ。オレは所詮、世界の所有物に過ぎないと嘯く彼を、なら、世界から奪ってでも、俺のものにしてやると。
 こんな激しい感情が自分にあったなんて全然知らなくて、それに気付かせてくれたのは彼だった。
 お前が大切なんだ。一番。
 だから。
「あいつが俺を選んでくれるなら、俺は、ちゃんと、あいつと一緒に幸せになる」
 いっそ厳かなほどに、士郎は言った。
「そう、ちゃんと分かってるのね。……なら、いいわ」
 凛はソーサーの上にカップを戻した。かちり、と小さな音。曰くありげな凛の言葉に、士郎は首を傾げる。
「何がさ」
「士郎が、答えを間違えなかったから」
 自分を大事にしないというところは、士郎もアーチャーも、実際の所は大差は無かった。だが、士郎はきちんと、自分以外の人の幸せだけでなく、自分の幸せも望めるようになった。そんな当たり前のことが当たり前でなかった士郎が、だ。少々、複雑な思いがしないでもなかったが、凛は笑った。とても、綺麗な笑顔だった。
「……もし、俺が遠坂に間違って答えてたら、どうなったんだ」
「勿論、ガンドの嵐の中に沈めてやったに決まってるでしょ」
「死ぬだろ!」
「それくらいであんたは簡単に死にはしないわよ! それだったら、とっくに聖杯戦争で複数回死んでるってのよ!」
 師弟は、一瞬だけ角突き合わせるように睨み合い、同時にぷっと吹き出した。
 そして、士郎は思う。
 お前が願うことを知らないなら、俺がお前の願いになる。お前が世界のものだというなら、俺がお前の世界になる。お前は、俺の全てだ。
 好きだから――愛してるから。
 待ってろよ、アーチャー。心中で、士郎は再会の日を期す。