Chapter-5「浄夜」

―8―

 やっと、手に入れた。ずっと、夢にまで見ていた、とても美しい人。
 もう、手放しはしない。この人を手に入れるためだけに、ずっと待っていたのだから。
 だから、もう他の誰のものなどではない。この人は、私のもの。私だけのもの。

「――理を喪ったのみならず、理に逆らいし亡霊(ファントム)風情が。その妄執にだけは、感心するよ」
 扉の向こうから、僅かな感情の欠片すらも零さない、冷たい声が流れてくる。その声は磨きぬかれた利剣にも似て、声音だけでも容易く人を斬れそうだった。それでも女は、腕の中に黒い髪の青年を抱いたまま、嫣然と微笑んだ。
 実際には、もはやこの世には所属せず、現実の肉体が存在しない女には、怜悧な長身に触れることは出来ないのだが。
 小屋の扉が音もなく開かれる。床の上に落ちた影は、一つしかない。瞬き一つすらすることなく、ただ大理石の彫像のように座ったの男の分だけだった。純白のドレスを着込んだ、一見優雅な美女は、屍衣を纏っているように見えた。
 凍てついた黒紫色の双眸が、無表情にその様を眺めやった。
「“静かなる魔法戦士”……(たと)うべき英雄の称号も、今は全く洒落にならんな。おい、レオンハルト、起きろコラ。普段はちょっとした物音でもすぐ目を覚ますくせに」
 そうやって、人が悪夢に魘されているのに気付いて、闇から引き上げようと手を伸べてくるくせに。
 お前は、何をしているんだ。妹達が今のお前を見たら、間違いなく悲しむぞ。
「まあ、ここまで来られたのね。あまり来て欲しくなかったけど」
 生身の人間とそっくりの質量を持った、亡霊の女の声が言う。熱すら帯びているように聞こえるのは、自分自身が既に幻に取り込まれて、死んだ身を生きていると勘違いしているから、だ。
 青年の白い頬に、女の指が当てられる。常の光を忘れた黒曜石の瞳は、眼前の女を――いや、幻術師(イリュージョナー)の生み出した幻影を、茫洋と見つめていた。その視線の先では、誰よりも愛しい娘が微笑んでいるのが見えているのか、白皙の青年は瞬きもせずに、ひたすらに鈍い双眸を動かさなかった。
 彼が“制約(ギアス)”の呪いに縛られていた時でさえ、きっとこれほどまでに己を見失いはしなかった筈である。全く、愛とはどんな呪縛よりも強力だ。美しく、表裏一体で醜く、性質(たち)が悪い。死してなお、同じ男を想ってこの世に留まり続けた2人の女は、彼に会いたいという願いは同一だろうに、どうしてこんなに在り様が異なるのだろう。妖精と人間の違いか。
 いや、違うのはその思いの在り様だ。妖精の娘は男の幸せを願い、人間の女は自分の幸せを願った。それはとりもなおさず、かつて選ばれた者と、選ばれなかった者の違いだった。
(まったく、罪作りな奴め……けどな)
 過去と現在。死者と生者。幻と現実。だが、幻想があまりにも甘美で、現実がどれほど残酷なものであったとしても。
 生きている限りは、生者は、選ばなくてはならないのだ。幻の中ではなく、現実に生きることを。今、生きているということを。  



