Chapter-4「薔薇と妖精」

―7―

 ――ヨ。
 誰かが、呼ぶ声がする。闇の中から。
 はっきりと、名を呼んではいないのに、自分を呼び寄せようとしているのだ、カインにはそれが分かった。
 そして、その声には、明らかに彼を捕らえようとする意思があった。何故、俺を? 訳が分からないまま、カインは走り出した。分かっているのは、ただ、声の主に捕まってはならない、ということだった。だから、逃れるために、カインは走った。
 俺の命の使い方は、俺が自分で決める。貴様の勝手になど、させない。
 無駄ダ。
 言い放たれる無情な言葉。しかし、それでも! 立ち止まって、闇の意思に囚われるくらいなら、無駄と分かっても、走っていた方がいい。
 逃ゲラレルトデモ思ッテイルノカ。
 なら、どうしろと? この闇に囚われれば、どうなる? もう御免だ。俺は決して、闇に染まらない。もう、「再び」!
 オ前ハ逃ゲラレナイ。
 声は繰り返す。カインの心の奥底にまで、闇の言葉を刻み込もうとするかのように。
 オ前ハ逃ゲラレナイノダ。
 カインは足を止めた。いや、正確には、止めさせられた。左手が闇に絡めとられたのだ。押そうが引こうが、びくともしない。闇の意思は、カインを己の中へと取り込もうとしていた。
 忘レタノカ。
「だッ……黙れ!!」
 絶叫するかのように、カインは言った。声は出る。それだけでも、闇に抗う術がある。恐れるな。
 オ前ハ、オ前ノ望ム道ニハ進メナイ。覚エテオクガイイ、オ前ハ、オ前ノ“血ノ宿命”カラ逃レルコトナドデキナイ。自由ニナドナレハシナイノダ……。
「黙れ、黙れ、黙れ! 俺は……!!」
 忘レルナ、オ前ハ光ノ下デナド生キテイケナイ。
 闇が、カインの体に絡み付いてくる。左手から左腕を伝い、四肢を、華奢な全身を隈なく支配しようとして。その理由は? それこそが、逃れる術もない“血の宿命”やらとでもいうのか?
 オ前ハ逃ゲラレナイ。逃ゲル場所ナドナイ。
 闇の声は、彼を跪かせようとしている。そして、頭を垂れ、完璧に服従することを要求する。
 体中を駆け巡る戦慄。心を、とてつもなく残酷な精神が、侵蝕してこようとする。
 憎い。
 奴等が、憎い。俺を、「あんな目」に遭わせた、奴等が憎い。そうだ、憎め。俺にはそうする権利がある。あれほどにも傷つけられ、追い詰められたではないか。憎み、復讐する、当然過ぎる権利があるのだ。殺せ、殺してしまえ、何もかも、殺しつくしてしまえ、滅ぼしてしまえ! そのための力が、俺の内にはあるだろう。
 いや、違う。俺が本当に望んでいることは、そんなものでは! 俺は、ただ――。
 オ前ハ“闇ニ棲マウ者”ナノダカラ……!
 矛盾する思考を抱えたカインの心を抉るように、闇は言う。そして、更に重ねて服従を強制するために、彼を引き倒す。
「や……やめろ……!」
 腕を捻り上げられ、肩を抑えられ、膝を屈せられる。
 オ前ハ“闇ニ棲マウ者”ナノダカラ……!
 繰り返される、闇の言葉。
 違う、俺は貴様らの仲間なんかじゃない。そんな“宿命”など、願い下げだ!!
 何かが、カインの中で弾けた。誰かの顔が、脳裏で明滅する。顔のはっきりしない、男や女。小さな少女、美しい女性、明るい瞳の少年、黒い髪の男性。カインの母、ライーザが微笑む。そして、白皙の美貌の青年。彼は、静謐に光たゆたわせる、黒曜石と同じ色の瞳でカインを見つめ、手を差し伸べてきた。
 レオンハルト……!
 声に出さずに叫ぶと、カインは、何か不思議な力が体に満ちてくるのを感じた。あの、神槍が隠していた力を解放したときと、同じような感覚だった。
 闇に亀裂が走り、びしり、びしり、と音を立てて割れていく。カインは、手を伸ばした。レオンハルトの指に、カインの指が触れた。
 闇が完全に崩れ落ちた後、どんな世界が広がっていたか、カインには確かめることが出来なかった。




