Chapter-4「薔薇と妖精」

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「ほう……詳細は分からんが、あれを消滅させたのか」
 暗闇の中で、死霊魔術師(ネクロマンサー)は呟いた。魔法によって遠視の映像を結び、自分の行使した死霊魔術(ネクロマンシー)の行方を見物していたのだが、急に光が爆発したかと思うと、術は全て解けてしまった。
 神槍の真の姿が解放されたとき、その桁外れな聖なる力の発露に、不死の悪霊が行使する魔法は耐えかねたわけであるが、無論、フーリックにはそのような原因と理由は分からない。ただ、“死の嵐”の魔法が、いかなる事象でか破られた、という事実があるだけで、それ以上は死霊魔術師には特に必要ではなかった。
 再び、結ばれた映像の中では、レオンハルトが、倒れたカインを抱え上げるのが見えた。その時、一瞬だけ、レオンハルトの黒曜石と同じ色の瞳が、まともにフーリックの両眼を射た。「見られ」ていることに、気付いたのかもしれない。レオンハルトは、桁違いに優れた剣士であると同時に、桁違いに優れた魔法使いでもあるのだから。生まれ持った、異能者という才のために。
 英雄詩(サーガ)は高らかに称え謳う、彼を“剣と魔法を意のままにする静かなる魔法戦士”と。
 だが、多くの者は知らぬ。帝国を打ち倒しし4人の英雄の1人である“静かなる魔法戦士”は、実は帝国皇帝の片腕であった“闇将軍(ダークジェネラル)”と同一人物であるということを。それがために、勝利の喜びを共に得ることは出来ないと、“静かなる魔法戦士”は、“暗黒戦争”終結後、独り、何処かへと去っていくのだ。
 無慈悲な侵略者と、救国の英雄。相反する二つの過去が、今もってなお、“静かなる魔法戦士”レオンハルトの心を苛み、癒せない傷を抉り続けている。
 しかし。
 端整極まりない美貌に、寂寞とした愁いを感じさせる深い双眸は、今、はっきりと光を宿していた。彼が元から持つ、“制約(ギアス)”の呪いを受けても失わなかった、理性の光とはまた違う。
 暁光に、とてもそれはよく似た光。暗く、暗く昏い、いつまでも続くかと思われた夜闇を照らし出す、夜明けの光。闇の中の無限迷路を、ただ苦悩のままにあてどもなく彷徨っていた魂は、闇を切り裂く光を見つけたのだ。
 実に素晴らしいことだった。
 それでこそ、「仕上げ」に相応しい、最上級の絶望を魔王へと捧げることが出来る。魔王と呼び慣らわされ、神々の歴史の中から抹消され、その存在ごと封じられた破壊神の降臨のために。かの神よ、大地母神の封印から解き放たれ、滅亡の力を存分に(ふる)われたまえ。
 映像の中で、レオンハルトは今一度、視線に一際の勁さを込めてフーリックを見据え、それから背を向けた。
「……さて、この先が楽しみなことよな」
 レオンハルトの腕に抱えられたカインの顔が、フーリックの視界に捉えられる。
 己の過去を悔やみ続ける青年が出会った、己の過去の記憶を失った青年。
 黒い髪と、類稀なる美貌を持つ点は、レオンハルトと共通する。その身の中に、大いなる力を秘めていることも。推測ではない、確信だ。
 この手を通して、伝わってきた。
 とてもよく似ているように見える2人だが、カインにはレオンハルトと決定的に、異なりすぎる点があることも。
 フーリックは、カインに触れようとして拒絶されて白煙を噴いた、右手を見下ろした。
 あの時、刹那よりも短い瞬間に、ひどく混乱した力が感じられた。その中に、最も奥深い、深すぎる場所に厳重に押し隠された、しかし確実に(うずくま)っていたもの。
 灼熱の狂気に酷似した、――深刻な憎悪。世界を滅ぼしても構わない、とまで思いつめるほどの激烈な憎しみの感情だった。
 それは、あまりにも、魔王の降臨を歓迎するものではないか!
「追ってくるがいい。君達と再び(まみ)えるときこそが、全ての終わりと始まりだ」
 そして、死霊魔術師はそのまま軽く手を払い、映像を消した。後には、誰も何も存在していない風な、沈黙に満ちた暗闇だけがただ、何処までも広がるだけだった。



