Chapter-5「浄夜」

―6―

 随分と、周りを見ることもせずに、レオンハルトは森の中を走ったらしい。枝の折れ具合や、踏み乱された下生え、乱暴に掻き分けられた後のある藪……。
 レオンハルトの残して行った明確な痕跡を辿ることは、森の探索には不慣れなカインでも、さして難しいことではなかった。元々、カインの不可思議な黒紫色の瞳は、黒い闇に覆われた夜であっても、それを昼間よりも少し暗いと感じる程度で、さほど視界に影響を受けないのだ。ましてや、太陽が沈むことなく、そのために夜半でもほの明るさが漂う白夜では、なおのことだった。
 そうやって、暫く歩き続けていたカインの右腕に、突然、しゅるっと音を立てて、木の枝が絡みついてきた。さながら、うねる茶色の蛇であるかのように。
「!?」
 咄嗟に、カインは剣の鞘を払い、その枝を切り払おうとしたが、刃が触れる前にそれはふっと消え失せた。
(何?)
 驚く間もなく、燃え盛る轟音を立てつつ火球が三つ、宙から彼の身体を目掛けて落下してきた。危なげなく全てを避けながら、カインは見た。
 火球が草の上に落下した筈なのに、焦げた痕跡どころか燃えた様子すらない。先ほどの木の枝といい、奇妙なこれらの事象の原因を、カインはすぐに理解した。
(幻術、か)
 カイン自身は、魔法は全く使えない。しかし、彼の傍らには普段、“剣と魔法を意のままにする静かなる魔法戦士”と讃えられ、その呼び名通りにあらゆる魔法を使いこなすことの出来るレオンハルトがいた。また、自分達が相対せねばならぬ敵が、尋常ならざる強大な魔術師であるが故に、まず敵を知るために、折に触れて魔法に対する知識を蓄えるようにしてきたため、下手な魔術師よりもよほど、彼は博識であるといえた。

 幻術。
 現実には存在しない幻影を生み出すことで、現実と幻の境界を曖昧にし――時にはその壁を飛び越える魔法。それを行使し得る者を幻術師(イリュージョナー)という。
 「もう一つの真実を映し出す魔法」とも言われる幻術は、しかし一方では人を欺き惑わせ、術師の思うがままに翻弄させる危険な魔法として、死者を冒涜する死霊魔術(ネクロマンシー)のように禁忌、とまではいかないまでも、邪道の魔法であると研究自体を疎まれることが珍しくなかった。また、術師自身がしばしば境を見失って、夢現幻の区別が分からなくなり、魔法に取り込まれて自我が崩壊してしまうという問題を孕んでいる。そのため、幻術師は魔術師の中でも異端者扱いされ、レオンハルトのような、相反する技術を1人で行使し得る魔法戦士とは違う理由で、数少ない。
 そんな、数少ない幻術師が、この森の中、何処かから明確な敵意をカインに向けてきている。
 何故?
 左手に剣を握ったまま、カインは問いかけた。
「これ以上、俺に先へ進むなと言いたいのか?」
 言葉での返答は無論無く、その代わりといわんばかりに、カインの周囲を白く濃い霧が包み込んだ。
 方角の感覚すら無くなりそうな、真白き闇。カインは瞼を閉ざした。
 研ぎ澄まされた感覚が、幻の霧の流れてくる方向を探し出す。自然にはあり得ない、思念による歪みの集約点を探せばいいのだから、さほど苦労することではなかった。
 不可思議の神秘を湛えた、黒紫色の双眸が再び視界を結んだとき、そこには霧は存在しなかった。
 カインは、再び歩き出した。
 と、今度は、その足元目掛けて雷霆が迸ってきた。一撃、二撃。カインが完璧に避けきることを承知の上で、幻の落雷を操りカインの行く手を阻もうとする術者の意図は、あからさますぎるほどあからさまに、レオンハルトの居場所からカインを遠ざけること、それ以外に考えられなかった。
 いかに幻といえど、魔力により仮の実体を与えられた雷鳴は、術が解き消えるまでは本物と同じだ。自分を追い立てる幻影の雷を避けながら、カインは口の中で小さく舌打ちした。
 どうやら、レオンハルトの後をそのまま追跡することは、かなり難しいことになったようだった。レオンハルトがつけた道筋は、もはや何処にあるか、簡単には見つかりそうにない。ようやく雷撃がやんだ頃には、カインは、ひたすらに緑濃い森の中、どの方角へ向かうべきか、暫し考えることになった。が、その時間はさして長くなかった。
 とりあえずは剣を鞘に納め、カインはあてずっぽうに歩き出した。どういうわけか、幻術師にとっては、彼がレオンハルトに会うことが、どうやら大層都合が悪いようなので、カインが正しい方向に向かっていると、何らかの妨害を仕掛けてくるだろう、と予測してのことである。
 小刻みに、何度か歩く方向を変えながら、カインは、ふと立ち止まった。  


