Chapter-5「浄夜」

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 レオンハルトは1人で森に入っていた。春は、森の動物達にとって、長い冬が終わり、恋と子育てを行う季節である。森の恵みを分け与えてもらう立場である狩人としては、自然の営みに横槍を入れることはせず、当然、休業となる。とはいえ、自給自足が当たり前の田舎の村では、だからといって遊んでいるわけにもいかない。
 いつもならば、父母と家の傍らのささやかな畑を世話しているところだが、前日から、3歳下の妹のユリアナが高い熱を出していた。小さな村には、医者はいない。そのため、解熱剤を作るための薬草を採りに来たのだ。薬草の群生地は知っている。物心ついた時から父と共に出入りしている森は、彼にとっては庭のようなものだった。
 泉の傍にある群生地に着くと、小さな白い花をつける薬草を根っこごと引き抜き、腰に下げた袋に入れる。その作業を袋が一杯になるまで繰り返し、それが終わると袋の口を紐で締めて、レオンハルトは立ち上がった。
 その時、背後で茂みを揺らす、がさりという音がした。熊や狼などの危険な獣の気配は無かったものの、普段は大人しい動物も発情期で気が立っている時期だ。ぎょっとして振り向きながら、レオンハルトは咄嗟に、習い性で背に負った矢筒から素早く矢を抜き、常に携えている短弓に番える。
「……!?」
 自分を驚かせた物音を立てた相手を見ると、すぐにレオンハルトの手は攻撃の意思を放棄した。そして、呆然とした表情があっという間に顔の上に広がっていくのをレオンハルトは自覚したが、止めようもなかった。
 信じ難いほど美しい娘が、そこに立っていたからだ。
 新雪よりも眩しく白い肌、光を受けて輝く鮮やかな青い瞳、木漏れ日の色にも似た柔らかな金色の滝の髪、その間から覗く長い耳。
「エルフ……」
 妖精族のエルフ、中でもシルヴァン・エルフ(森のエルフ)と呼ばれる種族達が、人が訪れることの出来ないように結界を張り、森の奥に住居を定めている、という話は、レオンハルトも聞いたことがあった。しかし、人間嫌いである筈のエルフが、まさか進んで人前に姿を現すとは。
 伝説に伝え聞き、想像するよりも、遥かに透明感ある瑞々しい美しさを見せる娘を、レオンハルトはただ声もなく見つめた。こんな風に女性を凝視するのは失礼だ、とは分かっていても、どうしても彼女から眼が離せなかった。

 にこりと、娘は笑った。その笑いにつられるように、胸の鼓動が一際大きく跳ねる音を、レオンハルトは聞いた。
 それから、妖精の娘は、愛らしく首を傾げ、レオンハルトに向かって何かを言った。もっとも、その言葉はレオンハルトにとっては意味不明の言語であったため、彼女が何を言っているのか分からなかった。
 娘もそれに気付いたようで、先ほどとはまた違う響きの言葉を発した。すると、何か空気が動いたような気配があり、娘は、今度は、はっきりとレオンハルトに理解出来る言葉で話しかけた。
「これで分かる?」
 いきなり、娘の話す言葉を聞き取ることが出来るようになったレオンハルトは、驚きに黒曜石色の目を丸くする。
 レオンハルトが戸惑いながらも、「ああ、分かるよ」と頷いて返すと、娘は見るからに嬉しそうに、青い瞳を輝かせた。
風の精霊(シルフ)の力を借りたのよ。えーと、そう、通訳。通訳してもらってるの。喋ってる言葉は変わらないんだけど、お互いの言ってる話の意味を理解できるようになるっていう感じに」
「……魔法で?」
 滅多に旅人も訪れない、冬ともなれば雪に埋もれてしまう、田舎の猟師の息子でしかないレオンハルトにとって、魔法などとはその存在を伝え聞くだけの、神の御業も同然だった。そんな“奇跡”を目の当たりにして、驚くなというほうが無理である。
