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Past 2 冬木にて


 夕暮れの商店街を、アーチャーは歩いていた。手は買い物袋をぶら下げてはおらず、両方とも所在なげにポケットに突っ込まれている。買い物帰りではなく、仕事の帰りだからだ。
 士郎と凛がロンドンに留学してから、一年。その間にあった一番大きな変化といえば、これまで衛宮邸の専業主夫状態だったアーチャーが、外に働きに出るようになったことだろう。細かい変化の方は、例えば、一応は士郎の工房だった筈の蔵が半ば梅干やら自家製の味噌やらの保存食の貯蔵庫になったとか、庭の片隅に家庭菜園が出来たとか、そんな感じの、何とも所帯じみた話ばかりだが。
 まるきり、主夫の楽しい節約生活、である。アーチャーが仕事をするようになったのも、その一環と言えなくもない。仕事先は商店街内にある古書店で、年老いた主人の代わりにほぼ店を任されている。収入はさほど多いわけではないが、持ち前の手先の器用さを活かして傷んだ本の修繕をしたり、汚れた本を磨いて綺麗にしたり、高い棚の上を整理したり店内を掃除したり、手持ち無沙汰になればそれこそ本を読んだりと、結構アーチャーの性に合っていて、気に入っている。
 急ぐでもなく、自宅である衛宮邸に向かっていたアーチャーは、ぽんと後ろから肩を叩かれて、足を止めた。
「よう、今帰りか」
「……ああ」
 蒼い髪に紅い瞳を持つ槍兵のサーヴァント・ランサーとは、アーチャーは聖杯戦争中、好敵手ライバルとして目された間柄である。平穏無事な現在では、友人的な立場に、周囲からは認識されている。時々、つるんでいる姿を見られているからだった。ただ、ランサーとは友人というよりは腐れ縁の類ではないだろうか、とアーチャー自身は思っている。
「どうせ、家帰っても誰もいないんだろ。飲みに行かねえか?」
 ランサーは朗らかに笑った。
「確かに、セイバー達はイギリスまで行っていて留守だが……、君が好みそうな女性ではなく私を誘うとは、どういう風の吹き回しだね?」
 珍しいな、というよりはむしろ意図を疑って胡乱げに、アーチャーは鋼色の双眸を半眼にする。ランサーはアーチャーを面白みの無い性格、と評し、それには特に異論は無い。人生をどんな境遇でもそれなりに楽しんでしまえる彼からすれば、自分は一緒に飲んで楽しい相手ではない筈だ。
「なに、うちのマスター殿が事後処理を全部終えて、この度めでたくご帰国あそばしてな。祝杯でも上げようかと思ってたところ、お前を見かけたから、声を掛けてみたんだよ。どうせなら、一人より誰かと飲む方がいいだろ」
「シスター・カレンが? ……そうか」
 それは機嫌良くもなろうな、とアーチャーは納得した。
 幸運値の低さのせいだけにするには、ランサーのマスター運の無さは実に堂に入ったもので、彼の三人目にして現在のマスターであるカレン・オルテンシアには、人使いの荒さと掴み所の難しい言動に加えて、逃げようとすれば男性を拘束する礼装であるマグダラの聖骸布で、強引にフィッシュアンドゲットされるとあっては、大変苦労させられていた様子だった。その彼女が本国に帰ったとなれば、自由だ! と浮かれたくもなるだろう。
「……まあ、君がいいと言うのならば、私は構わんが」
 アーチャーはランサーの誘いに、承諾の意を示した。
 家に帰っても誰もいないのは事実だ。
 何でも、凛が目覚しい研究成果を上げたとかで、特別長期休暇を時計塔から頂戴したという話があったのだ。それで、イリヤスフィールが、ならコーンウォールにあるアインツベルンの別荘にご招待するから皆で久しぶりに会いましょう、と提案し、留守番役のアーチャーを除いて、大挙してイギリスに滞在中なのである。アーチャーも勿論一緒にと言われたが、管理者の留守を預かる者がいないと困るだろう、とあえて日本に残ったのだ。
