Chapter-4「薔薇と妖精」

―3―

 半ば強引に、ライーザを寝かしつけると、レオンハルトはカインを酒場に誘った。無論、カインに否やは無かった。
 祭りの真っ最中、ということもあって、酒場は一種、異様なまでの躁状態に包まれていた。いつものことだが、それが一瞬にして凍りつく。常識外れに整った美貌、それも2人も。そんなつもりは無くとも、つい思わず、その一挙手、一投足に見惚れてしまう。目を奪われずにいられない。彼等が行動を完結するまで、魅惑されたように誰もが声すら立てない。
 2人があまり目立たない一番奥の席に座ると、ようやく人々はざわめきを取り戻した。
 酒に強くないカインは、いつもなら頼まない、ややきつめのエール酒に口をつけた。たちまちのうちに、その目元から頬にかけてが薄紅色に染まる。仕方が無いな、という風にレオンハルトは苦笑の形の唇から、軽い溜息をついた。カインは疲れている。
 一杯を空けてしまうまで、2人とも口を利かなかった。
 気だるげに、カインは肘をついて頭を支えている。ゆっくりと、レオンハルトは話し始めた。
「……“暗闇の剣(ダークブリンガー)”が、気を付けろと言っている」
「……奴、か?」
 顔を見れば、まるきり酔っているとしか見えないカインだが、頭の方にまでは酔いは回っていないらしい。うっすらと霞がかったような瞳は、人工の灯りの下で淡い青緑色に見える。
「死者が常若の国(ティル・ナ・ノグ)から帰ってくる、妖精の騎馬行(フェアエリー・ライド)の季節だからな」
「?」
 聞き慣れない単語に、カインは不思議そうにレオンハルトを見た。
「まあ、この国の俗信だよ。若くして不慮の死に襲われた人間は、本当は妖精によって地下にある彼等の楽園、常若の国に連れ去られただけ。そして、年に一回だけ、妖精の馬に乗って妖精の丘(シー・ブルー)から現世に戻ることを許される。それを妖精の騎馬行といい、たまたま、建国祭と重なるこの時期に行われるという。そんなわけで、この季節には永遠に失われたはずの人に会える――そういう御伽噺だ」
 そう、御伽噺。
 死んだ人間にもう一度会いたいという、とても自然で、だからこそ愚かな人間の情念から生まれた、優しい御伽噺。
 会えやしない。会えるわけがないのに。
 けれども、誰かが会ったという。生前と変わらぬ姿で、自分に会いに来た死者に。だから、人は御伽噺を信じて、香を焚き、供物を置いて亡くなった者を呼び寄せ、会いたいと祈り願う。
 ――アルテミシア。
 輝かしく美しい、俺の愛した君、俺を愛してくれた君。光の中で笑っていた君は、どんな光よりも眩しかった。
 君はもういない。探しても求めても祈っても願っても、もう何処にもいない。あの金の髪も、勿忘草の花の色に似た青い瞳も、歌うように俺を呼ぶ声も、俺に向かって伸ばされた細い指も、もう、何処にも。
 君に、決して、二度と会えることがないなど、俺にはよく分かっているんだよ。
 妖精の国が例え本当にあったとしても、君は絶対にそこにはいないのだから。

「事の真偽は置いておくとしても、そういった風習から、この時期に死者の気配が濃くなるのは事実だ。死霊を操る、生命の冒涜者たる死霊魔術師(ネクロマンサー)にとっては、おあつらえ向きの舞台だと思わないか?」
「なるほどな……」
「最後の最後まで、全ての準備が整うまで、俺達に直接手出しはしてくるまい。だが、それまで全くおとなしくしているとは到底考えられない」
「俺達を勝手に駒に見立てて、不愉快な遊戯(ゲーム)を楽しむということか。必ず、堕神が降臨するという確証が出来るまで……俺達がどう動くか、を……」
「そう、恐らくな」
 卓の上で組んでいた白い指を、レオンハルトは解いた。
 事が起こる。レオンハルトの迂遠な言葉を受けて、カインは呟いた。
「ライーザ……、か……」
「……単刀直入に訊くが、お前はあの娘をどう思って、どうしたいんだ?」
 レオンハルトの黒曜石を象嵌(ぞうがん)したが如きの眸が、灯火に映えて微かな煌きをたゆたわせる。カインも上体を起こした。
 峻厳なる白皙の美貌は、言外に、お前がどう選ぼうとも、その決断を受け入れる、と語る。それは、絶大なる無条件の信頼だ。お前が俺を受け止めてくれるように、俺も、と。
 カインは、軽く頭上を仰いだ。
「それがよく分からないから、困っている」
 偽らざる本音が、端麗な唇から流れ出る。
「妹……みたいなもの、と言えば近いのかもしれないが……。どうもこう、しっくり来ない」
 と、カインは胸の上、心臓の辺りを撫でた。
 レオンハルトほどはっきりしてはいなくとも、カインも少女に対して、全く違和感を持っていないわけではなかった。ただし、カインの抱える違和感は、レオンハルトのものと似ていて違った。
 知っているようで、知らないような。
 それは自分が記憶喪失だから、というわけではない。少女に対して、何かの感情が、体の奥で蠢くのだ。懐かしさに、郷愁に似た感情が。そのくせ、異様な空虚を伴って。
 そう言ってカインは考え込むのかと思われたが、するりと言葉はすぐに継がれた。迷いなく。
「だが、……何かが起こったときには、必ず俺が守る」
「……分かった」
 レオンハルトは頷いた。それから、からかう笑顔を口元に浮かべる。
「じゃあ、お(もり)はしっかり頼むぞ」
 そう言われて、カインは困惑を色濃く混ぜ込んだ、渋い表情を作ってみせた。