 静か過ぎるほど静かに、カインは、ゆっくりと中の男女へと歩み寄り、距離を測ることもしない無造作さで立ち止まった。
「返してもらおう」
「そう言うと思ってた。この人が貴方のほうがいいと言うのなら、そうすればいいわ。ねえ、レオンハルト?」
 同意を求められたレオンハルトは頷きもしなかったが、反発もしなかった。カインは、形のいい眉を顰めた。レオンハルトの(かたち)だけが必要なのなら、別に本人でなくても良かろうに。
「理解できん」
 軽く頭を振り、胸前で腕を組んだカインが、女を見下ろす様は傲然として王者めいていた。
「自分を見ていない人間を手元に置いて、それで面白いのか」
「私を見ているわ。私が作った幻術の中にいるのだから。だから、ずっと一緒にいるの。ずっと、この先一緒に」
「そんな口も利かない、笑いもしない木偶(でく)が必要か、死人。死者が生者に執着するのは勝手だが、生者からすれば迷惑なだけだ。こんな状態、生きている屍と同じだろうが」
「私には、この人が必要。それだけよ。それに私は死んでないわ。勝手に殺さないで頂戴」
「度し難い」
 カインは、大仰な溜息をついた。
 幻の中を漂う死者の魂は、生きている間に果たされた得なかった望み――レオンハルトを手に入れる、それだけに固執している。(いびつ)な望みは正されることもなく、歪んだままに硬直しきっている。
 この先という未来は、生きる者にしか存在しないことが、もはやこの女には理解できないのだ。自分は生きている、と信じ込んでいるから。
「――幻こそが真実、か。レオンハルト、お前は? 幻のアルテミシアの方が、本物のアルテミシアよりも良いのか? そんなに、彼女の死を信じたくなかったのか?」
 低い低い、嘆息交じりにその呟かれた声は、ひどく悲しげだった。
「ねえ、貴方。この人が大事に思ってる人だから、せっかく心地良い幻の中に留めてあげようと思ったのに。何で拒絶するのかしら。だから、もっと苦しい目に遭ったでしょうに」
「あれが心地良いだと? 俺には不快で仕方なかったがな。お前のそのやり口が」
 鼻を軽く鳴らし、カインは吐き捨てた。
 幻術に囚われたのは、レオンハルトが弱いせいではないだろう。誰よりも愛した、永遠に失われた者が懇願の言葉を口にしたとき、それを拒み得る人間がいるだろうか? レオンハルトを責めるつもりは、カインには無い。彼が思い出の虜囚とならなかったのは、恐らくはその過去の記憶の欠損のおかげ、と言えなくもなかろう。曖昧に揺らぐだけの幻影は、確かに自分が過去に大切にしていた人間だったのだろう、という朧ろな感情を思い起こさせこそすれど、それだけだった。
 カインが最大限に不快に思ったのは、大切な思い出を利用して、抗えない相手をすっかり自分の意のままにする、その術だった。ましてや、己に対する絶望、憎悪、諦観、後悔、侮蔑――そんなもので埋め尽くされたレオンハルトの裡に残された、至極ささやかな、そして美しく優しい、とても貴重な思い出を。
「まあいい。これ以上話したところで、どうせ平行線だ。亡者は亡者に帰れ。生者は生者に帰せ」
 しなやかな指が、右腰に佩いた剣の柄にかかった。女が、僅かにたじろいだ。眼前の、不可思議な黒紫色の瞳を持つ、目も眩むほどに美しすぎる青年が、敵と見做した相手に対して、例えそれが女子供であっても微塵も容赦しない精神(こころ)を持つことが、嫌でも分かるからだ。
「私を殺すの?」
「もうとっくに死んでいるだろう、死人。認めろ、そして諦めろ」
「レオンハルト!」
 豪奢な濃いブルネットの巻髪を揺らして、女は身(じろ)ぎもしない青年にすがりつく。
「レオンハルト、私を守って。私の敵は、貴方の敵よね?」
 今まで、ぴくりとも反応しなかった肩が、微かに揺らいだ。次いで、ゆらりと長身が立ち上がる。カインは、ほんの少し、眼を細めた。
「……レオンハルト、お前は」
「まだ、完全じゃないのよ。どうしても、この人の中では貴方の存在が引っかかっている。だから、自分でそれを断ち切らせてあげるわ、レオンハルト」
 意思の存在しない顔とは、こんなに薄っぺらいものなのか、と、自分に向けられたレオンハルトの顔を見て、カインは奇妙な感心を抱いた。造形が変わったわけでもないのに、いつものレオンハルトと違って、彼を綺麗な顔立ちだとは微塵も思えなかった。
 芝居がかった仕草で、女が舞台女優であるかのように白いドレスの裾を翻した。
「ねえ、貴方はこの人を殺せる? 出来るかしら? 出来ないでしょう? けれど、この人は私を守って、貴方を殺せるのよ――さあ!」
 ギイン、と鋼の打ち合う音。いつ抜かれたか分からぬ魔剣は、やはりいつ抜かれたか分からぬ神槍の姿を隠した剣とぶつかり合った。魔を狩る武器同士が互いにその刃を鳴らし合い、そして双方ともに跳ね上がり、剣を手にした両者は共に己の立ち位置を変えた。
「何時まで寝惚けているつもりだ」
 続けざまに打ち込まれてきた攻撃を、全て受け流しながらカインは叫んだ。
「お前がアルテミシアに抱いた愛とは、この程度の――幻影に踊らされる程度なのかレオンハルト!! どんなによく出来ていようと、幻に幻以上の価値があるのか! それとも何か、お前が愛したのは、眼に見える彼女の姿形だけなのか!!」
 剣光が舞う、飛ぶ。斬り、薙ぎ、払う。その度に、魔剣は弾かれる。間断なく、カインの周辺に美しいとすら言える音と、宝石のような火花が散り続ける。魔剣の刃は弾かれる度に方向を変えて、眼前の「敵」へと襲い掛かるが、正に文字通りの鉄壁に阻まれ、髪一筋すら切り飛ばすことも出来ない。
 更に一合を重ね、ぎりりと2本の剣が噛み合う。鍔迫り合いの形のまま、カインは真正面からレオンハルトの両瞳を見据えた。
 曇りきった黒曜石は、カインを見ていないのは明白だった。それでも、カインはレオンハルトを取り込んだ幻影を少しでも穿つために、呼びかけを止めなかった。
 幻術師を消してしまえば、術は勝手に解けるだろう。だが、レオンハルトが自力で戻ってこないことには、カインにとっては意味が無かった。自力で戻ってくるということは――レオンハルト自身が幻は幻でしかないと認め、アルテミシアの死を紛れも無い事実だと、理性だけでなく、感情でも理解することだ。
 過去を過去として受け入れた上で、前に進んでいくということはそういうことではないか。
「レオンハルト!」
 カインが力を込めて剣を打ち払うと、そのあまりの衝撃のためにレオンハルトはよろめいた。
「本物のアルテミシアの、お前に会いたいという、最期の願いも叶えるつもりもないのか!!」
 その言葉に、レオンハルトが僅かに眉を動かした。魔剣の切尖が下がる。
 と、見る間に、開かれた右手から、風の刃が幾つも飛び出した。
 攻撃魔法としては、ごく初級のものだが、それでも呪文の詠唱も印を結ぶこともなく、魔法の力を放出できるのは、異能者ならではか。
「反則だ。その様で魔法が使えるかお前」
 咄嗟にカインは、右腕の籠手をかざして顔を、というより目を庇った。しかし、鋭い風の刃は、カインの身につける籠手を切り裂くどころか、傷つけることすらも出来なかった。
 それでも体勢が崩れたと見たか、容赦なく頭部目掛けて振り下ろされてきた剣を、カインは難なく自分の剣の鍔元で防いだ。それは、奇跡でも何でもなく、純粋な腕の冴えだ。
 手元に戻した右手を添え、剣の平を翻すようにして、カインはレオンハルトの剣を跳ね上げた。その反動を利用して、大きく後ろへと跳び退る。
「……仕方ないな」
 カインは軽く舌打ちした。そして、ぐいと剣を持つ手を伸ばす。すると、白き光を放ちつつ神槍“魔封じの槍(エビルスレイヤー)”が、仮の衣を脱ぎ捨てて、真の姿を顕現する。
 生命を司る女神の槍の清冽で暖かな光に、亡者である女が明らかに動揺した。強力な浄化の力を持つ白い光は、だが、持ち主の意を反映して、亡霊を吹き飛ばしはしなかった。
 勢い良く、カインは光の残滓を纏いつかせた神槍の柄を旋回させた。穂先の刃に触れた火球が切り裂かれる。間髪を入れず、長柄の武器である槍の領域を切り崩さんと、加えられてくる剣による連撃。
 だが、大地母神の神槍を手にする華奢な青年は、神遺物(レリクス)に選ばれし者だった。レオンハルトの攻撃を捌ききりながら、剣を手にしていた時と一転して、カインは攻勢に出た。
 迸る穂先は変幻自在にして、レオンハルトを防戦一方に追い込み、彼を取り囲む幻を貫こうとしているようにも見えた。
「現実のアルテミシアは死んだ、それはもはや定まりきった事実だ。覆すことは出来ない。だがレオンハルト、もうそれは分かっていたことだろう。これ以上否定して、自分をかえって追い詰めるな」
「無駄よ!」
 死んだ幻術師の女が、カインの声を遮るように叫んだ。レオンハルトを幻術の中に閉じ込めた本人には、術が揺らいでいると感じるのか、柳眉を逆立てていた。