 その辺りの事情は、ランサーはセイバーだか桜だかイリヤスフィールだかに聞いたのだろう。
「なら、行こうぜ。いい店あるんだよ」
「今からかね。少し待ってくれ。いずれにせよ、一度、家に戻らないと」
 促す仕草のランサーに対し、アーチャーは待ったを掛けた。ランサーが首を傾げる。
「何で」
「今、財布を持っていない」
 あまりにも律儀な返答に、ランサーは苦笑した。
「そんなことかよ。それくらい奢ってやるっての。給料も出たばっかりだしな」
「君は、宵越しの金を持たぬ江戸っ子か。だが、私には、奢ってもらう理由が無い」
「理由が必要、ねぇ……。お前、本っ当に石頭だな」
「性分でね」
 アーチャーは肩をすくめた。その肩を、ランサーが軽く押す。
「あのな、好意ってのは素直に受け取るもんだぜ。さあ、来た来た」
 そのまま、ぐいぐいとばかりにランサーはアーチャーを引っ張っていく。少しだけ、抵抗しようかと思ったアーチャーだったが、それは自分に何も益が無い行為だと思い直し、それでも一応、小声で呟いた。
「……強引な」
 全く、凛といい士郎といい、このランサーといい、自分の周りは強引な人間ばかりだ、とアーチャーは密かな溜息をついた。それに付き合ってしまう己の人の好さ、というのは、無論、彼の意識外だった。


 ランサーに案内された店は、居酒屋と小料理店の間のような構えで、席はテーブル毎に個室に区切られており、内装も落ち着いていて、居心地が良さそうな雰囲気だった。
「意外な店を知っているな」
 もっとパブのような賑やかな店が好きだろうと思っていたが、と、お品書きを広げながらアーチャーは感心した風に言った。焼酎の種類が豊富だった。
「連れがいる時は、その相手に合わせた店を選ぶさ」
 普段の言動のために粗野に見えるランサーだが、実は意外に細かい気配りの出来る、面倒見のいい兄貴肌の性格の持ち主なのである。
 最初は、支払いがランサー持ちということで遠慮していたアーチャーは、しかし、ランサーのペースに巻き込まれて、いつの間にか上手く勧められるままに結構な杯を重ねていた。料理の味が良かったのも一因だろう。
 そうやって、酔いが何時ものアーチャーの、己に対する高く堅固な防壁を緩めさせる。
「……そういえば、帰ったそうだな」
 ぽつり、とアーチャーは言った。
「あ? 最初に言ったじゃねえか」
 カレンのことなら、とランサーは首を捻るが、アーチャーは違う、とかぶりを振った。
「彼女、だ」
「彼女……?」
 ランサーは少し考えて、すぐに一つの名前に思い至った。
「バゼットか」
「ああ」
 ランサーの召喚主である最初のマスター、バゼット・フラガ・マクレミッツ。言峰綺礼の騙し討ちに遭い、左腕の令呪ごとランサーを奪われ、生死の境をさまよっていたバゼットは、紆余曲折――と一言で済ませてはいい事態ではなかったものの―の末に何とか回復した。この時、ランサーは己の信条に従って、かつてのマスターに呪いの魔槍の赤い穂先を向けた。その後、暫くは療養を兼ねて日本に留まっていた彼女だったが、先日、魔術協会の召還を受けて帰国した。挨拶に来たバゼットに、ランサーは、「まあ、あんまり頑張りすぎるなよ」と激励の声を掛けて、彼女を見送ったのだった。
 だが、それの何処にアーチャーの関心を惹く要素があったのか、ランサーには分からなかった。
「……私は」
 手にしたコップに、アーチャーは目を落とした。
「本当は、君を見習うべきなのだろう、と思う」
 唐突に何を言い出すのかと、とランサーはアーチャーを見る。
「君の、そのさばけたところを」
「? 何の話だよ」
「深入りするべきではないと、分かっていた筈なのにな……」
 かなり酔っているせいか、アーチャーの言は、独り言めいて曖昧で、目的語が不明瞭だった。
「……坊主のことか?」
 が、思い当たる節をランサーは指摘する。アーチャーは、はぐらかすでもなく頷いた。