 暗闇の中で、子供が泣いている。
 座り込んで、ひたすら泣き続けている。
 涙をぼろぼろ溢れさせてしゃくり上げても、周りには誰もいない。ただ、ただ、暗い闇だけが子供を取り巻いていた。
 子供は――男の子か、女の子か、どちらのようにも見えた。あるいは、どちらでもないのかもしれない。
 泣き続けていた子供は、不意に顔を上げた。
 誰かが、子供に手を差し伸べている。
 子供は、立ち上がってその手を掴もうとした。
 子供の手が、誰かの手に触れた途端――その手は、闇と化し、子供の全身を包み込もうとした。
 怖い、やだよ、助けて!!
 闇に絡め取られていく子供。それを、悲しげな目で見ているものがいる。
 助けて、助けて!
 子供は叫ぶ。しかし、その人物と子供は、何か透明な壁のようなもので隔てられていた。
 助けて……!!
 断末魔に似た声を残して、子供は完全に闇に飲み込まれ、残された人物は、崩折れるように突っ伏した。
 その人物は、嗚咽と共に、何かを激しく口にした。
 それは、紛れもない悔悟の言葉だった。



「いやああああああっ!!」
 2人が酒場から戻ってきたちょうどその時、ライーザは鋭い悲鳴と共に、ベッドから跳ね起きた。顔中が涙に濡れている。
「カイン、カインッ!! カインッ!!」
「ど、どうしたんだ、ライーザ!?」
 異様なまでの少女の怯えように、カインは驚いた。これは本物だ。冗談や演技などではありえない。直感でカインはそう判断し、自分からライーザの小さな体を抱き寄せた。少女の涙が、彼の胸に染み込んだ。
「カイン……」
「怖い夢でも見たのか? 大丈夫だ、ここには君を怖がらせるものは何も無い……」
 そう言いかけて、カインは急に、今までに無い強烈な既視感に囚われた。いつだったか、以前にも……こんな風に、誰か女の子を慰めた覚えがある。「泣かないで」と言って、泣き叫ぶ少女の背を撫でたことが、確かにある。ライーザとは違う、もう少し長い、ヘイゼル色の髪の……。
 無意識に、カインは見知らぬ少女の面影を追いかけそうになったが、すぐに現在の自分の腕の中に注意を戻した。
「カイン……カイン、一緒にいて、一緒に……」
「ああ、傍にいるよ」
 ぎゅっ、と強くライーザはカインの服を握り締めた。レオンハルトは気を利かせたのだろう、黙って、入ってきたばかりの部屋から外に出た。
 優しく抱きとめられて、少し落ち着きはしたが、ライーザは泣き止んではいなかった。時々、しゃくり上げながら、カインに縋り続けている。少女の蜂蜜色の髪を撫でて、カインは静かに語りかけた。
「大丈夫だ。大丈夫……泣くことは、ないんだ……」
「暗いの……一人ぼっちなの……」
「そうか……」
「泣いてるのよ……泣いてるの、……1人で……。でも、何も出来ないの……助けてくれないの……」
 カインは、涙と共に零れ出す、とりとめの無い少女の言葉を、ただ受け止めた。何故だか、妙に胸を軋ませながら。

