嵐が、起こった。
自然が生み出す嵐ではなく、人為的な暴虐による、嵐だった。
とうに一人前の狩人と認められていたレオンハルトは、その日も妹を連れて森の中に狩りに出かけていた。あれから、アルテミシアは、二度と彼の前に姿を現さなかったが、レオンハルトはそれは期待してなかったし、諦めていた。そのおかげか、一度だけ、フリードリヒに「例の彼女とはどうよ?」と訊かれたものの、あっさりと「ふられた」と答えることが出来た。
「……ん?」
ふと、鼻腔を痛烈に刺激する焦げ臭いにおいが漂ってくるのを、レオンハルトの嗅覚がとらえる。それはユリアナも同じだったようで、
「ねえ、兄さん。何だか変な……ものをたくさん焼いてるみたいなにおいがしない?」
不安げに眉を寄せ、彼女は背の高い兄の顔を見上げた。
「野焼きか……? いや、今の時期に野焼きをするはずがないし、においが強すぎる。……第一、妙に脂臭いな」
「……村で、何かあったのかな……?」
「分からない。一度、村に戻ってみよう」
そうして、ユリアナの手を引いて、村に戻ったレオンハルトが見たものは。
「嫌ぁーーーーッ!! 何、嘘よ、何これ、こんなの嘘……! 何があったのよぉーーーーーッ!!」
顔を覆い、ユリアナは膝から力が抜け切ったようにへたりこんでしまった。そんな妹を慰めることも思いつかず、レオンハルトは呆然と立ち尽くした。
赤い。
ひたすら、赤い。
炎に、包まれて。
見慣れていた平和な村の光景は、もう何処にもなかった。人や動物の声はせず、動くものの姿は見えず、ひたすら炎が燃え盛る音だけが、全てを呑み込まんとしていた。
何でこんなことに。どうして、何が起こって。
はっ、とレオンハルトはあることに遅まきながらようやく気付いた。
「父さん、母さん!!」
自分達の家の方に駆け出す。その声に弾かれて、ユリアナも彼の後を追う。背の高いレオンハルトと、彼の肩下ほどの背丈のユリアナとでは、歩幅が当たり前に違うため、自然、レオンハルトは妹を置いて走ることになったが、それに斟酌している余裕は、今の彼には無かった。
火の粉が舞い散る。熱風が踊る。その中に、レオンハルトとユリアナの両親の遺骸は倒れていた。いや、倒れていたというのは正しいのか。頑固だが酒を飲むと陽気な性格に一変する、腕のいい猟師だった父は上半身と下半身に切断され。若い頃は村一番の美人と称えられた、料理自慢で気風の良かった母は、内臓を抉り取られていた。
一瞬、立ちすくんだレオンハルトだったが、すぐに我に返った。妹が追いついてきたからだ。
「兄さん、どうしたの、父さんと母さんは……」
「ユリアナ、見るな!! 見るんじゃない!!」
自分達の両親の凄惨な姿をせめてユリアナには見せたくなくて、咄嗟に、レオンハルトは自分の胸に妹の頭を強引に押し付けた。
どうして。どうして! どうして!!
確かに、俺は、アルテミシアのために全てを捨てようとしていたかもしれない。でも、こんなことは決して望まなかった!
何故、一体、何者がこんな、こんな酷い、惨いことを!!
「……兄さ……」
見た目よりもはるかに広いレオンハルトの胸に、視界を覆われたユリアナは、父と母の死を悟り、兄にすがりついて、わっと大きな泣き声を上げた。レオンハルトもまた、自分の全身の震えを止められず、ユリアナを抱きかかえた姿勢のまま、様々な感情が逆巻き、全身を荒れ狂うのを、どうしようも出来なかった。
恐ろしい。悲しい。憎い。村をこんな風にされても、何も出来ない自分の無力が、悔しい、恨めしい。
だが。その感情が、後のレオンハルトの運命を大きく狂わせることになる、萌芽となろうとは。生まれ育った故郷を、無残に、残虐に、踏み躙られた人間が「当たり前」に抱くであろうこの感情のために、彼が闇に堕ちることになるという、あまりにも理不尽な未来が、足音を忍ばせて近しく忍び寄ってきていることなど、誰が想像しえたろうか。
少なくとも、レオンハルトはこの時はまだ、恐ろしく端整な容姿こそ非凡であれど、身に隠された異能の力は目覚めることなく、途方にくれる以外の術を知らなかった。
そこへ、2人の兄妹以外の生者の声が聞こえてきた。
「レオンハルト、ユリアナ、無事だったのか!」
息せき切った様子で、赤毛の大男が走り寄ってくるところだった。
「カール!」
村外れに樵として住むカールは、元はといえば、フェラス村の出身ではなかった。悪疾に冒された母親と一緒に、住んでいた村を追い出されて、流浪の末に村に辿り着いたのだ。