「おいおい何言ってんだ。バゼットとオレの間柄は元々、単なるマスターとサーヴァントだぜ。お前と坊主みたいに出来てたわけじゃねえよ。それに、あっちも新しいサーヴァントと契約してたんだから、そりゃさばけもするだろ、前提が違う」
「出来っ……」
 ランサーの言葉に、アーチャーが顔を跳ね上げて絶句する。目許が赤らんで見えるのは、果たして酔いのせいだけだろうか。テーブルに頬杖をついて、ランサーは何処か楽しげにアーチャーの褐色の顔を眺めやった。
「まあなあ、坊主が時々愚痴ってた、ままならない年上の恋人ってのが、まさかお前だとは思わなかったけどな」
「……士郎と私は、元々、同一人物だぞ。それを、恋人などと……あいつは何を考えてるんだ」
 アーチャーが眼を逸らした。
「けどお前、坊主と寝たのは一度や二度じゃきかねえんだろ。恋人同士でもなきゃ、同じ男を相手にそんな何度もヤろうとは思わないもんじゃねえのか?」
「なっ……士郎のヤツ、そんなことまで君に……!?」
 今度こそ、ぼっと音を立てんばかりに、アーチャーの顔が明らかに真っ赤になった。何だ、しょっちゅう皮肉やら厭味やらばっかり口にする割に、こいつ意外に初心ウブなんだな、とランサーは少し面白くなった。そういや、坊主はアーチャーのことを可愛いと言ってたっけな。聞かされたときは想像もつかなかったが、こういうことかと、何となく得心した、というのもある。
「あー坊主な、よくのろけてくれたぜ、お前のこと」
 言いながら、ランサーはひらひらと顔の前で手を振ってみせる。
 港の主よろしく日がな釣り糸を垂れているランサーと、士郎が他愛も無い会話を交わしていたことがあったのは、アーチャーも何度か見かけたので知ってはいたが。まさかそのような、アーチャーにとって実に恥ずかしい話をしていたとは。
 本来、アーチャーとしては、士郎と自分の関係は余人に知られるべきものではない考えだった。何せ、男同士の上に自分同士でそのような仲に至るなど、正気の沙汰では無い、というわけだ。同じ家に住んでいるセイバーや凛達には、初夜以来のアーチャーのつれない態度――正確には、あれは情交ではなく、一度きりの魔力を貰うための儀式ということにして、士郎と距離を置こうとしたわけだが――に悩んだ士郎が、想いを募らせていっそ当たって砕けろ的に、暴露というご乱行に及んだために知られてしまったが。そのまま、あれよあれよと士郎とアーチャーの仲はなし崩し的に進展した上に、半ば公認のものとはなったが、あくまでも衛宮邸の中だけでの話だった。外で公言などしようものなら、オレは座に帰ってやる、というのがアーチャーの言い分だった。こんな関係、おおっぴらにするとか恥も外聞もあったものではない。
 それが、ランサーにまでばれてしまったのは、簡単に言えば偶然と不運が重なったせいである。ランサーが義理堅く、口も堅いのが不幸中の幸いだった、といえた。
 もっとも、それをからかいの種にするしないはランサーの自由だ。
「……馬鹿士郎め……」
 アーチャーが零した。責めるというよりは、心底困った、という感じの響きの呟きだった。
「で」
 ランサーは、テーブルの天板を、こつ、と軽く叩いた。
「お前がセイバー達と一緒に行かなかったのは、そういう理由か」
 疑問というより確認。
「……留守番役が必要だろうというのも、嘘ではないがな」
 アーチャーも否定はしなかった。
 帰国してきたら、どうせ会うのだ。それに、士郎は何やら決意を抱いて渡英した様子だった。今、彼に会うことはそれに水を差すことになるのではないか、とアーチャーは思い、一人、日本に残ることを選択した。
「ふうん?」
「……何だね」
 意味ありげな赤い瞳を受けて、アーチャーは白い眉を寄せた。
「いや何、お前って、本当に自分のこと分かってねえんだな」
「は?」
 意味が分からん、という顔をするアーチャーに、ランサーは笑みを深くする。
「そら、そういうこった」
