Chapter-3「滅びぬ夜の夢」

―7―

 たまたま置き忘れて行ったが、これを身に着けていたら、鎖を引きちぎられていたところだったな。
 小さな太陽のように輝く、瀟洒な黄金のペンダントを、カインは手に取った。ロケットになっているそれの蓋を開くと、細密画(ミニアチュール)に生き生きと精緻に描かれた、幸せな家族の肖像が現れる。
 思い出したいのに、思い出せない過去。失う前の俺は、何もかも忘れたい、と願っていたのか? 本当は、俺は、過去の記憶を取り戻したくなどないのか? 絵の中で永遠に微笑む人達は、決してカインの欲しい答えを返してはくれない。精悍な男性も、美しい女性も、愛らしい子供も、誰も。
 禁忌の疑問が胸の奥で泡立ち、心臓をぎりぎり締め付け、痛ませる。
 俺は、どう考えても、普通の人間とは違う。俺は……。
 ペンダントを握り締めるカインの耳に、夢の中で闇から聞こえる声が蘇る。

 オ前ハ、オ前ノ“血ノ宿命”カラ逃レルコトナドデキナイ。自由ニナドナレハシナイノダ……。

「うるさい!」
 耳を塞いでも、悪夢の囁きは消えない。鼓膜を犯し、心を、魂を、揺さぶり穿ち、彼を追い詰め、捕らえ、引き倒し、跪かせ、絶望のままに取り込んで屈服させようとする。
 何のために? 何故、俺を? 俺が普通の人間でないからか? 一体、俺に何をさせたい?
 だが、と、カインは目には見えぬ声の主を見据えるかのごとく、目を(すが)める。
 だが、誰が、絶望などに屈してやるか。運命だろうが宿命だろうが、そんなものに支配されてたまるか。以前の俺が例え絶望の闇に取り込まれたとして、今の俺は光を手に入れた。
 ――光を。


「カイン?」
 闇の声とは違う声が、カインの名を呼んだ。その声は、耳孔を押さえた手に遮られることもなく、はっきりと聞こえた。
 起伏のあまり感じられない、平坦な声音だが、毒と悪意に満ちた闇の声とは違い、低く澄んだ穏やかな声。
 カインが顔を上げると、黒絹の髪と対極をなす白い肌を持つ青年が、深い色の瞳で彼を見ていた。あくまでも静かで、意志の強い黒曜石色の瞳。滅多に感情を露わにすることのない双眸が、その奥深くには、苛烈なまでの激しさを抱えていることを、カインは知っている。
 大きく息をつき、カインは頭を振った。闇からの声は、皮膚の上に落ちた一片(ひとひら)の雪よりも、あっけなく消えていた。それこそ、陽光の温かさにあてられたように。
「……大丈夫だ。何でもない」
 光の当たる強さや角度によって、様々な色に違って見える、不可思議な黒紫色の瞳で、真っ直ぐにカインはレオンハルトの目を見返した。
「……なあ、レオンハルト。もしも俺が人間でなかったらどうする?」
 不意のカインの問いかけに、レオンハルトはやや首を傾げたが、淀みのない言葉をすぐに返した。
「どう、とは? もしもお前が人間でなかったら、お前は何か変わるのか?」
 レオンハルトの返答に虚を突かれたのか、カインは僅かに目を見開いた。

「俺はお前が誰でも、変わるつもりも変えるつもりもない。俺にとっては、お前はカイン、他の何者でもない」
 それは、無償の、至上の信頼に満ちた言葉で。
「お前が俺の味方でいてくれるように、何があっても、俺もお前の味方だ」
 黒い迷いも不安も焦燥も、包み込んでしまう、白く強く優しい光。
「……レオンハルト……」
 カインは、自分でも、今の顔が泣き笑いじみた、ぎこちない中途半端な笑顔だと思った。レオンハルトが、からかう表情を口元に乗せる。
「泣きたかったら、泣いていいぞ」
「意趣返しか、おい」
 今度は本物の苦笑を浮かべる。カインは、首筋を撫でた。手に触れた黒い髪が揺れ、衣擦れにも似た小さな音を立てる。一瞬だけ、カインは遠い目をした。
「俺は泣かない」
 それが拭われると、カインはいつもの沈着な、それでいて不敵な顔を取り戻していた。
「理由も分からないままに泣けば、泣き癖がつく。泣き癖がつくと、心が弱る。だから、俺は泣かない」
 まだ、今は。今は、不安に弱っていられない。優しさに甘え、縋ってしまえば、闇が囁く己の過去と対峙できなくなる、そんな確信がある。
 共に歩いていける人がいる。カインにとっては、今はそれだけで充分だった――充分すぎた。
 レオンハルトも、カインの反応を予想していたようで、器用に左肩だけを、軽くすくめた。
「お前も、人のことを言えない、相当の意地っ張りだな」
「人のことはよく見えるだろう――お互いに、な」
「違いない」
 低く笑い、レオンハルトはすぐに笑いを消す。
「それはそうと、だが」
「あそこにはいなかったな」
 間髪入れずに戻ってきたカインの言葉に、レオンハルトは胸前で腕を組み、黙然と頷いた。

