Chapter-5「浄夜」

―7―

 勢い良く、地面に掌が叩きつけられる。
 カインは荒い息を何度もつきながらも、倒れこむのを耐えた。精神世界での幻影との静かな戦いは、純粋に精神力のみでの戦いである。そのため、戦いは著しく精神を磨耗させ、現実の肉体をも疲弊させるのだ。
 激しく上下する肩と流れ落ちる汗が、彼の疲労を物語っていた。もっとも、端麗な横顔に、汗で黒い髪が貼りついた様は、何とも言えずに異様に艶かしかったが。
 何度か大きく息を吸い、ようやっと呼吸を整えたカインは、長い睫毛を伝って眼に入りかけた汗を乱雑に拭い、立ち上がりながらふと思い至った。
(ひょっとしてレオンハルトの奴、自分でも分からないうちに幻術師に惑わされている、のか……?)
 レオンハルトは、理性ではアルテミシアの死を認めながらも、その一方で、認めたくないと心の奥底で足掻いている。その彼が、もし、アルテミシアの幻をそうとは知らずに目の当たりにしたとしたら?
 アルテミシア。
 レオンハルトの、永遠の恋人。
 彼女のことを、言葉少なに語るときだけは、レオンハルトは幸福だった過去の片鱗を零すように、微笑んでいた。
 願うことも望むことも諦めてしまった彼が、唯一、どうしても諦められなかった、捨てられなかった――愛。それを、その心を、利用して幻の世界に閉じ込めてしまったと?
「……ふざけるのも大概にしろよ」
 人の心の、最も奥深く大事なものをしまっておく場所を、土足で踏み躙るにも等しい幻術師のやり方に、カインは心底の軽蔑と怒りを感じ、低い声で吐き捨てた。
 幻術師の目的は、恐らくはレオンハルトを自分の手元に留めておくことなのだろう。そして、そのためには、闇に立ち尽くしていた彼が見つけた光――、そして、その光をもって幻を斬り払ってしまう剣となり得るだろうカインが、邪魔なのだ。そうでなければ、あそこまで、カインを精神世界で追い詰めようとする必要はあるまい。幻術師がレオンハルトをそうまでして求める、いや、彼自身を何もかも自分の手に奪い去りたい、という理由や意図は大体想像がつく。が、それにしても、その手段があまりにも汚すぎるではないか。
 大体、それでは、レオンハルト自身の心はどうなる? 己への憎悪と過去への悔恨、慙愧に満ち満ちながらも、折れずに歩き続けようとする、強すぎる魂は。
「絶対に、返してもらうからな。あいつの心を、現実の世界に」
 レオンハルトにとってカインが光であるならば、カインにとってのレオンハルトも、また同じだった。
 ただ1人、無償の信頼をくれる人。静かに真っ直ぐに強く、自分を見てくれる人。支えて支えられて、時には背中を預け、肩を並べ、共に歩いて行ける人。
 ありえない。あの、黒曜石を象嵌したような瞳が、輝きを失って、永遠に茫洋と幻の中を彷徨するなどと! レオンハルト本人の意思が、幻の中に逃避したいなどと考えるなら、彼はもうとっくに、この世で生きていくことを放棄しているだろうに。
 その手を、罪無き数多の人々の血で染めた、ブルグント帝国の“闇将軍(ダークジェネラル)”としての過去。魔剣“暗闇の剣(ダークブリンガー)”を手にし、魔界の貴族と化したグレゴール皇帝を倒した救世の4人の英雄の1人、“剣と魔法を意のままにする静かなる魔法戦士”としての過去。相反する二つの過去を持つレオンハルトは、英雄としての過去を持つ前に、冷酷で無慈悲な“闇将軍”として、処刑されることを望んだ。彼が、最後に抱いた望みらしきものは、しかし、果たされることは無かった。
 だからこそ、彼は英雄と讃えられることを厭い、自分が生きていることに懊悩しながらも、犯した罪を、敢えて生きて償おうと決めたのだ。生きて、憎悪も責めも苦悶も、全て受け止めようと。迷い、足掻き、もがきながらも。何でも器用にこなすくせに、不器用にしか生きられない、稀有なる異能者として生を受けた青年は。
 あの魂を、彼の意思なくして彼のものでなくして、いいわけがない。
(お前を、信じている。……だから、戻って来い、レオンハルト)
 彼の姿を求めて、カインは再び歩き始めた。  



 不意に、緑の葉が幾重にも重なり合う天蓋が途切れた。
 そこには、いつもは動物達が喉を潤していているのだろう清水を湛えた泉が湧き、その周囲を彩るように様々な種類の花がいくつも咲いていた。白や淡い紅、紫、黄、赤――その中には、小さな青い花、勿忘草もあった。夏の昼間の、明るすぎる光よりもはるかに穏やかな白夜の淡い淡い光が、優しく、辺りを包み込んでいる。
 さながら、それは、森の中の小さな楽園。
 ただ、美しいと、素直に感じられる、そんな光景だった。
 暫し、自然の織り成す妙なる風景に見入っていたカインは、はっと首を巡らせた。
 不意に、耳に細い歌声のようなものが届いてきたからだ。声が聞こえてきた、と思しき方向へと、視線を向ける。
(何だ……?)