「何を一人で勝手に納得しているんだ」
 普段は、ごく親しい相手以外には、あまり感情を表情にしないアーチャーだが、摂取した相当の量のアルコールが、彼から沈着冷静な皮肉屋の態度を剥ぎ取っていた。拗ねたような顔つきは、ランサーが今まで見たことの無いものだった。それが見られた、というだけでも、アーチャーを飲みに誘った甲斐があったと言えそうだ。
 全く、それにしても、である。
 ランサーは、士郎のぼやきを思い出す。
『俺、よく遠坂とかに鈍い鈍いって言われるけど、アーチャーほどじゃないと思うんだよなあ』
 お前の言ってたことは実に正しいぜ、坊主。何せ、アーチャーこいつはまず何を差し置いても、坊主のことを第一に考えるくらい好きだってのに、自分では全然それを分かっちゃいねえ。何でそれが分からねえのか、そっちのが分からん。
「前から思ってたけど、お前やっぱり馬鹿だろ」
「……自らの愚かさを認めるのはやぶさかではないが、脳味噌まで筋肉で出来ていそうな相手に言われると、腹が立つな」
「ま、いいから飲め飲め」
「何なんだ一体」
 一升瓶を傾けて、ランサーはアーチャーの手元のコップに、なみなみと新しい酒を注いだ。
 アーチャーは、今一つ釈然としない、という様子だったが、ランサーを追求するには、自分が相当したたかに酔っていることを自覚して、それ以上食い下がりはしなかった。代わりに、羞恥やら何やらの感情を振り払うためか、注がれた酒を一息で飲み干した。
 結局、アーチャーはその後もやけくそ気味に酒を呷り続け、見事に酔い潰れた。対して、ランサーは平然としている。摂取した酒量自体を比較すれば、ランサーの方が圧倒的に多いのだが、同じ英霊とはいえ、そもそも半神半人であるランサーと、元はただの人間であったアーチャーとを同列に並べるのは、酷というものだ。
 自分の前で警戒心ゼロでうつらうつらと舟を漕ぐアーチャーなど、二度とお目にかかれるものでは無いだろうと、ランサーは苦笑しながら立ち上がる。
 ぴん、と形の良い長い指で、ランサーはアーチャーの額を弾いた。うっすらと、アーチャーが瞼を開く。
「アーチャー、そろそろお開きにするぜ」
「……ん……」
 理解したのか、反射的なのか、アーチャーは小さな声を零した。常のアーチャーの口調に含まれている嫌味や皮肉の棘が抜け落ちた、無防備な響きだった。アーチャーってこんな所もあったのか、そんなランサーの感慨をよそに、一度目を上げたアーチャーは睡魔という名の生理現象に抗いきれずに、またそのまま子供のようにうとうとしてしまう。店員を呼んで、ランサーは会計を済ませた。
「……しょうがねえなあ。ったく、これがいい女だったら、持ち帰ってやるところなんだが」
 そもそも坊主のもの以前にごっつい野郎だしなあ、とか呟きながら、大柄な体に肩を貸してやり、椅子から引き揚げさせる。
 店を出てから、よっ、と一声と共にランサーはアーチャーを背中に負った。一応、潰してしまった責任というやつである。耳元で聞こえるアーチャーの呼吸は、完全に寝息のそれになっていた。
「ま、面白いもん見られたし、よしとするか」
 人目につかない場所を巧みに選びながら、ランサーは翔ける。体格のいいアーチャーを背負っていても尚、彼の敏捷性が減殺されることはなかった。
 その速度でもって、最速のサーヴァント、の異名通りに一気に衛宮邸まで辿り着く。しかし、住人全員が留守なので、家は当然施錠されていた。門の前に放り出しておくのも面白そうだが、必ずあるに決まっている、アーチャーの後日の逆襲のことを考えると面倒くさい。だからといって、男の履いているスラックスのポケットの中から家の鍵を探し出すのも、何やらもの悲しいものがある。
 ので、とりあえず、ランサーはアーチャーの半ば定位置である屋根の上に当人を転がしておいた。ここまで送ってやっただけでも充分に出血大サービスなのだから、アーチャーも文句は言うまい。気温は少々肌寒いが、サーヴァントは霊体なのだから風邪など引かないわけであるし。
