Chapter-4「薔薇と妖精」

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 賑やかな音楽、人々の笑いさざめく声。街路樹と街路樹の間に渡された、光を反射してきらきら輝くガラスの飾り。鮮やかな色彩を誇って、咲き乱れるとりどりの花。あちこちから持ち込まれた、特産品を売る声。屋台売りの菓子の甘い匂い。路上では大道芸人が大仕掛けな芸を見せて喝采を浴び、吟遊詩人は秘蔵の物語を歌って感動を呼ぶ。
 あの“暗黒戦争”終結後、ようやく開催された、フロレンツ王国建国200年祭は、大きな節目ということも重なり、例年にも増して華やかだった。
「えらい所に紛れ込んだな」
 雑踏、という言葉すら生ぬるく思えるほどの人いきれに、カインはやや辟易(へきえき)したように溜息をついた。あまり人ごみが好きではないらしい。
「この時期、大きな都市は何処でもこんな騒ぎだ。ここだけが、特別というわけでもない。王都ロートリンゲンなど、多分、この比じゃないだろう」
 普段ならば、カインよりも遥かに人の多い場所を好まないレオンハルトは、むしろ和やかな眼で、道行く人々を見ていた。
 腕を組んで歩く恋人達、元気に走り回る子供、楽しそうに祭りの見世物を見物する家族、並べられた品物をあれやこれやと吟味しあう友人同士――。
 昔は、レオンハルト自身もそんな賑わいの中の一員だった。家族、友人、恋人。今はもう、何もかもが、彼の指の隙間から零れ落ちて、もう二度と帰ってこない。平和で幸福な光景とは、外から眺めるものであって、過去の亡霊にも等しい存在である自分が、作ったり、中に入ったりするものではなかった。レオンハルトはそう思う。
 だが、そんな感傷よりも、時が、かつての、“暗黒戦争”以前のような穏やかで優しい流れを取り戻しつつある、その方がよほどレオンハルトには大切だった。戦争は終わったのだ、大多数の人間にとっては。それでいい。あの戦争の暗い記憶を抱えている人間の数など、少なくなればなるほどいい。自分以外は。
 戦争は――“暗黒戦争”は、もう、終わったのだから。
 普通に、笑ったり泣いたり、怒ったり喜んだり出来る、そんな他愛ない日常の繰り返しが、どれだけ愛しいものなのか。失って初めて思い知るなどと、もう二度と繰り返させたくない。誰にも。



 所在無げにレオンハルトとカインはたたずんでいた。何せ街路はただ歩くのにも往生するほど、人波でごった返していたし、特に行くあてがあるわけでもなかった。ただ、2人とも長身である上、その桁外れの美貌のために異様なほど目立つ。数多い注視を受けて、何とはなしに、居心地の悪さを感じていたカインは、ふと、とある声を聞きつけた。

 大勢の人の歓声にかき消されそうにか細い、しかし、それは確かに歌声だった。

 その歌がカインの耳を捉えたのは、声の伴う旋律が、他に聞こえてくる歌と異なる響きを持っていたからだろうか。
「おい、カイン?」
 魅入られたかのように、カインは歩き出した。声の聞こえてくる方角に。彼の耳に届く歌声は、()まない。一時的に、カインの意識は歌声だけに占められて、他の声も音も、一切が彼の世界の外に切り離されていた。