 カインは、瞼を開いた。意識が夢の中から現実に戻ってきたのだということに、すぐに気付いて跳ね起きる。
 夢?
 果たして、あれは本当に夢だったのだろうか? 母のことも、何もかも?
 頭をめぐらせると、ちょうど窓辺から振り向いたレオンハルトと、視線が交わった。
「カイン」
 冴えた低い声が、穏やかにカインの名を呼ぶ。感情の起伏をあまり露にしない、それでいて確かに、体温の暖かさを感じさせる声で。
「……レオンハルト……」

 宿屋の部屋の中は、ほの暗くなりかかっていた。窓の外の空の色は、夕焼けの名残もほとんど消え、鮮烈な青に取って代わって、淡い紫が天と地の境から少しずつ領域を上へと広げようとしつつある。祭りの喧騒はもはやはしゃぎ疲れた後のさざめき程度で、ほとんど余韻を残しておらず、白い上弦の月が、ぽつんと寂しげに地上を見下ろしていた。カインが知らない間に、現実の時間は随分進んでいたらしい。
 カインの横たわっていたベッドの枕元には、彼の剣が鞘に納まったまま立てかけてあった。ライーザの姿はない。
 3日間のフロレンツ王国建国祭――その祭りの間だけ、存在することを許されていたかのように、少女は消えた。
 ため息、というほど重くはない吐息を洩らしたカインは、小さく頭を振った。揺れた黒い髪が、微かな音を立てる。それから、レオンハルトに向き直り、軽く頭を下げた。
「また、お前に迷惑をかけたみたいだな。すまん」
 そもそも、2人の最初の出会いからして、森の中で倒れていたカインをレオンハルトが助けたのがきっかけだ。傍目には、単に人事不省に陥ったカインを、レオンハルトがここまで運んでくれたのは容易に察せられるが、それにしても、これで何度目だろう。レオンハルトに対しては弱さやみっともないところを見せるのを、別に恥ずかしいとは思わないカインだが、どうも彼に世話を掛けっ放しで申し訳ない気がするのだった。
 レオンハルトは、「気にするな」と答え、彼にしては珍しく、からかうような笑いを唇に浮かべた。
「お前の体は細くて軽いからな」
 自らも細身の体格を持つレオンハルトのその発言に、カインは片膝を立ててベッドの上に座った姿勢のまま、心外だ、と言いたげな目をレオンハルトに向けた。
「そんなに軽いか、俺は? 大体、それは、お前が馬鹿力だからそう感じるだけだろう」
「何か言ったか、か弱い綺麗な姫君」
「……」
 見事に、かつ微妙に反論を封じられたカインは、不本意そうに形のいい眉を顰める。
 いくら何でも姫君に喩えることはないだろう、と、口の中でぶつぶつぼやく様子は、普段の怜悧にすぎるくらいのカインからは想像もつかない、いやに子供じみた仕草だった。ただ、それでも、彼の端整極まりない秀麗な容貌にとっては、それすらも彩りに見えるのだが。