「全く、坊主も因果だが、惚れちまったもんはしょうがねえよなあ、お前らお互いによ」
 もう一度、何処となく士郎の面差しに似たアーチャーの寝顔を見下ろしてから、ランサーは踵を返した。
 他人の恋愛事情を傍から見るのは嫌いではないものの、嘴を突っ込む趣味なぞさらさら無いランサーではあるが、士郎とアーチャー、双方から互いのどうも噛み合ってない話を聞かされるという思いも寄らない展開に、自覚の無い想いほどタチの悪いもんは無いな、と少し士郎に同情した。
 ぶらぶらと歩きながらねぐらに帰る。
 目が覚めたら、どうやって帰ってきたか記憶が無いアーチャーが、きっと自己嫌悪の嵐に襲われるだろうと想像して、人の悪い笑いがこみ上げてくるランサーだった。



 予想通り、アーチャーは翌日、わざわざランサーのバイト先の喫茶店を訪ねてきて、律儀に礼と、いささか腹立たしげに謝意を述べた。この場合、彼が腹を立てている相手はランサーではなく、自身にであろう。
「一つ、貸しな」
 ランサーが言うと、仕方が無い、とアーチャーは不承不承っぽくではあるが頷いた。
「何時、どのようにして返せばいい」
「それはゆっくり考えておくさ。楽しみにしてろ」
 アーチャーが渋い顔を返してくるのが分かっていて、ランサーはそう答える。案の定、アーチャーは眉間に皺を寄せた。
 それでも、喫茶店に入ったからには、そのまま帰るのも礼を失すると思ったらしいアーチャーは手近な席に座り、お薦めの農園生産のニルギリを注文した。ちょうどクォリティーシーズンということだった。
「セイバー達、何時帰ってくるんだ?」
「来週だ」
 慣れた手つきで、ランサーがポットからカップに紅茶を注いでいると、店の扉が開く音がした。
「こんにちは! あれ、珍しいお客さんですね」
「何だ、またお前か」
 豪奢な金髪の少年ことギルガメッシュが、丸くした真紅の双眸を、すぐににこやかな形にする。ランサーが、呆れたような眼を向けた。
「ここ、落ち着くんですよ。それに、いつもちゃんとお店の売り上げに貢献してるじゃないですか、ボク」
 いつも微笑み絶やさず、といったギルガメッシュに、ランサーは肩をすくめる。
「でかい方のお前が来るんじゃなかったら、まあいいけどな」
「皆、そう言うんですよねえ。そこまで、未来の自分の行いが悪い、と言われるのもちょっと、悲しいものがありますけど……」
 困ったなあと、ギルガメッシュは首を傾げ、とことことアーチャーの席まで歩み寄ってきた。テーブルを挟んだ、向かいの空き椅子を軽く引く。
「アーチャーさん、ここ、いいですか?」
「あ、ああ、構わんが……」
 ひょっとして、先ほどのギルガメッシュの台詞はかつて衛宮士郎であり、かつ今はあまり似ていないと言われる自分への当てこすりだろうか、とアーチャーは思わないでもなかったが、天使めいた笑顔の前には、どうも厭味も不発になる。
 ギルガメッシュはテーブルに着き、ランサーに「今日はケーキセットにします。ケーキは本日のお薦め、お茶はキャラメルティーをミルクで」とオーダーする。
「ったく、この店はサーヴァントの溜まり場じゃねえぞ」
 と、ぼやきながらも、ランサーは店の奥にオーダーを通しに行く。
「それにしても、ほんと珍しいですね。何かあったんですか?」
「ランサーに用事があった」
「それも珍しいですね」
 花蜜を思わせる甘さが濃厚な芳香をくゆらせるカップを口元に運んで、アーチャーは無愛想に答えた。まさか、ギルガメッシュまでが士郎と自分の関係を知っているとは思いたくないが、念のためだ。余計な墓穴は掘らないに限る。
 それにしてもつくづく、昨夜は醜態にも程があった、と、アーチャーは二日酔いではない頭痛に襲われそうだった。もう二度と、ランサーのペースで酒は飲まん、そう固く心に決める。
