食後の紅茶のカップを手にしたセイバーは、非常に満足そうだった。
「凛、大変美味でした。貴方はとても料理上手なのですね、実に素晴らしい」
「ありがと、喜んでもらえて嬉しいわ」
凛も笑顔でセイバーの賛辞に答える。両親を亡くしてから、1人の食卓に慣れた凛だったが、自分が作った料理を誰かが喜んでくれる、というのは想像以上に嬉しいものだった。
聖杯戦争は、魔術師達と英霊達の殺し合いだ。それを初めて知識ではなく現実の形でまざまざと見せ付けられた今日、魔術師として自分が非日常には慣れていたなどとは、全くの思い上がりだった、と凛は痛感する。だからこそ、こういったごく当たり前の日常、というものが価値があり、必要だということもまた、しみじみ思う。魔術回路を起動させるために、体内のスイッチを切り替えるように、いつもいつも戦いの緊張に気を張っていられる風には、人間の精神も体も出来ていないのだから。
それにしても、色々なことがあった一日だった。
凛は顔を上げ、向かい側に座るセイバーの名を呼んだ。
「セイバー」
「はい」
居住まいを正した凛に応じて、セイバーもまた和らいだ表情から、騎士らしい端然とした佇まいにと改める。
「今日はありがとう。貴方がいてくれたおかげで、生き延びられたわ」
「私は騎士として、当然為すべきことを為しただけです。けれどそれも、信頼すべきマスターである凛、貴方を守る、という誓いあってこそです」
揺るがないセイバーの声は、あの戦いを目の当たりにした凛に、この上なく力強い安堵を与えてくれる。
可憐で小柄な、一見、凛よりも年下に見えるこの少女が、正に最優のサーヴァントの“
「ねえ、セイバーの剣、わたしには見えなかったんだけど、あれは別に剣捌きが速過ぎて人の目に捉えられないってわけではないのよね? ランサーも見えてなかったようだし」
凛が尋ねると、セイバーは頷いて答えた。
「はい。あれは私の宝具の一つ、“
「へえー……。目に見えない剣か。敵を惑わせるためだけじゃなくて、セイバーの正体を隠すためにも、有効度が高いってわけね」
一口に宝具と言うが、その性質は様々だ。例えば、“
そういった宝具は、根本的に一撃必殺のとてつもない威力を持っている。だからこそ、ランサーが宝具を使ったときは、凛は本能的にセイバーの敗北を覚悟せざるを得なかったのだが。
「それにしても、驚いたわ。ランサーの槍がセイバーに突き刺さったとき、本当にセイバーが殺されたかと思ったんだから」
結局は、セイバーは殺されなかったわけではあるものの、正直、心胆寒からしめられたのは事実ではあるので、凛の口調が多少、拗ねたもののようになったのは致し方あるまい。
「あ……」
セイバーが恐縮して、睫毛を伏せた。生真面目な少女は、多くの臣民を預かる王として生きてきたせいか、少しばかり責任感が強すぎるところがある。凛の言葉を、真っ直ぐに叱責と受け止めたのだろう。
「ご心配おかけしました、凛。幸い、私には
「やだ、セイバー。わたし、別に怒ってるわけじゃないから。貴方が殺されなくて良かった、って思ってるだけよ、ほんとよ。ランサーだって、わざわざ使った宝具を破られたも同然なんだから、セイバーは負けたわけじゃないでしょ。まだマスターが7人揃ってないんだから、正式には聖杯戦争はまだ始まってないし」
慌てて、凛はぶんぶんと手を振ってセイバーの自省をフォローする。それが効果があったのか、セイバーは再び、顔を凛乎とした表情へと引き締めた。
「……ええ。次にランサーと
紅茶を飲み終えた凛は、テーブルの上に肘をついて手を組み、その上に顎を乗せた。
