III ウォルスタ解放軍の進撃

 ウォルスタ解放軍の拠点であるアルモリカ城と、デニム達が向かっているクリザローの町との間には、タインマウスの丘が広がっている。草原で覆われたなだらかな丘で、白い石灰岩が牙のようにあちこちに突き出している。この丘は、アルモリカとクリザロー、そしてガルガスタンの本拠地であるコリタニ城を繋ぐ分岐点に当たる、要衝の地である。
 そういった地形上の特質から、この付近にはガルガスタン軍が常駐して、ウォルスタの動きを見張っている。アルモリカ城がウォルスタ解放軍に奪還された、という報の後では、その監視が厳しくなるのは当然のことといえる。
「こんなところにゲリラがいるとは…。アルモリカ落城は本当だったのか」
 ガルガスタン軍部隊のリーダー、彩雲のオルバは、タインマウスの丘に姿を現したデニム達神竜騎士団の姿を見はるかし、そうごちた。そして、デニム達に不吉な宣告をした。
「大方、クリザローでワナにはまっているやつらの援軍だろうが、そうはさせん。おまえたちはここで死ぬのだ」
「クリザローのワナ?」
 デニムは眉をひそめた。
 それが本当のことなら、こんな所でぐずぐずしてはいられない。デニムは腰に差した剣の柄を握りしめた。
 その時だった。
 切れ切れの雲が浮かぶ晴天の空に、突如としてふっと影が落ちた。そして、ばさり、と翼のはためく音がしたかと思うと、燃え立つような紅い髪と翼をなびかせた逞しい人影が、デニム達の前に軽やかに降り立っていた。
 ゼノビアの風使いカノープスである。
 口を、疑問の形に開きかけたデニムを遮って、カノープスは片目を瞑って見せた。
「おまえたちだけでは心細いのでな。オレがついていってやろう」
 それから、カノープスは、
「オレの名はカノープス。死にたいヤツはかかってこい!」
 ガルガスタン軍に向かって名乗りを上げ、言うなり、再び空へと舞い上がった。
「デニム、のんびりしていたら置いていくぜッ!」
「デニム!」
 促すようなヴァイスの声に、デニムはかえって、逸る気持ちを抑えられたような気がした。ランスロットの「冷静でいろ」という忠告が、耳に甦る。
「全員、弓は装備しているな?なるべく高台に上がって、上から矢を射かけるんだ!」
 丁度、戦場となったのは、タインマウスの丘のうちでも、擂り鉢状に窪んだ箇所を、ぐるりと小高い丘が囲んだ場所だった。デニム率いる神竜騎士団は、高台にポジションを取っていた。言うまでもなく、低所から高所への攻撃は不利である。斬撃を浴びせるにしても、姿勢に無理が生じてその威力を充分に発揮できない。最も顕著なのは射撃である。高所からの射撃はより遠くへ飛ぶが、低所からでは、矢は弧を描いて飛ぶため、目標に届かない事もあり得る。
 神竜騎士団は、そのほとんどの兵が実践の経験が浅い若年兵である。そのため、戦いにおいて地の利を占め、自らを優位に立たせることは、非常に重要なポイントだった。
 デニムの指示を耳の片隅で聞きながら、カノープスは、
(なかなか、やるじゃないか。ランスロットの言ったことを、ちゃんと守ってるな)
 と、唇の端だけで微かに笑った。
 地形上優位に立ったデニム達は、ジリジリとガルガスタン軍を包囲するように、矢を放ち、着実に敵の数を減らしていった。ガルガスタン軍の方でも、黙ってやられていたわけではないが、不利な条件に加えて、相手に傷を負わせてもカチュアがヒーリングの魔法ですかさず癒してしまうため、決定的な打撃を神竜騎士団に与えることが出来なかった。
 カノープスは、アルモリカ城で見せたように、翼を持つ身軽さと、鋼のような体躯に込められた膂力で、一人でかなりの数のガルガスタン兵を倒していた。
