Chapter-4「薔薇と妖精」

―6―

 比喩表現ではなく、本当に光が爆発したのだ。周囲はその白い光に包まれ、怨霊の嵐も喪色の結界も、何もかも吹き飛ばされた。
 何処までも真白き光に満たされた、空間。カインの傍らに、レオンハルトの姿は無かった。
 光は、カインが発していた。正確には、カインが手にした、眩く輝き纏う槍が、光の源だった。
「……どういう、……ことだ……」
 状況が読めずに、半ば呆然として、カインは呻きに似た声を出した。
 自分は、確かごく何の変哲も無い、ただの広刃剣(ブロードソード)を握っていたはずだ。まさか、あの剣が、この槍に変化したというのか。
[カイン]
 柔らかく、優しく、彼の名を呼ぶ声に、カインはそちらへと視線を向けた。
 光の中で、1人の女性が光を透かして立っている。少女ではなく、ペンダント・ロケットの中の肖像画に描かれた、美しい女性が。細密画(ミニアチュール)そのままの姿に、少女と同じ、蜂蜜色の髪と青みがかった紫の瞳を持って。

「母上」
 カインが、少女ライーザに、奇妙な懐かしさを覚えたのも当然だろう。確かに、彼女の正体はカインの母・ライーザではあったが、記憶を失っていなくとも、自分を生んだ母親の幼いころの姿形を知るわけが無い、というわけだ。
 そして、奇妙な空虚のような感情を伴っていた理由は。
[思い出した?]
 少女の声音で悪戯っぽく言い、ライーザは少し首を傾げて笑った。
「……少なくとも、貴女のことは、母上。我が父ヴィエナ王国竜騎士団長にして公爵、ヘクトール・キール・リュート・アーヴィノーグが夫人、ライーザ・フォラーニ・アーヴィノーグ」
 カインは曖昧に頷いた。
 確かに思い出しはしたが、それは彼の過去の記憶を覆い隠す分厚い雲の間から、辛うじて一条の光明が零れ落ちたようなもので、大半は未だに何処かに置き去りにされたままだ。それでも、今までの何か掴めそうで掴めない、そのもどかしさから考えたら、随分大きな一歩ではある。
 カインが、ヴィエナ王国という国の生まれであること、竜騎士団を率いていた父ヘクトールと、目の前にいる母ライーザ、その2人の間に生まれた――という出自は、少なくともはっきりしたのだから。

[大きく、なったわね、カイン]
 限りない感慨を込めて、ライーザはカインを見上げる。カインは、どういう表情をして見せたら良いか分からず、輝く槍を肩にもたせかけて、ただ真っ直ぐに母の紫の双眸を見返した。
[最後に別れた時の貴方は、これくらいしかない、ほんの小さな、6歳の子供だったのに。もうすっかり、お父様くらいの背丈になって。あの時の貴方は、可愛らしい女の子みたいだったけれど、こんなに立派になったのね]
 自分の腰の辺りを「これくらい」と示して、ライーザは、今度は寂しげな笑いを漏らした。
[久しぶり……と言っていいのかしら。やっと、こうして会えたわね。今、幾つになったの?]
「今年で、21です」
 カインもまた、そこで、ライーザによく似た笑い方をした。そうやって、同じような表情を乗せてみると、やはり母子という密なる血の繋がりがあるためか、髪の色も瞳の色も違っても、2人はとても似て見えた。
[そう……15年も、経ってしまったの、……ね、……あれから]
 言いながら、ライーザがカインに向かって抱き寄せようと広げた腕は、カインに触れるか、と見えたところで、すり抜けてしまった。
妖精の騎馬行(フェアリー・ライド)の季節だから、ですか。再び、会えることが出来たということは」
 それを予想していたのか、特に動揺することも無く、カインは、レオンハルトに聞いた単語を思い出し、口にした。
 死者の気配が濃くなる季節。妖精達の住む常若の国(ティル・ナ・ノグ)から、若くして現世での命を失って妖精の国に連れて行かれた者が、妖精の馬に乗り、残された者に会うために、年に一度だけ帰って来るという御伽噺。誰かが会ったことがある、そんなあやふやな「お話」を信じたいと思い、亡くなった夫や妻、恋人、友人、我が子――彼らのために、香を焚き、生前の好物を供えたりする。会いたい、と、祈り願う。
 その御伽噺が仮に真実だったとして、ここフロレンツ王国以外の地で死んだ人間にも、御伽噺は適用されるのだろうか。

 光の中でも、カインの体は透けていない。ライーザの体は透けている。それは、とりもなおさず、カインは実体だが、ライーザはそうではない、ということだ。実体、つまりは肉体を持たない者――すなわち、既にこの世には存在しない者。
 死者。

