その場だけが、周囲から完全に遮断されたように、あれほどに賑やかな他の物音や人の声も聞こえず、不気味な沈黙に支配されていた。燦々と注いでいる筈の陽光すら不自然に翳り、あらゆる事物の持つ色彩は喪に服したが如く、一様に「死」という言葉を連想させる色に染め上げられる。
実際に、魔法によって一時的に結界の中に切り離されたのだろう。恐らくは、離れた場所からここに向かって、レオンハルトとカイン、彼等2人を的確に
「レオンハルト、この子に、守護の魔法を頼む」
カインは、しがみついてきたままのライーザの小さな肩をそっと抱いて、レオンハルトに顔を向けた。
レオンハルトの黒曜石の瞳に映る、あらゆる者に畏れすら感じさせる整いすぎた美貌には、もはや苦悩の影は降りていなかった。
そこにあるのは、強い決然とした意志に満ちた、迷いなど微塵も感じさせない麗姿。
「……相手が相手だ。恐らく、気休め程度にしかならんぞ」
「それで充分だ」
レオンハルトの返答に、力強くカインが頷く。その応えを聞くや否や、「分かった」と、レオンハルトは守護を意味する魔法を発動させる呪文を口にする。
瘴気が、あからさまな悪意を剥き出しにして、生者達にまつわりつこうとし始めた。人が、怨霊、と呼ぶ形を取って。
「カイン……」
レオンハルトが発した魔法に包まれた少女の、青紫色の瞳が、不安を訴える。それは、明らかに、何がどうなって何が起こっているのか、という不安ではなく、明らかに、あまりもな異常事態が起こっていることを理解した上で、自分がカインの足手まといになりはしないか、という不安だった。
「言っただろう。何があっても、俺は君を必ず守る、と」
だからこそ、カインは同じ言葉をもう一度繰り返し、そして付け加えた。
「守りたいんだ。君が誰であっても、君を」
あくまでも優しく、少女から手を離すと、聖なる力によって仄白く光る刀身を、カインは鋭く薙ぎ払った。
切り裂かれた怨霊が、か細く糸を引く断末魔に似た声を残して消える。いや、断末魔というよりは――生ける者に対する、怨猜といった方が近かった。
何故、お前達は生きている?
お前達も死ね。我らと同じように。
自分達だけが、何故、こんな目に遭わなければいけない?
貴様らも死ね、死んでしまえ。
声なき声が、断続的に、それでいてはっきりと耳孔に忍び込んでくる。生者を、死者の仲間に引き入れんとして。
死霊魔術に取り込まれた死者の魂は、憎悪の感情のみを持つことを許される。
「ライーザ、目を閉じて、耳を塞げ! 奴らの怨念に、持っていかれないように!」
顔色を青ざめさせたライーザは、それでも、気丈にカインを見上げた。震えながらも頷くと、カインに言われた通りに掌で耳を押さえ、ぎゅっと両瞼を閉じて、しゃがみこむ。
カインは、少女から二歩と離れない位置に常に立ち、傍目にはひどく無造作に――そう見えて実は、この上なく正確にかつ無慈悲に、狂奔する怨霊を切り裂いていく。死者は死者へ返れ、とでも言わんばかりに。
レオンハルトは、カインと同様に左手に持った剣を振るいつつ、聖なる魔法を右手から紡ぎ出す。本来であれば、正式な修練を積んだ僧侶でしか扱い得ない
それは、レオンハルトが、ユリアナの兄であったために。
魔を射抜く弓を引き、傷ついた味方に癒しの魔法を与える、美しい
愛しい娘と同じ髪の色と同じ瞳の色を持つ、あらゆる魔法を使いこなす異能者たる魔法戦士に。
どうか、彼女を、守ってやって欲しいと。君の過去がどうあれ、彼女が信じる、君自身と、君の力を私も信じていると。
神に仕える男は、神のためではなく、愛する女のために、肉体の一片すら残さずにこの世から消え去った。「弓持ち癒しをすなる美しき娘」とは違う女性から、想いを寄せられていたことを知らずに。司祭たるその女性もまた、彼に殉じて、封の解かれた魔法をだけ遺し、逝った。
この戦いの末に、若き勇者達が勝利を掴み取れることを祈って。
魂が砕け散ってしまった彼等が、死霊魔術に使役される怨霊に成り果てるわけはないが、この怨霊の群れの中に、愛する人のために命を手放した者がいないと、言い切れるか?