 デニムもまた、一週間、ランスロットから受けた稽古の成果を発揮していた。その動きが、一週間前と比べて、格段に良くなっている。
 ガルガスタンの部隊を全滅させ、残るリーダーのオルバをデニムが振り向いたとき、ヴァイスがオルバに斬りかかっていた。と。
「危ねぇ、気をつけろ!そいつは魔法使いだぞッ!」
 カノープスが鋭く怒鳴った。それと同時に、ごうと魔法の炎がオルバの持つ杖から噴き上がり、ヴァイスは慌てて、半ば転げるようにして炎の渦から身を避けた。が、完全にとはいかず、黒い髪の先を少し焦がしてしまったが。
「オレが牽制する。その隙を狙え!!」
 襲い来る炎を、空に飛んで躱し、カノープスは槍を振り上げた。
「分かりました!」
 カノープスの声に弾かれたように、デニム飛び出した。カチュアが制止するが、デニムは構わず突っ込んだ。
 オルバは魔法を放とうとするが、カノープスが、有翼人であるということと、槍という長柄の武器の利点とを最大限に活かして、空から牽制する。オルバは自分の行動を決めかねたまま、デニムの剣に貫かれ、
「…こ、こんなところで、し、死んでたまるか…」
 と、絶命した。
 剣についた血糊を振るい落とそうとして、上手くいかないデニムの目の前に、紅い髪と翼のゼノビアの有翼人が、音もなくふわりと舞い降りてきた。
「カノープスさん……」
「いらん手助けだったか?」
「いえ、そんなとんでもないです。でも……」
「おっと、お前の言いたいことは分かる。何故、オレがここにいるか、だろ?」
「はい」
「はは、オレは兵士の訓練なんて任務には向いてないのさ。それで、ランスロットの諒解を得て、力不足のお前達の力になりに来てやった、というわけだ。合点がいったか?」
 そう言って、カノープスはヒラヒラと軽く手を振ってみせた。
「……あの、訊いてもいいですか?」
「ん?何だ?」
「どうして、わざわざ僕達に力を貸してくださるんです?」
 妙に真面目くさって訊くデニムが可笑しかったのか、デニムがそう言った途端、カノープスはぶっ、と盛大に吹き出した。
「言っただろ、お前達だけでは心細い、と。とにかく、オレが力を貸してやるって言うんだから、それでいいじゃないか。それでも、もっともらしい説明が必要なら――ま、自分で考えてみな」
 どうにもはぐらかされているような気がして、デニムが眼を白黒させていると、ヴァイスが口を挟んだ。
「おい、デニム。それはそうと、急いだ方がいいんじゃないのか?さっきのガルガスタンのヤツ、何か、クリザローのワナとか言ってただろ」
「……ああ。少し休憩を取ったら、すぐにクリザローへ向かおう」
 真顔に戻ってデニムは答え、他の神竜騎士団のメンバーにも同じ事を伝えた。
 不意に、カノープスが空を仰いだ。
「……荒れそうだな。こりゃ、雷雨になる」
「こんなに晴れているのに?」
 不思議そうにカチュアが言う。
「オレは『風使い』カノープスだぜ。風の流れで、天候の予測ぐらい読めるさ」
「……大変なことにならなきゃいいけど」
 そうカチュアが呟いたのは、天候を心配してのことだろうか。

 ぽつ、ぽつ、と降り出した雨は、やがて豪雨となった。続いて雷雲が湧き、アルモリカ辺境のクリザローの町は、激しい雨と雷鳴に叩かれ始めた。家屋に、街路に、降り注ぐ雨。クリザローの町は、灰色に煙って見えた。