無論、最初は死ぬしかない病人を連れた流れのよそ者、などと歓迎はされなかったが、カールの朴訥とした人柄、体が頑健な上によく働くこと、何よりも彼と同世代の子供達――無論、レオンハルトやユリアナ、フリードリヒ達――が、あっさりと「仲間入り」を歓迎したことで、カールは村に受け入れられた。以来、カールは、レオンハルト達と互いに良い友人として、フェラス村の住民の一員になって一緒に村での時を過ごしてきた。
一変してしまった村の光景を眼の前にして、親しい人間がようやく生きて現れたことで、レオンハルトに常日頃と同じく、まではいかないまでも、少しは冷静さが戻ってきた。
「……一体、何があったんだこれは。こんな、……悪夢みたいな。カール、何が起こったのか知っているか?」
本当に、夢だったら良かったのに。夢ならば、どんな辛い悪夢でも、眼が覚めたらこんな現実は消滅しているのに。
3人ともが恐らく同じことを考えつつも、カールは、首を横に振る。
「俺も、何が何だかよく分からない。薪を切り出しに、森に行ってたんだ。切れ切れに、遠くから凄い悲鳴が幾つも聞こえてきたから、戻ってみたんだが……」
「森に行っていた俺達だけが、助かったのか……」
レオンハルトは、軽く唇を噛んだ。そのレオンハルトの言葉に、ユリアナが反応した。
「フリードリヒ!」
ユリアナは顔をはね上げ、1人の若者の名を叫んだ。
「兄さん、フリードリヒは……、やっぱり殺されちゃったと思う?」
ぎゅっとレオンハルトの胸元を握り締め、ユリアナは消え入りそうな声で、涙を零し続けながら懸命に言った。そんなことはあって欲しくない、と、声なき声で叫びながら。
「……分からない」
フリードリヒとユリアナは、レオンハルトがしばしば好意的なからかいの種にしたように、いわゆる「公認の仲」だった。当人同士がはっきりと想いを告げあうことこそなかったが、いずれは2人は結婚して幸せな家庭を築くのだろう、と誰もが思っていた。
だから、ユリアナの気持ちは嫌でも分かるが、この村の状況の中、フリードリヒが無事でいられるとは無理だろう。レオンハルトもカールもそれは予想はしたが、こんな状況だからこそ、ひょっとしたら、という小さな願望までは捨てたくなかった。
「行ってみよう、フリードリヒの家の所まで」
レオンハルトがそう言うと、カールも頷いた。
「フリードリヒ!!」
死の色だけが噎せるほどに立ち込める村の中を、3人は走った。親しく見知った村人達が惨たらしい死体となっている中、せめてと幼馴染の友の生存を祈りながら。
原形を留めぬまでに潰された、フリードリヒの家。その瓦礫の中から、大きな梁木の下に圧迫された、ぴくりとも動かないフリードリヒの上半身が覗いていた。
一瞬、自分の父の無残な死に様を連想して、レオンハルトは息を呑む。
「まだ、生きてるぞ!」
しかし、フリードリヒの傍らに膝をついたカールが、歓喜に似た大声を上げた。ユリアナは喜色を浮かべ、フリードリヒに向かって呼びかけた。
「本当なの!? フリードリヒ、しっかりして、フリードリヒ!!」
「よし、カール、ここからフリードリヒを引っ張り出すぞ」
瓦礫を使って梃子の原理で梁を持ち上げ、何とか隙間を広げると、レオンハルトとカールはフリードリヒの体を力ずくで引きずり出した。当の本人の意識があれば痛いだの怪我が増えるだの何だのと、散々文句を言いそうな荒っぽさだったが、すぐにも火の手が迫ってきそうな状況にあっては、致し方あるまい。
「森の中に、狩猟小屋がある。ひとまずはそこへ!」
レオンハルトが手を貸して、カールがフリードリヒを担ぎ上げる。そうして、未来の英雄達は、村を焼き尽くさんとする炎に追われて、森の中に逃げ込んだ。
冬の間しか使わない、粗末な狩猟小屋での手当ては決して充分とは言い難かったろうが、若い上に体力のあるフリードリヒは、2日で眼を覚ました。
「村に何があったか、教えてくれ。フリードリヒ」
「魔物だよ」
椀に入った薬湯を、いかにも不味そうに行儀悪く啜りながら、フリードリヒはレオンハルトの問いに答えた。
「魔物?」
「ああ、見たことも無いような魔物の大群が、急に襲い掛かってきたんだ。いや、それだけじゃなかった。中には人間も居たな」
「人間と魔物が手を組んで、あんな酷いことをしたっていうの? 一体、何のために?」
怒ったようにユリアナが口をはさむと、フリードリヒは唇を尖らせた。
「俺に訊くなよ、っていうか、俺の方が知りてぇよ」
理由も無く殺されかけ、ただ1人の肉親である父親を亡くした若者は、束の間、北方大陸では珍しい、緑色の瞳を燃え上がらせる。
悲しみに、あるいは怒りに。それは、この場にいる全員が共有している感情である。つまりは、誰か1人だけが傷ついているわけではない、ということでもあった。
「……ごめんなさい、フリードリヒ」