 ほとんど一心不乱に歩き、カインは広場に出た。何処まで行くつもりだ、とレオンハルトが思ったとき、カインは立ち止まった。
 広場の中心には煉瓦造りの大きな噴水があり、その縁に1人の少女が脚を投げ出し、ぶらつかせながら座っていた。カインは、その歌う少女に視線を釘付けにされた。
 年の頃は10歳前後だろうか。大変美しい、と形容するに足る容姿を持った少女だった。濃い蜂蜜色の髪と、青みがかった紫色の瞳が、この北方大陸では非常に異国的である。もう少し成長すれば、誰もが振り返らずにはいられないような美女になるだろう、そう予感させるような美しさだった。
 しかし、カインの眼を惹いたのは、少女の美しさ、ではなかった。彼自身にもはっきりと分かりかねる、不可思議な感情のためだった。
 その己の感情を、どう表現したらいいのか分からないまま、カインはどうしても少女から眼が離せなかった。
 やがて、少女は自分を見つめているカインに気付いたのか、それとも単に最後まで歌い終わったのか、歌を止めた。そして、カインと目が合うと、にっこりと笑い、足を大きく跳ね上げて勢い良く噴水の縁から降りるや、カインに駆け寄ってきた。
「君は……」
「カイン!」
 少女は手を伸ばしてカインの手を取り、この上なくはっきりと、カインの名を呼んだ。
 この場において、ただ1人だけ、彼の名を知るはずのレオンハルトが、口にしていないのにも関わらずだ。

「は?」
 カインは面食らった。そこへ、追い討ちをかけるが如く、いやに真面目くさった顔で、レオンハルトが声をかける。
「……お前の子か?」
「だっ、誰が! 俺は、そんな不実な真似をした覚えは……」
「記憶喪失だろうが」
「うっ」
 言葉につまったカインを見て、少女は楽しそうな声を上げて笑う。その少女とカインを交互に見やり、レオンハルトは冗談だと言い、表情を改めた。
「この娘は、10歳前後だろう。お前は今年で21歳だ、どう考えても常識的に親子というのは無理だ。だが、さっきの歌声にはお前と同じ西方大陸のアクセントがあるし、お前の顔と名を知っていた。お前の故郷で、知り合いか何かだったのかもしれんぞ」
「だったら、どうしてこの子はこんな所に1人でいるんだ」
 いかにも混乱しているらしく、カインは思考が回らないようである。レオンハルトは小さく苦笑して、視線でもって、カインに少女を指し示してみせた。
「本人に訊いてみたらどうだ。お前を知っているようなんだし」
 少女は、しっかりカインの手を握り、離す様子がない。ただ無邪気に、にこにこと笑う少女に向かって、カインは戸惑い気味に口を開いた。
「誰なんだい、君は?」
「やだなあ、忘れちゃったのぉ? カイン」
 少女は可愛らしく唇を尖らせる。カインは心底困ったように、少女の目の高さまで、長身を屈めた。
「……すまない、俺は記憶喪失で……、昔のことを何も覚えていないんだよ。だから、君のことも……」
「ふーん」
 小鳥を連想させる仕草で、少女は小首を傾げた。青みがかった紫――夕空の色に似た少女の瞳が、同じ高さに降りてきた、光の当たる強さや角度によって色が変わって見える、青年の黒紫色の瞳を真っ直ぐに映す。
「じゃあ、しょうがないから、あたしの名前だけ教えてあげる。あたし、ライーザ。後はね、思い出して。思い出してくれるまで、あたし、カインから離れないからねっ」
「ちょっ……そんな無茶な!」
 少女の、およそ一方的な宣言を受けて、カインは、思わず悲鳴に近い声を上げてしまった。

 思い出せ、と言われて思い出せるのなら、何も苦労はしない。実際、カインの現在の記憶といえば、ここ北方大陸の森の中でレオンハルトに助けられた以降のものしかない。何度か、過去の記憶らしきものが頭をかすめることはあっても、それは留まってくれること無く、いつも走り去って行ってしまう。自分が何処で生まれ、どういう経緯があって、何故、どうしてここにいるのか――カインには、全く分からないままだった。
「いや、かえっていい機会かもしれんぞ、カイン。少なくとも、お前に関係があるらしい子だ、きっかけになって、何か思い出せるかもな」
「……お前、他人事だと思って面白がってないか?」
 澄ました顔でレオンハルトにあっさりと言われ、カインはやや恨みがましい眼を向けた。頭の上で交わされる、そんな2人の青年のやり取りなどまるで意に介さず、ライーザと名乗った少女は、遠慮なくカインの手を引っ張った。
「ねえ、カイン、あのお花欲しい!」
「ま、待ってくれよ、お、おい!」
 ともすれば、長身のカインが、半分ほどの身丈しかないように見える少女に、強引に引っ張られる様は可笑しくも微笑ましい。レオンハルトは自然と微笑を浮かべ、少し2人から距離を置いて、ゆったりとその後を追った。


