黒尽くめの異形は、手を動かし、カインの言葉に従ったわけでもあるまいが、その素顔を顕わにした。
実直な宿屋の若主人と同じ目鼻立ちでありながら、全く異なる顔が、唇の端から2本の牙を煌かせて笑っていた。
顔の造作が変わらなくても、印象というものは随分と激しく変わるものだ。剣の柄に指を触れさせながら、カインはいかにも残忍な吸血鬼そのもの、にしか見えないアウグストを目に映して思った。
あの善良さは仮面だったのか、本性はこちらの吸血鬼の方なのか。それとも、吸血鬼の姿は単に一時的に歪められているだけで、本当は温和な宿屋の若主人なのか。
だが、もはや、それを問うても仕方があるまい。宣戦布告はとっくになされていたのだから。互いがそれを知りつつ、知らないふりをしていただけだ。ただ、相手の出方を見極める、それだけのために。
「何時から、知っていた?」
アウグスト――いや、吸血鬼は問いかける、というにしてはいささか無造作な口調で言った。
「お前は俺を見すぎていた。あれだけ露骨に見られれば、嫌でも分かろう。それに、町長の坊ちゃんへ疑いを向けるようにさせたかったようだが、稚拙だったな。だから、あれだけあからさまに挑発してやったんだよ」
カインは、すぐにでも剣を抜ける体勢をとりつつ、口を開いた。
「……しかし、何故、俺を狙うのか、までは知らんがな」
「その理由には気付いていないのか」
吸血鬼の笑みが深くなる。
「己の発する、その深く強い、闇の香りに」
「な、に……?」
鼓膜の奥で、耳鳴りのように声が木霊する。
忘レルナ、オ前ハ……。
オ前ハ。
オ前ハ、“闇ニ棲マウ者”ナノダカラ……!!
悪夢の中で自分を追い詰めようとする声の主が、眼前の吸血鬼であるかの如く、カインは眼光に力を込めた。
この、俺の、血。
俺の知らない、俺が覚えていない、何か得体の知れない力を秘めて、この身体の中に流れるもの。自分が望まないままに、ただ一方的に、決して相容れられない相手から、押し付けるようにして欲されるもの。
誰が! 例え自分が何者であろうとも、そんな不当な要求に、屈してたまるものか!
「……なるほどな、紛い物。好むと好まざると、創られし存在は創造主に似て、貴様はそれを拒まなかったというわけだ」
言葉と同時に抜き放たれた剣は、真っ直ぐ正確に吸血鬼の心臓に目掛けて走ったが、その切っ先は常ならば敵と見做したものを必ず
ちょうど、街中での喧嘩沙汰の際、カインがやってみせたように、吸血鬼の2本の指の間に刃が挟まれていたからだ。
「拒む?」
もっとも、その結果まで同じにしてやる必要はない。剣をへし折る圧力をかけられる前に、カインは自分から剣の柄を手放し、素早く身を吸血鬼から退けた。奪い取る形になった剣を、吸血鬼は自分の背後に放り投げた。
「拒んだところでどうする。自分がそうしないと生きられないのであれば、肯定するしかあるまいが!」
「それが、貴様の言い訳か! そうして――俺を、選ぶのか! 終わらない夢を見せ続けるのか!」
誰に、とはカインは言わなかった。
最初は、不幸な事故といえたかもしれない。きっと、アウグスト本人も、恋人を文字の如く毒牙にかけるつもりなど、毛頭無かったに違いない。
しかし、それは起こってしまった。そして、アウグストは吸血鬼として生きることを、選んでしまった。レオンハルトが、ただ1人、誰よりも愛した女性を失ったことで、より強く“
責める権利などないのだろう。だからといって、犠牲の供物として自ら身を差し出すなどと、カインにとって全く考慮するに値しない行為だ。何があろうとも、己の支配者はこの自身でなければならぬ、と、自分で決めているのだから。
となれば、自ら宣したように、「敵たる吸血鬼」を葬り去るしかあるまい。
「もう、悪夢は終わりだ。解放を」
カインは、僅かに身を低くした。過去の記憶は頭には無いが、本能にも近い、体の記憶はそうではない。武器を失っても戦う術があることを知っている体は、自然に動いた。
「徒手空拳で、勝てると思っているのか」
吸血鬼の声が、せせら笑う。
その笑い声が宙に散らばった。空を切った拳が、頬骨を軋ませたからだ。人間の
「だが、どうせ貴様は俺を殺さない」
すぐさまに拳を手元に引き戻し、カインは絶妙の間合いをとる。
「そうだな、あの“静かなる魔法戦士”――あるいは、“闇将軍”か。あの男の前で、闇の香りを漂わせるその血を啜ってみせようか」
「思い上がるな!」
剣を失った手が、刃と同じ形を作って、鋭く迸った。首筋をかすめた手を掴まれる前に、カインは素早く身を捻って
鉤爪が、虚しく空を切る。鎧を構成する金属特有の
何度か巧妙に立ち位置を変えたカインは、脚を蹴り上げた。狙いすました爪先に、冴えた音を立てて弾き飛ばされた剣は、寸分も狂わずに、持ち主の手に戻った。
ほんの、刹那の間すらおかずに、月光が飛ぶ。
吸血鬼の肩口に落ちかかった剣は、骨すら断つ斬撃だった。しかし、黒血を噴き上げたその箇所は、瞬く間に傷痕すら残さずに塞がっていた。
「なるほど、『不死者の王』、ね――」
心臓を貫くか、神の祝福受けた武器でなくては、この不死身の怪物は倒せない。
確かに、事前に“
