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Aast 3 たった一つの答え 前編


 アーチャーは、一人、縁側に佇んでいた。刀じみた三日月が、夜空にかかっている。雲はほとんど無い。軒先に吊るされた風鈴が、あるかなしかの風に揺れて、ちりん、と微かな音を立てた。
 士郎と凛がロンドンの時計塔より帰国してから、一ヶ月が経っていた。
 士郎は、凛の助手として毎日それなりに忙しいらしく、この夜もまだ帰ってきていなかった。セイバーやアーチャーが休んでから帰って来ることや、遠坂邸に泊まることも、ままあった。
 そのせいか、結局、帰ってきてからというもの、士郎はまだ一度もアーチャーを抱いていない。それに対して、別にアーチャーは不満は無かった。現世に別れを告げると決めた今では、むしろ、士郎との積極的な接触は避けたいところだった。
 あの、真っ直ぐすぎる琥珀色の双眸に、弱い自分を自覚しているから。
「ただいまー」
 と、玄関から士郎の声。帰ってきたか、とアーチャーは思ったが、そこから動きはしなかった。
 背後で、ガラス戸の開く音、次いで、士郎が不思議そうにアーチャーに尋ねてきた。
「お前、何やってるんだ、こんな所で?」
「別に」
 座ったまま、アーチャーは上半身だけで振り向いた。
「夕飯は」
「遠坂と済ませてきた」
「そうか」
 返事を聞いてすぐに、アーチャーはふいと士郎から顔を背ける。関心を失ったそぶりで。
 だから、気付くのが遅れた。背中の後ろから腕が伸ばされてきたことに。
「……!」
 耳元に感じる、熱い吐息。自分のもの以外の両腕が、アーチャーの体の前で交差している。
「士郎っ……」
 アーチャーは、士郎を振りほどこうとした。だが、それよりも早く首筋に与えられた唇の感触に、無意識にびくり、と震えた。
「あ……」
 熱っぽい唇が、項を辿る。耳朶に軽く歯を立てられて、アーチャーは身を捩った。
「やめ、ろ……士郎……!」
「逃がさない、アーチャー」
 士郎は、殊更に強く腕に力を込めて、自分の胸前にアーチャーを抱き寄せる。
「な、にを……」
「俺が、何も気付いてないとでも思ってたのか?」
 その言葉に、一瞬、もがこうとしたアーチャーが呼吸ごと動きを止めた。
「今のお前の雰囲気が、死を目前にした時の、切嗣とそっくりなことに」
 この縁側で、月を見上げながら静かに逝った、衛宮切嗣。衛宮士郎の、エミヤシロウの義父、夢の原点に立っていた人。
 第四次聖杯戦争の終局にて、この世すべての悪アンリマユという呪いの泥に蝕まれた末の生命の終焉を、それと知りつつ迎えた切嗣と同じように、アーチャーが現界を終えようとしていることに、士郎は気付いていた。
「アーチャー」
 そして、怒っている。
「ちゃんと、俺を見ろ。目を逸らすな、俺を見ろ」
 ぐっと肩を引かれ、アーチャーは士郎と真正面から向き合う形になった。
 それで、否が応でも士郎の顔が、アーチャーの鋼の瞳に映る。琥珀が燃えていた。赤銅色の髪が、逆巻く炎のように見えた。
「嫌だからな」
 士郎は、その激しい目でもって、アーチャーを睨みつけた。
「お前を失うのは、俺は絶対に嫌だからな」
「……まだ、オレを愛しているなどと、妄言を吐くつもりか、貴様は」
 アーチャーは、意識して冷たい声を出す。士郎を突き放すために。
 しかし、士郎の眼光のつよさはごうとも揺るがず、逆にアーチャーに真正面から挑みかかってくる。
「当然だろ。気の迷いなんかで、男に愛してるなんて言えるもんか」
「――お前が、そうだから」
 顔を顰め、アーチャーは言外に離せ、と伝えるが、肩を掴む士郎の手が緩まることは無い。アーチャーは小さく舌打ちし、眼をそらした。
「オレが離れていくしかないだろうが」
「なんでさ」
「お前の幸せは、オレと共には無い。人ならぬ身の、このオレとは、な。お前は、人の世で人との幸せを求めるべきだ」
「……お前、それ、本気で言ってるのか」
 士郎の声が低まる。
「それこそ愚問というものだな」
 うっすらと、アーチャーは笑った。皮肉げな、というより、陰のある笑い方だった。
「オレが居なくなれば、いずれお前の目も覚めるだろう。オレとのことなど、そのうち、思い出にも昇華できようさ。いい加減に夢から醒めろ。大体、自分自身との倒錯した恋愛ごっこなど、不毛にも程があるだろう、衛宮士郎?」
 アーチャーが遠い過去に失った琥珀色には、目の前に居る筈の人が、蜉蝣の羽のごとく薄く薄く透き通っていくように写っているのか。士郎は大きく息を吸い込み、そして。
「馬鹿野郎!!」
 体中を震わせて、大声で叫んだ。まるで、気を失った者に活を入れるかのように。
「お前は俺のものだと言ったろう、アーチャー! それはつまり、俺がお前のものだっていうのと、同じことなんだぞ! それなのに、お前は俺から逃げるって言うのか!?」
 触れるだけで焼け焦げそうな激情を、真正面から叩きつけられ、アーチャーは瞠目した。次いで、士郎の発した言葉の意味を理解して、僅かに体を強張らせる。
「……何だと?」
 士郎が……オレのもの、だと?
