落ち着け、落ち着くんだ、衛宮士郎。
ともすれば、恐怖に呑み込まれてしまいそうな心を、士郎は叱咤する。ともすれば、かちかち鳴りかかる歯の根を、必死で食いしばる。悲鳴を上げて、大声で喚いたところで、どうせ相手は見逃すつもりなんて無いに決まってる。
そうだ、確かに一度、そうやって殺された。この心臓に、槍の穂先を突き立てられた。だからといって、もう一度殺されて良いのか? 誰かが助けてくれた命を、あっさりと放棄して良いのか?
良いわけが無い。良い筈が無い。生きろ、生き延びろ、そのための手立てを考えろ。そうでなければ、何のために鍛錬を重ねて、魔術師になろうとしたのか。
衛宮士郎は、正義の味方になるんだろう? だったら、こんな所で死んでたまるものか。
逃げるだけでは駄目だ。結局は、また数時間前と同じに追いつかれて殺される。生き延びるためには、戦うしかない。戦って、敵を退けなければ。
戦うのならば、徒手空拳では駄目だ。相手の武器は、リーチの長い槍なのだから。土蔵まで行けば、武器になりそうなものはいくらでもあるが、そこに至るまでに無事に済む保証はこれっぽっちも無い。ならば、何か、一撃でも防ぐか浴びせることが出来る、武器とか防具とかになるような物はここに無いか――。
疼く心臓の鼓動と、荒くなりかかる呼吸を抑えて、士郎は周りを見回した。
ふと、居間の隅に転がっていたそれに士郎の目が留まる。
「……は、はは……」
士郎は、乾いた笑いを零した。
しょっちゅう色んなガラクタを衛宮邸に持ち込んで来る大河が、いつものように置いて行った玩具の竹刀だ。士郎の生死がかかった局面だというのに、ふざけたことにその竹刀は、鍔止めの下にあるスイッチを押すと手品よろしく、先革から能天気な花を幾つも咲かせるといった代物だった。しかも、いかにも大河の趣向らしく、鍔にはデフォルメされた虎の顔のストラップがぶら下げられている。緊迫感に欠けること、激しくこの上ない。
(――何も無いよりはましか)
が、こんな物しかない、という状況が逆に士郎に腹を据えさせた。幸いにして、これは長さだけはほどほどにある。
「――
竹刀を手に、士郎は魔術を組み立てる。失敗ばかりの“強化”の魔術だが、今回は失敗などしていられない。神経が焼ききれるかと錯覚するほど、魔術回路を総動員して、魔力を浸透させようとする。
ジジジッ、と体を通して竹刀に魔力が走っていく感覚があった。
ことり。底に突き当たる。
(成功だ……)
さすがに真剣並みの切れ味、とまではいかないが、鉄程度の強度は充分に得られた。それでいて、重量は竹刀のままである。会心の出来、といえるかもしれない。
「――全
魔力を竹刀から切り離し、両手で構える。
切嗣が亡くなってから、一度も成功した試しがない“強化”の魔術。この土壇場で成功するとは、運が良いのか悪いのか。ともあれ、剣術は切嗣にも鍛えられたし、大河にも鍛えられた。それなりの腕の覚えはある。士郎は、出来る限り呼吸を平静に保とうとしつつ、襲い来る敵を待ち構えた。
(来るなら来い……!!)