「あまり考えたくなかったが」
 カインが舌打ちする。
「戻っていない、ということは、つまりそういうことだな……」
「……ああ」
 意図的にか、偶然の産物なのか、「人為的に作られた吸血鬼」。“神隠し”によって拉致され――戻らなかった人は、吸血鬼ではなかった。あの人々の中に吸血鬼が混じっていたのなら、今頃は吸血鬼の被害者はもう目覚めているはずだ。
 しかし、目覚めるどころか、吸血鬼の命を受け、被害者のうち1人が下僕と化して、カインを狙った。
 とすると、結論は一つしかない。
「変わってしまっている。身体的特性だけでなく、精神の方もその身に相応しく」
 作られし不死の王が、「創造主」と酷似した物言いをするのを、カインは聞いている。
「……俺のように、意志を押さえつけられたわけではない、か。意志そのものを変えられてしまえば、……どうしようもないな」
 かつて、“制約(ギアス)”の呪法によって、意志も感情も自我も制約された、皇帝の操り人形たる“闇将軍(ダークジェネラル)”であったレオンハルトには、術の触媒として、黒金剛石の額環(サークレット)が使用されていた。そのため、それを外され、更に術者である皇帝が倒されたことで、彼は自己を自分の手に取り戻すことが出来た。レオンハルトは、額環が嵌められていた場所に、無意識に手を当てた。
 だが、操られたのではなく、作り変えられては。
 歪んだ目的による魔法実験のため、施された術によって身も心も吸血鬼に変じた、“神隠し”よりの帰還者。
 全ての救いは、死をもってのみ、か。
 帰れなかった者、帰って来た者。どちらも、“神隠し”に遭った時点で、その命を失ったと同じなのだろうか。――ならば、帰って来られなかった方が良かったのか。外面上は何の変化もなく、しかし、中身は確実に元来の自分以外のものと変化して。

 苦い溜息を、カインは吐いた。しかし、彼の瞳の色はあくまでも鋭かった。
「……やり切れんが、敵である以上は、戦って勝つしかなかろうさ。例え相手が死を望んでいなくとも。俺とて、犠牲の供物なぞになる気は、さらさらない」
「さっきの『(しもべ)』は、それを命じられて、お前を襲ったのか」
「夜まで、あの場に留め置きたかったそうだ。昼間は、別の意味で動けないだけ、なんだろうよ。少なくとも、吸血鬼の『意志』は働いているわけだからな。全く、ひどくお気に召してくれたもんだ」
「……単にお気に召された、というよりは執着されている、という感じだが。そこまでいくと」
「よしてくれよ」
 カインは、秀麗な眉をしかめる。
「そもそも、何で俺なんだ?」
「それは当人に確かめてみないことには、分からんな――だが、まるで予想できないわけでもないんだろう?」
 反問、というよりはレオンハルトの口調は確認に近かった。
「フーリックが喜んだのと、同じような理由だとすれば」
 魔王を降臨させ、世界の滅亡を望む不死の死霊魔術師(ネクロマンサー)は、カインの中に潜む何かの力を感じ取り、不気味な喜悦に満ちた表情を浮かべたのだ。「この力があれば」という呟きと共にだ。
「ろくでもないな」
 カインの言葉は、果たして自分を狙う敵に向けられたのか、それとも自分自身に向けられたものかは、判然としなかった。