 そんなこと、考えたこともなかった。
 アーチャーは、外していた視線を士郎の顔に戻す。
 それを待っていたかのように、士郎はアーチャーに強引に口づけた。何かを言おうとした唇を力ずくで奪い取った士郎は、両腕に力を込めてアーチャーの身体を抱き締めた。
「惚れた相手に逃げられて、それで幸せになんて、なれるかよ」
 アーチャーのすぐ耳元で、士郎の声が言った。それは耳鳴りのようにアーチャーの鼓膜の奥まで響き、脳髄を貫いた。
 声も出ない。瞬きすら忘れそうだ。
 衛宮士郎の幸せを願っていた。人のままで、人としての幸福を得ることを、正義の味方になるという理想と両立できる、とアーチャーは信じてその通りになることを望んでいた。それなのに、自分と一緒にいられないと幸せになれない、だからお前は消えるなと、士郎は言う。
 とりもなおさず、それは士郎がアーチャーを一時の夢、などではなく生身の心を持つ一人の人間として扱い、そして本当に心から愛しているという事実だ。
 この世で一番、アーチャーをかけがえのない大切な人として。そして、その幸せを共にしてくれと、そう言っている。
 士郎は、微かにわななくアーチャーの背を、優しくさすった。
「俺に幸せになって欲しいって言うんなら、お前は何処にも行くな。消えるなんて、そんなこと言うな。俺と一緒に、ここにいろ。……ここに、いてくれ。俺を不幸にしないでくれ、アーチャー」
 懇願を口にしながら、士郎はアーチャーの首筋に顔を埋める。だらりと提げたままの両腕を動かすことも出来ずに、アーチャーは呆然と、士郎に為されるがままだった。
「……士郎……」
 何故。
 どうして。
 そんなにもお前は、オレがいい、のか。オレにお前と添い遂げろと、言うのか。お前が否定した未来図である、人間ではないサーヴァントの、このオレに?
 アーチャーが唇を噛む。そのアーチャーに、士郎が衝撃的な一言を放った。
「お前だって、俺のこと愛してるだろ」
 それに、アーチャーは心臓が止まるかと思った。
「な、な、な、な、何を……、何を根拠に、そのような、たわけたこと、を……」
 抗弁しようにも、うろたえきって全身に力が入らなかった。口の中が瞬く間に干上がって、まともに言語を紡げない。
 動揺を取り繕うことすら思いつかないアーチャーに、士郎は畳み掛ける。
「そうじゃなかったら、何でお前は、俺にお前を好きだって言わせるままにした? 何でお前は、何度も俺に抱かれた? 何でお前は、自分の幸せをさておいても、俺の幸せを願う? 挙げ句の果てに消えようとするとか、全部、俺を、愛してるから、が理由じゃないのか」
 違う、と否定するのは簡単だった。オレが今も愛しているのはセイバーだ、と。なのにどうしても、その一言をアーチャーは発することが出来なかった。
 分からない、とずっと思っていた。自分が士郎をどう思っているのか、ずっと分からなかった。士郎に対して、他の人間とは違う〝情〟があったのはさすがに知っていたが、その上には恋や愛などとはつかないと、疑いもしなかった。
 士郎を受け入れて歓びを感じても、満ち足りた心地になっても、あくまでも魔力供給のための快楽であって、それ以上の意味は無いと思っていた。士郎の傍にいるのは、自分と違う未来を見つけた衛宮士郎の行く先に興味を持ったから、それだけの筈だった。
 それが。
 まさか愛しいと想っていた、からだなんて。
 男同士なのに。自分同士なのに。生者と死者なのに。人間と英霊なのに。あり得ない。あり得ないことだらけだというのに。
 けれど、否定は喉から零れることはなく。
 全ての辻褄が合ってしまったことを、ただ奇妙に、頭の何処かでアーチャーは理解し、そして納得した。士郎に、好きだと言われる度に密かに嬉しかった、その、理由。離れている間も、折に触れては士郎のことを考えていて、士郎のことを思うからこそ離れていこうと思ったのも、全ては。
 そういう、ことだったのか……?