 いや、灰色に見えるのは、雨のせいだけではない。死に絶えたように、しんと静まりかえった町の中に、蠢くものの姿を見よ。それの動きがどこかぎこちないのは、肉の欠落した、骨だけの姿だからかもしれない。武器を手にした骸骨。そして、浮遊するぼろ布の中に、不気味に眼を光らせた幽霊。スケルトンとゴースト、どちらも死者を術によって蘇らせた、アンデッドモンスターだ。町が灰色に見えるのは、かつてはバスク教の総本山であったクリザローの町の過去を嘲笑うかのように徘徊する、アンデッド達のせいだ。
 カッ、と雷光が迸る。数秒送れて、つんざくような雷鳴が轟く。雷雨の中、バシャバシャ、と街路に溜まった雨水を跳ね上げながら走る人影があった。
「く、アンデッドがこんなに大勢…。死者の魂をもて遊びおって」
 雨を吸い込んで、重たげな神父の服。ウォルスタ解放軍の神父、ドナルド・プレザンスは、強いながらもどこか哀れむような視線で、アンデッド達を見た。
「ならば…、死せる魂を常世の闇に葬らん…。安らかに眠れッ!イクソシズム!!」
 呪文を唱えると、プレザンス神父から、白く優しいながらも峻烈な光が放たれ、その光に包まれたスケルトンが消滅する。アンデッドを除霊する、イクソシズムの魔法の力だ。
「待っていろよ、レオナール。援軍が到着するまでの辛抱だからな」
 しかし、多勢に無勢である。迫ってくるアンデッド達の前に、孤軍奮闘する神父の命運は、今にも尽きそうに見えた。さしもの神父の目にも、絶望の色が浮かびかけた頃。
「あそこだ!」
 プレザンス神父の耳に、若い声が飛び込んできた。神父は声のした方向を振り向いた。
 複数の人数が、そこに見えた。よく目をこらすと、彼等がウォルスタ風の武装をしていることが判った。神は、聖なる父フィラーハは、プレザンス神父を見放してはいなかったのだ。
「…おおっ、あれはまさしく解放軍。天の助けとはこのことだ」
 安堵の声を上げたプレザンスの希望を打ち砕くように、クリザローに駐留するガルガスタン軍のリーダーの魔女、恍惚のモルドバは、高らかな声で笑った。
「そう上手くいくかな。貴様たちの仲間はその家の中で眠っている」
 と、自分の背後にある一軒の家を指差し、
「ただの眠りではないよ。死への眠りさ。眠りから目覚めたとき、おぞましいアンデッドへと復活するのさ」
 モルドバは、自分の言葉にウォルスタ人の神父が歯噛みするのを、面白そうに眺めやった。
「皆の者ッ、ニバス様が戻られるまでだ。ここから先へ進ませてはならぬぞッ!」
 そして、モルドバは人間の部下達に、命令した。
 デニムもまた、片手をさっ、と上げ、戦闘開始の合図をする。
「カノープスさん、あの神父を援護してあげて下さい!」
「よしッ!」
 敵味方の距離がさほど開いていなかったので、すぐに混戦となった。それでも、死なないアンデッドが主力のモルドバの部隊は、普通ならば有利に戦えるはずだが、カノープスの援護を受け、余裕の出来たプレザンス神父がイクソシズムを唱える度に、文字通り戦力が消滅していく。モルドバが操る、閃光によって身体を麻痺させられるスタンスローターの魔法には、デニム達は手こずらされたが、それでも一度逆転した形勢は、そうひっくり返されるものではない。徐々に劣勢になっていく自軍に、モルドバは焦りの色を濃くした。
「ニバス様はまだお戻りになられんのかッ!どうなされたというのだッ!?」
 そういえば、とデニムは思い出した。アルモリカ城を警護していた騎士アガレスも、本来の監督官であるニバスの不在を口にしていた。自分の部下を見殺しにするつもりなのだろうか。一体、何処で何をしているのだろう。
「ニバス様…、私をも…、見捨てられるの…か…」
 デニムの疑問を裏付けるように、モルドバは血泡と共に言葉を吐き出した。その胸に、矢が突き立っている。モルドバが倒れ、クリザローの町での戦いは終わった。
