Chapter-3「滅びぬ夜の夢」

―10―

「カイン!」
 もう一度、レオンハルトはその名を呼んだ。
「遅かったよ、“静かなる魔法戦士”、いや、“闇将軍(ダークジェネラル)”か?」
 確かに、わざわざ人の癇に障る言い方をするのは、かの死霊魔術師(ネクロマンサー)とよく似ている。レオンハルトにとっては、しかし、今はそんなことは瑣末事に過ぎなかった。
 遅かった。
「極上の血だ」
 血の気を失って、白蝋と同じ色と化したカインの頬の上を、弄ぶように吸血鬼の指が這う。もはや声どころか、吐息すら零さない、死者に酷似した沈黙に包まれた体は、何の反応も返さない。閉ざされた瞼は、僅かも震えない。
「それこそ、最上級、といわれる葡萄酒でも、この血の味には敵うまいよ。ただ甘いだけでなく、蠱惑(こわく)的な陶酔をもたらす――何よりも、素晴らしく力に満ちている」
 レオンハルトの白い(かお)が、微かに紅潮した。それは、怒り、という感情の色だった。
 確かに、遅かった。間に合わなかった。
 行く手を阻もうとする、吸血鬼の(しもべ)達に、多少、手間取った。だが、それは予測していたことだった。そして、自分が遅れたがために、カインは毒牙に穿たれた。
 何か、得体の知れない力が弾けたのは感じた。焼け落ちた、フーリックの屋敷の地下で、カインが憮然と自分が発した、と言ったよりももっと、強烈な凄まじい力が。
 それで油断したか。
 レオンハルトは、魔を狩るための剣の柄に手を掛けた。後はもう抜くしかない。同時に、不死の魔物を貫き通して再生を阻む、聖なる光の矢の魔法、その呪文の綴りを思い浮かべる。
 失ってからの後悔など、もうしたくない。もう二度と! もう充分だ!
 吸血鬼が、カインの身体を手放した。悲しくなるほどに小さな音を立てて、カインは地の上に落ちた。

 その時。
「……レオンハル、ト……」
 喘ぎ声ともつかぬ、低い、か細い声。カインは、喉に生々しく血潮を散らせたまま、上半身を起こそうとしていた。
 それが、異変の合図だった。
 レオンハルトは、黒曜石色の瞳を見開いた。
 傷をつくった吸血鬼が死なぬ限り、消えることの無い筈の首筋の2本の牙の痕が、すうっ、と、徐々にカインの肌に引き込まれるようにして、消えていくではないか!
 氷雪よりも蒼褪めていた皮膚に、妖艶とすらいえる(つや)が取り戻されていく。
「カイン?」
 不可思議な神秘を湛える黒紫色の双眸が、はっきりとレオンハルトを映していた。咄嗟に、レオンハルトはカインに駆け寄り、魔剣の柄から外した手を、彼に伸べた。
「ば、馬鹿な!?」
 吸血鬼は呻いた。それも束の間、身体を奇妙な形に捻じ曲げて、苦悶しだした。
「ぐおおお……、か……身体が、……焼ける……!」
 カインも、彼を助け起こしたレオンハルトも、呆然とそれを見守るしかなかった。吸血鬼は胸をかきむしり、激しく咳き込んだ。その口から、(おびただ)しい量の黒血が迸る。
 土の上に撒かれたのは、血だけではなかった。血の塊の中に埋もれるように、鈍く輝く、2本の白い――吸血鬼の、牙。
 雷に打たれた朽木のように、どうと吸血鬼は倒れ伏した。
「……どういうことだ……?」
「俺の、血が……?」
 首筋に手を当てて、カインは訳が分からん、といった表情を作った。指の下には、傷の痕跡など一切無い。首筋に、その下に流れる血管に、牙を突き立てられたなど、無かったも同然に。
「……立てるか?」
 平素、感情を滅多に露わにしないレオンハルトが、心配と安堵を隠そうともせず、気遣わしげにカインの顔を覗き込んだ。
「ん……、悪い、まだ少し……無理だ。……力が……あまり、入らない」
 余人の前では決して弱音を漏らさないカインも、レオンハルトに体を預けたまま、素直に答える。