 淡い、人影のようなものが見えた。  眼を凝らすと、次第に輪郭がはっきりしてくる。――薄く、向こう側の木立を透かして、泉の岸に座っている誰か、の姿。
 柔らかく、華奢な体つきは、文字通りの、「透き通る」白い肌を持つ、明らかに若い娘のものだった。そして、滝のように背中へと流れ落ちる金色の髪。その髪の間から覗く、長い耳。
(……エルフ?)
 一つの単語が、カインの脳裏に閃く。森に住処を定める、妖精の一族。西方大陸ではあまり見かけることは少ないが、森と湖が豊かなこの北方大陸では、エルフ族は決して御伽噺の登場人物ではなく、人間とは隣人同士のようなものなのだ、と、書物でも読んだことがある。ただし、西方大陸に多く住む、大地の妖精族である大らかなドワーフ等とは違い、人間とかなり価値観の異なるエルフは、決して友好的な隣人同士とはいえまい、とも。
 そのため、“暗黒戦争”の際、エルフ族のほとんどは帝国によって殺されてしまっている。――“闇将軍”の手によって。
 俺が彼女を殺した、と、レオンハルトが自分を責める理由。深く語られることの無かった事情。
(そういうことか)
 全てが合致し、カインは心中で頷く。それから、少々の文句を付け加えた。
(全くお前は……何もかも独りで背負い込みすぎなんだよ。今の俺は空っぽ同然なんだから、少しは重荷を分けれくれてもいいだろうと、前にも言ったのに)
 やがて、歌っていた娘は、自分が誰かの眼に映っているらしい、ということに気付いた。そして、それが黒い髪を持つ、美しすぎるほどに美しい、丈高い青年のものであると分かると、一瞬、顔色を変えたものの、すぐに頭を振った。
[まさか、私が見えているのかしら? それとも偶然……?]
「……見えている」
 独り言めいた呟きに、カインは返答した。その応えに、娘の目が、見開かれる。
 それは、青。
 貴石の青。澄んだ、青玉(サファイア)の青。
 勿忘草の青。私を忘れないで(フォーゲット・ミー・ノット)、と囁く花の色と同じ青。
 ――レオンハルトの愛した、いや、今も愛する、娘の瞳の色。
 とても、美しい娘だった。あの白皙の美青年の想い人に、実に相応しいと、ごく自然に思える。
 だが、半透明に体を透かす娘は、もはやこの世に生きる者ではないことは明白だった。
 それは、レオンハルトが密かに、心の奥底に抱き続けていた唯一つの願望が、完膚なきまでに打ち砕かれた瞬間だった。カインは僅かに眼を伏せた。長い睫毛が、彼の面上に、憂愁の蔭を落とした。
[声まで聞こえる上に、言葉も分かるのね]
 実は、娘は世界中の人間の共通語(コモン)ではなく、エルフ語を話していたのだが、カインはその言葉を至極当然といわんばかりに理解していた。それこそ、言語の違いなど知らぬ関係ない、といった風に。
「言葉?」
 だから、カインは意味が分からずに訝しげに眉を寄せた。何しろ彼には、娘の話す言葉が人間の言葉と違う、ということが判らなかったのだから。
[不思議な人ね、とても綺麗な人]
 娘はにこりと微笑んだ。そこに、小さな太陽が出現したかと思わせるほど、眩しく輝かしい笑顔だった。
 それから、アルテミシアはカインに向かって問いかけてきた。
[貴方は、何者なの?]
