Fate/another night

Introductory chapter

目撃 5


 走って走って走って――何処をどう走ったのか、自分でも分からないくらいに走って、体中がもう限界だと軋みと悲鳴を上げる頃に、背後から迫ってくる足音が無いことに気付き、ようやく校舎の1階まで辿り着いた士郎はもつれかけ、転倒しそうになった足を止めた。
 心臓はうるさいくらいの激しい鼓動で胸を突き破りそうだし、呼吸は絶え絶えに荒い。脚はもう、鉄棒と化したように重くて、走るどころか歩くのさえ辛い。
 壁に手をついて、はあと大きく息をつく。凍えそうな冬の夜だというのに、全身が汗まみれだ。
 とにかく、息を宥めようとしつつ、士郎は先程の屋上で見た光景を思い返す。
(……俺、一体何を見たんだろ……)
 正直、夢や幻覚の類であったらどれだけ良かったか。
 小柄な少女と、長身の男の姿をした、何か得体の知れない、人間の形をしたモノ達が戦っていた。よくは分からないが、理解は出来る。あれは、人が目にしてはいけないものだ。人が、人の領分を越えようとしたら、そこに待っているのは悲劇しかないということは、歴史だって寓話だって証明している。だから、とりあえず、この呼吸がおさまれば、力を振り絞ってすぐに学校を出よう。幸い、出口はもうすぐだ。そして家に帰って、さっき見たことは全部忘れてしまおう。そうしなければならない――。
 ふと、士郎は気付いた。
(そういえば、……誰かもう1人、あそこにいた気もするけど……)
 戦場を見守るように、別の誰かが物陰にいた、とは思うが、はっきりしない。あの2人の戦いにばかり気を取られて、周囲の状況にまでは気が回らなかった。
 だが、これから忘れてしまうのだから、もはや関係ないではないか。この死地からさっさと脱出してしまおう。
 なのに。
「よう、追いかけっこはもう止めるのか」
 絶望をもたらす声は、士郎の耳元でした。
「――!?」
 びくり、と全身を引きつらせ、逃げ場を求めて咄嗟に壁に背を押し付けた士郎の顔を、さも面白そうに赤い双眸が覗き込んでいた。
「何処までもつかと思ったが、結構頑張ったなオマエ」
 男の口調はあくまでもくだけた親しみすら感じさせながら、言葉の内容は獲物を賞賛する酷薄な狩人のものでしかなかった。士郎は、声すら出せなかった。吐き気を催す恐怖の中、ただ、自分が殺されるということだけが、はっきりした事実として認識できた。
「逃げられないってことは分かってたんだろ? けどまあ、分かってても普通は逃げるわな。当然の反応だ。恥ずかしいことじゃないさ」
 そう言って、蒼い男はひょい、と右手を上げた。握られた赤い槍。
「運が無かったな坊主。死人に口無しってな。ま、見られたからには死んでくれや」
 そのまま、ごく自然に、槍が振り下ろされる。
 スローモーションかコマ送りのように、士郎はただ、為す術も無く、自分を殺す凶器が胸に吸い込まれていくのを見ているしかなかった。避けるも何もない。魔術師としての今までの鍛錬など、何の役にも立たなかった。指1本も動かないのに、立ちすくむしかないのに、どうやって身を守れる?
 槍は、停滞も無く躊躇も無く、容赦なく衛宮士郎の心臓を正確に貫いた。
 激痛は、一瞬だった。
「……ぁ――――か、は……」
 血の塊が、唇を割って零れる。
 体内を巡る血液が、供給源たる心臓を壊されて、急激に淀み、冷えていく。手足の先から、感覚が失われていく。全く力が入らない。
 突き刺された時と同様に、穂先は無造作に引き抜かれ、もはや自力で立つことの出来ない士郎の体は、支えを失って前のめりにどさり、と倒れ伏した。もっと溢れるように流れ出すかと思われた傷口からの出血は、心臓が瞬時に活動を停止したせいか、それとも男の槍の一撃が特殊だったのか、予想したよりも少なかった。
 その代わり、奇妙な浮遊感があった。自分自身の存在感が、ゆらゆら希薄になっていく感覚。全ての感覚が、ゆっくりと失われていく。
 ああ、また、だ。
 10年前にも、こうやって死にかけた。
 あの時は、切嗣が助けてくれたけれど、もう切嗣はいない。
 理想も夢も、ただの憧れのまま、このまま終わるのか。何もかも。正義の味方になるどころか、こんな所で、訳も分からぬままに殺されて、衛宮士郎は死ぬのか。
 本当に? ここで?
