不意に、レオンハルトは何かに気付いた、とでもいうように、アルテミシアを強く抱擁していた腕を、解いた。そして、壊れやすい大切なものを扱う手つきで、エルフの娘の体をそっと押し離して、自分は一歩を退いた。
「レオンハルト?」
訝しげに、アルテミシアが高い位置にあるレオンハルトの白い麗貌を見上げた。小さく首を傾げると、金の雨を降らせる髪がさらさらと揺れた。
「……君を、そんな恐ろしい、辛い目に遭わせたのは、……俺だ。見ただろう? アルテミシア」
黒曜石の双眸が、闇よりも昏く、光を失って沈み込む。
アルテミシアの歌声を耳にし、そして、彼女の姿を目にした瞬間、全身を熱情に支配されて、ただ、その心のままだけに愛しすぎるエルフの娘を抱きしめたが。
「俺が、君の故郷を、同胞を、全て、何もかも奪い去った……。どれだけ取り繕ってみたところで、俺がブルグント帝国の“
「違うわ、そんなことない」
しかし、アルテミシアは、レオンハルトが驚くほど毅然と強く、彼の言葉を否定してみせた。貴石によく似た、青すぎるほどに青い瞳が、真正面からレオンハルトを見つめていた。
記憶の中の彼女と、寸分も変わらない、真っ直ぐに透き通る眼差しで。ああ、彼女は悠久の時を生きる妖精族の娘、常しえの乙女なのだと、今更ながらにレオンハルトは思った。自分は変わってしまった。昔と同じ顔で笑うことは、もう出来ない。
そんな彼の内心を見透かしたかの如く、アルテミシアは語を重ねた。
「貴方の心は、変わってしまったの? 全然、別の人間になってしまったの? 違うでしょ? だったら、貴方は、レオンハルトのままよ。過去が覆らないっていうなら、それより前のこともそうじゃない?」
「だが……俺の罪は、あまりにも重すぎる」
レオンハルト自身が許せない、彼の過去の悔恨を聞いたアルテミシアは困ったように微笑むと、その細い指をレオンハルトの長い指に絡めた。それから、アルテミシアは彼の、篭手を嵌めた手を両の掌で包み指先にそっと唇を落としてから、自分の頬へと当てた。金属の冷たさがそのままレオンハルトの体温で、青年の冷え切った手を自らの体温でもって暖めようとする風に。
「レオンハルト。私の気持ちは、聞いてくれないの?」
「……アルテミシア?」
「私は、貴方が好き。ずっと、変わらずに貴方を愛してるのよ、レオンハルト」
愛している。その言葉が、レオンハルトの胸奥に響き渡る。
アルテミシア、俺の永遠の恋人。
忘れることなんて出来なかった。もう一度、会いたいと願わずにいられなかった。自分の傍らに君の存在しない幸せなんて、ありえないと思っていた。君が、死んでしまったなどと本当は認めたくなかった。
けれど、全ては許されることではなかった。数多の、夥しい血に
ああ――それでも。
「だからお願い。ちゃんと言って。貴方の、本当の気持ちを。ちゃんと言葉にして、私に聞かせて」
失ってしまったと、もう二度と手に触れることはないと、諦めつつも諦め切れなかった愛が、今、レオンハルトの目の前にある。太陽の光を黄金に紡いだ髪も、「私を忘れないで」と囁く花とそっくりの色を持ち最上級の
忘れられぬ過去の罪、忘れ得ぬ愛する人。
ゆっくりと息を吸ったレオンハルトは、一息に言った。心の中で繰り返すだけだった思いを、はっきり声に乗せて。
「――愛している。愛している、君を。君だけを、ずっと。アルテミシア」
青が、潤み、滲んだ。アルテミシアの眼から溢れ出た涙が、レオンハルトの手を温かく濡らした。
「愛している」
その言葉の意味をかみ締めるように、レオンハルトは再び言った。
娘の背を、抱き寄せる。この森でアルテミシアと同じ時を過ごしていた少年の頃よりも、ずっと広くなったレオンハルトの胸に、か細いほどに華奢な体はすっぽりと包み込まれた。
「……このまま、離したくない」