「かたじけない。助かりました」
 まるで、アンデッド達が雷雨を呼び寄せていたかのように、遠くでまだゴロゴロと雷の余韻が残っていたが、戦いの終了とほぼ同時に雨は止みつつあった。
 プレザンス神父が、軽く頭を下げながら、デニムに歩み寄ってきた。
「私はフィラーハ教の神父、ドナルド・プレザンスと申します」
 そして、年若いデニムに対し、若いからと馬鹿にしたところのない、慇懃な礼を述べる。
「僕は、デニム・パウエル。ロンウェー公爵の命を受けて、援軍に来ました」
「ああ、貴殿があの噂の、『ゴリアテの英雄』なのですな?」
 もうそんなに噂になっているのか、とデニムは驚く一方で、そこで「はい」などと肯定するのは、どうにも面映い気がした。僕は何もしていないも同然で、アルモリカ城を落としたのは、ランスロットさん達の力なのに。デニムは何とも言えず、曖昧な微苦笑を浮かべた。
「では、憎きガルガスタンを打ち破り、このヴァレリアを平和な地に出来る日まで、よろしくお願い致します」
「……ガルガスタンを、憎んでおられるのですか」
 神父の言葉が少し意外な気がして、デニムはプレザンスに訊いた。ウォルスタ人が、ガルガスタン人を憎むのは当然だ。ウォルスタ人は、ガルガスタンの『民族浄化』作戦により、親を、子を、夫を、妻を、兄弟を、友人を、恋人を、殺され、迫害されているのだから。暗黒騎士団によるゴリアテの襲撃は、極めて例外的な出来事である。そういう意味では、ウォルスタ人で暗黒騎士団を憎むデニム達の方が、珍しい存在だ。
 デニムが意外だったのは、憎む対象が、ではない。温和な聖職者に見える神父が、「憎む」という単語を使ったことだった。
「私は、かつてアルモリカ城下で孤児院を開き、孤児達を育てていました」
 プレザンスの声が揺れた。
「しかし内乱が起こり、アルモリカが落城したとき、孤児院を開いていた教会を焼き討ちされたのです……。……子供達は、炎の中で短い生涯を終え、私一人が生き延びました。ただ、ウォルスタ人であるというだけで、多くの子供達が、輝ける未来を無残に奪われたのです。全てを失った私は、解放軍に入り、あの子達の復讐の為に、この生き残った身を捧げることに決めたのです」
「……。すみません……。辛いことを思い出させて……」
「いえ、お気になさらないで下さい。さあ、レオナールはあの家に捕えられています。ニバスもいないようですし、きっと無事でしょう」
「あのアンデッド達は、そのニバスの魔法か何かの仕業なのですね?」
 デニムが訊いたのは、質問というより確認だった。プレザンスは苦々しそうに頷いた。
 ――モルドバがプレザンスに仲間を捕えている、と教えた家屋には鍵が掛けられ、その上、扉に板まで打ち付けられていた。そのため、数人がかりで扉を叩き壊さなければならなかった。格闘の末、扉を破って中へ入ると、やはり一つだけ、鍵の掛けられた部屋があった。その扉も協力して蹴破ると、薄暗く埃っぽい部屋の中に、数人が倒れていた。
「レオナール!」
 プレザンスが、そのうちの一人の騎士に駆け寄り、注意深く脈を改める。程無く、プレザンスは、ほっ、と安堵の息をついた。
「眠っているだけです。魔法による眠りのようですが、命に別状はありません」
 デニムが手を貸し、レオナールを抱え起こすと、プレザンスはその口に薬酒を注ぎ込んだ。きつい香りのするゾリアの花を漬け込んだもので、眠りを醒ます効果がある。他に倒れている者も、カチュアらが介抱する。
「……ごほっ、ごほっ……」
 小さく咳き込んで、レオナールは目を開いた。
「気付いたか、レオナール」