 鎧戸を閉め、テーブルの上に置かれたランプに火を点すと、暗さを払いのけて人工的で柔らかな橙色の灯がじわり、と部屋の中に滲む。
「……行きたい所がある、いいか? カイン」
 その明かりを見るともなしに見やって、レオンハルトがぽつりと口にすると、カインは鋭利さと繊細さを矛盾無く併せ持つ、美しい貌に苦笑を浮かべた。
「何処へだ? ……と訊きたいところだが、別に俺に許可を求める必要などないだろう。俺は、記憶があろうと無かろうと、北方大陸の地理には不案内なんだし」
「そうもいかん。俺の我儘だから」
「我儘?」
 その言葉が、いかにもレオンハルトには不似合いに思われて、カインは首を傾げる。
「俺の……故郷へ行くことが」
 そう口にしたレオンハルトの表情は、郷愁よりもはるかに沈痛が勝っていた。
 レオンハルトが18歳の時、帝国の侵攻を受け、滅び去った彼の故郷。誰もいない、死に絶え、炎に燃え尽きた村。それを目の当たりにしたというのに、同じ光景を幾つも作り出してきた、愚か過ぎる自分への侮蔑。父、母、妹、友人達、そして、恋人。今となっては望むべくも無い、平凡な人間としての、平凡だがそれでこその幸福な日々。二度と、この手に取り戻すことはかなわない。両親と恋人はこの世から去り、妹と友人達は、自分から望んで彼らから離れた。
 剣を握った手にぬめる血の感触も、抵抗の術を持たぬ相手に魔法の雷霆を打ち下ろした感覚も、建物を人を焼きつくして肌を炙る炎の熱さも、何もかもが忘れられない。忘れてはならない。忘れることは許されない。
「……レオンハルト、しっかりしろ。お前の故郷を滅ぼしたのは、お前じゃない」
 不意に、カインがきつい口調で、活を入れるように声を発した。
 カインは、眼に強い光を込めて、レオンハルトの深い黒曜石色の瞳を真っ直ぐに見据えていた。吸い込まれてしまってもおかしくない、そう思わせられる神秘の黒紫色は、今はレオンハルトが亡くした大切な人の瞳と同じ、勿忘草に似た青を帯びて見えた。そのカインの双眸から目を逸らすことなく、レオンハルトは淡々と言った。
「だが、アルテミシアを死なせたのは、俺だ」
「レオンハルト」
 カインがレオンハルトの名を呼んだ声に、もう一つの声が重なって聞こえたと思うのは、気のせいだろうか。
『レオンハルト』
 燃え盛る炎を背に、涙を流しながら微笑んでいた娘の透き通る声が。
 レオンハルトを決して責めることなく、炎に彩られながらただ愛しそうに彼を見つめていた、金の髪と青い瞳のアルテミシア。
 そのまま、炎の中に消えてしまった、レオンハルトの永遠の恋人。