 幻影の問いと文言は同じだが、全く違う意図の、素直な疑問。
 さあ、俺は本当は一体誰なんだろうな、とはカインは、口には出さずに簡潔に、恐らく娘が知りたいであろう事実だけを述べた。
「俺はカイン。レオンハルトの友人だ、アルテミシア」
[あの人の……]
 刹那、娘は胸を突かれた表情になる。深く、心の奥底に沈んでいた宝箱が、浮かび上がってきて鍵が開き、大切なものを再び取り出すことが出来た――そんな風に。

 アルテミシアは立ち上がり、カインの前まで歩み寄ってきた。小柄な娘は、長身のカインの胸ほどまでしかの背丈しかない。伸び上がるようにして、アルテミシアはあまりにも整いすぎて端正な、カインの美貌を見つめる。
[貴方が、レオンハルトの友達なら、教えて欲しい。……レオンハルトは、彼に何があったの? あの時のレオンハルトは、何も見えてない眼をしてた。自分の意思を、どこかに置き去りにしてきたみたいだったわ。姿形はレオンハルトなのに、まるきり違う人に見えた。ううん、人というより、人形みたいだったわ。あれは……どうしてだったの?]
「レオンハルトは……」
 本来なら、俺が語るべき話ではないのだろうがと、カインは思った。カインも、レオンハルトから過去に何があったかを聞いただけに過ぎず、フリードリヒ達のようには、“暗黒戦争”において同じ時間を共有したことは無い。しかし、それでは。
 かつての恋人の身に何があったのか、ただ、知りたい、と思う娘の願いはきっと叶えられない。“闇将軍”が皇帝のマリオネットに過ぎなかったとはいえ、それは紛れも無く自分自身であり、操られていたから――それは言い訳でしかないと、レオンハルトは自分の苦しみを語りはしないだろうから。
「人形だった」
 だから、カインは口を開いた。アルテミシアのために、決して自己弁護をしないレオンハルトのために。
「レオンハルトは額に、額環(サークレット)をつけていただろう。それは魔法の術具で、あいつはブルグント皇帝グレゴールに、“制約(ギアス)”の呪いをかけられ――支配されていた。“闇将軍”と名づけられてな。あいつは凄まじいまでの異能者で、その秘められていた力を、無理矢理引きずり出されて、……大勢の命を、死なせることになった。レオンハルトは今も苦しんでいる。自分を蔑み、自分を苛み、自分を憎まずにいられないほど――何よりも、君のことで」
[私の……?]
 アルテミシアが、軽く眼を瞠る。そうだ、とカインは頷き、語を継いだ。
「あいつは、レオンハルトは、今もなお、君を愛している。だから、君を死なせた自分を、レオンハルトは許せないのさ」
[……レオンハルト……]
 小さく息を呑んだ娘は、涙を零しはしなかった。が、笑おうとして失敗した、そんなぎこちない口元を見て、カインはそれ以上はレオンハルトの名を出すことを止めた。代わりに、訊いた。
「君は何故、そんな姿でここに?」
[……ここは、私が彼と初めて会った場所なの]
 そう答え、アルテミシアは頭をめぐらして、周囲を見渡す。思い出を懐かしむ仕草で。
[死んだのに死にきれなくて、彼との思い出にしがみついた亡霊――それが、今の私。だから、私はここから離れられない]
 それから、ひどくうら寂しげな笑い方をした。全てに、何もかもに疲れた者の笑いだった。その笑い方は、美しい永遠の乙女であるエルフの娘にはこの上も無く似つかわしくなく、しかし、もはや肉体を失い、魂だけがこの世に留まる幽魂でしかない彼女には、この上も無く相応しいともいえた。
[私達エルフは、妖精。人間と精霊の中間のような存在なのよ。私達にとって、死とは肉体の束縛を放たれて、世界に対する積極的な自我を失い、この世を構成する精霊として自然の流れの中に帰っていく……そういうものなの。本来は。普通なら、こんな風に、死にきれない亡霊になるはずがない]
 カインは、自分に対して話している、というよりも、ただずっと秘めていた心の裡の吐露を、娘の述懐を黙って聞いていた。
 幸福だった少年と娘が、互いに手を取り合って笑いさざめく姿が、見えたような気がした。
 遠い過去の幻影。レオンハルトにとっても、アルテミシアにとっても、2人が生者と死者にと分かたれてしまった今となっては、永遠に未来に繋がることの無い過去。そして、既に死んでいる娘には、もはや過去しか存在しない。そう、とても大切な、過去しか。2人の時間は、もう決して二度と重なることは無いのだ。
[死んだ後の心が、こんなに正直だなんて、思いもしなかった。忘れて欲しいなんて偉そうに言って、自分から彼を捨てたくせに――割り切ったつもりだったのに、勝手にあの人に未練を残して。あの人を、何時までも苦しめて。嫌な、酷い女だわ……私。あの人には、レオンハルトには、ただ幸せでいて欲しかったのに……]
「……後悔、しているのか?」
[え?]