 華やかな薄紅色の薔薇は、愛らしい少女によく似合っていた。
 その後も、ライーザは子供らしい好奇心を全開にして、カインをあちこちに引っ張りまわした。気付けば、陽は完全に地平の向こうに没し、爪で引っ掻いたような白い半月が代わりに天に座している。もはや夕焼けの名残もほとんど消えかかって、夜の闇へと変化する濃い藍色が、空を占めていた。辺りはすっかり暗くなり、屋台や大道芸人も大半は店じまいをして引き払っている。
 流石に疲れたのらしい、ライーザが欠伸をし出したのを機に、とりあえず宿で休もう、と、レオンハルトが提案した。
「……疲れた……」
 遂にうつらうつらし始めてしまったライーザを背に負って、カインは心底憔悴(しょうすい)しきった声を絞り出した。
「まあ、あんなものだろう。ユリアナも、そうだった」
「……思い出すか?」
「少しはな」
 かつての建国祭の風景。優しい両親、はしゃぐ妹、そして少年だった自分。
 思い出は皆美しい。昔の自分だったら、そんなものは陳腐な詩人の口上だと笑い飛ばせたかもしれない。だが、どれだけ望んでも、もはや手に入らない、手が届かない、幸福「だった」過去を思い出すたび、その美しさが際立って浮き上がってくる。
 それでも。
 最近、レオンハルトは、何処か冷静に、幸せだった頃を思い出すことの出来る自分に気付いていた。思い出は結局は過去の残像に過ぎないと、割り切られるようになったのは、果たしていいことか悪いことかは分からないが。




 建国祭を行うことの出来る街、というのは、基本的にその地方で一番の大都市、である。交通の便が良く、物資や人が集まりやすく、人口も多くて大規模な催しが出来るからだ。そういう都市の宿屋は、この時期、遠くからの見物客や行商人やら相手に大変混雑する。
 このメリダの街もそうだった。予約無しで部屋が取れたのは、ほとんど奇跡に近い。それが3人連れなのに2人部屋だと文句を言うのは、この場合、筋違いだろう。もっとも、当初はこの街は通りすがるだけのつもりだったし、ましてや、元々は2人連れだったのに、1人同行者が増えるなどと予測しろというのが無理な話である。
 そんなわけで、表通りからは少し外れた宿屋の一室の扉を、レオンハルトは閉めた。
「やれやれ……」
 レオンハルトの手を借りて、少女を背から下ろしベッドに寝かしつけると、カインは大きく息を吐いた。投げ捨てるようにして鎧を脱ぐ。
「お前は、ベッドを使って寝ろ。疲れたろう?」
 調子が狂っているのか、首や肩を何度も回したりしているカインに、レオンハルトは声をかけた。
「だったら、お前はどうするんだ?」
「俺は椅子でも構わん」
「えーっ、カイン、一緒に寝ようよぉ」
 何時の間に眼を覚ましたのやら、ライーザがいささか頓狂な声を上げる。まだ半分寝ぼけている様子で、少しとろんとした顔をしているが、レオンハルトとカインの会話は理解していたようだった。
「ねえカイン、あたしお腹すいたあ」
「……はいはい」
 もはや請われて拒む気力の欠片も残されていないカインは、ライーザの為すがままであった。
 少女に振り回されているカインには気付く余裕も無いだろうが、冷静な第三者としてのレオンハルトには、少女のいかにも無邪気そうな様子の、「いかにも」という箇所がどうにも引っかかる。そう振舞っているだけなのだろうか、だとしたら何故?
 だが、ともレオンハルトは思った。
 少なくとも、悪いことにはならないだろう、カインにとって。彼女は、カインが知りたがっている彼自身の過去を、どうやら知っているようなのだから。