「それにしても」
 不意に、レオンハルトが部屋の外の廊下を見透かすかのように、扉の方を振り向いた。
「そんな大声で喚かなくても、充分聞こえるというのに」
 言うと同時に、カインは部屋の扉を開いた。内開きの扉を開こうとした瞬間に、絶妙のタイミングで引かれて、扉を自分で開こうとしていた人物は、部屋の中に転がり込みかけ、辛うじて踏みとどまった。
 23歳のレオンハルトよりもやや上、といったところの年齢らしい青年だった。剣を提げ、短槍を更に腰帯にくくりつける、という、何とも勇ましい格好である。目には爛々と敵意が燃えていたが、カインにまともに顔を向けられると、たちまちに揺らいだ。それは、あまりにも整いすぎた美貌のせいで、彼に対して幾許(いくばく)かの畏れ――例えば、人が安易に見てはいけない天上の美を盗み見ているのではないか、といった類の畏れを抱いてしまうといった、珍しくない反応だった。
「で、どちらさん? 俺を探して、手当たり次第に部屋の扉を開けていたようだが」
「お前が、吸血鬼に狙われてるとかいう戦士か」
 青年は、萎縮した自分を叱咤するかのように、語気を殊更に強めた。
「それが?」
 対照的に、カインは淡々としている。
「決まってらぁな。お前を囮に、吸血鬼を誘き出して倒すんだよ!」
「……はぁ?」
 わざとらしい声を立てて、カインは片眉をそびやかした。
「今まで、どうしようも出来なかった吸血鬼相手にか? 俺を囮にして、それだけで?」
「何処にいるか分からなかったから、退治できなかっただけだ。餌につられてのこのこ出てきたところなら、心臓を一刺しにして倒してくれる」
「とんだ自信過剰だな、おい。そんな簡単に倒せると信じられる、その神経が信じられん……」
 カインは、こめかみに指を当て、頭痛を堪える、といった仕草をしてみせる。レオンハルトは、何やら妙なことになってきた成り行きを、若干面白がるような顔で黙って見ていた。
 どうやら、飛び込んできたこの青年は、何か訳ありのようだが、機嫌のあまりよろしくないカインに、よりにもよってその絡み方をするとは、あまりにも間が悪すぎる。カインは、人の意図を無視して、その身をどうこうしようとする人間を、最も嫌うのだ。レオンハルトは、少し、青年に同情した。何せ、カインは普段は寡黙だが、その気になれば、いくらでも悪言を吐き、それでもって剣なくしても相手を叩き伏せることが出来るのだから。しかも、よくもまあここまで、というくらいに徹底的に、だ。
「……身の程知らずとはいうが、いくら何でも限度がある」
「はっ、今までに、そんなこと言ってた旅の戦士達は、皆、俺に勝てなかったぜ」
 昂然と胸を張る相手に、うんざりした調子でカインは頭を振った。
「弱い奴に勝ったところで自慢になるわけないだろう。相手が、不死の王とも呼ばれる、伝説の悪鬼だということを分かっているのか」
「姿さえ見せりゃ、弱点も分かってる敵に負けるわけねえ」
 あくまでも、青年は自信に満ちた態度を崩さない。いっそ、感心したくなるぐらいである。その自信が一体何処から来るのか、レオンハルトは微かに首を傾げる。ブルグント帝国軍の帰還兵だろうか。それにしては、身ごなしが丸きり素人そのもので、訓練された様子がない。
 と、遂にカインの舌鋒が火を噴いた。
「馬鹿も休み休み言え、阿呆。その目に入ってるのは安物のガラス玉か。何で俺が、自分より明らかに弱い奴の言う事をほいほい聞いて、人身御供にならなけりゃならんのだ、馬鹿馬鹿しい。死者が増えるだけに決まってるだろうが、相対するもの、どころか己の実力も測れないほどのど素人が! 無意味な自信だけで勝てるのなら、誰も苦労せん。その沸いたおめでたい頭を冷やして、一昨日来るんだな!」
 典雅な美貌から放たれたとはまるで想像もつかない、実に流暢な罵詈雑言に、青年が呆気に取られる。やれやれ、やったな、という風に、レオンハルトは唇の端で苦笑した。
「俺を吸血鬼を釣り上げる餌になど出来るものなら、やってみろ御山の大将。身の程ってやつを教えてやるよ」
 ついで、とばかりに、カインは鼻で笑ってみせる。
 徹底的に小馬鹿にされた挙句に、思い切り喧嘩を売られたことを理解した青年は、満面に朱の色を上らせた。
「上等だ、表に出やがれ!」
 憤懣やるかたない、といった体で大股で歩き出す青年が、先に部屋を出て行くのを悠然と見やりながら、カインはレオンハルトを振り向いた。
「妙なことになったな」
「お前が言うのか。八つ当たりだろう、あれは」
 半分、呆れた口調のレオンハルトに、カインは否定せずに飄々と笑った。




 他人の喧嘩沙汰とは、自分に火の粉が降りかからない限りは、面白い見世物であるに違いない。
 しかも、その喧嘩をしでかすのが、片方は空恐ろしい美形の旅の戦士で、もう片方が町長の息子のフランクときては、どうぞ見物してください、と言わんばかりである。
 自分に食って掛かってきた青年が、町長の息子だと聞かされたカインは、「身分で吸血鬼が倒せるものかね」などと呟き、余計にフランクを煽り立てたりした。
「剣を抜け!」
 腰の剣を抜き放ったフランクが怒号するが、カインは何処吹く風で、むしろ挑発する。剣の柄に触れようともせず、言い放った。
「誰がそんな、詰まらん弱いもの苛めみたいな真似をするかよ。彼我の差がありすぎるだろうが」
「てめえ! とことん、人を馬鹿にしやがって!!」
 激昂のままに、フランクは抜き身の剣を突き出した。
 切尖は音もなく停止していた。カインの顔を目掛けて突き込まれた剣は、目標に届く前に停止を余儀なくされた。僅か2本の指の間に刃が挟まれていて、懸命に力を込めても微動だにしない。しかも、カインは、右手は腰に当てたまま、一見、隙だらけの、単に普通に立った姿勢である。
「ほら」
 格別苦しそうでもなく、カインは手首を軽く捻った。どのような力が加えられたのか、剣は圧力に耐えかねて、あっさりと、ぱきりという乾いた音と共に、武器たる役目を放棄した。
「や、やりやがるな、少しはよ!」
 役立たずのなまくらと化した剣を投げ捨て、青年は拳をカインに叩き込んだ。いや、叩き込もうとした。
 その拳もまた、剣と同じように軽々とカインの掌底に遮られた。受け止められた拳はそのまま掴まれ、フランクの天と地は逆転して、もんどりうって地面に叩きつけられる。
 カインは、一歩も最初の立ち位置から動いていなかった。