 何かが砕け散る音が聞こえたような気がする。あるいは、重い鎖。あるいは、頑丈な錠前。
 浮遊するようなこの感覚は、解放感なのか。士郎を自分から解放するつもりで、逆に自分が檻の中に閉じこもって真実を見ないように、気付かないようにしていただけ、ということなのか。
 のろのろとした動きで、アーチャーは士郎の背に腕を回した。抱き締め返す、というには強さが足りない、添えるだけの両手。
「士郎」
 声が震えた。
「オレはお前を、愛している、のか……?」
 問いというよりは、限りなく確認に近く。
「お前って、本当に自分のことには鈍いのな」
 士郎が笑った。
「俺は、少なくとも、お前に愛されてると思ってる」
 アーチャーの白い髪に頬を寄せて、士郎は囁く。
「だから、俺と一緒に、幸せになってくれよ」
「本当にお前は、……オレでいいのか」
「違う、お前『が』いい、アーチャー。聖杯戦争が終わっても、こうやってお前は現界してる。だからずっと、一緒にいろよ――俺と」
 アーチャーの躊躇いにも、士郎はきっぱりと言い切った。そして、緩くもなく強くもなく、アーチャーの髪を梳いた。その快さに気を奪われないようにと、アーチャーは口を開いた。
「オレは、お前と共に年齢を重ねていくことは、生きて、いくことは出来ないんだぞ」
「分かってる。それでも、だ」
 士郎の手が熱い、とアーチャーは思った。声はもっと熱かった。
 顎を上向けられ、唇が重ねられた。それも熱い。アーチャーは瞼を閉じた。
 柔らかな口づけ。触れるだけを、長い時間。
 士郎が、ゆっくりと離れる。
「……たわけ」
 お前もだが、何よりもオレが。
 ほんの、ついさっきまで、本気で消えていくつもりだった。それなのに、気付けばこうして、一緒にいて欲しいと言う士郎の願いを、あるがままに受け入れようとしている。
 恐ろしいほどの回り道の末に見出したのは、すぐそこにあった答えだった。アーチャーが本当に求めていたものは、自分が得るには相応しくないと、否定した筈の幸福だった、と。
 実は互いに愛していて、愛されていたなんて。
 知ってしまったら、もう振り払えない。手放せない。
 同じ男同士だ、同じ自分同士だ。この身体は所詮はエーテル体でしかなく、士郎と違って自分は生きているわけではない。そんな常識と理性は、強すぎる感情と本能に駆逐されていく。
 もう、無理だ。感情を、知らずに押し留めていた堰が破れてしまったことを認めた以上は、溢れ出ていくしかない。
 士郎と共にいていい、共にいられる、消えなくても良い。どうしよう、それがこんなに――嬉しい、なんて。
 これこそが他ならぬ手に入れて欲しいと願っていた士郎の幸せで、知らなかった自分自身の幸せだった。こうやって、士郎がいつも答えを気付かせてくれる。
 そうか、だからオレは士郎を……。
「俺の馬鹿さ加減なんて、お前はとっくに知ってただろ」
「し、士郎!」
 士郎に手首を絡め取られて、アーチャーは縁側の上に押し倒された。抵抗する間もあらばこそ、だった。アーチャーの体の上に乗り上げた士郎は、褐色の耳朶を甘く食んで、胸元に指を這わせる。
「やっ……やめろ士郎……ッ、あ、馬鹿、よせ、放せ……」
「愛してる。六年前よりも、ずっとだ」
 身を捩るアーチャーに、士郎は惜しみなく情愛の言葉を注ぐ。
「あ……! ば、馬鹿、やめ……!!」
 首筋を強く吸われ、胸の上を擦り上げられて、アーチャーは大きく背をしならせる。