「それにしても、ランサーの宝具、あれは……因果の逆転を行うのね。真名を口にした瞬間に、既に標的に『突き刺さった』結果が生じるって」
「恐るべき宝具です。よほどの加護か幸運に恵まれない限り、あの槍の呪いから逃れることは出来ないでしょう」
「まあでも、おかげでランサーの正体は分かったわね」
凛はにやりと笑ってみせた。
そう、それが、最大の収穫だった。
己の宝具の“真名解放”を行ったランサーは、自らの正体を名乗ったも同然。敵手が誰だか分かれば、その英雄としての伝説を紐解くことで対処のしようも考えられる。それだけ、敵サーヴァントを打倒出来る確率が高くなるというわけだ。
「はい。彼は、アイルランドの誇る英雄――太陽神ルーの息子、クー・フーリンにまず間違いないでしょう。影の国の女戦士スカサハより授けられし魔槍ゲイ・ボルク、あれこそがその証に他なりません」
「強力な宝具ほど知名度が高いものね。有名であればあるほど強いけど、その分、正体もばれやすい。最初は予想外のサーヴァントの登場にちょっと驚いたけど、ちゃんともうけはあったわね。聖杯戦争が正式に始まる前に、サーヴァントの正体が分かるなんて」
「あの」
質問です、という風にセイバーが軽く手を上げた。
「そういえば、今朝、凛は後1人マスターがまだ揃っていない、と言っていましたが、魔術師であればそういうことは分かるものなのですか?」
「ううん、分かるわけない。けど、マスターとサーヴァントが揃えば、聖杯戦争の『監督役』を務める聖堂教会から、魔術師であれば分かる戦争開始の合図が上げられるのよ。その合図がまだだから、まだ全員が揃ってないということ。で、何で後1人がまだだって分かるかっていうとね」
そこまでセイバーに説明し、凛は少しばかり苦々しい表情を、美しく整った面貌に乗せた。
「他ならぬその監督役が、わたしの兄弟子だからってわけ。父が亡くなった後は、わたしの後見人も兼ねてるんだけど。ま、そいつがわたしに後2人だから早くサーヴァントを召喚しろ、ってせっついてきたのよ。で、わたしがこうして満を持してセイバーを召喚した、って、そういう経緯」
「なるほど、それで後1人なのですね」
納得しつつ、セイバーは不思議そうに凛を見やった。兄弟子にして後見人、という存在は確かに年頃の少女の凛にとっては面倒くさい相手なのだろう。が、凛の態度はあまりにもその相手に対して好意とは程遠かった。凛が、判断の基準に、自らの好悪の情に重きを置いていないのは、魔術師として当然のことであるので、セイバーも、どうやら監督役とやらに注意を持っていたほうがいいのだろう、そう考えた。
そして、セイバーはあることを思い出した。
「――凛」
不意に、セイバーの声音が変わった。何処かしら、心配めいたものを含んだ声だった。
「なぁに?」
「あの少年は、助かったのです、か?」
躊躇いがちに、セイバーは訊いた。
「何とかね。もうちょっと遅かったら、危なかった……け、ど……」
セイバーに答え、そこで凛は、はたと気付いた。
衛宮士郎を助けたはいいが、記憶を弄っていないので、彼はサーヴァント同士の戦いを見たことを忘れてはいない。
それに、ランサーは、マスターは何処かに別に身を置いたまま、サーヴァント単独で行動していた。そして、元々、予定では様子見だった、と言っていた。
恐らく、ランサーのマスターは用心深い人間なのだろう。そういった人間が、ランサーから今夜の件の報告を受けたら、目撃者の存在を捨て置かないのではないか? ランサーが確実に目撃者を仕留めたのならば、重ねてその死体を衆目に触れないよう、始末しろと命じるのではないか?
