Chapter-4「薔薇と妖精」

―2―

 夜半。
 ふと、レオンハルトは眼を覚ました。元来、眠りが深くない体質で、夜中に眼を覚ますことも珍しくない彼は、妙な違和感を覚えて、起き上がらずに視線だけを動かした。
 一際濃い、人の形の影が部屋の中に落ちている。それが違和感の正体だ。
 影を作り出しているのは、ベッドの上に座っている小さな少女だった。
 その少女が、自分よりも背丈も年齢もほぼ二倍に相当しようかという、青年の艶やかな黒い髪を、さも愛しげに撫でている。慈愛に満ちた表情といい、優しげな手つきといい、とても少女のものとは思えない。だが、昼間の無邪気な言動よりも、むしろ今の、少女の姿に似つかわしくない、大人の女を思わせる仕草の方が何故か自然に見える。
 ――この子は?
 レオンハルトは、少女に対して、不審に類する感情を、うっすらとだが抱かずにいられなかった。
 少女は、無論、そんなレオンハルトの胸中には気付かず、静かに眠り続ける青年の前髪をかきあげ、その秀でた額にそっとキスを落とした。そして、もう一度、しげしげとカインの寝顔を眺め、ふっ、と微笑をもらすと、カインの隣、シーツの中に潜り込んだ。



「おはよう!」
 元気な少女の声で、カインは朝の訪れを知った。外からは、もう賑やかなざわめきが始まっているのが伝わってくる。全く、言葉どおりのお祭り騒ぎが。今までに知らない種類の疲れで、随分と長くぐっすり眠り込んでしまっていたということが、よく分かった。
 ともすればぼんやりとしかかる頭を振り、カインはベッドから音も無く滑り降りた。
 いつも朝が早いレオンハルトは勿論当然として、ライーザも既にきちんと身支度を整えている。一体、どれだけ寝こけていたんだ、参った、などと口の中で1人ごちて、カインは朝っぱらから大きな溜息をついた。
「ねえ、おはよ? カイン」
 小さな手が、カインの袖を引いた。朝の挨拶の返事をして、という少女の意が汲み取れないというほど、さすがに頭の働きは鈍っていなかったので、カインは多少ぎこちないながらも、笑顔を作った。
「あ、ああ。おはよう」
「うん!」
 微かに頬を紅潮させ、満面に笑みを浮かべる少女の容貌は、文句なしに愛らしい。レオンハルトが昨夜垣間見た、成熟した女性を思わせる面影など、微塵も感じさせない。蜂蜜色の髪が、朝陽によく映えていた。
「よぉし、朝ごはん、食べに行こっ」
 ライーザは、レオンハルトの内心を知る由も無く、元気に拳を突き上げて、ぱたぱたと部屋から駆け出して行く。それを見送り、レオンハルトはカインに幾分か低い声で、彼の名を呼んだ。
「カイン」
 カインはレオンハルトに顔を向ける。朝の光を受けたその瞳は、空の色そっくりの鮮やかな蒼を浮かべていた。
 美しすぎるほどに美しい、過去の記憶を失った青年は、人を惹きつけて魅了せずにいられない、不可思議な魔性のようなものを、恐らくは本人が意図しないながらも持っている、とレオンハルトは時々感じる。しかし、あのライーザという少女は、彼に惹きつけられたのではない。カインの方こそが、彼女に引き寄せられたのだ。
 少女が、カインに向ける意思には、決して悪意は無い。むしろ真逆だということなど、最初から分かっている。
 ただ、どうして彼女は、少女の姿をしてカインに近づき、彼の事を知りつつも、自身で思い出せと促すのだろう。それが、どうしてもレオンハルトには引っかかってならない。
「あの娘は、見た目どおりの子供ではないのかもしれん」
「……危険、という意味でか?」
 レオンハルトの勘の良さに、全幅の信頼を置いているカインは、そう訊いた。レオンハルトは(かぶり)を振る。
「いっそ危険ならば、対処のしようもあるんだがな」
「……俺を知っている子、か……」
 カインの胸中に、釈然としないものがわだかまっている。
 あの少女に対して、何となく既視感があるような、気はする。しかし、懐かしいという感情とは何かが違う、気もする。表現し難い――奇妙な感覚。
 一体、何なのだろう。彼女は何者で――自分は何者なのか。互いにとって、どういう存在であるのか。
 何より、何のために、あの少女はカインの記憶を蘇らせようとするのか。蘇らせて、どうしたいのか。
 カインの耳に、闇の中から(くら)く囁く言葉が聞こえてくる前に。

