時間は、優しいものだと誰かが言った。
時間というものは、それが過ぎ去った後の空間にあったものを、全てを風化させていく。そうとは分からないほど静かに、ゆっくりと、穏やかに、それでいて確実に。形のあるものも無いものも輪郭を曖昧にして、崩していく。ほろほろと。そうやって、哀しいことも苦しいことも記憶から薄れさせていくのだと。
だが、本当にそうだろうか。
忘却は神の慈悲ともいうが。
忘れたつもりでいたのに、ある日突然、片々たる記憶の片隅に、ふと朧な面影を滲ませ、昔日の思いに胸を狂おしく疼かせることが、ある。
いや、忘れはしない。決して、忘れはしない。忘れられない。それが例え、辛く苦しい感情を呼び起こすだけでしかないとしても。所詮は、神の慈悲など与えられない身の上なのかもしれないが。
それでも、忘れてしまうよりもずっといい。彼女のことだけは。彼女を忘れるぐらいなら、神の慈悲など要らない。
色褪せることを知らない、こんなにも愛しいと思う感情を、彼女を今も愛しているという心を、忘れたくなどない。彼女の姿は、今もなお思い出の中に凍り付いてはいない。
愛していた。愛している。ただ――君を、愛している。
手放さなければ良かった。分かったふりなどしなければ良かった。
こんな愚かな後悔を繰り返しても、君を忘れたいとは思わない。
ここで暮らし、もはや遠く失われてしまった、君と過ごした日々も――。
レオンハルトは、立ち尽くしていた。その顔は、泣いているようにも、怒っているようにも、カインには見えた。表情の消えた、端整な白い美貌があまりにも痛々しく、カインはレオンハルトの横顔から視線を外し、彼の傍らに、ただ黙って立っていた。
立ち並ぶ、墓碑の群れが眼前に広がっている。かつて、フェラス村という名前のあった、この地には確かに人が住んでいた。しかし、今は誰もいない。“暗黒戦争”勃発前に作られた古い地図には載っているが、戦争後に作られた新しい地図には載っていない、無くなった村。ここが以前は村だった、という痕跡は、僅かに残された建物の土台や焼け焦げた柱以外は、その住民だった人々の墓碑ばかりであった。レオンハルトの、生まれ育った故郷は。
夏の明るい日差しも、今のレオンハルトには届かない。
レオンハルトが最後に見た故郷の光景は、赤に塗れていた。
夥しい血、撒き散らされた臓腑、ばらばらに引きちぎられた体、燃え盛る炎。死体は老若男女の人間に限らず、家畜や犬や猫、全ての生きていたものが死に――殺された。
つい前日まで、挨拶を交わし合い、笑いあい、他愛ないやり取りをし合って、ごく平穏に暮らしていた村は、たった1日で死に絶えてしまった。魔族の力を得た、ブルグント帝国によって。
ギリッ、という異様な音を聞き、佇むばかりであったカインは、再びレオンハルトを見た。固く握り締めたレオンハルトの白い拳には、赤い血の糸が筋を引いて流れていた。レオンハルトの表情は、消えたままで微塵も小揺るぎもしない。逆巻く感情のやり場がないのだ、とカインには分かった。泣いて、失ったものが取り戻せるのなら、死ぬまででも泣き続けられる。だが、泣いたところで、死人を甦らせることなど出来ようか。それどころか!
喪失の痛みが、胸中に虚しく
「分かっている」
レオンハルトはポツリと呟いた。彼の手から流れ落ちた血の雫が、地面に滴って小さな染みを作った。
「あの時、俺が村に居たとしても、俺に何が出来たわけではない。……俺が、村を滅ぼしたのではない。……それでも、俺は……、このような思いを知った人間として、同じ思いをより多くの人々に味わわせた、この自分が許せない……!」
押し殺した声音は、搾り出すようで、血を吐いているようだった。
秀麗すぎる美貌の青年は、いつまでも自分に向かって声無き呪詛を浴びせ続けていた。
カインは何も言わなかった。何を言ったとしても、気休めにもならないのだから。
それに、レオンハルトは、「もう闇に惑ってはいない」と言った。今、例え、レオンハルトが過去の闇に取り巻かれているとしても、光を見つけたという両眼を、信じている。
だから、カインは、ただレオンハルトを見守っていた。
重すぎる過去は、枷となって彼の未来を閉ざし続けている。しかし、その苦しすぎる過去を忘れずに、死よりも辛い命を生きること、それだけが自分の生きている理由だ、とレオンハルトは思っている。現実から眼を逸らすことは簡単だ。瞼を閉じ、顔を背け、現実を見なければいい。だが、それで現実が虚像になってくれるわけではない。それならば、より深く現実を心に刻みつけ、正面から見据えた方がいい。そんな思いが、レオンハルトの足を、故郷に向かわせたのだろうか。
それもあるが。
生きることを義務だと思う心に、変化が起きてきたことが一番大きいだろう。
己の過去の記憶を失い、その過去の残骸に悪夢という形で苦しめられながらも、側に居てくれる人がいる。ずっと昔からの友人だったかのように、互いに信じあえる人が。
彼のおかげで、過去を過去として受け入れた上で、前へと歩いていきたいと思えるようになった。
だからこそ、より深く胸中に悔恨を刻み込むために。忘れないでいるために。レオンハルトは、ここに来たのだ。
カインは、光の当たる強さや角度によって、色を変えて見せる、不可思議な黒紫色の瞳を、伏せた。