 しかし、当の娘は、至極当然といった風に、あくまでもこともなげに頷いた。
「うん。精霊魔法。私達妖精は、精霊とは近しい存在だから、精霊魔法を使うことは普通に話すのと変わらないの。生まれてから、それが当たり前のことだから、別にびっくりするようなことじゃないわ。でも、人間はそうじゃないのよね、そうは聞いてたけども」
「使うどころか、魔法自体を見たのが初めてだ」
「そうなの」
 ふと、娘は何も無い中空に手を伸ばした。まるで、そこに何かが存在していて、それを受け止めようとしているかのように。
「皆は、人間なんて所詮は訓練しなきゃ魔法も使えない、こんなにも世界に満ち溢れる精霊の声を聞くことも出来ないくせに、世界の主を自分達だと思い上がった、下種で野蛮な種族だから近寄るな、傷つけられてからじゃ遅いんだ、って言うわ。けれど、私は納得できなかった。だって、私は人間に会ったことがなくて、何も知らないんだもの。なのに、最初から傷つけられるって決め付けるのは嫌だった。それに、貴方は何ていうか……とても綺麗な、優しい感じがしたから、だから、話をしてみたくなったの。……迷惑だった?」
「……いや……」
 一般的に、人間に対して、エルフが、蔑む、とまではいかなくともそれに近い感情を持つことが多いことは、娘が口にした通りだった。それに対しての、人の感情もやはり、概して好意的とは言い難かった。
 病にも老いにも縁がなく、美しい姿のまま千年も万年も生きる、妖精族たるエルフ達。変化を知らぬが故に無闇に保守的で、生の苦労を知らぬが故の高慢。どうして人間が欲を持つのか、知りもせず、知ろうともしないくせに、人間を見下す鼻持ちならない種族。
 しかし、娘がレオンハルトを話に聞かされる人間とは違うようだ、と思ったのと同じく、レオンハルトもまた、よく言われるエルフ像が、この娘には重ならないことに軽い驚きを覚えつつも、好もしく感じられた。
 だから、もっと、彼女と話をしてみたい、と思った。もっと、彼女のことを知りたい、と。
「ほんと!? よかったぁ」
 無邪気に、娘は両手を胸の前で組んだ。その仕草一つ一つが、レオンハルトには瞳の奥に焼きつくように感じられた。
「私、アルテミシア。貴方は?」
「俺は……レオンハルト」
「レオンハルト。素敵な名前ね。ねえ、レオンハルト。また会える?」
 人間の若者は、相手をエルフの娘と知り。
 エルフの娘は、相手を人間の若者と知り。
 互いの素性を知りながらも、それでいて、ごく自然に2人は惹かれ合う心を感じていた。
「ああ。今日は、熱を出してる妹が家で待ってるから、もう帰るけど――来るよ。明日も、ここへ。……アルテミシア」  

 そうやって、レオンハルトとアルテミシアは、度々、森で会うようになった。
 共に最初に抱いた好意が、恋愛感情に発展するのにさして時間がかからなかったのは、当然といえば当然だった。
 手を繋ぎ、口付けを交わし、そして、結ばれた。
 無論、2人とも知っていた。種族違いの恋は、決して周囲に暖かく祝福されるものではないことを。
 迫害されるわけではない。例えば、人間もエルフも等しく忌む、魔族の血を引く者と恋に落ちた、という時のように、石もて追われるわけではない。
 しかし、理解はされない。喜ばれはしない。出来ることなら、引き離そうとするだろう。
「分かり合おうともせずに、分かり合えるわけがない。俺達が、それを証明して見せよう」
 レオンハルトがそう言うと、アルテミシアは、笑って頷いた。
「好きよ、レオンハルト。好き。大好きよ」
 アルテミシアは、よく笑う娘だった。太陽の光そっくりの金色の髪に彩られた、輝かんばかりの笑顔は、世界中の何処を探してもこれ以上美しいものはないだろう、と、レオンハルトは、彼女が愛しくてたまらなかった。