とりあえずは、当座を凌げれば良い。最初の一撃を何とかしてやり過ごし、それから土蔵へ走って、もっと強い武器を作ろう。
そう決意した瞬間、全身が総毛立った。
「――っ!!」
赤い凶器が、光を引いて走る。
何時の間にやら、天井から湧いて出たかとも見えた蒼い男は、一直線に槍の穂先を士郎目掛けて突き下ろしてきた。
だが、串刺しにされる寸前に、士郎はつんのめるように前へ転がりながら、辛うじてその一撃を躱した。壁にぶつかる前に脚に力を込めて力ずくで転がるのを止め、士郎は立ち上がる。無論のこと、竹刀は手から離すことなく、ぎゅっと握り締めたままだ。
たん、と軽快な音を立てて、着地した男は、詰まらなさそうに士郎を見た。
「……余計な手間を。せっかく、もう一度恐怖を感じる前に楽に死なせてやろうと、オレの親切心だったというのにな」
いかにもやる気の無い態度で、男は、手にした槍を自分の肩の上に乗せた。
学校の屋上で少女と斬り合っていた時と違い、男は今ひとつの精彩を欠いていた。だからといって、危険が去ったわけではない。士郎は油断無く相手の隙を伺った。
「ったく、一晩に2回も同じ人間を殺す羽目になろうとは。この時代も、血腥さにかけてはさほど変わらないということかね」
男はぼやき、あろうことかやれやれと嘆息までしてみせる。士郎のことなどまるきり眼中に無い様子だ。
ならば、と士郎はじりじりと後退する。窓を破って庭に出て、土蔵へ走り、武器を作る。それを決意して、行動に移そうとしたときだった。
「じゃあな。今度こそ迷うなよ、坊主」
気の乗らないといった声のまま、男は無造作に腕を一閃した。
「うぁ……っ……!?」
士郎の右腕に、痛みが走り、血が飛び散った。が、それだけだった。学校の廊下で士郎の心臓を貫いた赤い槍は、強化された竹刀に当たり、標的から逸らされたのだ。
まさか、竹で作られた刀の形をしたものが、それほどの硬度を持っているとは思わなかったのだろう、男はすうっと赤い両目を細めた。
「ほう……坊主、お前、魔術師か」
それまで、何処か茫洋としていた男の気配が、刹那に剣呑なものへと変わる。
「――!!」
士郎は思わず息を呑んだ。
迂闊にもほどがある。男が完璧に油断していた、それが絶好の機会だったというのに、士郎はみすみすと見過ごしてしまったのだ。
伺うべき隙など、もはや見出せなかった。男は、冷酷なまでに士郎の一挙手、一投足を観察している。そう、決して逃がさん、という風にだ。
「なるほどな、それで心臓を穿たれても生きていたってわけか。いけ好かねえマスターだが、判断は妥当ってことだな」
槍の穂先が、士郎にぴたりと狙いを定める。実際に、鼻先に突きつけられたわけではないが、彼我の距離など、相手の男には無意味だろう。
あれは人ではない。人の及ばない、何か別の存在なのだ。疾風よりも速く動く蒼い男の繰り出す一撃は、稲妻そっくりだ。真っ直ぐに標的を捉える刺突を、どうやって防げる?
「まあいい。退屈な任務だと思っていたが、少しは楽しめそうじゃねえか」
言うなり、男はぶん、と音を立てて槍の柄を振るった。士郎のこめかみ辺りを横殴りに叩きつけられようとした槍は、頭を庇う条件反射によって、辛うじて防ぐことが出来た。
「ほらほら、ぼーっとしてんなよ! 死んじまうぜ!!」
そんな幸運に士郎が感謝する間も無く、男は追い立てるようにして、続けて槍による攻撃を仕掛けてくる。
傍目には、美しいとさえいえる槍捌き。自分の命が狙われているのでなければ、その見事な技に見とれるかもしれない。室内で扱うには不向きな長柄の武器である槍なのに、男は何処かに槍をぶつけることもなく、士郎目がけて今度は脇腹への殴打を狙う。
「くそっ……!」
防御は辛うじて間に合ったものの、破裂音に似た音が響いて、強化されている筈の竹刀が一部はぜてしまった。それには構わず、士郎は竹刀を打ち上げて、赤い槍を弾こうとした。
しかし、士郎の渾身の攻撃は、槍の軌道を僅かに逸らせただけでしかなかった。男の体は全くぶれもせず、竹刀の亀裂がますます酷くなる。後、一撃か二撃受けたら、完全に折れてしまうだろう。
「何やってんだ坊主。魔術師だってのに、まともな判断も出来ないのかよ。これじゃあ、どうしようもねえな」
男は、心底呆れ返った、と言わんばかりに溜息をついた。
そう、『少しは楽しめそうじゃねえか』と言ったように、士郎にとっては命がかかっているこの一瞬でさえ、男には児戯にも等しいのだ。お前の程度を見てやるよ、というだけの。だが、それももう終わりだ。男は、士郎に自分が斬り合うだけの価値を見出さなかった。脂汗が滴り落ちる。
「諦めて、さっさとくたばっちまいな、坊主」
男は、槍を掲げ直した。それは、あるかなしかの隙、刹那の好機。
「誰が!」
後ろなど確かめず、体ごとぶつかってガラスを割り、士郎は外に飛び出した。
「――お断りだ!!」
ガラスの細かい破片が皮膚を傷つけることなど委細構わず、背中から庭に落下した士郎は、立ち上がり様に咄嗟に背後へと全身全霊の力で竹刀を振るった。
「――!」
槍を弾かれた男は、片眉を吊り上げた。よもや、士郎が男の行動を読んで、先んじて攻撃してくるとは思わなかったのだろう。それは一瞬でも早くても遅くても、士郎が殺されてしまうリスクの高すぎる、あまりにも危険な賭けだった。
僥倖ではあるが、それでも士郎は賭けに勝った。そのまま土蔵まで走ろうとした時だった。
男は笑った。
「――飛べ」
回し蹴りの要領で、男は士郎の胴へと自分の脚を叩き込んできた。
「うわっ!」
凄まじい勢いで士郎は宙へと跳ね飛ばされながら、痛みよりも飛んでいる自分の方を自覚した。
(そういえば、車にはねられた人は、自分が飛んでる間をスローモーションで感じるとか言ってたなあ)
そんな場違いな考えを抱くほどに、これは現実離れした事実だった。人間の姿をしたものに蹴り飛ばされて、人体が何メートルも空を舞うなんて。
飛ばされた士郎の体は、目的地であった土蔵の壁に激突し、バウンドして地面に落下した。
「……ぐっ……あ……!」
せっかく誰かに塞いでもらった心臓の傷口が、また開きそうな痛み。息がつまり、視界が白くなりかかる。士郎は何とか体勢を立て直そうと、土蔵の外壁に手をついて、懸命に身体を持ち上げた。
目を凝らすと、槍を構えた男が突進してくるのが見えた。
駄目だ。
防げない。
また、殺される――!?