 その敏感すぎる反応に、士郎は少し目を細めた。
「お前、俺のいない間、誰とも何もなかったのか」
「あ、あるか、たわけ……! 大体、誰と……」
「そっか。いい子にしてたんだな、お前」
「き、貴様、オレを一体何だと……!」
 よりにもよって、士郎に「いい子」呼ばわりされて、アーチャーは目元を紅く染める。すると、士郎はにやりと笑った。
「そんなの、俺の、一番可愛い人に決まってるだろ」
 あまりもの臆面の無い士郎の返答に、アーチャーの顎があんぐりと開いた。
 アーチャーも大概、主に凛辺りに、気障だ気障だと言われたが、それに勝るとも劣らない、この士郎の気障っぷりと来たら、どうだ。士郎とアーチャーは元々同一人物なのだから、士郎にもその萌芽があったとしても何らおかしくはないのだが。
 ないのだが、ロンドンで何を学習してきたら、こんなに大輪の花を咲かせられるのだ、一体。
「ちょっ……と、待て、待て士郎! オレはいいとはまだ言っていないし、そもそも、こんな縁側なんかでする気か貴様!」
 唖然としている隙に、服の下に潜り込んで愛撫を施してきた手を引き剥がそうと、アーチャーはもがいた。
「お前が欲しい。今、すぐ」
「あぁっ……!」
 皮膚の上、色の違う尖りを捉えられて、円を描くように撫でまわされる。体の表面から奥へ、くすぐったいような、微妙な甘い刺激が走るのに、アーチャーは嫌だ、と身悶えした。ただし、嫌だと言うのは場所が、であって、全身を満たす快感に繋がっていくこの先の行為自体を拒むつもりは、アーチャーには既に無かった。
 言わないだけで、もう、心は既に決まっているのだから。咄嗟に拒否の言葉が口から出るのは、アーチャーの口癖のようなものだ。身体よりも先に、心の方が激しく震えた。
「嫌……、嫌だ、士郎……こんな場所では、……嫌だ……!」
「……分かった」
 アーチャーの訴えに、至極あっさりと、士郎は手を外した。
 それに、アーチャーが大きく息をつく間もなかった。
「なっ」
 外された士郎の手は、アーチャーの背と膝裏に差し込まれる。そのまま、アーチャーは士郎によって、ぐっと自分の体が持ち上げられたのを感じた。
 この体勢は、あれか。俗に言う、お姫様抱っことかいう――。
「は、放せ、何をするか、この阿呆ッ!!」
 咄嗟に、アーチャーは固めた右拳を、士郎に見舞った。手加減は勿論している。本気で、サーヴァントであるアーチャーが人間である士郎の顔を殴りつけたら、いくら士郎が頑丈でも首から上が吹っ飛んでしまう。もっとも、手加減しているとはいえ、脳震盪を起こしてもおかしくないほどの衝撃はあったはずだ。
 しかし。
「いってー……。相変わらず、過激な照れ隠しだな、お前」
 頭を振って、士郎はそれだけで済ませた。
 何なんだ。
 アーチャーが呆然と固まってしまったのをいいことに、士郎は両腕にアーチャーを抱えたまま、器用に足先でガラス戸を閉めて、廊下を悠然と歩いていく。
「放せ、下ろせ、このたわけめが!」
「嫌です」
 顔を赤らめて、アーチャーはじたばたするが、六年間の歳月によって、体格差を克服した士郎はものともしない。
「それよりアーチャー、良いんだろ、抱いても?」
「……い、いちいち確認……するな」
 訊くまでもないだろうと、アーチャーはそっぽを向く。あまりにも分かりやすい照れ隠しに士郎が笑うと、アーチャーは腹立ち紛れと言わんばかりに手を伸ばして、士郎の耳を引っ張った。