 やがて、泣き疲れたのか、ライーザはすっかり静かになってカインに全身の力を委ねきっていた。眠ったのか、とカインは思ったが、そうではなかった。「ねえ」と、カインに向かって呼びかける声がしたからだ。
 カインは、僅かに身構えたかもしれない。苦手、というのとは少し違うだろうが、どうもこの少女相手に調子が狂う自分を、自覚しているためである。
 ライーザは、青みがかった紫色の双眸で、カインを見上げた。見た目の年齢に似合わない――不思議な穏やかさをもって。「あの子は、見た目どおりの子供ではないのかもしれん」と言ったレオンハルトの声が、ふとカインの脳裏をよぎった。
 常若の国に住んでいる妖精というのは、こんな子なのだろうか? それこそ、俺を連れて行くために?
 まさかな、とすぐにカインは思い直した。確証は無い。いや、ある。ライーザは、そんな存在ではない、という、カイン自身の、根拠など無い、しかし絶対的な確信である。
「覚えていることが、大切なんじゃないわ。忘れないことが、大切なのよね」
 少女は、そう言った。
「……それは……」
 覚えていない、忘れ去った自分に対する、痛烈な皮肉か、と一瞬、カインは思ったが。
「でも、仕方ないよね。『あんなこと』があったんだもん。忘れたいこと、たくさんあったもんね」
 続けられた言葉に、カインは黒紫色の瞳を見開いた。咄嗟に、彼は相手が小さな体の少女であることも忘れて、乱暴にその肩を掴み、揺さぶった。
「ライーザ……君は、やはり本当に、俺が何者か知っているんだな!? 教えてくれ、俺は誰なんだ? 俺は……一体、何をして、どんな道を歩いてきたんだ? そして君は、俺にとって、どういう存在なんだ……!?」
「……教えられないわ。カイン・ヘクトール・ハーバート・アーヴィノーグ」
 不服は言わず、しかし、カインの懇願をきっぱりとはねつけて、少女はカインの姓名を略さずに呼んだ。ペンダントの蓋の裏側に刻まれたカインの名、カイン・H・ハーバート・アーヴィノーグの「H」の略号の部分、カイン本人も覚えてない、正確な彼の名前を。
 カインは、ライーザの顔を凝視した。
 美しい少女は、あどけなく無邪気な少女ではなく、確固たる意志を持つ凛とした女性、の顔をしていた。
「私が知っているのは、貴方のほんの一時期だけ。それに、他人から教えられた“記憶”なんて、貴方自身の“記憶”じゃないでしょう?」
 少女が青年に対して、まるで母が子に教え諭す口ぶりで話すのは、本来なら奇怪極まりない。それなのに、カインは何故か、変だとは思わなかった。あまりにも、自然すぎたからか。カインは、か細い肩から手を離し、ライーザに謝罪した。
「……その通りだ。悪かった」
「……私こそごめんね。でも、ただ、たった一つだけ――どうしても、思い出して欲しいことがあるのよ」
 常に剣を握る者でありながら、肉刺(まめ)も薄い傷の痕跡すらも無い、カインの手は細く滑らかだ。そんなカインの手を押し戴くように両手で包み、ライーザは不意に強い光を瞳に宿した。
「いえ、それだけは、絶対に思い出さなくてはならないの。貴方が、貴方自身のために」
 それがどういう意味か、カインは問い質しはしなかった。無駄だから、というよりもその必要が無い、と思ったからだ。
 理由が分からなくても。ライーザの流した涙の熱さも、肌の温かさも、何を疑う必要がある?
「俺のために――君は俺の前に現れたのか?」
「どうかしら。……私のためかもしれないわ」
 ライーザは、そっと小声で、何かを呟いた。その呟きは、あまりに不明瞭すぎて、カインには少女が何と言ったのか、聞き取ることが出来なかった。
「貴方の行く道を、邪魔したりはしない、絶対に。だからこそ、貴方がこの先を進んで行けるように、思い出して欲しいの、カイン。忘れていたいことは、忘れたままでもいいけれども。それは、……きっと、誰にも責められないことだから」
 ライーザは、カインの掌を手放した。そのまま、少女は天上のものとも思える、恐ろしいほど端整な青年の顔、その頬に手を添えた。
 こつり。小さな音を立てて、ライーザはカインの額に、自分の額を押し当てた。互いの吐息が交じり合うほどの間近な位置で、少女の目は一点の曇りもなく、澄み切っていた。
「でも少し、安心した」
「何を?」
「いい人が、貴方の傍にいてくれて。貴方は独りじゃないんだって、独りで、苦しみに耐えなくてもいいんだって――」
「……ライーザ……」
 カインの過去が、決して幸せと呼べるものではなかったと暗に示唆しながら、ライーザはひっそりと笑った。
 あえかな哀切を滲ませた少女の笑顔が、驚くほどカインに似ていたことを、無論カインは知らない。