「すまなかった」
 ぽつり、とレオンハルトがそう言った。その謝罪に、カインが何故、という風に小首を傾げた。
「俺を呼べ、と大見得を切っておいて、間に合わなかった」
「やめろよ、今生の別れでもあるまいに」
「しかし……」
「……多分、助かったのはお前のおかげだから」
「俺の?」
「お前の声が聞こえた。……気のせいだとしても、お前が俺の名を、呼ぶ声が」
 吸血鬼の牙が頚動脈に差し込まれた時、カインは確かに、暗闇に意識が同化するのを感じた。だが、同時に、微かではあるが、暗黒の中に光が射していたのも、感じた。そして、光の中から自分を呼ぶ声を聞いた。カインはその方向へ懸命に手を伸ばし、光に手が届いた、と思った瞬間に目が覚めたのだ。
 幾分か気だるそうに、カインは顔をめぐらせた。少しだけ遅れて、レオンハルトもカインの視線の動きを追う。
 その先に、うつ伏せに倒れているのは、吸血鬼か――それとも、吸血鬼「だった」男か。
 背中が一定の間隔を保って、規則的に上下している。
 ほう、と息をつき、カインは皮膚の上にこびりついたままだった、自分の鮮血を拭った。
「……誰も彼もが、助かった、のか……?」
「恐らくな」
 カインを支えたまま、レオンハルトは手を伸べ、ごく小さく呪文を呟いた。
 発せられた魔法の力は、アウグストの上に注がれた。やがて、ぴくりと手が痙攣するように動き、次いで、頭が持ち上げられる。
「お……俺は……!」
 そうして跳ね起きた男の顔は、つい先ほどまで見せつけていた吸血鬼のものと違った。生々しいまでの苦悩と悔恨に満ちた、人間の顔だった。
「お前の悪夢も、終わったようだな。俺を狙って……運が良かったということになる、か」
 あくまでも静かな言葉を発した、美しすぎる青年の面上には、怒りも憎しみも軽蔑も無かった。


「……で……」
 絞り出された声は、半ば歯軋りにかすれていたようにも聞こえた。
「それで、それでいいって言うのか、あんたは! あんなに……あんなに……!!」
 跳ね上げられた顔は、同じ勢いで突っ伏した。肩が震えている。泣いているのだ。
 レオンハルトには、アウグストの心情が判る気がした。元々は自らが望まぬまま、別の生物へと勝手に作り変えられ、自分の街の人間達を――愛する人を、傷つけ、覚めない悪夢に陥れた。自分も、フリードリヒ達がいなければ、冷酷な“闇将軍”として、己の意志無きままで大勢の人を殺し続けていただろう。ひょっとしたら、今もまだ。
 それでも、戻れた。意志すらも化け物に変容させられたのに、戻れないと思っていたのに、人間に戻れた。戻れない、死なせてくれ、殺してくれ、と哀願した人々とは違って。
「人々を震撼させていた吸血鬼は死んだ。それが全てだ」
 カインは、黒い血溜りの中から、2本の牙を拾い上げた。
「何故……!」
「悲しませたいのか?」
 あえて、誰を、とはカインは言わなかったが、誰のことを指すのかは、言わずとも分かることだった。
「どのツラを提げて、エレミアと一緒になれるというんだ!」
「死にたいのか、吸血鬼として?」
 レオンハルトがゆっくりと口を開いた。
「ならば訊くが、死んでどうなる?」
 二つの相反する過去を持つ青年は、表現し難い不分明な表情を浮かべていた。
「死とはどういうものか、考えたことがあるか?」
 教師が生徒にものを教える口ぶりで。
「死とは、無だ。今、存在している自分が、無くなってしまうことだ。今まで生きてきた記憶も、どんな感情も、意識も、全く何も無くなる。後に残るのは、腐るしかない抜け殻の屍だけだ。残される人間がどうなるか、死者には分からない」
 それは、レオンハルトが常に自分に言い聞かせていることだ、と、カインには分かる。そして、生きろ、と言っている。死んで、悲しむ人間がいる限り、死んではいけないのだと。彼女を本当に愛しているのなら、安易に死を選ばすに生きろ、と。罪に対して死で償うのは、あまりにも簡単すぎる。レオンハルトは、カインにそう言った。
 勿論、レオンハルトとて自分が絶対に正しい、と信じているわけではないだろう。あくまでも、レオンハルトはレオンハルトであり、アウグストはアウグストである。それでも、レオンハルトは、アウグストに死んでほしくない、と思ったのだ。悪とか罪とかいう言葉を使うのなら、それはフーリックに対してこそ使われるべきではないか。
「……生きていれば、やり直しもきくだろう。それに……実際、誰を殺めたわけでもない」

