カインは、墓石の群れの外れに立っていた。レオンハルトの気が済むまで、待っているつもりだった。
風が強くなってきた。艶のある、しなやかなカインの黒い髪が風に吹き乱される。目の上に落ちかかってきた前髪を払ったカインは、ふと顔を街道の方へとめぐらせた。
馬が蹄を鳴らす、規則的な硬い音が聞こえてきたからだ。それと、車輪の転がる音。
馬車だ。その御者台で、手綱を取る男が、淡い亜麻色の髪と緑色の目を持っていること、その傍らにやや窮屈そうに腰掛けた大男が、赤い髪と灰色の目を持っていること、それらをカインは見て取っていた。恐らく、馬車の中にはもう1人、黒い髪と黒曜石色の目を持った女性がいる筈だ。
御者台に座る男が、カインの姿に気付いた。彼は、ひどく狼狽した態度で、馬車の中を振り向いて何かを言い、そして、隣の大男と言葉を交わす。赤毛の大男は、否定するようなそぶりを見せたが、亜麻色の髪の男は、ぐいと手綱を引き絞って馬の走る速度を上げ、急いでカインへと近づいてきた。
と、カインの顔を視認すると同時に、男はひらりと御者台から跳び下りながら、いささか頓狂な声を上げた。やや遅れて馬車の扉が開き、軽やかに女の姿が降り立った。
「あ、あれ? レオンハルトじゃ、ない……」
「やっぱりな。レオンハルトにしちゃ、何かこう、ちょっと感じが違うと思ったんだ」
「やっぱりね。相変わらず、フリードリヒったらそそっかしいんだから」
2人がかりでやり込められた、亜麻色の髪の――レオンハルトの持つ魔剣“
確か、現在では、フロレンツ王都ロートリンゲンにて、近衛騎士隊長を拝命している筈の青年は、まるでそんな地位を感じさせない、人懐こい苦笑を浮かべる。
「けどさあ。黒い髪で背の高い男がこの日に村の前にいたら、レオンハルトじゃないかって思うだろ?」
「……そうね。似てるといったら似てるかも、ね。何となく、雰囲気とか」
フリードリヒと同じ指輪をやはり左手の薬指に嵌めた、レオンハルトの実妹にして、今ではフリードリヒと夫婦となりユリアナ・フィフテを名乗る“弓持ち癒しをすなる美しき娘”――かつては、ユリアナ・ベルンシュタインといった彼女は、2年前に自分達の前から去って行った兄の面影を思ってか、兄と同じ黒曜石色の瞳を微かに伏せた。
それからすぐに、黙然と突っ立つカインに向かって、軽く頭を下げた。彼女の兄であるレオンハルトの真っ直ぐな髪と違い、緩やかに波打つ黒い髪が揺れた。
「ごめんなさい。貴方が、私の兄と少し似て見えたものだから、見間違えちゃって。貴方、旅の人?」
「……ああ」
確かに、俺達は似ているのだろうな、短い応えを返しながら、カインはそう思う。
我ながら呆れるぐらいに意地っ張りな上に強情張りなところや、過去の罪の記憶、あるいは記憶の断片に苦しみもがき、足掻きながらも、その罪のあまりもの深さがゆえに己の過去を捨てられないところも。
「旅人が、こんな辺鄙な場所で何を?」
カインの、あまり感情を表情に出して表さない点もまた、レオンハルトを思い起こさせるのだろう、何処か懐かしい人を見る目で、ユリアナは訊いた。
ほんの僅かな瞬間、カインは躊躇した。
今、かつては建ち並んでいた家々が、墓と化した故郷の村の中に、レオンハルトがいると知れば、彼等はどんなに喜ぶだろう。ことに、レオンハルトと血の繋がった妹であるユリアナは。
けれど、それでも。
あの、レオンハルトの顔を見てしまっては。完全に表情の失せ消えた、あの白い貌を見てしまっては。カインには、フリードリヒ達に真実を伝えることができなかった。
『あの時、俺が村に居たとしても、俺に何が出来たわけではない。……俺が、村を滅ぼしたのではない。……それでも、俺は……、このような思いを知った人間として、同じ思いをより多くの人々に味わわせた、この自分が許せない……!』