 プレザンスに覗きこまれて、アルモリカ騎士団団長は、がばと身を起こした。すぐに状況を把握したらしい。
「そうか……。助かったのか……」
「ああ。こちらの方達のおかげでな。彼が、かの『ゴリアテの英雄』デニム・パウエル殿だ」
 デニムはレオナールに黙礼した。
「私は、レオナール・レシ・リモン。アルモリカ騎士団団長を拝命している」
 まずレオナールは名乗ってから、謝意を表すため、デニムに頭を下げた。
「感謝する、貴君のおかげで命拾いをした」
 それから、プレザンスに笑いかける。
「心配をかけたな、プレザンス。不意を突かれ、このざまだ。公爵様からお借りした大切な兵を大勢失ってしまった。まったく、なんと申し開きをすればよいのか」
「おまえの命が助かっただけでも幸運というもの」
「それにしてもニバスのヤツめ。神をも恐れぬ不埒な魔法使いよ」
 ニバスについて詳細はデニムは知らないが、ニバスは屍術師であり、その名が示す通り、死者を操る魔法――ネクロマンシーを得意とするネクロマンサーだ、ということである。多分、レオナールが不覚を取った理由も、ニバスの召喚したアンデッドのせいなのだろう。
「おう、それそれ。ニバスは、この先の朽ちた砦に身を潜めているらしい。己の兵をアルモリカに置き去りにし、コリタニへ帰るわけでもない。一体、何をしているのやら…」
「いずれにせよ、ニバスの首をあげねば公爵様に会わす顔もない」
「この手勢で砦を攻めるというのか?一度、戻った方がよいのではないか?」
 プレザンスは、レオナールを宥めるように言った。レオナールの部下が、二人しか生き残っていなかったからである。
「我々だけならそうするさ。しかし、今は心強い味方がいるではないか」
 レオナールは自分の任務に拘った。騎士団団長としての意地と面子もあるのだろう。
「しかし、アルモリカもいつやつらに攻められるかもしれんのだぞ」
 プレザンスも慎重論を譲らない。
 が、ここで平行線の意見を言い合っていても埒があかない。そこで、レオナールの視線がデニムに向けられた。
「我々は捨てた命をデニム殿に助けられた身だ。ここは、ひとつ…」
「うむ、そうだな。進むか、戻るか。デニム殿に決めてもらおう」
 レオナールのその提案には、プレザンスも異存は無いようだった。
「ヴォルテール、サラ、おまえたちもそれでよいなッ」
 生き残った部下を、レオナールが振り向く。騎士ヴォルテールと弓手サラは頷き、レオナールに同意を示した。
「我々は貴殿の意見に従いましょう。この命を預けます」
 判断を委ねられ、デニムは少し戸惑った。ちらとヴァイスを見てみると、ヴァイスはやる気満々で、ニバス討伐を望んでいるようだった。
 頭の中で、デニムはレオナールの主張とプレザンスの主張を比べてみた。どちらも一理ある。ただ、どちらの主張に心が傾くか、と自分で問い掛けてみると、それはレオナールの主張の方だった。屍術師ニバスがどういう人間であれ、少なくとも善良な人々に害を為す存在だ、ということは分かる。ならば、放っておくべきではないのではないか。
「僕は、ニバスの討伐へ向かおうと思います」
「そうか、では決まりだ。よろしく頼むよ」
「こちらこそ」
 レオナールが右手を差し出した。デニムは、その手を握り返した。

 ニバスが潜むクァドリガ砦は、「統一戦争」の際、最後までヴァレリアの覇権を争った、ドルガルア王と、ブリガンテス国王ロデリックの、最後の決戦場となった、古代の砦跡である。現在では老朽化が進み、補修もされていない。
 元来、砦とは防衛の為に築かれるものである。いくら傷んでいるとはいえ、攻撃する側には、非常に不利であることに変わりはない。