偽らざる心情が、レオンハルトの唇から自然に零れ出ると、アルテミシアはわっと、堰を切ったよりも激しく泣き声を上げた。
「レオンハルト……、……レオン……ハル、ト……! 会いたかった、会いたかったのよ……!」
怖かったろう、寂しかったろう。あまりにも素直な感情の吐露が、レオンハルトの心臓を貫きそうだった。
「俺はここにいるよ……君の傍に」
流れる金色の髪を撫で、嗚咽に震えながらすがりつく肩をかき抱く。
「愛している、アルテミシア」
渇ききった旅人が飢えを満たす、それに似た心地で、何度もレオンハルトは繰り返した。
何という幸せな言葉なのだろう。この言葉を口にするだけで、心が満たされるなんて――そんな感情が、自分にあったことなど忘れていた。
愛している。
もはやその想いだけが、レオンハルトの全てを狂おしいほどに占領していた。
太陽が、地平に沈もうとする姿勢のまま、そこに吊り下げられたように光を空に投げかけ続けている。時刻的には、もうとっくに宵闇がひたひたと、夕暮れの残光を駆逐すべく迫ってきていてもおかしくない。だが、天は闇に支配されることを頑なに拒否し、明るさを失わなかった。
これは白夜というのだと、レオンハルトが言っていた。北方大陸の夏に見られる特有の現象だから、記憶があろうと無かろうと、西方大陸で生まれ育ったカインが、実際に体験するのは初めてだった。
沈まない太陽。暗くならない夜。
不思議な――時間が止まったかとでも思わせられる奇妙な感覚が、この大陸での何度目かの白い夜を迎えてもなお、カインの体にぎこちなくわだかまり、彼は小さな息を吐いた。
フリードリヒ達は、その日のうちに王都ロートリンゲンへと帰っていった。近衛騎士隊長であるフリードリヒは、やはりあまり長い期間は王都を離れていられないのだろう。
良かったら一緒に乗っていくか。そう誘われたが、カインは首を振った。そして、気持ちはありがたいが、俺はこの脚で歩いていきたい、と答えた。
『そうか。でも、また会えたらいいな』
実に気持ちのいい笑顔で、フリードリヒは手を振って、別れの挨拶をした。ユリアナもカールもカインに手を振り、滅びた故郷を去っていった。
彼等は知らないままだ。この村の何処かに、会いたいと思っている人がいることを。
(……それにしても、何だこの感じは)
カインは、形のいい眉を微かに顰めた。
墓地と化した村の中に、レオンハルトの姿が見当たらなかったことは別にいい。彼は勘がいいし、魔法戦士なのだから、自分の姿を隠したり見られたりしない術など、幾つでも方法があるだろうから。
だが、何かがおかしい。何かが変だ。
邪悪な感じがするというわけではない。しかし、心身が慣れない明るい夜のせいだけではない、紛れも無い奇妙な違和感が、しつこくカインにまつわりついていた。単純に夏だから、というには、髪を撫でていく風の妙な生暖かさが、気に入らない。
(空気が……捩れている、というか、歪んでいる、というか……?)
思案する風に、細い顎にカインが指を当てていた時間は、長くは無かった。
カインが足を向けたのは、ユリアナが教えてくれた場所だった。
『ここに住んでいたの。兄と、両親と』
ベルンシュタイン、と刻まれた墓碑の前。幸せだった頃のレオンハルトの思い出が、埋葬された墓所。
何となく、レオンハルトがここに来ていそうな気がしたのだが、怜悧な長身は影すらも見当たらなかった。
「レオンハルト?」
声に出して、カインは呼びかけてみた。やはり返答の声は無かった。
何処へ行ったのだろう、ユリアナ達は既に帰ったのだから、もう姿を隠す必要は無いんだがと、視線を巡らせたカインは、あることに気付いた。
森と村とを繋ぐ出入り口に垂れ下がった、真新しい傷口を見せる折れたばかりの枝。近づいてみれば、ちょうど、レオンハルトの肩の高さぐらいの位置だった。
(何かに驚いて……慌てて森に踏み込んだ?)