血を吐くよりも激しい苦悶に満ちた、あのレオンハルトの声を、彼等には聞かせたくなかった。
きっと、眉を曇らせる。幸せでいて欲しい、というレオンハルトの願いに反して。
彼等は、レオンハルトの犯した過ちを、決して責めない。責められないがために、それなのに彼等を酷く傷つけたと、レオンハルトには自分を許せない理由が増えたのだから。
それほどにまでレオンハルトが彼等を、彼等がレオンハルトを大切に思っているからこそ。今はまだ、時、その時に到らず、だ。
「墓地にしては、墓が不規則にあちらこちらに建っているな、と不思議に思って見ていただけだ」
だから、単なる旅人として、カインは、当たり障りのない返答を口にした。そうか、知らない人間が見たら不思議だよなと、フリードリヒが得心したように頷く。
「ああ、昔――といっても5年前か。ここは、村だったんだよ。皆、“暗黒戦争”の時に死んでしまって、俺達しか生き残ってないけどな。だから、皆の家があった場所に、墓を建ててるのさ」
そう言って、フリードリヒは視線をユリアナと、赤毛の“戦斧を携えし心優しき戦士”カール・ケルナーへと巡らせた。そして、カールがぽつりと付け加える。
「本当は、生き残りは――もう1人いた」
知っている、ブルグント帝国皇帝グレゴールの片腕である非情なる“闇将軍(ダークジェネラル)”であり、ブルグント帝国を打倒した“剣と魔法を意のままにする静かなる魔法戦士”である、相反する過去に苦悩せざるを得ない、4人の英雄の最後の1人、レオンハルト・ベルンシュタインを。カインは声に出さずに内心で呟いた。
知っているさ、救国の英雄達、レオンハルトの大切な仲間達よ。
レオンハルトが、幸せだった頃の、その象徴達よ。
フリードリヒが、カインの、光の当たる角度や強さによって纏う色を変えて見せる、不可思議な神秘を帯びた黒紫色の瞳を真っ直ぐに見た。
「なあ、あんた。旅人なら、レオンハルトって名前の男に会わなかったか?」
まさか、眼前に立つ世にも稀な美貌の青年が、レオンハルトと会ったことがある、どころではなく、共に旅をしている、などとは想像の範疇外に違いない。カインが、あえて事実を述べない限りは。
そして、カインにはその気はなかった。それは、レオンハルトが決して望まないことだからだ。
無論、レオンハルトとカインの関わりなど知る由も無いフリードリヒは、カインに向かって、身振り手振りを交えながら、レオンハルトのことを説明する。
「俺達の大切な仲間で、このユリアナの兄貴なんだ。年は俺より1つ上の23歳で、ユリアナと同じ、色が白くて黒い髪と黒い目で、凄い美形であんたよりもう少し背が高い、けど……」
そこで、フリードリヒは一旦、言いよどんだ。次いで、カインの顔をまじまじと見つめたかと思うや、大袈裟なほどの仕草で、大きく頭を振った。
「なあユリアナ、カール、俺はレオンハルトほど美形の男なんて、この世にいないと思ってたけど、世界ってのは広いなあ! 本当に、むっちゃくちゃ綺麗だよな、この人!!」
あけすけで、裏表の全くない明るい率直な笑顔で。それがあまりに眩しすぎたから、己の抱える昏い闇で翳らせることを厭い、レオンハルトは彼等から離れていったのだ。同時に、あまりに眩しすぎたから、レオンハルトは、ただ一つだけを願うのだ。
俺の大切な人達が、その笑顔を曇らせることなどないように。いつまでも、幸せで、いて欲しいと。
そんなレオンハルトの気持ちが、カインには分かる気がした。それから、少し羨ましく思い、小さな胸の痛みを感じた。決して手の届かないものに恋焦がれる切なさに、その痛みは酷似していた。
彼等のような絆を、俺は持っていたのだろうか。……俺の故郷、ヴィエナには、俺を信じて、俺の帰りを待ってくれている人がいるのだろうか?