 同時に、今度、士郎から電話がかかってきたら、言って良いことと、悪いことの区別もつかんのかと、問い詰めてやる、とも。
 考えながら、アーチャーは溜息をつく。その呼気で、湯気が揺れた。
 何だって、ランサーにあのような話を振ってしまったのだろう。
 そんなにも、オレは士郎のことが引っかかっているのか。
「ひょっとして、アーチャーさん悩んでいるんですか」
「そんなんだから、酒に悪酔いするんだぜ、アーチャー」
 もっとも、沈思黙考するには、現在のこの環境は良くなかった。立て続けに、アーチャーの思考を妨げるような言葉が浴びせられる。
「まあ、気が楽になるかもしれませんから、話してみたらどうですか、なんて言いませんけど」
 フォークでケーキを切り分けつつ、ギルガメッシュはアーチャーを見上げた。
「大抵の悩みって、後から考えたら、何であんなことで悩んでたんだろう、ってなるんですよねえ。まあ、悩んでいる間って、それが全てになっちゃいますけど」
「大体、こいつ、悩むのが趣味みたいなもんだからなあ」
「放っておいてくれ。どうせ私は、君達のように偉大さで名を馳せた英雄ではなく、詰まらん凡人の成れの果てに過ぎん」
 反論というには、あまりにも自虐的なアーチャーの反応に、思わず、ケルトの光の御子たるランサーと人類最古の英雄であるギルガメッシュが、互いの赤い目を見合わせる。
「重症ですね」
「重症だな」
 ついでに、同じ台詞を唱和する。
 自分でポットから二杯目を注いで、アーチャーは、ランサーがオレと友人だなんてとんでもない、マスターを同じくするギルガメッシュとの方が、よほど良いコンビでないか、と紅茶と一緒にぼやきを飲み込んだ。
 ふと、白い陶器のカップの中に揺れる紅茶の色が、士郎の髪の色によく似て見えて、無意識にアーチャーは目を細める。
 気付いたら、士郎のことばかりを考えていた。
 最初の時、士郎に抱かれなければ良かったのか。
 心と身体と、両方で士郎を知らなければ良かったのか。
 望んでも叶わないことなどごまんとあると、生前にも、守護者になってからも、嫌になるくらい思い知らされた筈なのに。
 こうして、結局、自分は後悔ばかりしている。何という愚か者だ。
「ま、オレが口出すことでもないんだけどよ」
 ランサーが、頭を掻いた。尻尾のように、首の後ろで纏められた蒼い髪が揺れる。
「どうせ、お前の悩みの種ってのアレだろ。自分が幸せになっていいのかどうかとか、ったく、そんなこと悩むもんかねえ」
「何……?」
 アーチャーは弾かれたように顔を上げた。
「嬢ちゃん達にも、言われてんだろうがな」
「それ、同感です。大きいボクだったら、きっと、くだらないとか言って笑い飛ばすんだろうけどなあ」
 と、ギルガメッシュはランサーに目を向けた。
「それにしてもランサーさんって、女性以外にも優しいんですね、知らなかったなあ。皆の兄貴分ってやつですか」
「うっせ、オレは、目の前でガタイのいい男が、うじうじ悩んでるのが鬱陶しいだけだっての」
 腰に手を当てて、ランサーは胸を反らした。
 幸せ、か。ランサーが口にした単語を、アーチャーは心中に繰り返す。
 凛にも、セイバーにも、イリヤスフィールにも。確かにそれは言われたけれど。幸せになっていいのだと。
 士郎に求められて抱かれて、刹那の幸福を感じたことはある。だが、それは、本当に心からの幸福なのか? いや、そもそも―幸福など、願える分際なのか、オレは?
 ずっと、誰かの幸せのために生きてきて、そして死んだ。それなのに今更、自分自身の幸せを求めろと言われても、どうすればいいのか分からない。大体、自分の幸福とは、一体何なのだろう。
 士郎。
 声に出さずに、アーチャーはその名を呼んだ。ロンドンから帰ってくるまで待っていて欲しい、と言った、自分と同じ名を持つ自分とは異なる存在の名を。
 赤銅色の髪と琥珀色の瞳を持つ少年が、声に応じて笑った、ような気がした。
 約束した再会には、まだ遠い。