どちらにせよ、レオンハルトは今頃、ちょっとした足止めは食らっているだろうが、それも予測のうちだ。何にしても、彼にとってそれはさほどの障害ではありえず、もうすぐにこの場にやって来るだろう。彼は、神に仕える僧侶だけが唱えることの出来る
いずれの角度にも閃き飛ぶ剣が、乱れも狂いも無くぴたりと、吸血鬼の心臓に狙いを定められる。
不意に、吸血鬼の笑いに赤光が混じった。
「!?」
カインは、背筋が引き攣る感覚に、端整な目元を微かに歪めた。
「ほう、そう簡単には支配されんか」
一種の催眠術だ。数ある吸血鬼の魔力の一つの。
ばっ、と宙に蝙蝠の翼に似たものが翻った。黒衣の裾。
確かに、吸血鬼の催眠術は、並々ならぬ精神力の持ち主を、よくあるように茫然自失状態に陥れることは出来なかった。しかし、今まで隙らしい隙を見せなかった美青年の体勢を、ほんの僅かだけ崩すことが出来た。
カインの利き手と反対側の右手に、蛇のように黒い布が巻きついた。カインは、それを剣で無理に払いのけようとはせず、逆に胸元に引き寄せて、全身の均衡を保つ。
互いに力が
何もない宙空に激しい火花が生じて、カインの視界を瞬間的に灼いた。
「っ……!」
まだ、利き手を封じられていた方がましだった。どうしたって、反対側の腕の力は、利き手よりは弱い。一瞬、ほんの一瞬だけだが視覚を封じられたことで、カインは恐るべき吸血鬼の怪力に、確固としていた足元をよろめかされた。
吸血鬼にしてみれば、それで充分だったのだろう。巻き取られた黒衣ごと、カインは剣を握ったまま、背中から捕らえられた。
「しかし細い体だな。女のようだ。このように、鎧に身を覆われていても、なお」
腰を強く引かれて、カインは身悶えしてもがき、何とか逃れようとしたが、所詮、相手は彼の拒絶そのものを楽しんでいるに過ぎなかった。
「……い、やだ、嫌、嫌だ、触るな! 俺に、触るなぁッ!!」
自分の腰に回された手が、腰骨から下へと、鎧の中に守られた肉体の線を顕わにするようになぞってくる。その行為に、カインは普段の理性と冷静をかなぐり捨て、突如として髪を振り乱し、至極悲鳴に似た声を上げた。
常に不敵さを失わない美貌に、紛れもない恐怖の表情があった。
忘れ去ることなど許さぬ、許されぬと、芯に刻み込まれた記憶なのか。
「そうか、体に触れられるのが苦手――いや、怖い、か」
「……やめろ……、……離せ……!」
殊更に抱き寄せる仕草をされ、カインは身をよじった。
胸を突き破らんばかりに動悸が激しくなる。冷たい汗が流れて、手足が、震えて萎える。剣を握っていても、少しも役に立たない。
神経質なまでに、誰かに触れられることを嫌がる自分にはとうに気付いていたが、まさかここまでとは。
それはまるで、決して明かされてはならぬ禁忌をまさぐられ、暴き立てられるかのように。明かされてしまえば、全てが、何もかもが崩壊してしまう――根源的な、そんな恐怖だ。
「良い香りだ」
陶然とした声と共に、吸血鬼は不気味なほどに冷たいくせに、
「時果つる先までずっと、我が血の嗜好を満たし、我が力の糧となるがいい」
細い顎に、手が掛けられて上向かされる。鎧から僅かに露出した首筋の皮膚に触れる、唇の感触に、カインは気付いた時には既に、絶叫していた。
「やめろーっ!!」
絶叫は、他のものも生み出した。弾ける、何か目に見えない力。恐怖の感情の奥深くに封じ込まれた、もっと凄惨なもの――衝撃波などというには生ぬるい力だった。生きとし生けるものを引き裂かずにいられない、兇暴にして無慈悲で、純粋な、意志の力が、具現されたものだった。
「何っ……!」
密着していたがために、その力をまともに喰らうことになった吸血鬼は、吹き飛ばされる。
カインは膝から崩れ落ちた。体内から、何もかもが放出された感じがして、立ってすらいられないどころか、ただ呼吸をすることまでが辛い。左手から、剣が零れる。それでも、倒れ伏すのを懸命に堪えて、カインは顔を上げた。吸血鬼はどうなった、と。
あくまでも優しく、カインの身体は引き上げられた。しかし、その手の主はレオンハルトではなかった。
吸血鬼の顔が、カインの間近で笑っていた。
「真に強い、闇の力だ」
獲物を賞賛する、狩人の言葉が吐き出される。
「だが、闇に属するその力では、闇に属するものを滅ぼすことは出来ない」
喉元を撫でる手の不快さにも、カインはもはや指一本動かせなかった。抗う声すらも、出せない。
「美しいな。本当に、美しい」
汗に濡れた黒い髪が滑らかな肌に貼りつき、黒紫色の瞳が切なげに細められつつも戦意を失わず、何とも形容し難い色を、端麗極まりないカインの顔立ちに与えていた。
こんなに極上の獲物が、今までいただろうか、これから先に現れるだろうか。
「……あ、あ……!」
小さな苦鳴が漏れる。
滑らかな皮膚に、2本の牙が差し込まれる。その圧力に耐え切れずに肉の破れた箇所から、赤い、真紅の血が滴り始めた。その血が、首の上で音も無く嚥下されている。
痛みは無い。しかし、血の流れと共に、カインは自分の意識が流れ出て、黒く塗り潰されていくのを感じた。
「う……ぁ……」
全てのあらゆる感覚が、遠くなっていく。
「カイン!!」
レオンハルトが見たものは、首筋から二条の血を流して宙を仰ぐカインと、そのカインを抱きすくめながら、口の周りにこびりついた血を舐め取っている吸血鬼の姿だった。