Chapter-3「滅びぬ夜の夢」

―8―

「まだ気が済まないのか。差が歴然としているのが、これでも分からんとは」
 背中を強く打ちつけながらも呻きつつ起き上がり、なおも短槍にまで手を伸ばすフランクに向かって、カインは、嘆かわしい、と言いたげに大袈裟な溜息をついた。
「完璧に痛い目を見せるしかないか」
「うるせぇ!」
 殺意すら込めて、フランクは短槍をカイン目掛けて振るった。
 フランクの槍の腕は、悪くはなかった。ただし、あくまでも戦いの素人としては、である。その程度の腕では、カインの黒い髪一筋も切り飛ばすどころか、かすめることも出来ない。手を後ろで組むなど、余裕綽々の態度を見せて、カインはフランクの攻撃をあしらい続ける。
「畜生!!」
 これが最後、とも言うべき、桁違いの力を込めて、フランクは槍を迸らせた。だが、目標とするべきカインの姿が、その眼前から忽然と消えた。
 周囲の観衆から、おおっ、というどよめきが湧く。
 どういう体術を用いているのか、カインは姿勢を一切崩すことなく、槍の柄の上に立っていた。しかも、槍を持つフランクの手に、重さを感じさせることなく、だ。
「なっ……」
 流石に、フランクも愕然とする。
 カインのしなやかな長身が、宙に跳ね上がった。その時、彼の背に天翔ける翼を見た気がした者は、目の錯覚だと思うだろうか。跳躍しざま、カインはフランクの顎に強烈な蹴りを見舞っていた。
 顎の骨が粉々に砕けるのではないか、というほどの蹴りの威力に、フランクが堪らずにのけぞる。その手を離れた槍を掴むのと、着地とを、カインは同時にやってのけた。そして、槍を逆手に握るや、石突を正確にフランクの鳩尾に叩き込む。凄まじい衝撃に、路面に叩きつけられたフランクは、喉元に冷たいものが当てられているのを知った。それは短槍の穂先だった。
「理解したか?」
 それは、お前では俺に到底敵わない、俺がお前を殺すことなど、このように簡単だ、という意味だ。
「その程度の腕で、俺を吸血鬼を誘い出す餌にしようなど、世迷言に過ぎん。どれだけ大切な人の命がかかってのことだろうが、自分が殺されてはおしまいだろうが」
「くっ……!」
 暫くカインの顔を睨みつけていたフランクは、顔を背けた。
「それと、俺の支配者は俺自身以外ありえない、ということは覚えておけ。俺は、誰の意のままにもなるつもりなどない。決してな!」
 尊大なほどに堂々と吐かれた、宣言めいた言葉。それは、彼を捕らえようとする、闇の声に対して上げられた声でもあったのかもしれない。
 そう、俺は屈しない。俺を、勝手な意で従わせようとするものになど、絶対に屈服しない。俺の魂は、俺自身のものだ! 誰にも渡さない、誰にも支配されやしない!
 カインは、フランクの傍らに短槍を投げ捨てた。からん、と乾いた音を立てたそれは、フランクの掴みやすい位置に落ちたが、フランクは不貞腐れたように路面に仰臥(ぎょうが)したまま、槍を拾おうとはしなかった。
「少しは身にしみたか。もう突っかかってくるなよ」
 この、世にも美しい青年にかかれば、冷笑すら鮮やかに人を陶酔させる、抗い難い魅力に満ちていた。
 それきり、カインはフランクに一瞥もくれることなく、宿屋の入り口に立っていたレオンハルトに真っ直ぐ向かって歩み寄っていった。
「お前でも野次馬をするのか」
「どんな八つ当たりをするのか、興味があってな」
「言ってくれる」
 喉の奥で、カインは低く笑う。どうやら、少しは気が晴れたようだな、とレオンハルトは注視を浴びるのを厭う風に、カインと共に宿屋の中に戻った。