「……?」
 カインは、奇妙な“場所”に足を踏み入れたことを知った。白夜の森の中にいる筈なのに、そこに広がっているのは建造物の建ち並ぶ、街の中の光景だった。
 時折、陽炎よりも頼りなく震える街並みや歩く人の服装は、今のカインには見慣れない、だが、全く見覚えの無いものではなかった。
 北方大陸の風景を見慣れたカインの眼には、淡い色の髪が多く行き交う街は、「異国風の」と形容しても良かったが、何処か郷愁とも言うべき既視感を伴っていた。そんな感情を彼に与える街とは、考えられる限り、一つしかない。
(これは、西方大陸……ヴィエナ、か?)
 その中で、不意に、カインの視線が、1人の姿の上で止まった。いや、止まったというよりも、むしろ釘付けになったといっていい。それくらいの強い衝撃を、カインは受けたのだ。
 ゆらゆらと揺れる、水彩画にも似た周囲とは違い、はっきりと浮かび上がる人影。
 少女というほど幼くもなく、女性というほど成熟もしていない、微妙な年頃の娘。愛らしく可憐で、ヘイゼルの長い髪を背に垂らし、瑞々しい萌黄色の瞳を持っている。顔の細かい造作は――分からない。全ては、印象、として彼の中に投げ込まれたのみだった。
 カインは気付いた。
 今まで、何度か自分の脳裏を掠めて行った、少女の面影。それは、この娘のものではなかったか、と。
「……君は……」
 娘が、ゆっくりとカインに向かって微笑みかけてきた。
 何かが、何かの感情が、息苦しいほどに胸奥から全身に広がろうとしていた。
 その感情を、娘を愛しいと――世間一般の男女の間の恋愛感情で種別するのならば、それは何かが違うと言わざるを得なかった。これは多分、兄が妹を思う感情に、一番似ているのだろう。レオンハルトが、ユリアナの幸福を願うように。
 大切だった。彼女が、とても大切だった。この世界の誰よりも、幸せになって欲しかった。彼女が幸せになれるのなら、自分がその代わりに全ての不幸を負っても構わないくらい、大切で仕方なかった。泣き顔なんて、見たくなかった。いつも、笑っていて欲しかった。それなのに、俺は……。
 失われた過去の記憶が、遠く、不確かなくせに、確実な痛みを呼び起こす。
 喉元までせり上がってきたのは、娘の名だったのか。
「……、…………」
 しかし、それは声にならず、カインは、形のいい唇を微かに開いたまま、ただ娘を見つめるしかなかった。
「ねえ」
 あどけなさを残した声音が、カインに呼びかけた。
「ここにいれば、いいのよ」
 そう言った娘の姿は、出し抜けにぶれ、輪郭を変えた。小柄な娘から、白銀の鎧を纏った男性のものへと。銀色の髪、ほとんど黄金に近い琥珀色の双眼。気優しげな、それでいて、一本筋の通った強さを感じさせる青年は、やはり、カインに笑いかける。この上ない親しみを込めて。
「君を憎む者は、ここにはいない」
 青年は、カインに手を差し伸べた。剣を握り慣れたらしい男の手は、柔らかな女のものとなった。金髪を結い上げた、瑠璃色の眸の美しい女性は、司祭服らしい白い長衣(ローブ)を着ている。飾り気のないその服の胸元には、麦と槍を意匠化したシンボルが揺れていた。
「もう、傷つくことは無いのよ。貴方は、もう許されているのだから」
 いかにも、大地母神の司祭らしい慈悲の言葉を、女性が発する。
 3人の輪郭はくるくると交錯し、カインに繰り返し囁きかける。「ここにいろ」と。甘い甘い誘いを、止めることなく。
 誰かの指が、カインの頬に触れた。
「苦しむ必要はない」