「……所詮この世は弱肉強食、弱いヤツから死んでいくのは当然といやあ当然だが……」
 瞼も開いてるのか閉じているのか、既に士郎の視覚は働かず、耳だけが勝手に音を拾っていた。
「嫌な仕事だぜ。無抵抗の人間を手にかけるのが英雄だって、とんだ笑い話だ」
 士郎を殺した男の声が、寒々とした廊下にただ響く。
「解っている、任務は忘れてねえよ。ここでマスターとサーヴァントは確認したんだ、大人しく戻ってやるさ。文句はねえだろ?」
 甚だしく不本意を露にして、男は誰かと話している。声は聞こえるのだが、それを言葉として理解することも、士郎には出来なくなりつつあった。
 と、廊下を駆けていると思しい足音が近づいてきた。当然、男がそれに気付かないわけもなく、声音が独語めいて低く小さくなった。
「――セイバーか。本音を言やあ決着をつけたいところだが、令呪の縛りがある以上、どうしようもねえな……。ったく、つくづくツイてねえよなオレ」
 ふっと、そこで男の声は消え失せた。この場を去っていったのだろう。
 倒れたままに取り残された士郎の前で足音は止まったが、それが誰のものなのか確かめる術は、もう彼には無かった。



 月が雲に隠されたにび色の空、凍える空気の冷たい夜。
 紛れも無い血臭と、流れ出た血。セイバーは、手の施しようも無く「死んでいる」少年を前に、ただ立ち尽くしていた。
 セイバーが初めて目にする、以前のマスター、切嗣と同じ衛宮の姓を持つ少年。いずれ、何らかの形で接触は持たねばなるまいとは考えていたが、よもやこんな風に出会うことになろうとは。聖剣の鞘の行方を知る者かどうかはともかく、戦いに縁の無い者が殺されるのは、どれだけ見慣れていてもやはり心を重くさせる。
 そのセイバーに、懸命に走ってきたらしく、息を切らし髪も若干乱れた凛が追いついてきた。
「……申し訳ありません、凛。……間に合いませんでした」
 セイバーが目を伏せる。うつ伏せに倒れた少年につかつかと歩み寄った凛は、その傍らに崩れるように屈み込んだ。そして、視線は少年に落としたまま、彼女のサーヴァントに声をかけた。
「……セイバー」
「はい」
「ランサーは、マスターの元に戻ったはず。せめて、相手のマスターの顔ぐらい把握しておかないと、割に合わないわ。引き続き、ランサーを追って」
「――分かりました」
 青い衣の裾を翻して、セイバーが走り去っていく。凛はそれを視界の隅で見届け、少年の背に向けて手を伸ばした。
「……」
 少年の傷を検分しようとして、凛は自分の指先が震えているのに気付いた。
 誰かの死を目の当たりにするのは、別に初めてではない。大体、魔術師になるという道を選んだ時から、常に死が影のように纏わりついてくることなんて、覚悟していた筈だ。
 なのに、どうして。
 衛宮士郎。どうして、アンタが。
 何だって、よりにもよってアンタは、この日こんな時間まで残ってて、あの戦いを見ちゃったのよ――!!