そして、静かに、カインはレオンハルトの傍らから離れ、身を翻す。レオンハルトの心境を慮って、今は1人にしてくれたのだ。その心遣いが、レオンハルトにはありがたかった。
レオンハルトは歩き出した。様相が全く変わってしまっても、ここは、彼が生まれ育った故郷の村だった。微かに残る、在りし日の村の面影が、レオンハルトに道筋を思い出させる。かつての住人達が住んでいた住居通りに、墓は建てられていた。誰がこれらの墓を造ったのか、考えるまでもない。5年の間も、ここに寄り付くこともなかった自分とは、大違いだ。亡骸を埋葬し、墓を建て、死者を弔って。
幾つもの墓石の間を縫って歩き、目指す場所は――。
寄り添うように、二つ並んだ墓碑の前。その墓碑には、暖かく優しかった、彼と彼の妹の両親の名前が刻まれていた。
「父さん、母さん……」
墓碑に手を伸ばしかけ、レオンハルトは途中で何かに気付き、緩慢過ぎる動作でその手を引いた。今の俺には、父母の墓に手を触れる資格すらない。この手は、幾多の罪無き人々の血に汚れた、殺人者の手だ。洗っても、落ちはしない。
あの時、父を母を、故郷の人々を失い、自分の無力に打ちのめされ、力を望み、魂と引き換えにして力を得て――生まれながらに持っていた異能の力を目覚めさせられて、結局それが何になった? どうすれば良かったのかなど分からない。今、はっきりと分かるのは、自分はしてはならない過ちを犯した、という、そのことだけだ。
その力で、守ることなど出来なかったではないか、愛していた女を。それどころか、永遠に彼女を失う結果になった。自らの手で。
あれは、俺に対する罰だったのだ。暗黒の魔の力に、俺は抵抗しきれずに、受け入れてしまった。人の心を手放したから、その報いとして最も大事な人を失ってしまったのだ。
「アルテミシア……」
私が死んだら、私のことなんか忘れて、と言った彼女。
本当に忘れられるのなら、もう一度会いたい、などと愚か極まりない願いを抱くこともないだろうに。
死んでしまった、既にこの世にいない彼女に。
その時、墓碑を見つめていたレオンハルトは、不意に顔を上げた。それを合図にしたかのように、急に強い風が吹き付けてきた。風に彼の黒い髪が吹き乱され、宙に色をつける。
レオンハルトは、深い黒曜石色の眼を見開いた。村は、森に寄り添って造られていた。風は、森の方角から吹きつけ、信じ難いものをもたらしてきた。
歌声だった。
秘めやかな囁きに似た、あえかな細い歌声。
はっきりとした歌詞は持たない、だが、昔、よく聞いていた歌。
「……そんな……馬鹿な……」
呟くレオンハルトの声は、半ば茫然自失としていた。
「この……声、は……」
信じられなかった。それでも、レオンハルトの心は、熱い衝動に弾かれた。
聞き間違えるわけがない、この声を。片時も忘れたことはないのだ。
レオンハルトは、無我夢中で、森の中に分け入った。風に乗った歌声に誘われるようにして。
下生えの間を駆け抜け、藪を掻き分け、垂れ下がる蔓を払い、枝に頬を打たれても、ただ走る。
「まさか、本当に君……君なのか、生きていたというのか!?」
歌声の持ち主の姿を求めて。
この世でただ1人の、レオンハルトは愛した娘の名を叫んだ。
「アルテミシア!!」
娘は、泉の水面に目を落として、一心に歌っていた。
年の頃は17、8歳。黄金を糸にして紡いだにも等しく見える、長い髪。肌の色は万年雪の白さで、柔らかく細められた
美しい娘だった。
しかし、初めて娘を見る者は、その美貌よりも、ある一点にまず目がいくだろう。
金色の髪をかき分けて、突き出した短剣のような長く尖った耳。
娘は人間ではなかった。妖精族の、エルフの娘だった。
ふと、娘の長い耳が、ぴくりと動いた。娘は歌を止めた。森の木々と、泉の水と、岸辺に揺れる花と、樹の葉の間から洩れてくる幾筋にも分かたれた日の光と――今まで、娘の歌に耳を傾けていた聴衆以外の、新たな観客の到来のためであった。
ゆっくりと、娘の青い瞳が背後を振り向く。花開く、勿忘草。
その双眸に、1人の青年の姿が映し出される。彼女の記憶の中の、少年と若者の間の過渡期にあった彼とは違い、完全に成人した、しかし、こればかりは変わることのない、深く澄んだ黒曜石色の瞳の青年。
娘は、泣き笑いの顔で立ち上がった。小さな足が軽やかに地面を蹴って、華奢な身体が青年に向かって走る。
白皙の美青年は、喜びよりもむしろ不安そうな面持ちで、娘を見た。夢ではないだろうか、幻ではないだろうか、自分が触れた途端に、彼女は消えてしまうのではないか、と。
躊躇いがちに、恐る恐る、青年は、娘の名を呼んだ。壊れやすい宝物を扱う声音で。
「……アルテミシア……」
娘もまた、青年の名を呼ぶ。涙に潤んだ声で。
「……レオンハルト!」
2人が、互いに手を差し伸べあったのは同時だった。娘の身体は、青年の胸の中に飛び込み、青年は、両腕で彼女をしっかりと抱き留めた。
もう二度と、この手に触れることなどありえないと思っていた、膚の温もり、髪の流れ。レオンハルトは、居ても立ってもいられぬほどに、ただ、彼女を、どうしようもなくアルテミシアを愛している、その溢れかえる想いだけで胸のうちを埋めた。