もしもそうなったら、目撃者たる衛宮士郎が死んでいない事実が明らかになる。
もしもそうなったら、衛宮士郎は、もう一度殺されてしまう。
「大変、セイバー! 行かなくちゃ!! 間に合わなくなる前に!」
がたり、と音を立てて椅子から凛は立ち上がった。
「凛? 何処へ行くと言うのですか?」
「衛宮くんの家よ! アイツが生きてるとランサーに知られたら……!!」
「!!」
セイバーもまた、きっと柳眉を引き締め、凛に手を差し伸べた。
「――凛、少々手荒いですが、飛びます! しっかり私に掴まっていてください!」
ゆらゆらと漂う、暗い水の中。
誰かの手が、触れてきた。
まるで、それで岸辺へ引っ張り上げられたよう。
冷え切っていた体の感覚全てが、ゆっくりと温度を取り戻していく。
穴を空けられた胸を埋めようとでもいうのか、傷口に手を当てられているのが分かる。そこが熱い。熱は、そこから血管を通って全身を暖めようとしている。
どくり、と、心臓が波打った。
それと同時に何かがことりと落ちてきて、誰かが、大きく息を吐いた。
「疲れたぁ……」
声が聞こえる。
その声を聞いたことがあるような気がするが、誰の声だったろう。
「ま、仕方ないか。魔術の基本は等価交換だし、こういうの、悪い気分じゃないし。ごめんなさい、父さん。あなたの娘は薄情者です」
後、何か呟いていたようだが、それはよく聞こえなかった。そのまま、誰かの気配は遠ざかって行った。
漂っていた意識は、そのままゆっくりと沈んでいく。
ただし、それは死に向かうためのものではなく。
衛宮士郎が再び生きて目覚めるための、暫しの休息だった。
「……いっ……つつ……」
どれくらいの間、冷たい廊下に横たわっていたのか。
士郎は体を起こした。誰かが落とした何かが、滑り落ちた。
げほり、と軽く咳き込む。吐き気はあったが、口からは何もこぼれなかった。
体のあちこちが痛み、朦朧とする頭痛がある。すっかり冷え切った体は、がたがたと震えがくるほどに寒い。
だが、それら全ては。
(……生きてる)
生きているからこそ、得られる感覚だった。
一方で、何が起こったのかよく思い出せず、正直、廊下で倒れたまま夢でも見ていたんじゃないかとも思う。
あり得ない。何の意味も無く、普通は廊下で寝たりはしない。
視線を落とすと、制服の胸元には穴が開いて、鮮血に汚れている。廊下にも、士郎が流した血がこびりついて凝固しつつあった。
「……くっ……」
立ち上がろうとすると、眩暈がする。それを堪えながら、士郎は手近な教室に入った。
自分で自分の行動が意味が分からなかったが、この痕跡を残しておいてはいけないと士郎は無意識に自覚していた。そうだ、こんな血だらけの現場を見たら、学校中がパニックになる。「あんなもの」を見て、自分が殺されたように。
死から復帰したばかりの、纏まらぬ思考のまま、士郎はふらふらと動いた。
掃除用具入れからバケツと雑巾を取り出し、水を汲んできて、血溜まりを掃除し始める。
血は、時間が経つと落ちにくくなる。ましてや、「生き返った」ばかりで、手足にろくに力が入らない。なかなか落ちない汚れにてこずりながらも、何とか血を全部拭き取った士郎は、それに気付いた。
(……ペンダント……?)