「……そうやって、甘美な幻想に踊らされ、全てを委ねてしまえというのか」
 突如として、カインは眉を跳ね上げた。その怒れる姿は、鮮やかな生彩に満ちて、類稀なる彼の美しさを更に引き立てていた。
 叫ぶと同時に、腰の剣を抜き放つ。
「自分に都合のいい享楽だけを貪り、都合の悪い痛みや苦しみ、悲しみからただ眼を背ける、そんな状態を生きていると言えるのか!! それは単なる現実逃避でしかない! 心を幻想の世界に放置したまま、生きながらにして朽ちろと!? 誰が、そんなものを受け容れられるか!!」
 細い手の中で、剣が白熱する。生命の女神が力秘めし剣は、瞬く間に真なる神槍の姿を取り戻した。神の力の輝きに幻も畏れをなしたのか、彼を取り巻く幻の光景が揺らいだ。
「消え失せろ、無意味な幻影よ。惑わそうとする相手を考えるんだな!」
 言いざま、カインは神槍を横へ一閃させた。光を発した神槍の穂先は、まるで紙に描かれた絵を壁から引き剥がすように、幻の街を切り裂き、その向こうに真物の光景――白夜の森――を回復させた。
 いや、違った。

 カインの眼前に広がっていたのは、一面の荒野だった。唯1人、カイン以外は何者も存在しない、草木一本すら生えていない、罅割れ、荒れ果てた大地。
 そこには、山がそびえ立っていた。死臭に満ちた、何人もの数え切れない屍で築かれた山は、まるで捧げ物のようにも見えた。
 それはあたかも、禍つ破壊神へ――魔王へと。
 神槍を手にしたままのカインは、文字通りの遺体の山を見上げた。そして、規則正しい足音に振り向いた。
 乾いた土を踏んで、何者かがカインに近づいてくる。
 眼を凝らすまでも無い、長身の人影は、カインと瓜二つの容貌を持っていた。
 大地母神ルンナの神遺物(レリクス)である、“魔封じの槍(エビルスレイヤー)”の穂先が、ぎりぎり届くか届かないか、の距離で、もう1人のカインは立ち止まり、無機質な瞳をカインに向けた。
 鏡像の如く、相対する美貌。しかし、鏡に映した、というには、似すぎているが故に、似ていなかった。
 幻は所詮幻というべきか、カインの表面の美しさだけをなぞっただけの幻影は、本物のカインの恐ろしいほどの秀麗さには到底及ばない、安っぽい紙に描かれた似姿でしかなかった。
「あれは全て、お前が殺した」
 もう1人のカインは、そう言って、カインに指を突きつけた。いや、カインの背後の、老若男女、様々の人間の死体で築かれた山へと。断罪するにしては、それに相応しい熱を持たない、ただの声の連なりでしかない言葉と共に。
「お前が、皆、殺したんだ」
 それなのに、断罪の言葉は、カインの耳の中で、わんわんと響き渡った。
 殺した。
 ――大勢、殺した。
 たくさんの、数え切れない人を、俺は、この手で殺した!!
 知っている。俺は、覚えていなくても、俺の罪を知っている。心地よい幻影の中に俺を留め置くことに失敗したから、俺の過去の罪の記憶を抉り起こし、精神を粉々に打ち砕こうと?
 カインは、槍を握る手に力を込めた。自分の心を守るかのように、唇を固く引き結び、鋭い眼で、幻術師の生み出した、もう1人の自分を見つめた。
「それを為したお前は、誰だ」
「な、に……?」
 唐突に、幻影は問うてきた。それは、カインが喪失した過去にあって、自分でも最も答えを知りたくて、最も答えを知りたくない問いだった。
「お前は、何者だ。お前という存在は、何だ」
 俺は……人間では、ないのではないだろうかと。
「その正体は、何だ」
 動揺しなかった、といえば、嘘になる。
 常日頃、出来るだけ意識しないようにしている、己に対しての、根源的な疑問。普段は奥深いところにわだかまり、沈殿しているが、何かの弾みに表に浮き出て泡立つ、疑問。それを、正面きって突きつけられてきたのだから。
 これが。この幻術師の心理攻撃に呑み込まれてしまったら、俺は負ける。負けてしまったら、どうなる? 幻術師に心を奪われ、精神を壊され、生ける屍も同様になるのか?
 ……冗談じゃない!
 こんな動揺よりも、もっと心を強く揺さぶるものが、今のカインにはあった。
『もしもお前が人間でなかったら、お前は何か変わるのか?』
 冬の月光よりも静謐に澄んだ黒曜石の瞳で真っ直ぐにカインを見詰め、ありのままのカインを信じてくれる人がいる。それだけで充分だ。
『俺はお前が誰でも、変わるつもりも代えるつもりもない。俺にとっては、お前はカイン、それ以外の何者でもない』
 信じられている。信じている。これ以上の強い光があるだろうか。
「正体が何であろうが、俺は俺だ! それ以外の何者でもない、それ以上でもそれ以下でもな!!」
 カインは叫んだ。魂全体をかけるように。それに呼応したのか、神槍が爆発的な光を発した。