「邪魔なのよ、貴方。その武器といい……。貴方がいなければ、この人は完全に私のものになるのに!」
 女の叫びを合図にしたかのように、状況に応じて、片手でも両手でも扱える片手半剣(ハンド・アンド・ア・ハーフ・ソード)である魔剣“暗黒の剣(ダークブリンガー)”の柄が、両手で握られる。それは、正に“必殺の一撃”の構えだった。
 レオンハルトが地を蹴った。
 速さ、強さ、重さ、正確さ、踏み込む間合い、何処をとっても完璧な斬撃。
「こッ……の、大馬鹿野郎様がぁぁぁ!!」
 しかし。
 怒声と共に、こちらも正に神速ともいえる突きが繰り出されて、完璧な斬撃は、それ以上の完璧さをもって中空で迎撃された。

 ィィィィィン……。
 ひどく澄んだ、甲高い残響音。
 レオンハルトを初めての主としてから、一度鞘走れればその手から離れたことのない魔剣は、弾き飛ばされて深々と地面に突き刺さっていた。
 さすがに両腕を震撼せしめられ、レオンハルトの全ての動きが止まった。



 その瞬間、何が起きたのか、正しくその場で理解していたのは、それを為したカインだけだったろう。
 カインは、両手に握られていた神槍を剣の姿に変えたかと思うと、淀みなく右手に剣の柄を移し、空いた利き手を拳の形にして、叩き込んだ。
 それは、レオンハルトの頬を見事にまでとらえ、カインは頑固な“相棒”を殴り倒していた。
「お前の一番大切な思い出だろう! それをいいように利用されても、彼女が見えればそれでもいいっていうのか!? いい加減に、現実を、真実を見ろ!!」
 地面の上に倒れ伏したレオンハルトに、気を失った者に活を入れる響きを持った声が降りかかる。
「泣き言なんざ、俺が後でいくらでも聞いてやる。だから……帰って来い、レオンハルト」