さっき、落ちてきたのはこれだったのだろうか。瀟洒な細工を施された、美しい赤い石の首飾り。誰か、自分を助けてくれた誰かが落としていったもの。恩人の手がかりになるだろうか。とりあえず、士郎はポケットに拾い上げたそれを入れた。
息が上がる。不確実な足取りのまま、士郎はバケツと雑巾を片付け、そのまま学校を出た。
熱い。
冷たいのに、熱い。熱病患者のようだ。
歩き慣れているはずの、学校から家までの距離がいやに遠かった。
ようやく、家に帰り着いた士郎が壁の時計を見ると、既に日付が変わっていた。人の気配は無い。
(ああ、そういや、桜、この土日は用事があって来られないって言ってたっけ……)
無論のこと、大河の姿も無い。夜が明ければ、たっぷりとお小言を頂く羽目になるだろうか。士郎は、倒れこむように、どさりと畳の上に寝転がった。
大の字になって、ふうと息を吐くと、心臓が激しく痛んだ。
「……っ……、……」
この心臓は。
確かに、貫かれた。その証拠が、この痛みだ。夢なんかじゃない。
衛宮士郎は、確かに殺されたのだ。
学校の屋上で、戦いを繰り広げていた青い少女と蒼い男。蒼い男に追われ、男の赤い槍で、心臓を壊された。
それを、誰かが助けてくれた。あの場に居合わせた、もう1人の誰か。
死体同然だった自分を助けてくれたのだから、蒼い男の関係者ではなく、青い少女の関係者だろうか。ペンダントの持ち主。いずれきちんと会えることがあったら、ちゃんと礼を言って、ペンダントも返したいな、と士郎はぼんやりと考える。
「ぐ……っ……」
また、痛む。嘔吐感がせりあがってきて、士郎はえづいた。吐くものは何も無いが、気持ちが悪くて仕方が無い。服が裂けた胸を押さえる。
ここに、槍を突き込まれたのだ。今は、元通り、傷の無い皮膚を取り戻してはいるとはいえ、凶器で穴を空けられた。10年前、大火の記憶に暫く悩まされたように、この感覚もまた、簡単には忘れられないだろう。
体を起こし、壁に寄りかかって、深呼吸を繰り返す。それだけで、鍛錬の成果が表れて精神だけでも、平静の状態を取り戻していく。
「えーと……」
逃げている時は忘れようと思っていたのに、士郎は屋上で目撃したことを考えていた。
どう考えても、あの少女も男も人ではなかった。人でないとしたら、何なのだろう。
霊的な存在? しかし、そういったモノが殺しあうなんて話は聞いたこともないし、そもそも、自分の意思を持って動いたり喋ったりするものなのだろうか。ましてや、生きている人間を、直接的に殺すことが出来るなんて――。
また、槍に貫かれた感覚が蘇ってきて、士郎はぞくりと身震いした。
「……やっぱり、何か魔術的なものが関係してるんだろうな」
冬木の街に最近起こっている、不可解な事件の数々。
新都で頻発するガス漏れ。
謎の殺人事件。
人ならざるモノ同士の戦い。
ひょっとして、それら全部が繋ぎ合わせることが出来るとしたら――?
そこまで考えて、自分には解決の糸口すら掴めないことに、士郎は嫌でも気付かざるを得なかった。男から逃げている時に思ったように、やはり忘れるべきではないのだろうか。魔術が深く絡んでいるのなら、尚更のこと。魔術師として半人前でしかない士郎には、何をどうやって対処すれば良いのか、皆目見当がつかなかった。
れっきとした魔術師だった義父の切嗣が生きていれば、士郎がどうするべきなのか、助言をくれたかもしれない。だが、それこそ無理な相談というもの。
「こんなんじゃ駄目だな……」
正義の味方になろうというのに、自分の進み方すら決められないのか。第一、あの男に「殺された」時点で、もう衛宮士郎は無関係な人間と言えないのではないのだろうか。ならば――。
そこまで士郎が沈思していた時、その思考を破るように、からんからんからん、という音が鳴り響いた。
衛宮邸は、曲がりなりにも魔術師の住居である。であるから、侵入者に対する防御としての結界が敷設されている。今の音は、その結界が破られた警報の音だ。
(まさか――!!)
あの男は言っていた。
『見られたからには死んでくれや』
と。
士郎が生きていたことを知った男が、仕留めそこなった獲物に、今度こそ確実な死を見舞うために襲撃をかけてきたことは、明白なほどに明白だった。
心臓の上で、士郎は拳を握り締めた。
誤字脱字の報告、ご感想などありましたらご利用ください。お返事はmemoにて。