「ああ、すまん、茶をくれ」
 一番奥まった席に座ったカインは、手を上げてアウグストを呼んだ。よく働く宿屋の若主人は、少し首を傾げた。
「茶、でいいんですか」
「酒はあまり得意じゃないんだ」
 実際、本人の言う通りで、カインは酒精に強くない、というよりは、むしろ弱い。せいぜいワイングラス一杯が限度で、もしもレオンハルトが酒豪だったら、飲む相手としてさぞ物足りない思いをするだろう。
「俺も頼む」
 カインの向かい側に腰を下ろし、レオンハルトは同じ注文をした。
 カインは、組んだ手の上に顎を乗せ、真っ直ぐレオンハルトに顔を向けた。
「それにしても、何であそこまで絡まれたか、理由が分からないんだが」
「確かに、普通ではなかったな。しかし、本人に問い質せば良かったろうに」
「大勢の人間の前で蹴り飛ばされるなんて赤っ恥かかされて、素直に事情を告白すると思うか、町長の息子が?」
「……派手にやったからな、お前。まあ、向こうがお前の逆鱗に触れてきたから、といえばそこまでだが……」
 ふと、カインが、何の気なしに自分が口にした、「逆鱗」という言葉に反応したように、レオンハルトには見えた。とても懐かしい言葉を耳にした、という様子で、夢見るかのごとく茫洋と視線を彷徨わせ――すぐに戻った。
 湯気を立てるカップを運んできたフランクが、そこで嘆息混じりに口を挟んだ。
「フランクも、前はあんなじゃなかったんですよ。神隠しから帰ってきてから、何だか粗暴になって……」
「ふうん?」
 小さく、カインが鼻を鳴らす。
「腕試しだ、なんて言って、旅の戦士と見るや、喧嘩を吹っかけるようになりまして……。恋人のサラが、ああなって――吸血鬼に襲われてからは特に荒れっぱなしで。神殿に預けられている1人、というのはサラなんですが、自分が必ずサラを迎えに行く、と言い張って」
「それで、吸血鬼退治にご執心、ね」
 カップを口元で傾けたカインの仕草は、ついさっき、表で喧嘩沙汰をやらかした人間と同一人物とは思えないほど、繊細で優雅だった。光の当たる強さや角度によって、様々に色を変えて見せるその瞳同様、カイン本人もまた、様々な性質を留まることなくレオンハルトに見せる。
「神隠しから帰ってきて、急に性格が変わってしまったようになったのは、彼1人か?」
 レオンハルトは、アウグストに訊いた。
 アウグストは少し考えるような間を置いて、答えた。
「そう……ですね。誰もが『変わった』と認めるのは、フランクぐらいだと思います。他の人間は……特に悪い変化はない、と思いますけど……」
「吸血鬼に襲われたのは、皆、屋外だったのか?」
 唐突なレオンハルトの質問の内容に、アウグストは眉を曇らせる。
「……どうでしょうか。……エレミアは、朝、部屋で冷たくなっているのを発見されましたが……」
 一番最初に、吸血鬼の、正に「毒牙」にかけられた恋人の名を口にした時、アウグストは緩く唇を噛んだ。
「さっきのヨハネスは、仕立て屋なんですが、隣町での顧客との取引の帰りに襲われたらしいですし、サラも、フランクと約束した場所へ向かう途中だったと聞いてます」
「だから、フランクは自責の念にかられて、吸血鬼を自分で倒そうと? 結構なことだよ、全て自力でならな」
 いくら狙われている、と分かってはいても、それを自覚するのと他人に利用されるのとは別だ、と言わんばかりにカインはテーブルの天板を軽く指で弾いた。微かな振動に、カップの底の方に僅かに残っていた茶が、小さく揺れる。

「あの……」
 おずおずと、アウグストは、カインに声をかけた。
「吸血鬼に、狙われているというのは、本当ですか?」
「ああ」
 そこに、大輪の花が綻び開き、咲き誇った。カインが、ゆっくりと笑ったのだ。それも、レオンハルトによく見せる、いつもの澄みきった青空を思わせる笑顔とは違い、妖艶さすら感じさせる異様に華やかな笑い方だった。ひどく、魔性、という形容が似つかわしい――そんな笑い。
 まともにその笑顔を向けられたアウグストが、思い切り硬直する。見惚れた、というよりも、眼が勝手に惹きつけられて離せない、といった体である。分かっててやってるんだろうが、あまり遊ぶな。レオンハルトは溜息を飲み込むようにして、茶を口に含んだ。
「吸血鬼自身が、俺にそう言った。俺を獲物だ、とな」
「……怖く、ないんですか」
 婚約者を吸血鬼の餌食にされた青年は、カインが笑顔を拭い、普段通りの鋭すぎささえ感じさせる、冷静な表情に戻ったことで、やっと彼から眼をそらすことが出来た。
「さて」
 細い手が、腰の剣の柄を押さえる。
「敵を相手に躊躇する気は、これっぽっちもないが」
 言いつつ、カインは椅子から立ち上がった。
「無意味に己を過信するほど、傲慢でもないつもりだ」
 剣環が鳴る。まるで、この剣でもって夜の悪鬼を斬り捨てる、そう宣告しているように。それから、カインはレオンハルトに向き直った。
「俺は少し仮眠を取ってくるが、お前はどうする? レオンハルト」
「ちゃんと、俺を呼ぶか?」
 カインと同様、レオンハルトも立ち上がった。深い黒曜石色の瞳が、黒紫色の瞳を真っ直ぐに凝視する。不可思議な神秘に満ちた黒紫色は、一切の間を置かずに頷いた。
「当たり前だろう。それに、『2人で』と言ったのは、俺だ」
「……結局は、その手しかないか」
「あてにしてるぜ」
 気負いもてらいもなく、純粋なる信頼の感情だけが、声に満ちていた。レオンハルトもカインも、互いに、それだけで充分だった。信じて、信じられている。それ以上に、何を望むことがある?
 何が何やら、という様子で、幾度も眼を瞬かせるアウグストに、種明かしをする口調で、カインは言った。
「決着は、早く着けるに越したことはないだろう。誰にとってもな。日が暮れる頃に、吸血鬼が出た場所に行ってみるのさ――俺1人で」
 空を渡る風の気まぐれさで、カインは身を翻す。そして、人知れず、レオンハルトは拳を握り締めていた。
 明けぬ夜の終わりは、流血なくしては告げられぬのか、と呟く代わりに。






 カインは、最初に吸血鬼と相対した場所に、1人で立っていた。
 雲のほとんどない、月夜だった。
 月を仰ぐ麗姿は、一幅の名画のように、と例えるには絵画よりも遥かに力に満ちて美しく。
 仄かに、月光を弾くのは鎧の光沢か、あるいは彼自身か。
「待っていたぞ」
 カインは振り向いた。微笑んだ顔は、優美な剣のごとく鋭く煌き。
 黒紫色の瞳は、吸血鬼の異形を、はっきりと捉えていた。
「もう、共に分かっているんだ。顔を隠す必要はないだろう――アウグストよ」
 そして、カインは宿屋の若主人の名を呼んだ。