 腹立たしいやら苛立たしいやらで、凛は思い切り唇を噛んだ。そして、ぐっと顎を引いて腹腔に力を込め、今度こそ衛宮士郎に触れた。
 傷は、心臓を貫かれた一撃のみ。思ったよりも出血は少ないが、誰が見たところで、心臓をやられた以上は、明らかな致命傷だ。実に鮮やかに、ランサーは獲物を仕留めたのだ。
 その筈が。
「……え……?」
 凛の目が見開かれる。
 心臓を壊されたというのに、それでも、赤銅色の髪の少年は、まだか細い息をしていた。辛うじて、ではあるが、生きている。
 ただ、それも時間の問題だろう。ものの数分もしないうちに、心臓が最後に送り出した血液が脳に届かなくなり、少年は本当に死体になる。
 今にも消えそうな、弱々しい、文字通り風前の灯の命を前にして。
「……破損した臓器を偽造して代用、その間に心臓一つまるまる修復か……。こんなの、成功したら時計塔に一発合格ってレベルじゃない……」
 ぼやく風に呟いた凛の気持ちは、既に定まっていた。
 色んなものが、頭の中をぐるぐる回る。士郎を慕っている、桜の顔。夕焼けに赤く染められた校庭、そこで1人走っていた男子。聖剣の鞘を失ったという、10年前も召喚された騎士王。凛の不注意で、不運にもサーヴァント同士の争いを見てしまった少年。
 全て何もかもひっくるめた以上に強烈に、凛の心を動かしたものがあった。
 それは、衛宮士郎を助けたい、という、単純明快にして強烈な、凛自身の意思だ。
 常人ならば、例え医者であっても、今正に死にゆくしかない者を蘇生させることなど不可能だが、遠坂凛は魔術をもって不可能を可能にする、魔術師である。
「……やってやろうじゃないのよ」
 制服のスカートのポケットに、手を入れる。右手が、ある物を掴んだ。
 凛の父、時臣が娘にと遺してくれた、唯一の贈り物、形見の品。眼も眩みそうなほどの魔力で満たされた、赤い宝石を美しく加工した古代芸術アーティファクトのペンダント。
 魔術回路も、魔術刻印も、無論、時臣から凛に渡されたものではある。だが、それは遠坂家の当主が血脈を重ねて受け継いでいくものだ。このペンダントはそうではなく、あくまでも1人の父としての遠坂時臣が、1人の娘としての遠坂凛に――凛のためだけに、遺してくれたものだ。
 とても大切なもの。聖杯戦争を勝ち抜く切り札となり得る、膨大な魔力が凝固されたもの。
 本来ならば、こんな所で、運悪く巻き込まれただけに過ぎない人間のために消費されるべきではない。しかし、ここで衛宮士郎を見捨てては、自分は絶対に後から悔やむだろう、凛はそれを確信している。あの時ああすれば良かった、こうすれば良かった、といった類の後悔は、凛はしたくなかった。
 だって、まだ生きている。衛宮士郎は、まだ息があって生きているのだ。この魔力の蓄えを使えば、少年を助けられるのだ。
 うつ伏せに倒れていた少年の体を、よいしょ、と両手で押して仰向けにする。
 そして、ペンダントの中の魔力を引き出しながら、士郎の胸に手を当て魔術を組み立てて、ほとんど力技で体内の破損を修復していく。強引な魔術の行使により、負担を受けた凛の体からは、ぱたり、ぱたり、と汗が滴る。一方で、ゆっくりと、それでいて確実に、冷え切っていた死体一歩寸前だった体は、生きている者の温みを取り戻していく。青ざめていた肌に、赤みのある、血の通っている色が甦っていく。
 やがて、凛の掌の下で、どくん、と心臓が再び動き始める音がした。成功だ。
「――ふう」
 すっかり「軽く」なってしまったペンダントが、凛の手から滑り降りて、ことりと士郎の上に落ちる。
「疲れたぁ……」
 ぺたり、と凛はへたり込んだ。
 魔力がほとんど空、になったペンダントを見ると、ああ、やっちゃった、という思いはあることはあるが、奇妙なほどに、凛は清々しい充足感でいっぱいだった。
 微かにではあるが、息があったから助けられた。わたしは、戦うためだけじゃなくて、ちゃんと人を助けるためにも魔術を使えるんだ。その代わりに、父の形見は単なる宝飾品に成り果ててしまったけれど。