そのことにすぐに気付き、素直にユリアナが謝罪すると、いいよ、という風にフリードリヒは軽く手を振った。
「でもまあ、意味はよく分からんけど」
それから、軽く顔をしかめて、言葉を続ける。
「皇帝陛下のためとか何とか言ってるのは聞こえた」
「皇帝――ブルグント帝国が?」
困惑したように、レオンハルトが形のいい眉を寄せた。
ブルグントといえば、北方大陸の中でも、特に不毛の地に築かれた国だ。かの国が、豊かさを求め、魔物の手を借りてまでしてフロレンツに攻め込んできたとでもいうのだろうか。
だが、ここで4人で頭をつき合わせて考え込んでいたところで、事態が好転することなど、永遠にありえないことだけは分かりきっていた。
「これから、どうするんだ?」
カールが訊く。レオンハルトは少しの間だけ考え込んで、やがて提案した。
「こんな田舎の村までが襲われたんだ。フロレンツ全土が、もう戦火に巻き込まれていてもおかしくない。南の――カスティーリエンまで行ってみないか。あそこなら、フロレンツともブルグントとも山脈で隔てられてるから、ブルグントもそうそう攻め込めないだろう、多分な」
「……村を、捨てていくの?」
躊躇いがちに、ユリアナが兄に控えめな反駁をする。皆をこのままにしていくの? そう言いたげに。
妹の頭の上にぽんと軽く手を置き、レオンハルトは小さな嘆息を洩らした。
「俺は、もう、ここで生きていくのは――無理だ、と思う」
死に絶えた村で、死者達の残影を見て、失われた息吹を嘆きながら。生きていくのは、あまりに辛すぎる。それが出来るには、いかにも、彼等はまだ若すぎた。
「……そうだな。俺も同感」
フリードリヒがレオンハルトに全面賛成、と手を上げる。
「せっかく、死んでたかもしれない命を拾ったんだ。生きていこう。後のことは、後で考えよう」
宣言するように、レオンハルトはそう言った。
生きていこう。
自分が、そう言ったのに。
運命は、
滅茶苦茶に。
森を出る日、一度だけ、レオンハルトは感傷をこめて森を振り向いた。この森の中、何処かにいる筈の、今もなお愛しい人に向かって。
旅立って20日余り、カスティーリエンまでもうすぐ、というところで、4人は帝国の黒騎士に襲われた。
そして、レオンハルトだけが立場を分かたれた。“
フリードリヒ達がレオンハルトの安否を気遣う中、“闇将軍”は、ある日、皇帝から一つの命を下された。
「エルフの掃討、ですか」
「そうだ。エルフ供がフロレンツの人間の味方をする可能性は低いとはいえ、エルフにとっても、魔族は憎むべき敵。フロレンツやカスティーリエンに味方せぬまでも、我が帝国の障害となる可能性はある。災いの芽は、芽吹く前に摘んでしまうべきだ。違うか?」
「……御意に、ございます」
額に黒金剛石の
エルフ。エルフ族。エルフの里を殲滅させる。エルフ――アルテミシア!!
絶対に嫌だ、そんなことは出来ない、そう抵抗する心を、呪いが縛り付けていく。
まだ人間であった宮廷魔術師フーリックは、調べ得る限りのエルフの里の所在を調べきっていた。そして、エルフの里の結界に反応し、森全体を焼き尽くすことのないように、しかし、結界の内側だけを燃やし尽くす、特殊な炎の魔法を封じた水晶球を作り上げ、それを作戦のために“闇将軍”に預けた。
そうして、“闇将軍”は、皇帝の命に従い、いくつものエルフの里を実に効率よく焼き討ちした。
そんな里の一つで。
炎の向こう側から、自分を見つめている娘の姿に彼は気が付いた。妙に白ちゃけた認識が、記憶の中から彼女の名を抜き出した。ただの、レオンハルト・ベルンシュタインという1人の若者であった頃の記憶。黒金剛石に封じ込まれ、まるで他人のもののような。
「……アルテミシア……?」
その呟きすらも、誰か他人の口を借りて発せられたもののように遠く。
娘は、悲しげに微笑んだ。かつての恋人の額の上で、炎を反射して鈍く輝く呪いを悲しんだのかもしれない。そして、エルフの娘は、身を翻した。炎の中に、姿を消した。
「どうやって助かったか、それは分からない。もしかしたら、里の皆が私だけは、って逃がしてくれたのかもしれないし、私はしょっちゅう人間の森に出かけていたから、無意識に逃げることができたのかもしれない。最初は、何もかも失って――自分だけ助かって何になるのって、絶望したわ。けど、思い直したの。生きていたら、また、貴方に会えるかもしれないって……」
「ああ、そうだ、また会えた、アルテミシア……!」
「レオンハルト……!!」
後から後から沸き起こる、尽きぬ愛しい想いを、レオンハルトは胸の奥に押し込めはしなかった。その必要などなかった。この世で一番、誰よりも愛する女は、今、腕の中にいるのだから。