「忘れろとは言わん。しかし……それ以上のものを、負う必要が何処にある」
 小さくかぶりを振り、カインは互いの吐息が触れ合うほどの間近な距離まで、足を踏み出した。それは、レオンハルトを叱咤する風にだった。
 視界一杯を気が遠くなるほどの美貌に占められると、共に旅をしている相手が、改めて美しすぎることを意識させられる。細面の輪郭の中に、選び抜かれたパーツが、どう配置すれば最も美しいか、そう天工に計算されつくされた、完璧な麗姿。レオンハルトは、淡い笑みを浮かべてカインの肩に手を置いた。
「大丈夫だ、カイン」
 いかなる理由でか、神の武器を振るうべしと選ばれたという青年の肩は、細く華奢だった。
 もしも、この肩が震えることがあれば、自分はカインの力になることが出来るだろうか、彼が自分に泣くことを許してくれた時と同じように。いや、力になりたいと思う。支えてやりたいと思う。
「もう俺は、闇の中に惑ってはいない」
 光を、見せてくれた人を。
「……そうか」
 ならいいが、と、カインは小さく頷いた。
「ならば尚更、俺には反対する理由は無いな」
「お前は」
 テーブルの上で、ランプの光を鈍く揺らめかせるカインの剣の鞘に、ちらりとレオンハルトは視線を走らせた。
「自分の素性を思い出しても、お前は国に戻らなくていいのか」
 カインの出身地だというヴィエナ王国という国の名を、レオンハルトは知っていた。幼馴染のフリードリヒは、北方大陸の人間には珍しい、淡い亜麻色の髪と鮮やかな緑色の眼を持っていたが、それは彼の祖父が西方大陸の出身であり、その祖父から同じ色彩を受け継いだからだ。
 北方大陸フロレンツ王国の、小さな村に落ち着くまで、あちこち旅して回ったというフリードリヒの祖父ルーサーは話し好きの話し上手で、自分の旅してきた場所のことを、孫やその友達によく話してくれたものだった。
 その中にヴィエナ王国の話もあった。
 温暖な気候と肥沃な国土に恵まれ、西方大陸一の富強を誇る、強大な王国。中でも、ヴィエナの名を大陸に高く知らしめるのは、竜騎士団の存在だった。
 馬の代わりに神獣といわれる飛竜を駆り、空を翔ける天の騎士達。竜に騎乗するには、馬に乗るよりも遥かに高度な技術を要するため、竜騎士は代々世襲制をとり、幼い頃から訓練を重ねるという。
 父親が竜騎士団長だったというカインも、当然、彼自身が竜騎士であることは想像に難くない。
「……そうだな」
 刹那、カインの両瞳に複雑な感情が浮かぶ。
「今はあまり、国に戻りたいとか戻らなければならないとか、――懐かしいとか、そういう風に思えない。母も、父も、もういないしな」
 生まれ育った故郷を、懐かしく思えない。それはとりもなおさず、その故郷での思い出が、幸福よりも不幸の方が多かったから。そういうことではないだろうか。
 ましてや、カインが魘される悪夢を抱く故郷であるのならば。
「お前を待っている人がいないとでも?」
「俺は、もう死んだと思われているかもしれん」
 そう言って、カインは軽く肩をすくめた。
 確かに、どうして、どうやって、の、前後の事情は不明のままだが、西方大陸出身のカインが、北方大陸の森の中で倒れていたことは、尋常の事態であるとは考えられない。そして、杳として消息の知れない騎士を、戦死者扱いにしてそのように処理されている可能性は、大いにありうる。
 過去の記憶が碌に無い分、その辺りは、カインは割り切ってしまっているようだった。時折、脳裏をかすめる少女や少年の面影が気にならないと言ってしまえば嘘になるが、彼にとっては、今現在のことのほうが、重く、大きかった。
 カインがレオンハルトの見つけた光であるならば、その逆もそうなのだから。
 襲い来る暗闇、呪いの声、重苦しい罪の朧ろな記憶。錯綜する全てが、訳の分からない焦燥を呼ぶ中、カインにとってはっきりとレオンハルトだけが確固たる存在だった。
「第一、少し思い出したからといって、ここで全部投げ出すのは、俺の性分ではないんでね。最後まで、きっちりつき合わせてもらうぞ、レオンハルト」
 初めて出会った頃と、全く変わらない言葉を受け、レオンハルトはやはり変わらない反応を返した。
「――ああ、頼りにしている、カイン」
「お互いにな」
 ふと、カインは窓際に置かれた花瓶に眼を留めた。

 花瓶に生けられた薔薇から、一片の花びらが散り落ちていた。少女に請われるままに買った、薄紅色の大輪の花。
 本当に妖精の騎馬行(フェアリー・ライド)で現れた妖精のようだった、カインの母、ライーザの姿が重なる。
(愛しているわ、カイン)





 遠く密やかに、少女の歌声が蘇る。
 優しい母が、愛しい子に、深い愛を込めて歌う、祈りの歌が。


『Shadow Saga』Chapter-4「薔薇と妖精」 fin
2008/03/30