 逢瀬の時間は長いとはいえなかったが、気付く間もなく、2人の間には風の精霊の通訳は、ごく自然に必要なくなっていた。
 レオンハルトはとある決心をした。そのために、20日ほど、森と村を離れた。
 久しぶりにアルテミシアに会ったレオンハルトは、指輪を渡した。指輪にはめ込まれた石は、さすがに目が飛び出るほど高価な極上の青玉(サファイア)とはいかなかったが、澄んだ青色で、アルテミシアの指のために誂えたかのように、ぴったりと似合っていた。
「結婚しよう、アルテミシア。ずっと、一緒に暮らそう」
 果たして、エルフにも「結婚」という制度があるのかどうかは疑問だったが、似たような風習はあるだろうと思い、また、他に適当な言葉が考え付かなかったため、レオンハルトはそう言った。
「ねえ、それって……」
 アルテミシアは、まじまじとレオンハルトの端整な顔を見つめ、次いで声を詰まらせる。
 暫くの間が経ってからようやっと発せられた声は、そのものが光を発しているのではないか、と思わせられるほどに明るく、輝いていた。
「私と新しい苗木を、森を育てていくってことよね?」
 森の妖精族たる、シルヴァン・エルフの間では、新しい家庭を築くことに、そういう言い回しを使うのか。そんな感心を抱きながら、差し伸べられたアルテミシアの手を、レオンハルトは優しく、強く握り締めた。
「貴方と一緒なら、何処へでも行くわ。ねえ、レオンハルト、地の涯には海があるんでしょう? 私、見てみたい」
「何処へでも行こう。2人で」
 自分を慕う妹の顔、両親の顔、友人の顔。いずれも大切な人達の顔が、レオンハルトの脳裏で明滅する。けれど、知ってしまった。
 その誰よりも、アルテミシアが大切だと。
 彼らは、レオンハルトが選んだ人を見て、きっと驚くだろう。だが、驚き、戸惑いつつも、レオンハルトの選択を受け入れようとしてくれるだろう。
 しかし、アルテミシアの故郷はそうではあるまい。たかが人間の男に、一族の娘が誑かされた、と怒り、是が非でもアルテミシアをエルフの里に留まらせようとするに違いない。レオンハルトを、心身共に深く傷つけることになろうとも。
 アルテミシアは、そんな故郷なら、故郷なんて要らない、と言う。里の皆のことは好きだけれど、貴方の方がもっと大切だから。
 彼女が故郷を捨てるのなら、自分もそうでなくては不公平だ、とレオンハルトは思った。だから、何処か遠くへ行って、2人だけの生活を始めようと決めた。
「愛しているよ、アルテミシア」
 レオンハルトは力強く、告げる。
 その言葉を、レオンハルトが初めてアルテミシアに言ったとき、彼女は不思議そうに彼に訊いた。
「『愛している』って、どういう意味? 好き、っていうよりも強い言葉?」
 エルフ族と人間では、感じ方も考え方も違う。であれば、言葉の違いも当然ある。人間から見れば、気の遠くなるほどの長い時間を生きるエルフにとっては、「愛」という感情は強すぎ、重すぎ、激しすぎるのかもしれない。
 妖精族は、基本的に中庸である状態を好むのだ、ということを、アルテミシアと過ごすうちにレオンハルトは何となく理解していた。
「そうだよ。この世界の何よりも、君が特別だ、と告げる誓いの言葉だ」
 だが、種族の違いが何だというのだろう。互いが互いにかけがえのなく大切な存在だ、その事実以外は、どんな理由も理屈も必要などない。
「俺は、この世で一番、幸せで、大切な、美しい言葉だと思っている」
「……素敵ね」
 微笑み、アルテミシアはレオンハルトの胸に、全身を投げかけた。
 あの時と同じように、アルテミシアはレオンハルトの背中に細い腕を回した。レオンハルトもまた、力をこめて、腕の中の華奢な体を抱きしめる。
