ただ、ひたすら暗い。暗さに濃淡があるとすれば、それは最も濃密な闇といえるかもしれない。
ところどころに、灯りはある。しかし、その灯は闇の中に明るさを確保するためというよりは、より闇を深くするためのもののように思える。灯りは、何かの形を描くように並べられていた。
複雑な、魔法陣の形に。そして、灯が燃焼しているものは――赤錆の浮いた水? いや、違う。紛うことなき、それは血液だった。いくつもいくつもある灯明は、いずれも血液を燃料としているのだ。
その魔法陣の中央に、闇よりも更に黒々とした影。黒衣を纏っているせいかもしれないが、それよりも、むしろ存在そのものがまるで闇の根源であるかのようだった。
影は、立っているのでもなく、座っているわけでもない。宙に浮いている。長い杖のようなものを横たえ、じっと目を閉じ、何かを呟いていた。例え近くに誰かいたとしても、その言葉の意味を理解することは不可能だったろう。よほど、高位の魔術師でもない限り。そうであれば、分かるだろう。呟かれているのが魔法の呪文であり、同時に“禁呪”として使用することを固く戒められた、呪われし
肩まで垂らされた髪は、銀髪というよりも色の抜けた白に等しい。
閉ざされていた瞼が、開かれる。妙に白っぽい瞳孔。口元には、笑みといえば一番近いだろうか――表情と呼ぶには、どうにも人間味が欠けるものが浮かべられていた。死んではいないが、さりとて生きているとも言い難い、不死の悪霊。
「……さて、レオンハルトよ、どう出るつもりだ」
呪文の詠唱がひと段落したらしく、魔法の言語ではない低い独語が、フーリックの口から漏れる。確かに、カインが言ったとおりに、この不死の死霊魔術師は、極めて不健康的な、しかも不快な
「追って来るがいい。追いつき、自分の非力を思い知り、絶望の上に更なる絶望を重ねるがいい。自分の意志で生きていなかった、単なる生き人形の“
軽く手を振ると、暗闇に映像が結ばれた。どうやってレオンハルトの居場所が分かったのか、そこに現れたのはメリダの街の全景だった。
「そう、君が新たに希望というものを得たが故に」
そして、フーリックは知っていた。
ラシクーサの街で、実に久しぶりにレオンハルトと「再会」したとき。レオンハルトは独りではなく、傍にいたもう1人の美青年。彼とは、一時的な共闘などではなく、その後も共に旅を続け、レオンハルトは連れの青年に完全に心を許していると。
「レオンハルトは、カインと呼んでいたな……」
薄くほくそえむ。
何という素晴らしい布石だろうか。レオンハルトと共にいる、レオンハルトに負けず劣らずの美貌の、闇と同じ黒い色の髪を持つ青年。
あの力が。あの、鎧を全身に纏っていても華奢と分かる身体の裡に密かに隠された、あの、恐ろしいまでの力を得ることによって。
全てが完成する、フーリックの望みが。
魔王と呼称される、破壊神が全き姿にてこの世に降臨する。愚かな、神の子たる人の世界を完膚なきまでに滅ぼしつくし、神話の御世の再現の如く、
堕神と化した破壊神が最も好む供物は、人の悲しみ、苦しみ、恨み、憎しみ――あらゆる負の感情。何の望みも願いも持たなかった、それでも己の意志を凛然と失わないあの魂は、たった一つの、至上の希望を奪われたとき、どんなに素晴らしく輝ける絶望を見せてくれるだろうか。その絶望は、破壊神への最高の供儀となろう。
得るものがなければ、失って嘆くことなど何もないというのに。何もかも。
滅びてしまえば。
全てのものは、ただ滅びるために生まれてくるのだから。所詮は、滅び去る運命しか、先に待ち受けていないのだから。
「……くだらんな……」
それが、神の定めた絶対的な秩序というのなら。
そのような秩序など、同じ神の手によって、破壊されつくしてしまうがいい。無に帰せば良い。始原の混沌に、戻れば良いのだ。
破壊のための破壊。――滅びの思想にとり憑かれた男。魔法研究に熱心に取り組み、高め続けた結果、一切の虚無という結論に至ったのだ、この男は。
そして、己の最終理論を実践するために、転生の秘術を成功させ、不死の悪霊と化した。
唯一にして絶対の結論。フーリックにとっては、もはやそれ以外の真理は、何一つとして必要ないものでしかないのだから。
暫し、静寂が闇の中を支配した。が、やがて、低い詠唱が湧き起こるようにして始まった。血液がぐうと膨張して燃え上がり、魔法陣の形に高く伸びていった。