「いた!ヤツがニバスだ!」
 レオナールが指差した。その指先を追うと、兵士を従えた人物がいる。あれが屍術師ニバスか。
 クリザローの町からクァドリガ砦に向かう途中、デニムはレオナールとプレザンスから、ニバスについての情報を得ていた。
 ニバス・オブデロード。年齢、出身地は不明。アルモリカ地方の監督官でありながら、その実務はほとんど部下に委ね、自分の研究に没頭し、ほとんど人前に姿を現すことはなかった。何のためにネクロマンシーの研究をしているのかは分からないが、その実験体として『民族浄化』の犠牲となったウォルスタ人だけでなく、粛清された同胞の死者すら利用しているという。噂の域は出ないが、その中にはニバス自身の息子も含まれているともいう。ニバスが召喚するアンデッドは、その研究の一成果である……。
「ほほう、よくここまで来れましたね」
 高い砦の上からウォルスタの軍勢を眺め下ろし、取り様によっては徹底的に相手を愚弄している、とも取れる緊迫感のない声で、ニバスは言った。事前に聞いていた話から、もっと残忍冷酷な人間を想像していたデニムは、そのむしろのんびりとした態度に、拍子抜けするような気がした。いや、だからといって、それがニバスが悪人ではない、という証明にはならないが……。
「モルドバが倒されましたか。惜しいことをしました。彼女は私の研究の良き理解者だったのですがねぇ」
 ここで、ニバスが怒りを発して襲いかかってくるか、と誰もが思ったが、そうではなかった。あっさりと、ニバスは言ってのけたのだ。
「ま、いいでしょ。それもまた一興」
「何だ、こいつ!?」
 血の気の多いヴァイスですら、怒気を抜かれたような顔で呟いた。何と言うか、このニバスという男は、常人には理解し難い精神構造を持っているようだ。もっとも、そうでなければ、死者を冒涜する忌まわしい研究など続けてはいられまい。
 が、次に続く言葉には、ウォルスタ軍一同、仰天しなければならなかった。
「それにしても、この私を許してはいただけませんかねぇ」
 と、ニバスは言ったのである。それは、あまりにも厚顔無恥な要求だった。許せとは。部下をほとんど殺されたレオナールまでが、呆気に取られて口も開けない。ウォルスタ人達の白眼視をよそに、ニバスは一方的に喋り続けた。
「謝罪しろというなら、いくらでも謝りましょ。私はガルガスタン人ですが、この島の覇権などはどうでもいい。どちらが勝とうと知ったことではない。見逃してはくれませんか?でないと貴重な時間を使わねばならなくなる。私は非効率的なことが嫌いなのですよ」
 呆れた状態を通り越すと、デニムの胸に、沸沸と怒りがわいてきた。こんな自分勝手な人間の部下に配されたガルガスタン人が、敵とはいえ気の毒に思えてくる。また、こんな奴に、無理矢理墓場から蘇らされ、使役される死者は、本当に気の毒だった。許せない。デニムは叫んだ。
「ふざけるなッ!神をないがしろにし、死者を冒涜する邪悪な魔法使いめ」
 要するに、ニバスとは、自分の魔法研究以外のことには、何の興味も関心も持たない人間なのだ。だから、死者の眠りを妨げることにも、良心の痛みすら感じない。人の持つ、“感情”というものを磨耗させてしまった、それが屍術師ニバスという男なのだ。
「うむ、残念ですな。私の頭脳が導き出す真理を誤解されているようだ」
 そんなもの知りたくない、とウォルスタ人全員が思った。
「まあ、あなたはお若い。四半世紀も生きていらっしゃらない若者に理解しろというのが無理ですかね」
 ニバスはそう言いつつ、何か印のようなものを切った。