「レオンハルト、愛してるわ。私も、貴方を誰よりも」
 白く細い指の上で、若い2人を祝福するかのごとく、青い石の指輪が光を受けて煌いていた。


 幸せだった。この幸せはいつまでも続くものだと、レオンハルトは疑いを抱くことすら知らなかった。
 太陽が、翳る時がくるなどと、思いも至らなかった。


「……何だって?」
 いつも前を向いて輝いていた、青い瞳がその日、煙っていた。
「……ごめんなさい、レオンハルト。私……、貴方と一緒に何処までも行きたかった。一緒に海を見たかった。でも、行けないの……」
「どう、いうことなんだ……?」
 はらはら、と涙が零れ落ちる。わっと声をあげ、アルテミシアは泣きながらレオンハルトにすがりついた。レオンハルトが抱きとめると、たちまちに、熱い涙が彼の胸を濡らした。
「知らなかった……! どうして、私達が、シルヴァン・エルフという種族なのか……!」
「――アルテミシア?」
「私達は、緑濃い森の空気の中でしか生きられない。大気の薄い森の外では、生きていけない……。森から出たことなんかなかったから、私はそんなことも知らなかった!」
 アルテミシアは、泣きじゃくる。レオンハルトは彼女の肩を抱いたまま、何か言わなければ、と言葉を捜したが、思考はいっかなまとまらず、何も見つからなかった。
 やがて、アルテミシアは決然と顔を上げた。目尻に涙は溜まっていたが、もはや流れ出てはいなかった。そっと自分の肩から、レオンハルトの手を外す。
 秀麗な若者の顔を、目に焼き付けようとしているように、じっとレオンハルトを見つめていたアルテミシアは、唇を動かした。
「さようなら、レオンハルト」
 唐突な決別に、レオンハルトは愕然とするよりも、混乱した。
「アルテミシア!?」
「私は、これからも長い時間を生き続けるわ。でも、貴方の命は私よりもずっと短い。それなのに、森の中でしか生きられないエルフに心を囚われ続けるなんて、限られている時間を無意味に消費するだけよ。だから、私のことなんか忘れて。そして、貴方は貴方なりの幸せを見つけて、それを掴んで」
「無理だ、出来ない、そんなことは!」
 激しくレオンハルトが頭を振ると、艶やかな黒い髪が乱れ揺れる。
「君を忘れて……例え、一見、幸せそうな人生を手に入れたところで、俺にとってはそんなものは偽りでしかない、価値がない!」
「ありがとう」
 と、娘は言った。いつもの微笑を浮かべた顔で。
 違う、いつもとは違う。いつも、太陽みたいに闊達に笑っていたのに、泣きながら笑うなんて。
「私、楽しい幸せな夢を見ていたんだと思うことにする。けれど、遅かれ早かれ夢はいつか醒めるものだわ。ありがとう、レオンハルト。私を愛してくれて。私に愛させてくれて。でも、もうおしまい。さよなら……!」
 アルテミシアは身を翻した。
「待ってくれ!」
 その手を取ろうとしたレオンハルトだったが、突如として吹き付けてきた風に、阻まれた。
「アルテミシア!!」
 娘の後姿を覆い隠す突風に、思わずレオンハルトは目を閉じる。
 目を開いたときには、アルテミシアの姿は、もう何処にもなかった。
「アルテミシアーーーーーッ!!」
 ただ、レオンハルトの絶叫だけが、その場に響くだけだった。


 アルテミシアが何処へ行ったか分からなくても、探し回ればよかった。
 森中隈なく探し回って、諦めるのはそれからでもよかったのだ。
 彼女がどんな思いで別れを告げたか、それを考えると、アルテミシアを追うことは、自分のひどい我儘でしかないようにしか、その時は考えられなかった。
 こんなに激しい後悔をすることになるくらいなら、自分の気持ちに嘘などつくのではなかった。絶望に、身を委ねることにならなかったかもしれないのに。