「チィ、男だったらしゃんと立ってろ……!!」
一度は士郎を嫌った幸運の女神だったが、今度は士郎に向かって微笑みかけてきたのか。自分の体を支えきれずにずり落ちた士郎の頭上を、赤い槍は強打して、重い鉄扉を軋みと共に開いた。
幸運は続いている。士郎は、まだ握り締めたままの、歪み折れそうな竹刀の代わりに、もっと強い武器になりそうなものを求めて、土蔵の中へ転がり込んだ。
「観念しな!」
「くそっ!」
そんな様を見逃すほど、男は甘くも優しくもない。士郎もほんの短い時間で、嫌になるくらい分かっていた。放たれた槍、士郎はふざけている筈の仕組みを持つ竹刀のスイッチを押した。
「何ッ!?」
ぶわっ、と広がった、これも強化された花が槍の穂先を押し包んだ。槍の勢いを出来る限り減殺した竹刀は、真っ二つに裂かれてその寿命を終えた。
「がああ……っ……!!」
多少、勢いが殺がれたとはいえ、必殺の一撃を見舞われたのだ。士郎はあっけなく吹き飛ばされて、壁に叩きつけられる。もう、体中の骨がばらばらになったかと思われる痛み。何処の箇所からか、出血もあった。それでも、痛みをおして、士郎はなおも立とうとする。
「面白いことするな、坊主。だが、もうおしまいだ」
士郎が起き上がるのを待っていたとでもいうのか、顔を上げた士郎の目前に、男はぴたりと槍を向けていた。
「……ぁ……」
「機転の利きは悪くない。だが、魔術師のくせに魔術で挑まないってことは、からっきしか? それともまだ修行不足か?」
士郎の目は、不吉に光る赤い槍の穂先に釘付けになっていた。当然だ。それが動いた瞬間に、士郎は再び心臓を壊されて、息絶えるのだから。
「あるいは、お前が7人目だったのか――。まあ、そうだとしても、これから死ぬお前には関係の無い話だな」
男が無造作に見えて、正確に狙いを定めた腕を振り下ろす。
過たずに、外さずに、またこの槍は衛宮士郎の心臓を貫くだろう。
そう、また、だ。一日に二度も、同じ相手に殺されるなんて。
肉を突き破る冷たい鋼の感触、止まる心臓の鼓動、せり上がってくる鉄錆そっくりの血の味。世界から切り離され、暗い海を漂って、そのまま消えてしまう恐怖。
……嫌だ、と思った。
こんな風に殺されるために、助けてくれた誰かは、俺を助けたわけじゃないだろう。だったら、死ねないじゃないか。死ぬわけにいかないじゃないか。衛宮士郎には、生き延びる義務があるだろう。
死んでたまるか――!!
どうして、俺があんなヤツに殺されなくちゃならないんだ、二度も!!