 ドアの向こうからの軽い足音と快活な声が、カインの意識を現実に引き戻した。
「遅いよ、もう! 何やってるの?」
「……すぐに行くよ」
 小さく肩を竦め、カインは苦笑混じりにライーザに応えた。
「外で待っているから、すぐに出て来い」
 軽くカインの背を叩いてから、レオンハルトはカインの脇をすり抜けて、ドアノブに手を掛けた。
「はいはい、言われなくとも」
 半分開き直ったのか、カインはおどけた声音で、もう一度肩を竦めた。



「あれ、カインは?」
 部屋の中から姿を見せたのがレオンハルト1人であることに対して、ライーザは青みの強い紫色の目を大げさに思えるくらいに見開いた。カインの本来の瞳の色は紫がかった黒だが、紫という色は2人の共通項だな、紫は高貴の色というが、などとレオンハルトはぼんやりと思った。
「すぐに出て来る」
 何気なく答えながら、レオンハルトは少女を見た。
 瞳に帯びた紫の色彩、という以外には、カインとライーザに、共通する点は見受けられない。カインの髪の色は冷たい闇と同じ黒で、ライーザの髪は甘い温かみのある蜂蜜色だ。あまり、顔つきも似ているとは感じられない。もしもカインが、彼の持つペンダント・ロケットに描かれた、幼かった頃の肖像画と同じく少女じみた姿を今もしていたら、ひょっとして2人は似て見えるだろうか。あるいは――カインが、不意をついてレオンハルトにだけ見せる、無防備な、いつもの鋭利さを完全に取り払った顔の時には。その時は、カインの怜悧極まりない美貌が、ひどく柔らかく、いっそ女性的にさえ見えるから。
 少なくとも、ライーザはカインの親類縁者などの立場に相当する少女なのだろうとは、レオンハルトは推測してはいる。だから、似ているところを探そうとしているのだ。
 そうでなければ、少女の言動に納得できないものが多すぎるからだ。
 そうであっても、まるきり納得できる、というわけではないが。
 ライーザがカインに示しているのは、単純に親愛の情なのか?
「あ」
 唐突に何かに思い当たった、と言う風に、ライーザは両手を打ち鳴らした。そして、高い位置にあるレオンハルトを真っ直ぐに見上げる。
「そういえば、あたし、あなたの名前、聞いてなかった。カインのお友達でしょ。名前、何ていうの?」
 そうだろうとも、そもそも、俺も君がカイン以外に関心を持つとは思わなかった。レオンハルトは、そんな心中の呟きを胸奥(きょうおう)に追いやった。
「レオンハルト、だ」
 あまりにも簡略かつ無愛想なその返答にも、物怖じした様子もなく、ライーザは「レオンハルトね」と、にっこりと微笑む。そして、改めて、という風に体ごと向き直り、ライーザはレオンハルトに向かって問いかけてきた。
「ねね、レオンハルトはどうしてカインと一緒にいるの?」
「……記憶をなくして、森に倒れていたカインを、俺が助けたからだが」
「ふーん……仲良くしてくれてるんだね」
「え?」
「何でもありませーん」
 ライーザの声音に込められたものが、あまりにも見た目にそぐわない感慨だ、とレオンハルトは聞きとがめたが、少女は白々ととぼけてみせた。
 レオンハルトが、形のいい眉を顰めるよりも前に、ドアが開いた。
「カイン!」
 青年の細い首根に飛びつかんばかりに、ライーザはカインに抱きついた。
「おっと」
 流石に受け止め損ねて一緒にひっくり返るなど、無様な真似はせず、カインは利き手の左腕一本で、少女を抱きとめる。
 そこだけ見れば、2人は単に仲の良い兄妹の様子そのもので。
 昨夜に見た光景が無ければ、単純に微笑ましく思えたかもしれないが。ライーザに手を引っ張られるカインの横顔に黒曜石色の眼を向けて、レオンハルトは2人と同じく、1階へと階段を下りようとした。