 レオンハルトは、ひとしきりカインをからかって気が済んだのか、普段通りの沈着な表情を取り戻す。改めて、という風にカインに向き直った。
「……あの光は何だったんだ?」
「お前は、何処まで見た?」
 カインも気を取り直し、問いに答える前に靴を履きながらベッドから降りて、剣を手に取った。反問を受けたレオンハルトは、不服を感じた様子も無く答えを返した。
「全部、消えたところまでだ。光と共に。気付いたら、剣を掴んだまま、お前が倒れていた」
 全部、という箇所に多少の含みを持たせて。
「……そうか」
 カインは、剣の鞘を払った。現れた抜き身の刃に向かって、戻れ、と念じる。
 怨霊の嵐を吹き飛ばしたほどの激しさはなく、清冽でいて優しい、白い光を発した剣はその衣を脱ぎ捨て、真なる姿である槍へと姿を変えた。
「これが、その光の正体だ」
 眩き光纏う輝く槍は、一見、武器というよりも武器の形に造られた芸術品にも見える。穂先といい、柄といい、いたるところに美しく繊細な彫刻やレリーフが施されており、そのために非常に優美な印象を与えるのだ。
 だが、魔法戦士であるレオンハルトは、その槍が持つ“力”の波動を否応無しに感じ取ることになったらしく、一瞬、圧倒されたように、僅かに後退った。
「……これは」
 息を呑み、何拍か置いてから、若干かすれた声をレオンハルトは発した。
 彼が感じたのは、決して威圧的な“力”ではない。むしろ、優しい微笑を浮かべて、あまねく者を包み込むような、柔らかな慈愛に満ちていた。それなのに、いや、それだからこそ、気が遠くなるほどにその“力”はあまりにも巨大すぎた。
「……単なる魔法の武器ではないな。普段、ありふれた剣のように擬装しているのは、強大……いや、莫大すぎる力を抑えるためか」
「分かるか、やはり」
 カインは、手の中で槍を剣に変え、鞘へ収めた。
「これは神遺物(レリクス)、らしい。確証は無いが――大地母神ルンナの神槍“魔封じの槍(エビルスレイヤー)”だろう、と」
「神遺物、だと? 大地母神の?」
 冬の深い湖を思わせる眼を見開き、レオンハルトは剣とカインを交互に見比べた。
 白い輝きを放った槍は確かに、女神の持ち物だったと言われれば納得させられる繊麗さだった。更に、あの優しい、全ての生きとし生けるものを許し守ろうとする磐石たる気配は、大地を冠する母なる神のものであれば、当然といえば当然と思わせられた。
 神遺物。
 その名の通り、神話の御世、創造神ハルキフスズ率いる神々と、堕神アディリウス率いる魔族との戦いの後、天上の万神殿(パンテオン)に去った神々が、この地上に残していった、神々の使用していた品物。それは、必ずしも武器とは限らず、楽器であったり、装飾品であったり、衣服であったり、日用品であったりと、形は様々だ。
 それらは、かつて神々がこの大地に間違いなく存在していた、と証明する事物であると同時に、手にした人間に対して、正に「神の如き」力を与える、神秘の品々である。時の流れの中でも朽ち果てることのない神遺物は、あるいは大地の何処かでひっそりと眠り続け、あるいは神の力を欲する人間の手に取られ、適格者には力を与え――神の如き力を得るに相応しくない人間を、神の威をもって分限を知らしめていた。その身を、瞬く間に塵芥と化させて。
 レオンハルトの持つ、魔剣“暗闇の剣(ダークブリンガー)”もそうだが、強い力を秘めた、特に武器は、使い手を自らが選ぶ。神の武器を手にする、ということは、とりもなおさず、神に選ばれた、ということだ。
 つまりは、過去の記憶を失った、レオンハルトの眼前に立つ美しい青年は、失われた過去に、女神の神槍に相応しい使い手として選ばれていたのだ。
「……西方大陸は、神と魔の最終決戦地となった場所、といわれている。神遺物が、他の大陸に比べて多く残っていても不思議ではないが……」
 魔王と呼称される、堕神――破壊神アディリウスは、西方大陸に、大地母神によって封じられたという。シプルの街にある大地母神の神殿で、老いた高司祭に聞いた話を、レオンハルトは思い出した。同時に、黒い肌と紅い瞳を持っていた娘の明るい笑顔もが脳裏に蘇り、胸の奥に鈍い痛みを感じさせた。
 その外観だけで、不当に未来を奪われた娘。
 あの娘の双子の弟は、元気で暮らしているだろうか。

 カインは、静かに微笑んだ。普段、彼を見慣れている筈のレオンハルトであっても、眼を奪われずにいられないほどに、透明なまでに無垢な、ただ純粋に美しい、としか形容のしようのない笑顔。
「少しだけ、思い出した」
 そう言って、カインは手に持ったままだった剣を、テーブルの上に置いた。
「俺は、ヴィエナ王国という国で、当時の竜騎士団長であり、公爵位を戴いていたヘクトール・キール・リュート・アーヴィノーグと、その妻ライーザ・フォラーニ・アーヴィノーグの間に生まれた。俺の名の略号である『H』は、父の名であるヘクトール、だ」
「ライーザ、だと?」
 ほんの僅か、片眉をレオンハルトは上げた。それは、驚愕の表現というよりも、彼が理解した、ということを示していた。
「ああ。……彼女は俺の、……死んだ母だった」
「……そうか。やはり、お前と親密な繋がりがあったわけだな」
 レオンハルトは、カインの発した、死んだ、という言葉にはあえて触れなかった。ただ、納得出来ただけだった。
 少女が、カインを知っていたことに。無邪気な少女の姿をしていながら、大人の女性の表情と仕草をしていたときの方が、よほど自然に見えたことに。
「……幸せな時が、俺にもあったようだ」
 愛しているわ、繰り返し囁く母の声。
 細密画(ミニアチュール)に淡く濃く色がつき、俄かに現実の質感を伴って、動き出す。黒い髪の父が幼いカインを抱き上げ、蜂蜜色の髪の母が穏やかに笑う。明るい日差しは惜しみなく降り注ぎ、この世には幸いしかないと、祝福に満ちた光景がそこにはあった。
 幸せな、幸せな、幸せな。


 幸せすぎて、もう、遠すぎる――過去。