 会いたいと願う心は、生者のものだけではないのだろう。あるいは、死んでしまったからこそ、その願いは生者よりもずっと純粋なのかもしれない。
 少なくとも、過去を碌に覚えてない俺よりは、遥かに。カインは、心中で密かにため息をついた。そして、ふと思った。レオンハルトの失われた恋人、アルテミシアはどうなのだろうか、と。
 彼女については、レオンハルトはカインにすらも多くを語らない。それでも、短く少ない言葉の端々にも、どれだけレオンハルトがアルテミシアを愛していたか、愛しているか、否応無しに伝わってきていた。そこまで深く人を愛せることを、カインは羨ましく思ったこともある。
 レオンハルト自身は、恐ろしいくらいに現実主義者で、根拠も無い御伽噺に願いを掛けることなど一切無い。失われた人にはもう二度と、絶対に会えないのだということを、レオンハルトは冷徹なまでに理解している。
 それ以上に、彼が願わない、いや、願えない理由も、カインは知っていた。
 どの面下げて、だ。
『俺が死なせた。俺が……アルテミシアを……』
 血を吐くよりも、もっともっと酷い苦痛と共に、レオンハルトは、そう声を絞り出した。
 愛しい、愛している。会いたい、会えない。
 お前の気持ちは分かる。だが、アルテミシアは?
 彼女が、もしもお前の前に現れたとしたら、お前はどうするんだ、レオンハルト?

 普通なら、越えられようもない、生と死の境界を、少女の姿を借りて越えた女性は、ぽつりと言った。
[どうしても、会いたかったの。貴方に。気付いたら、子供の姿であそこにいたわ]
 ライーザは、妖精の騎馬行、という言葉を否定はしなかったが、肯定もしなかった。
 よく分からない、ということなのだろう。
[それなのに、貴方は何も覚えてなくて。だから、つい、子供の真似をしちゃった]
 一度、目を伏せてから、不意にライーザは、今までの、慈愛に満ちた母親の笑顔を打ち捨てた。握ろうとしても握ることの出来ない、カインの手の上に、ライーザは自分の手を重ねた。
 ゆっくりと、切々と、ライーザは、カインが思いも寄らなかった、謝罪を口にする。
[……ごめんなさい、カイン。お父様の葬儀の日に、貴方は約束してくれたのに、私は勝手にいなくなってしまった。……私は、自分がこの世で一番不幸だ、などと愚かに悲観して、1人で逃げてしまった。ごめんなさい、本当に]
「……それは……」
 父の亡骸が納められた黒い棺。その前で、冷たい白い雪の上も構わずに、ただ泣き崩れる母。どうにかして、母の涙を止めて慰めてあげたくて、精一杯に言った……覚えがあるような、気がする。
『ねえ、母上。これからは父上の代わりに、母上を守ってあげるから。父上とも約束したから。だから、もう、泣かないで』
 冷たく血の気の失せた、母の手を握って。
 多分、とても寒い日だった。
「……母上が、謝られることは何もありません。結局、……貴女を守ることは、出来なかったのですから。所詮は、子供の手では」
 だから、守りたいと思ったのか。少女ライーザを。もう今は、無力な小さな子供ではなく、守りたいと思う心に、応えられる力を持っているから。
 父が、母が、どうして亡くなったのかは、思い出せない。それなのに、心が冷え冷えとするほど、その事実だけは、カインには「分かった」。


 ライーザは、自ら命を絶ったのだ。15年前に。
 もう、どうやっても、取り返しのつかない、過去。伸ばした手は手放され、二度と繋げない。
 死者の命は、決して戻ってこない。


 悲嘆と後悔。面上を、その二つの感情で埋め尽くして、ライーザは激しく頭を振った。
[いいえ、カイン。お父様だけでなく、私までいなくなって、貴方が泣かないわけがなかったのに。貴方は、まだ6歳だったのよ? それなのに、アーヴィノーグの家名を、公爵位の重荷まで負うことになって]
 紫の瞳から、どっと涙が流れ出す。
 もはや少女の実体を持たないライーザを、泣く少女にそうしたように抱き締める術はなく、カインは代わりに、ややおどけた風に言った。
「覚えておりませんが」
 嘘ではない。覚えていないのは本当なのだから。記憶喪失であることに感謝するなんて、初めてだ。カインは、軽く肩をすくめた。
「ですから、母上が責に思われることは、何も無いのです」
 そういうカインの態度が、あくまでも母の心情を思いやってのことだと、ライーザはかえって涙を溢れさせる。
[貴方は、記憶を失って……思い出したい、でも、思い出したくない、って、苦しんでいたでしょう? そんな思いをして――悩んで、傷ついて。覚えていたくなくなる気持ちが、私にだって分かるわ]
 ライーザの悲鳴にも似た慨嘆に、瞬間、カインがぎくりとしたのは確かだった。失われた過去を思い出そうとする度、思い出すな、忘れていろ、そう言う自分の声が聞こえたことは、一度や二度ではない。忘れたままでいたいと、思わずにいられないほど、陰惨な過去なのか。そんな戦慄を覚え、何度も身震いした。
 だが。