「ちょっと、フリードリヒったら、もう、失礼でしょっ」
傍からは、カインは、相変わらず感情も思考も読ませることのない無表情で、ただ無愛想に立っているように見えた。平坦な無反応さに、彼が気を悪くしたと思ったか、ユリアナがフリードリヒをたしなめる。
「構わない。それよりも」
ようやくカインは、静かに、微笑という表情を玲瓏たる美貌に浮かべた。静かに。
それだけで、一瞬、夏の太陽の光が、鮮烈さの全てを失ったように感じられた。カインの、微かな笑みが、ただ美しすぎて。
「もしも、俺がレオンハルトという男に会った時に」
誰もが息を呑むのも知らぬげに、カインは言葉を継いだ。
「何か、伝えて欲しいことがあるのなら、聞いておこう」
「だったら……」
一番先に我に返ったユリアナが、そっと両手を胸に押し当てた、祈りによく似た仕草をして、やはり祈りによく似た声を発した。
「――ユリアナは、フリードリヒと結婚して、王都でおおむね幸せに、元気にやっていますと。けれど、フリードリヒもカールも私も、兄さんのことを忘れたことはなくて、貴方が幸せになれることを、願っていますと、……そう、伝えてもらっていいかしら?」
「分かった。レオンハルトに会ったら……伝えておこう」
後で、必ずな。胸中で、カインは語尾に付け加えた。
「それで、墓を手入れするために来たんだろう?」
唐突な話題の変換に、フリードリヒが、カインの視線を追って、ここに来た本来の目的をやっと思い出した、という風に馬車を振り返った。
「あ、ああ。5年前の今日、村が無くなったから、まあ、弔いをしに、な」
「……俺も、手伝わせてもらってもいいか」
「え? だって、旅の途中だろ? いいのか?」
カインの申し出が意外だったらしく、フリードリヒも、カールも、軽く眼を瞠る。
「まさか貴方も、あの戦争でご家族を?」
ユリアナの疑問に、カインは首を横に振って見せた。両親を失ったのは過去の事実ではあるが、それは5年前よりもずっと以前のことだ。
「いや、……俺には過去の記憶が無い。ただ……」
繰り返し囁く悪夢が告げる、罪の記憶の断片。レオンハルトと同じように、かつて、自分も似たような光景を、ここではない場所で作り出してきた――多分。いや、確実に。
せめて、レオンハルトの代わりに、村の住民達の失われた魂を弔いたいなどと、ただの、卑小で身勝手な自己満足な行為にしか過ぎないのだろうけれども。レオンハルトは、自分の手を、洗っても落ちないほどに罪無き人々の血で染まっている、と言う。俺の手は? レオンハルトよりも血と死に塗れていない保証は、何処にも無い。そうでなければ、あの悪夢の中の声はどうして俺を闇の中に縛りつけ、取り込もうとする?
しかし、死者を悼む、自然な心の動きは、どうしようもない。死者の列の中に、レオンハルトの両親もいると知っていれば、尚更のことだった。
「……ただ、そうしたいと思ったんだが。……迷惑か?」
「そりゃ全然、迷惑なんかじゃないけど……なあ?」
フリードリヒに同意の言葉を求めるように見上げられ、決して雄弁ではないカールは、困ったように肩を竦め、穏やかな灰色の目をカインに向けた。
当惑と、同情。それらが、自分に向けられることに、カインはどうしようもない居心地の悪さを感じた。西方大陸では珍しく、北方大陸では珍しくない黒い髪を持つカインを、フリードリヒ達は、あの“暗黒戦争”で何か辛く酷い目に遭い、記憶を失くしたのだと誤解したに違いない。誤解というよりは、当の本人であるカインと、森で倒れていた彼を助けたレオンハルトと、彼の事情を知る者以外には、帰結するのが至極まっとうな結論だった。
カインは、それを振り切るために、優美きわまりない長身を翻した。
「気にしなくていい。記憶喪失だといっても、案外、不自由はしていない。特に急いで行くあても無いしな」
「あ――貴方、自分の名前は覚えてる? 私はユリアナ、こっちの亜麻色の髪の人が私の夫のフリードリヒ、赤毛の大きい人がカールよ」
呼びかけようとして、ユリアナは、相手の名前を知らないことに、ようやく気付いた。記憶喪失だという美しい青年は、短い答えを発した。
「カイン」
いかにも彼らしいと、見知ったばかりのフリードリヒ達にもそう思わせる、実に簡潔すぎる自己紹介。
「カイン。カインか。ちょっと西方大陸風の名前だな。俺の外見も人のこと言えないけど。俺は、祖父が西方大陸人だったんだ。サーディニアって国から来たって言ってた」
濃い色の髪が多い北方大陸人らしくない、淡い亜麻色の髪と緑色の瞳を持つフリードリヒは、馬の尻尾のように無造作に束ねた自分の髪をつまんで、笑った。
カールが、馬車を開けて、中から積荷を降ろし始める。
「……種、か?」
抱えられて、ざらざらと音を立てつつ柔軟に形を変える麻袋を見たカインは、そう訊いた。返答は、ユリアナからあった。
「ええ、花の種を植えようと思って。冬は雪に閉ざされてしまうこの場所だけど、季節が来たら、花は咲くでしょう。たくさん花が咲いたら、皆も少しは寂しくないかな……って」
花を。
住民達が惨く虐殺されたこの地に、花を。色とりどりの花の種を、蒔こう。
ああ、優しさは強さだ。だからこそ、彼等は人々に英雄と呼ばれるのだ。
強いからこそ、彼等はレオンハルトを責めないのだ。優しいからこそ、明るく笑えるのだ。
カインは、胸の奥にほろ苦い温みを感じながら、種のぎっしりと入った袋を、軽々と担ぎ上げた。