 アルテミシア。もう、答える声がないと分かっていても、ただ名を呼ぶしか出来ない。
 彼女とは、違って。
 最後に、彼女が自分に向けた笑顔を思い出すだけで、今にも自分自身を殺してしまいたくなる。何にも誰にも代え難く、この世で最も愛していたアルテミシアを、結果的に死に追いやった、愚か極まりない、この自分を。
「“吸血鬼”は死んだ。これが証拠だ。もう二度と、吸血鬼が現れることはない」
 カインが、掌の上に載せた2本の牙を、差し出してアウグストに握らせた。
「許す許さないはお前が決めることではなく、恋人に訊いてみたらどうだ」
「……あんたは……許す、のか……」
「まあ、正直言うと、いい気はしなかったが」
 僅かに、眉間を顰めてみせる。
「生きろということが、必ず許しとは限らない」
 レオンハルトが、罪の記憶に懊悩(おうのう)しながら生きることを、義務と定めているように。ある意味、死は解放とも、救いとも、捉えられるから。
「俺には過去の記憶が無い。何処で生まれ育ったとか、どのように暮らしていたかとか、……何も覚えていない」
 ゆっくりと、カインは自分の胸に手を当てた。
「そのくせ、漠としているのに、暗い闇のような……罪の記憶だけは、はっきりと俺の中に澱(おり)のように沈んでいる。それでも俺は――自分自身に負けたくないと思う。過去を……過去に戻って、やり直すことは出来ない。しかし、これから何が出来るか、考えることは出来る。それが、生きているということだろう? 生きることは死ぬことよりはるかに辛い――が、後悔を残して死ぬことがいいことか? 一度きりの人生だ、よく考えろ、死ぬことはいつでも出来るが、生きることはそうはいかないことを」

 それは、常にカインが己に諭し、言い聞かせている言葉なのだろう。
「お前が気付いたように、例え、俺が普通の人間ではなくても――俺は、生きて答えを探す。俺自身の答えを」
 カインは、もう大丈夫だ、という風にレオンハルトを見上げた。いいのか、とは念を押さず、レオンハルトは小さく頷いて、壊れ物を扱うようにそっと手を離した。微かに笑い、取り落とした自分の剣を、カインは鞘に収めた。
「だから、吸血鬼なら殺すが、人間のお前は殺さない。……殺してなど、やらん」
 きっぱりと言い切った、カインの完璧な美貌は、断罪の厳しさに満ちながらも、静かな寛恕(かんじょ)をも併せ持っていた。さながら、人が思い浮かべる神の姿を形にすれば、今の彼そっくりになるのではないか、と思わせるが如くに。
 立ち上がったカインは、ついと身を翻した。
「あの領主館も、もう無くなった。夜の悪夢は全て滅んだ。俺達に出来ることは、ここまでだ。後は、生きてお前自身の答えを探すことを、期待している」
 レオンハルトが、カインに倣う前に、黒曜石と同じ色の瞳をアウグストに向けた。
 それは、前途へと与える祝福に、とても似ていた。君のこの先の人生に、幸あれかし、と。




 人々は、街にようやく真の朝が来たことを知った。吸血鬼の毒牙にかけられた犠牲者達は、やや憔悴(しょうすい)はしていたものの、それ以外は全く健康なままで目を覚ました。それは、呪うべき、忌まわしき吸血鬼が死んだことの証明に他ならなかった。
 ああ、あの2人の戦士がやってくれたのだ、と誰もが思ったが、闇を切り払った美しい青年達の姿は、もう何処にも見当たらなかった。
 風のように、街を出て、新たな旅路へと向かったから。
「……もうすぐ夏だな」
 強さを増す太陽を眩しそうに見上げ、レオンハルトは呟いた。
 生物全てが太陽の恵みを精一杯に享受し、生命の輝きを謳歌する季節、夏。光の季節、喜びの季節。光を避けて歩くような生き方をしている自分に、太陽が惜しみない光を注ぐこの季節を、レオンハルトは“暗黒戦争”以来、どうも苦手にしていた。世界の何もかもから取り残され、自分の居場所が何処にも無い……よく分かっているそんなことを、否応無く知らしめられたからだ。
 今度の夏は違う。
「目覚めにはいい季節だったかもな……長い悪夢から、な」
 独語のつもりが、その呟きを受けて、期せずして同じ思いを分かち合ってくれる人が、傍らにいる。
 同病相憐れむ、と、自分たちのことを人は言うかもしれない。だが、それが何だというのだろう。大切な人間だ、そう胸を張れる。
「……それにしても」
「ああ……」
 生きては人を魔術の実験台に使い、死んでは人を邪術の供儀にする。あの男を、許せない理由は増えていくばかりだ。
 一つの小さな悪夢が消えても、その源である最凶の悪夢を醒まさない限りは、同じような悪夢はまたきっと生まれ出る。いや、夢も現も、全てがなくなってしまう。
 烈しさを増す夏の光が、歩み続ける2人の青年の姿を、美しい陽炎のように見せていた。


『Shadow Saga』Chapter-3「滅びぬ夜の夢」 fin
2006/10/30