――帝国の“
そんな死者の無念を、思う侭に操るために、ただ憎悪の感情だけを糧とする怨霊に貶める
この力が尽きようとも、必ず貴様を滅ぼしてみせる。
レオンハルトの手から、不浄を滅する神の矢の魔法が放たれ、それに貫かれた怨霊が消滅する。
信仰心など、全身隈なく探しても何処にも存在していないのに、祈りの言葉と手順を踏むだけで、力を貸してくれるのだから、確かに神は崇めるべき存在なのかも知れんな、と、レオンハルトは微かに皮肉げな表情を唇に乗せた。そのレオンハルトの横顔に、カインがちらりと視線を向けたが、口に出しては何も言わず、剣を振り下ろした。
祝福の加護を受けた剣が白い軌跡を描き、闇に潜む魔を狩る剣が銀の光を走らせる。
そうやって、2人して、ただひたすらに怨霊を斬り散らすこと、どれくらいの時間が経過しただろうか。
「きりが無いぞ、抜本的な対策は無いのか!?」
消しても消しても尽きる様子も無い怨霊相手に、さすがにいささかうんざりしてきたのか、カインが声を上げた。レオンハルトは軽く息を吐き、否定の意味で頭を振った。
「……無いだろう、術者を倒さない限りは。非効率的だが、根こそぎ駆除しかあるまい。向こうが飽きるのが先か、根競べだな」
「これぐらい対処出来んことには、所詮、奴を倒すことなど力不足もいいところということか」
カインは舌打ちしながらも、剣を上へと跳ね上げる。真っ二つに割られた怨霊が、恨みがましい声を立てて消える。
足元にうずくまる少女が、ふと視線を上げているのに、カインはその時気付いた。手も耳から離され、ライーザは紫の瞳で、真っ直ぐにカインを見上げていた。
「大丈夫なのか、ライーザ」
「……平気よ、怖くなんか、ない。貴方が、一緒だもの、カイン」
ゆっくりと、ライーザは笑った。可憐な少女のものでありながら、不自然である筈なのにごく自然に、完璧に少女の仮面を取り払った、少しだけ血の引いた相貌で。祈るように、胸前で両手を組んで。
「約束、してくれたものね、守ってくれるって」
不意に、カインの脳裏にその言葉が突き立った。
約束。
「カイン、あの雪の降る日に、私と手を繋いで、貴方は私に約束してくれた。だから――信じているわ」
そうだ、約束した。
今だけでなく、失われた過去にも。間違いなく、彼女と。
「――ライーザ、君は」
ああ、知っている、俺は君を。守ってあげるから、――の代わりに、と約束した。
約束、した。
頭の奥で、鐘が鳴り響くような音がする。ああ、これは葬送の鐘の音だ、と、カインは何故か理解した。
白い雪の上に、対照を成すように横たわる、黒絹を掛けられた黒い柩。黒い喪服を纏った人の群れ。啜り泣きの声が、あちこちから聞こえる。礼装姿の騎士達が、剣を抜いて哀悼を示している。黒いヴェールを被った女性が、棺の前で泣き崩れている。
――が亡くなった。
「……!!」
それは、記憶の底から聞こえてきた声だったのだろうか。
ヴィエナ王国竜騎士団長にして公爵、ヘクトール・キール・リュート・アーヴィノーグ卿。亡くなられし彼の方の魂が、無事に蒼き天に還られんことを。
ライーザは、カインを「カイン・ヘクトール・ハーバート・アーヴィノーグ」と呼ばなかったか。
ヘクトール。アーヴィノーグ。繋がる、2つの名前。
カインの胸に提げられたペンダント・ロケットに描かれた、幸せな家族の
少女が歌っていた旋律が、耳の奥に蘇る。
この歌は。
そうだ、祈りだ。愛する人への、強い、深い、優しい祈りの歌。
「まさか」
「カイン!!」
レオンハルトが、カインの名を呼んだ。
自分が呆然としていたことに気付き、カインは意識を手元に引き戻した。腕までもがだらりと垂れ下がっていたところを、剣の柄を握りなおす。
幸いにもというか、カインが自失状態にあったのは、現実には僅かな刹那であったらしい。
「どうやら、向こうは少し飽きたようだ」
レオンハルトの左手にある魔剣が、一度、大きく震えた。
それを合図にしたのか、勝手気儘に飛び回っていた怨霊が、何か形為すかのように、大きくうねり始めた。
と、見る間に、うねりは、ごうっと轟音立てる風となる。最初は風であったものが、瞬きする間もなく、吹き荒れる暴風から竜巻へと変化した。
逃げることもできずに、暴力的な風に足元を掬われ、巻き上げられる。きゃっ、という小さな悲鳴など、いとも容易く風の暴威が引きちぎってしまった。
レオンハルトが何か言ったようだが、風の威力のせいでほとんど聞こえない。
それよりも。
荒れ狂う嵐の波間の小舟よりも、更に簡単に、木の葉よりも頼りなく少女の体が翻弄される。
少女に手を伸ばしながら、カインは叫んだ。
「――母上っ!!」
その時だった。
光が爆発したのは。