「いたしかたない…。漆黒の暗渠より悪鬼を招かん…。出でよッ、サモンダークネス!!」
 その呪文に導かれ、スケルトンとゴーストが姿を現した。
「さあ、私に見せてください。根拠のない可能性というものをッ!」
 デニム達も、ようやく我に返って、ニバスを攻撃するべく砦を登り始めた。僅かな足場を頼りに、苦労して登っていく人間達を尻目に、カノープスは翼を広げ、一気に砦上に辿り着く。
「デニム、上方に気を付けろよ!」
 と、言いながら、カノープスの槍がガルガスタン兵を貫いた。ガルガスタン兵の手から、弓と矢が落ちた。
 さすがにレオナールは的確に足場を選びながら、頭上から浴びせられる矢は、小剣を抜いてそれで切り払いつつ、器用に上に登っていく。登りきると、今度は小剣を長剣に持ち替え、見事な剣捌きで敵を倒す。
 神竜騎士団の全てが、カノープスやレオナールのように、上手く登攀できたわけではない。矢は降ってくるし、ニバスやゴーストがナイトメアの魔法を唱えて邪魔をする。それでも、助け合って、敵を倒し、戦力のほとんどが砦上に登った時には、ニバスの兵は大半は討ち取られ、アンデッドはプレザンスのイクソシズムによって、元の死の国へと送り返されていた。
「……ふむ」
 ニバスは小さく声を上げた。焦り一つ見せないのは、肝が太いのか、それとも単に鈍感なだけだろうか。
「やあッ!」
 味方に援護させ、デニムはニバスに斬りかかった。デニムの剣は、ニバスの左肩辺りを薄く斬った。仕留め損ねた、と思った瞬間、デニムは胸に鈍い衝撃を覚えた。
 見た目からは想像もつかぬ力で、ニバスが手にした杖でもって、デニムをしたたかに撃ったのだ。デニムはよろめき、カチュアが「デニム!」と悲鳴を上げた。
 が、デニムはよろめきはしたが、泳ぎそうな足を踏みとどまった。そして、剣を握りなおし、今度はしっかりと、袈裟懸けにニバスを斬り下げた。筈だった。
「!?」
 そのあまりもの手応えの軽さに、デニムが目を瞠るのと、低い、かさついたような笑い声は同時だった。
「…よくぞ、軟弱な精神を克服しました。素晴らしい成長だ…」
 教師が生徒の成長を誉めるような口ぶりに、デニムのみならず他の者もまた、不快の表情を隠そうとはしなかった。
「とはいえ、私はここで死ぬわけにはまいりません。こんな戦いよりも重要な研究があるのですから。フフ。デニムくんでしたね。記憶の片隅に記録しておきましょう。あなたが生きていたなら会えるはず。そのときには、もう少しマシな研究成果をお見せしますよ。では、またお会いしましょう」
 立て板に水、でまくしたてると、ニバスの手が動いた。宙に、得体の知れない文字を書き付けると、ニバスの姿は大カラスとなり、そのまま羽ばたいて、何処かへと飛び去っていった。
「に、逃げやがった!待てッ!!」
 ニバスのナイトメアで眠らされていたヴァイスは、地団太踏んで悔しがったが、翼持たぬ身では、みるみるうちに小さくなっていくニバスの姿を、見送るしかない。
「どうするデニム、追いかけるか?」
 こちらは有翼人のカノープスが訊く。
 デニムは首を横に振った。
「ガルガスタンのバルバトスは、アルモリカを奪われたニバスを許さないでしょう。後ろ盾を無くせば、ニバスの研究とやらもおおっぴらには出来ないはずです」
「……ま、あれだったら確かに、この後、大きな障害になることは無いだろうな。結局、見逃す羽目になっちまったわけだが」
 紅い髪を掻き、カノープスは空を見上げた。
 ちなみに、その後、ニバスの姿を見たものはいない。

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