「ま、仕方ないか。魔術の基本は等価交換だし、こういうの、悪い気分じゃないし。ごめんなさい、父さん。あなたの娘は薄情者です」
 死者の沈黙に包まれていた衛宮士郎は、呼吸は少々苦しげながらも、明らかな生者の眠りへと落ちている。凛によって、死の淵から引き上げられた証だ。
「さて、もうこうなったら長居は無用。コイツが目を覚ます前に帰ろっと」
 一度だけ、士郎の顔を見やってから、凛は反動をつけて立ち上がり、帰途につくことにした。
 士郎の胸の上に、ペンダントを置き忘れていったことは、凛の意識からはすっかり消え失せていた。




 1人帰宅した凛は、どさりと居間のソファに腰を下ろした。
 学校に張られていた結界のことやら、初めて目にしたサーヴァント同士の戦いのことやら、瀕死の少年を助けたことやら――。
 考えるべきことは山ほどあったが、家に帰り着いたら全ての緊張が解けたのか、ぐうと腹の虫が存在を主張する。時計を見ると、既に10時近い。そういえば、昼食を摂って以来、何も口にしていないことを凛は思い出した。腹が減っては戦は出来ぬ、というわけで、キッチンに移動する。
 時間も時間なので、あまり重くないものにしようと、冷蔵庫を覗き食材を確認して、パスタにすることにした。そして、いつものように1人分の食事を作ろうとして、自分がこの家に招き寄せた少女の顔を思い出し、もう1人分の量を足す。
 そうやって凛が料理を作っていると、涼やかな声が聞こえてきた。
「ただいま戻りました、凛。――何処にいるのですか?」
「お帰りセイバー。こっちよ」
 凛の声に導かれてダイニングキッチンに姿を現したセイバーは、サーヴァントとしての本来の鎧姿ではなく、ブラウスとスカートの私服姿になっていた。生真面目な表情のまま、セイバーは凛に頭を下げる。
「重ね重ね、面目次第もありません。ランサーを見失いました」
「ああ……しょうがないわね。マスターがよっぽど用心深いんでしょうし、ランサーに据えられる英霊は、確かサーヴァント随一の敏捷性を誇るって話しだしね」
 凛は答えながら、テーブルの上に手際よく料理を並べていく。ちなみにメニューは、茄子とチェリートマトのパスタに、グリーンサラダ、ブロッコリーとチーズのスープである。全て2人分。
「とりあえず、座って、セイバー。食事にしましょう」
 ほらほら、と凛が促すと、セイバーは面食らったように目を丸くした。
「え、凛、しかし、私は」
「うん、サーヴァントは人間と同じ食事は必要ないんだって分かってる。でも、別に邪魔にはならないでしょ? 夕べだって一緒に食事したんだし。それに、せっかく、誰かが一緒にいるんだから、1人で食べるのも味気ないわ」
 さっさとテーブルに着いた凛がそう言うと、特に食事の誘いを断る理由も無いセイバーは、
「……では、ご相伴にあずからせていただきます」
 と、凛の向かい側に座った。凛はセイバーに見えないように、こっそりと悪戯っぽい笑いを浮かべて、口には出さなかったもう一つの本音を内心で呟いた。
 だって、セイバーがご飯食べる様子、可愛いんだもん。
 そうなのである。昨夜、新都で夕食を共にした時も同じだった。どうやら本人は気付いていないようなのだが、今も食事をしているセイバーは、目元に明らかな喜びの色を湛えて、時折、こくこくと頷きながら口元に料理を運んでいる。
 そんな様子を見ていると、彼女が、つい数時間前には、人知を超えた戦いを繰り広げていたこともうっかり失念してしまいそうになる。
 それを思うと、改めて戦慄に似た感覚が走る。目に見えぬ剣を操り、小柄な少女の姿を持ちながら、威風堂々と蒼き槍兵のサーヴァントと渡り合っていた騎士。聖杯を手にするため、現世に招かれた英霊。
 訊きたいこと、確かめたいこと、話したいことは色々ある。
 だが、焦る必要は無い。魔術師達の時間たる夜はまだ、始まったばかりだ。
 そう、長い夜は、まだ幕を開けたばかりなのだ。

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