 カインは、咲きそむる花が開くよりも鮮やかに、笑った。晴れ渡って澄みきった青空のような、吸い込まれてしまいそうに綺麗な笑顔だと、レオンハルトが言う笑い方で。
「けれど、1人で泣いてはいませんよ。今は」
 胸を突かれた表情で、ライーザは顔を上げた。
「俺は、独りじゃありませんから」
[あの……レオンハルト、という彼のおかげなのね?]
「そうです」
 そう、独りではない。
 傍らに、常に共に歩いていける人がいる。肩を並べて、一緒に。支えて、支えられて。背中を預けあい、真正面から向き合える、誰よりも信じている人が、いる。
「だから、大丈夫です」
 安心してください。泣かないでください。嘆かないでください。亡くなってまで、後悔を抱いたままでいないでください。
 俺は、大丈夫、ですから。


 ライーザは、暫くカインの顔をじっと見つめ、それから、頬に流れる自らの涙を、拭った。
[カイン、やっぱり、貴方に会いに来られて、良かった]
 無邪気な少女と重なる笑顔に、カインは不意に思い出した。
 少女が歌っていた、あの歌。あの歌は、子守唄代わりに、母がよく歌ってくれた歌だ。不幸、などという単語は、その存在すら知らなかったであろう頃に。だからきっと、あんなに惹きつけられたのだ。
 まるで、この輝く槍の光が、堅く閉ざされた記憶の扉を、ほんの少しでもこじ開けるとば口になったようだ。
 光で出来ているといわれてもおかしくないほど、ほとんど重量を感じさせない槍を、カインは肩からずらし降ろした。
 長身のカインよりも更に長い柄を持つ槍は、形状としてはランデベヴェと呼ばれるものと同じくしていた。突くだけでなく、斬ることにも長けた幅広の両刃の穂先には、細かな装飾が施されている。
「この……槍については、貴女は何かご存知ではないですか」
 ほとんど唐突なカインの問いに、ライーザは少し考える仕草をしたが、答えはさほどの間を置くこともなく返ってきた。
[神槍“魔封じの槍(エビルスレイヤー)”だと思うわ、自ら光り輝く槍、というのは。大地母神ルンナが、魔王と戦い、封じる時に使われた、という神遺物(レリクス)よ。大地母神がシンボルとして携える、伝説の……]
 確かに、シプルの街で見た、雪花石膏(アラバスター)を刻んで造られた女神像は、右手に豊穣を意味する麦を、左手に槍を持っていたが。
「……大地母神の神像が、麦と共に手にしていた、あの槍の本物がこれなんですか!?」
[だって、あれだけの怨霊を、光で簡単に吹き飛ばしちゃったじゃない? どういう経緯で手に入れたか知らないけれど、貴方が持っているということは、今は貴方のものなんでしょう]
「……」
 剣が槍に変化した、というだけでも、充分に驚愕に値するというのに。まさか、それが実は神話に語られる大地母神の神槍でした、などと。
 一体、過去の俺は何を仕出かしたんだ。


 愕然とするよりも、唖然としたカインに、ライーザは静かに微笑みかける。
[ねえ、カイン]
 優しい声音が、ふわりとカインを撫でる。
[たった6年の間でしかなかったかもしれないけれど、お父様も私も、貴方をとても愛していたのよ。貴方がいてくれて、とても幸せだったわ。それだけは、覚えていて欲しいの。忘れないで、いておいて欲しいの]
 光の当たる強さや角度によって、纏う色を変えて見せる黒紫色の眼を、カインは見開いた。
 どうしても思い出して欲しいことがある、少女は言った。
「母上」
 喉に絡んだような声だと、カインは自分で若干、苛立ちを覚えた。何か言わなくてはならないことがあった気がした。呼べば、言葉が出てくるかとも思ったが、何も出てこなかった。
 ゆらり、と、ライーザの姿が揺れる。



[カイン。愛しているわ。疑わないで。それだけは……疑わないで]
 ライーザの輪郭が、足元から朧になっていく。
[愛しているわ、カイン]
 笑顔が、薄れていく。
[……愛しているわ……]
 次第に囁きは遠くなり、白い光の中に融けて、消えていった。
 自分の言いたいことは何だったのだろう。カインの右手は、固く拳を握り締めていた。
「……母上……」
 奇跡の時間は終わり、カインの眼前で、死者は再び、死者の沈黙へと還っていった。