 唇を噛む娘に、不意に穏やかな声が降りかかった。
 光を受ける角度や強さによって様々な色彩を纏い輝く、不可思議な神秘をたゆたわせる黒紫色の双眸が浮かべているのは、微笑よりももっと優しい表情だった。
「君は、後悔しているのか? レオンハルトの前から姿を消したことを――いや、そもそもあいつに出会い、愛したことを?」
[――分からない]
 娘が首を振ると、音も無く金の髪が揺れる。それを追って、涙の粒が散った。
[分からないけど……私は、あの人を、不幸にしただけかもしれない]
「レオンハルトは、君の手を手放したこと以外は、君に出会ったことも、君を愛したことも、今もなお愛していることも、何一つ後悔していない。それだけは、間違いない。だから、間違ったなどと思わないでほしい。あいつのためにも……何よりも、君のためにも」
 強い光が、その声に宿っているように感じられたのは、気のせいだろうか。暗がりを打ち消すほどの強い光でありながら、決して烈しくはなく、静かに柔らかく全てを抱擁する安寧に満ちた、暖かな光に。


 アルテミシアは、カインの顔を凝視した。一見すれば、鋭利過ぎる抜き身の剣そのものの美貌だが、少し角度を変えて見れば、その纏う色を様々に変化させる不可思議な瞳と同じくして、全く違う面差しが見えてくる。穏やかで柔和で寛容な、まるで正反対の表情が。
 娘はほっと息を吐いた。少し、安心した。あの人は、優しい少年だった彼は、決して独りで苦しんではいないのだと。
[貴方は……レオンハルトを、とても理解してるのね]
「……レオンハルトと俺は、今、一緒に旅をしているからな。だから、あいつが、どうしようもなく馬鹿がつくくらい生真面目で、苦労性で、頑固で、とんでもなく強情っ張りで、自分を大事にすることは苦手なくせに、他のものはとても大事に出来るということも、よーく知ってる」
 今、この場にいない自らの旅の相棒に向かって、あまり褒めているとは思えない評を口にしつつ、カインは肩をすくめる。
[変わってないわね、あの人は。少しも]
 くすくすと、声を上げて娘は笑った。そのアルテミシアに、カインはひたりと黒紫色の眼差しを当てた。
「その俺がここにいるということは、もう一度、君とレオンハルトは、会えるということだ。そうしたら君は――」
 どうなるんだ? どうするんだ?
[帰る、ことが出来るわ、私]
 躊躇うように声にならなかった問いかけに、アルテミシアは、やはり笑ったままで答える。
[本来なら、こうやってここに留まっていること自体がおかしいんだもの。あの人に会えたら、終わりに出来る。ううん、終わりにする]
 そうか、とカインはただ頷いた。
 それが心からのアルテミシアの望みならば。レオンハルトは、それを受け入れられるだろう。彼女は、死者なのだと。自然の理の中に帰ることを。
 嘆きはするかもしれない。過去の己の所業を悔やむに違いない。それでも、前に進むことを決めた、レオンハルトならば、きっと。
「ただし、君達が再会するには、少し厄介な状況になっている。あいつは……どうも、幻影に取り込まれてしまったようだ」
[え!?]
 やや声を低めたカインの言葉に、アルテミシアは目を瞠った。
「あいつを捕まえた幻術師(イリュージョナー)は、どうやら、レオンハルトの中の君の記憶を利用している」
[そんな……]
「俺は、現実が見えなくなったあの石頭を、ぶん殴ってでも目を覚まさせるつもりだが、あいつを手中に収めた先方さんは、俺があいつに会うのが大層お気に召さないらしい。後を追うのを散々妨害されて、困っていたところだ。俺は元々は騎士で、そのため探索は不得手でな。それで、森に住まう妖精たる、君の力を貸してもらえるか?」
[いいわ、樹木の精霊(ドライアード)に訊いてみる。彼女達なら、森の中で知らないことなんてないから]
 首肯してアルテミシアは、何かを囁き、ついと右手を上げた。小鳥を指に止まらせようとするような仕草に呼応して、小さな緑色の体に透き通る翅を持つ乙女達が住処である木の中から現れる。
 森の乙女達と森の妖精の娘は言葉によらずに語り合い、エルフの娘が礼を言う。
[向こうの方角に、今は使う人もいない狩猟小屋があるの。そこに、人がいるって。けど、凄く嫌な気配が纏わりついてるって言ってるわ。……気をつけて]
「分かった、ありがとう」
 細い指が示す一点に視線をやり、カインはアルテミシアに軽く手を上げてから、走り出した。
 厳しい眼光に満ちた竜騎士は、目指す敵へと向かいながら口内で吐き捨てた。


 幻を使って手に入れた物など、所詮は幻に過ぎないだろうに。それに価値があるとでもいうのか?