「ふざけるな、畜生――!!」
士郎は、気付いていなかった。土蔵の床の上に描かれながら、半ば消えかかった魔法陣が魔法陣としての形を取り戻し始めていたことを。それは、男に弾き飛ばされた際、傷口から流れた士郎の血がぽつり、とその上に滴り落ちたからであることを。
「な……!?」
カッ、と光が立ち昇る。
士郎に突き刺さる寸前だった槍を、男は停止させた。
暗い土蔵に、凶暴なまでの光が満ち始めていた。
雲が厚く、月光の届かない曇天の夜、明り取りの窓しか備え付けられていない土蔵の中、決してあり得ない現象だった。
「――まさか、本当に7人目のサーヴァントだと!?」
獰猛に犬歯を噛み締めた男は、ばっと跳び退り、そのまま土蔵の外へと躍り出た。
「……な、何なんだ、一体……」
士郎は、急に起こり始めた異変を、呆然と見やった。当面、命の危機は辛うじて去ったものの、この現象は、何が起こっているのというのか?
風を切る。風が冷たい。
冬木の冬の寒さは厳しくないとはいえ、丘の上はやはり冷気が骨にまでしみそうだ。月が雲に隠されたこの夜は、殊に。ましてや、この寒さの中で、走るよりも速く、宙を行くのなら尚更である。
思わず、凛はぶるりと背筋を震わせた。極めて優秀な魔術師である凛は、独力で空を飛ぶことも出来るが、これほどの速度で翔けるのは、サーヴァントであるセイバーの補助無しでは難しいだろう。
「大丈夫ですか、凛」
セイバーが気遣って、凛に声をかける。風に髪をなびかせた凛は、頷いた。
「平気よ、セイバー。それより――」
人気の無い住宅街の端、目的地が見えてくる。広い敷地を持ったその屋敷は、中で何かが起こったとしても、近隣の家には全く伝わらないだろう。凛はこの家を訪れたことは無いが、知り合いがよく遊びに来ている関係で、位置だけは知っていた。
凍えて痛みそうな耳朶や指先にも構わず、凛は感覚を研ぎ澄ませた。
先に、それに気付いたのはセイバーだった。
「――います、ランサーです」
「やっぱり……!」
一瞬、凛は、遅かったかと思ったが、微かに硬いもの同士がぶつかり合う音を拾い上げた。どうやら、衛宮士郎はランサーのサーヴァント相手に、何とか抵抗しているようだった。
「セイバー、このまま突入するわよ。何はともあれ、ランサーを倒さなくちゃ!」
凛の指示に、セイバーが承諾の意を示そうとした時。
曇天を貫くように、カアと雷光が奔った。
「あれは……!!」
いや、雷光ではない。古風な武家屋敷から、エーテルの波が光となって渦を巻いているのが、凛には見て取れた。同じものを、つい先日、凛は目の当たりにした。
他ならぬ、今、凛の背を支えて空を駆ける少女が、召喚に応じて現れた時に。
「……うそ、7人目のサーヴァントが……!?」
凛が愕然とする。彼が最後のマスターかもしれないとは確かに言ったけれど、あれは本気ではなかった。それが、まさか本当にそうだったなんて!?
「あれを!」
セイバーの指し示す方向に、凛は目を向けた。
塀を跳び越えたランサーが、夜の闇の中に姿を消していく。凛はセイバーにランサーを追えとは言わなかった。言えなかったのだ。それを考えられないほど、凛は混乱していた。
凛に、セイバーが翡翠の双眸を当てた。
これで、マスターとサーヴァントが全員揃った。聖杯戦争が、遂に開始される。
「……凛、どうしますか」
「……とりあえず、降りましょう」
「分かりました」
ふわり、と凛とセイバーは着地する。
若干、思案する風に凛は衛宮邸を取り囲む長い塀を見上げていたが、すぐに歩き出した。
「こうなったら、正面突破よ。セイバー、武装は解いて良いわ」
「凛、……何を考えているのです?」
「まあ、色々とね。ちゃんと考えてるわよ」
セイバーは、釈然としない面持ちではあったが、それでも凛の言う通りに鎧を消し、私服姿になって凛の後を追った。
目を開けていられない強風が唸りを上げて乱舞し、閃光が荒れ狂う。実はほんの数瞬に過ぎなかったが、とてつもなく長い時間に思われた。
やがて、風と光は一つの
全てが収束した後、そこに立っていたのは、長身の青年だった。
褐色の肌と、対をなすかの如き白い髪。見るからに鍛え抜かれたと分かる体躯。
閉ざされていた青年の瞼がゆっくりと開かれ、その双眸に、士郎の姿が映し出された。そうして、青年は少しだけ眉間を顰めて、
「――貴様が、私のマスターなのか」
おおよそ、感情の色を欠いた、低い声が士郎の鼓膜を打った。
それが、全ての始まりだった。
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