……何に?
何が、滅多なことでは動じないレオンハルトを驚かせたというのだ?
(死んだ、恋人を見たとでもいうのか?)
カインは知っている。アルテミシアはもう死んだのだ、レオンハルトがそう自分に言い聞かせているということを。心の何処かで、レオンハルトは恋人の死を信じていない。愛している、その誓いは、いつだって過去形ではなく、現在進行形だった。
フロレンツ王国建国祭の最中に少女の姿で現れた、カインの亡くなった母親、ライーザ。彼女のように、アルテミシアがもしレオンハルトの前にその姿を見せたのだとしたら。
アルテミシアを、ただひたすらに愛しているレオンハルトが、常の平静をかなぐり捨てても、少しもおかしくはない。
その、筈だが。
ほとんど警告と等しいほどに、カインの中の違和感は騒ぎ立てる。レオンハルトの持つ魔剣“
一つ頭を振り、カインは森に足を踏み入れた。
「……ここで、暮らしているのか」
「うん、ちょうど良かったし。……私は、この森から出られないから」
5年前、重傷を負ったフリードリヒを運び込んだ狩猟小屋は、娘のささやかな独り暮らしの住処となっていた。森の妖精である彼女には、雨露や雪が凌げれば、それで十分なのだろう。人間ほど、強固に建物に守ってもらう必要が無いのだから。
「本当は、貴方を探しに――行きたかったけど」
「……すまない。ずっと……来られなくて」
「ううん。待つのはそんなに辛いことじゃなかったから、平気よ。私には、時間はいくらでもあるから」
時間という概念など無意味であろう、人の身から見れば信じられないほど無限の時を生きるエルフの娘は、ひどく達観した笑みを浮かべて見せた。時々、忘れそうになるが、彼女は既に、現在23歳のレオンハルトよりも長い時を生きてきた、年上の女性なのだ。
「レオンハルト」
アルテミシアは、レオンハルトの右腰に佩かれた剣に視線を落とし、問いかけた。
「貴方は、旅をしているの?」
「……ああ」
「何か、目的があるの?」
その時、頭痛をもたらすのではないか、という強さで、レオンハルトはとある人物の顔が自然に脳裏に浮かぶのが分かった。
美しい、美しすぎる細面の輪郭。レオンハルトと同じ、闇色の黒い髪。凛然と揺らがない、光の当たる強さや角度によって、彩りを様々に変えてみせる、不可思議な黒紫色の瞳。ふと、桁外れの美貌の主が、レオンハルトに気付いたようにゆっくりと微笑みかけてきた。
竜を駆り、天を翔る騎士だという、記憶喪失の青年の笑顔は、雲一つなく晴れた青空よりも澄んで、輝かしかった。
(――カイン)
口の中で、彼の名を呟く。
この世で唯1人、その、細い肩の上でレオンハルトに涙を流させてくれた人。彼と、約束した。この世界を、身勝手な破滅の願望から救うことを。
「そうだ」
はっきりと力強く、レオンハルトは頷いた。躊躇は、そこには無かった。僅かに、アルテミシアの表情が変わる。懇願に、よく似た表情だった。
アルテミシアは何も変わっていないと思っていたが、それは誤りだったようだ。以前の彼女は、こんな顔はしなかった。だが、それも無理からぬことだろう。生と死の境を、娘は見てしまったのだ。
「その目的が遂げられたら、また、ここに戻ってきてくれる?」
「……何時になるか、分からないが……」
「いつまでも待ってる。だから、戻ってきて。必ず。お願いよ」
「アルテミシア……」
柔らかい金色の髪をかき上げると、レオンハルトは白い額に口づけた。
「心配しなくていい。俺は、死ぬつもりはない。必ず、戻ってくるよ。君のところへ」
愛しているから。
愛している、美しい森の妖精の娘。
君が生きていると分かったこの世界を、どうして滅亡させられる?
もう、あんな後悔は、二度としたくなかった。二度と。