祭りの最終日ともなると、喧騒の中にも、何処か慌しさがある。翌日からは、また普段通りの日常が戻ってくる、浮かれてばかりもいられない――非日常は短く、日常は長い。だからこそ、人は非日常を精一杯に楽しもうとする、非日常が日常に切り替わる前に。
ライーザは、そんな人々の中に加わろうとはせず、ただカインの隣で、眼前の光景を微笑みながら見ているだけだった。カインとライーザは、木造のベンチに並んで座り、レオンハルトはカインの傍らに立っていた。
軽く目を閉じたレオンハルトは、深遠なる真理を求める哲学者の如く、沈思にふけっているかのように見えた。美しすぎるその姿を目にした者は、陶然と見惚れることはあっても、決して歓声を上げることはあるまい。あまりにも、哀しげな翳がたゆたっているから。
例えるなら、冴え冴えと青白く輝く、冬の夜空の月の光。美しいと褒め称えることは出来ても、ただ遠くから眺めるだけ、決して手が届かない。
ただ1人だけの例外を除いて。
世界が闇に落ちる、ほんの一瞬前の、黄昏。その光が、今は常に彼の傍にいる。
ふと、ライーザがカインを見た。眩しそうに目を細めたのは、果たして陽光が瞳を射したからだろうか。
カインは、ライーザの視線には気付いていないらしく、様々な色彩を纏ってみせる、黒紫色の双眸をあてどなく宙に彷徨わせていた。何とかして、頼りなげな記憶の糸の一端でも掴もうとしているのだろう、時折、軽く拳を握り締めている。
『いえ、それだけは、絶対に思い出さなくてはならないの。貴方が、貴方自身のために』
ライーザが告げたその言葉が、カインの脳髄にひどく突き刺さっていた。
俺の、ため? 俺自身のために、思い出さなくてはいけないこと? 何故? 何を?
思い出そうとしながらも、何処かで、思い出すな、と言っているカイン自身がいた。忘れたいほど、覚えていたくないほどに辛い過去だったんだろう? 何度も悪夢を見るのは確かにいい気分じゃないが、ただそれだけだ。思い出さなかったら、過去とも無縁でいられる。
いや、駄目だ。カインは、しかし、即座に裡なる自分の声を否定した。
過去からの逃亡が、何の解決をもたらすという。それで、記憶から失われた過去が、全く帳消しになるわけがない。己が何者か、はっきりと分からぬまま、ずっと夢の中で闇に追い続けられる――それでいいのか?
少女は、『貴方がこの先を進んで行けるように、思い出して欲しいの、カイン』そう言った。
疑いようもない、真摯な目で。
そして、何よりも。
犯した大きな罪の重みを背負いながら、手放そうともせずに毅然と顔を上げて歩く、レオンハルト。彼に対して、恥じ入ることの無い人間でありたい――。
カインは、軽い吐息を漏らした。
思い出すどころか、思考の迷路に落ち込んでしまったのかもしれない。光射す出口へと導く鎖の欠片でも掴めれば、それを手繰り寄せることも出来ようが。鎖の環は、ばらばらと出鱈目に撒かれているだけだった。
俺が、俺のために思い出さなければならないこととは、一体何だろう。
建国祭は今日で終わる。もしも、俺がその大事なことを思い出せなかったら、ライーザはどうするつもりだろう。
カインは、開いた掌に視線を落とした。自分の名すら思い出せなかった、レオンハルトに助けられたあのときに、そこに答えが書いてあるのではないか、と見た動作と同じに。あの時同様、いや、それ以上に、カインは内心、途方に暮れていた。
何気なく、レオンハルトが閉じていた瞼を開いた。その黒曜石色の眼に、一瞬、緊張したような光が走ったのに、カインは気付いた。
「……来たか?」
「近い」
レオンハルトの白い手が、剣の柄頭を押さえた。まだ陽光さやけき昼間であるのに、闇の魔剣が騒いでいる。同時に、レオンハルトは、背筋を言いようのない戦慄が悪寒となって走り抜けるのを感じていた。
「カイン、剣を」
「ああ」
音もなく、カインは右腰の剣を抜き放ち、その白刃にレオンハルトは不浄を滅するための神の祝福たる、聖なる力を付与する。
「……カイン……?」
「ライーザ」
一体、2人の青年が何をしているのかと、不安げに眉を曇らせる少女の蜂蜜色の頭に、カインはそっと手を載せた。
「何があっても、必ず君を守る」
そう、カインが言った瞬間。正に、その瞬間だった。
「きゃあっ、な、何、何!?」
ライーザが悲鳴を上げて、カインにしがみつく。
ふっと、唐突に青空が翳った。いや、翳ったというよりは、空だけでなく、ありとあらゆる、その場に存在する全てのものが、色を喪って急に曇ったのだ。空気すらどんよりも身に纏わり付くように――違う、これは。
瘴気だ。死者の呪詛に満ち満ちた、死霊魔術に生み出された、瘴気だった。