 瞬間、レオンハルトは僅かに身震いして、足を止めた。悪寒が、背を走り抜けたせいだ。
「どうした?」
 すぐにカインはレオンハルトの様子を察し、振り向いた。
「……いや……」
 レオンハルトはすぐに平静を取り戻して、カインに並んだ。だが、レオンハルトは確かに聞いたのだ。
 闇に潜む悪意に反応し、その存在を狩ることを告げる魔剣“暗闇の剣(ダークブリンガー)”が、腰に提げられていずとも己の所有者に警告を発してきたのを。
 夏は、妖精の騎馬行(フェアリー・ライド)の季節でもある。生きとし生けるものだけでなく、死者の気配もが強くなるこの時期に、あの死霊魔術師(ネクロマンサー)が、何も行動を起こさない、ということがあるだろうとは思えなかった。
 不思議な少女、少女に振り回されるカイン、建国祭に浮かれる人々……。
(貴様が何を企もうとも、決して思い通りにはさせんぞ――フーリック!)
 不吉な予感を斬り捨てるべく、レオンハルトは誰にも見えないように拳を握り締めた。





 祭はこの日も大盛況だった。
 夏の眩しい光に、レオンハルトが眼を細めていると、カインが歩み寄ってきた。ライーザの手は引いていない。
「いいのか?」
「自分から手を離したよ。あれに夢中だ」
 言いながら、カインは派手な音や光を舞い散らせている、奇術師の一団を指差した。大掛かりな仕掛けが、多くの注目を集めていた。
 大きく枝を差し伸べる街路樹に、カインは優美な長身を凭せ掛けた。木漏れ日が、その美貌に幻想的な彩りを添える。否応も無く、女性の視線は、あまりにも美しすぎる2人の青年に注がれる。極端な言い方をすれば、奇術を見ているか、レオンハルトとカインの2人を見ているか、街路にいる人々の反応は、この二種類しかなかった。
「そのうち、飽きたらすっ飛んでくるさ」
「それはそうとして、だ」
 レオンハルトは、指で3の数字を作ってみせる。
「?」
「建国祭は3日間。今日が2日目だ」
「……」
「正体が何者であれ、あの子をこの先連れては行けまい」
「……ああ」
 カインは頷き、目の上に落ちてきた前髪を、やや苛立たしげにかき上げた。
「だが、到底無理な話だ。記憶の尻尾すら掴めずにいるのに。……何となく、あの子を、昔、知っていたような気はするんだがな……」
 あの少女が、この街に居合わせたのは偶然なのだろうか。そして、本当に――「普通の」少女なのだろうか。ばらばらにばら撒かれた鎖の環。その環同士を繋ぎ合わせることが出来るのは、失われたカインの記憶だけだ。
 首にかかる鎖を手繰り、カインはペンダントを胸元から取り出した。ロケットの蓋を開くと、いつもの幸福に微笑んだ家族の細密画(ミニアチュール)が現れる。
「俺は……本当は、思い出したくないのだろうか。忘れたままでいたい、と本心では願っているのだろうか」
 最近は、特に意識していなかった。自分が何者なのか? 己の存在そのものに対する疑問を、ライーザは改めてカインに投げかけてきたのだ。少女に対する疑問は、そのままカイン自身に跳ね返ってくる疑問だった。
 分からない、とカインは呟いた。
 自分自身の過去を本当は知りたくないのか。自分が誰で、少女とはどういう間柄なのか。
 そして、脳裏で泡立つ、最も恐ろしい想像。
 俺は――人間、なのだろうか。
「どうかしたの?」
 その声に、カインは我に返った。何時の間にやら、ライーザが心配げに眉根を寄せて、彼を見つめていた。妙に慌てて、カインは「な、何でもない」と、ペンダントを閉じ、服の下に仕舞ったが、ライーザが思いつめたような顔をしているのに気付いた。
「……ライーザ?」
 カインは、驚きつつ身を屈め、少女の顔を覗き込んだ。
 が、少女は、急に弾けたように笑い出したのだった。
「あっははははは……ねっ、びっくりした? びっくりしたっ!?」
 またもや、ライーザに一杯食わされたカインだった。よくよく、この少女には敵わないらしい。