どうん、と腹の底まで響き渡る轟音に、何事だ、と外に飛び出した者は、かつて、この一帯の領主であった宮廷魔術師が住んでいた館がある筈の場所に、巨大な火柱が立っているのを見ることが出来ただろう。
炎が、燃える。燃えて、焼き尽くしていく。かつて、城館であった建物が炎の中で焼け落ちていく様を、レオンハルトはじっと見つめていた。いつもと同じ、黒曜石を象嵌したかと思わせる、深く静かな、揺るがない眼で。
よく見れば、その目元が微かに赤いことが分かるが、それだけだ。
熱風がうねり舞い上がり、火の粉や煤が絶え間なく飛び散る。炎の舌に侵食されるごとに、城館は輪郭を失っていく。炎が燃え盛る音も、建材が崩れる音も、何もかもの音が、この館の主だった男の犠牲となった人々の悲鳴に聞こえる。
ああ、願えるのなら、どうか。死せる魂が、せめて安らかであるように。神を信じられないこの身では、祈るための言葉を持たないけれど。
「……カイン」
カインは、レオンハルトの隣に立っていた。その肩には、腕1本で、男が担がれている。時折、引き裂かれたシャツを気にして、襟元を引っ張ったりしているが、人間1人を担いでいること自体は、特に苦にしていない様子である。まるで、空気の詰まった人形でも担いでいるようだった。
「ん?」
名を呼ばれ、カインはレオンハルトへ顔を向けた。レオンハルトもカインを見て、短く言った。
「戻るか」
彼等の前で、大きな梁が燃え落ちた。
カインは無言で頷いた。
2人は、燃え続ける城館に背を向けた。
街では、騒ぎが起こっていた。
忌まわしい重さを何時までも感じさせる、旧領主館が燃えていることなど、人々は
御伽噺でも言うではないか、吸血鬼も、その
男をずっと見守り続けていた彼の母は、驚きのあまり腰を抜かしてしまったが、それは彼女にとって幸いだっただろう。
街の外に出ようとした男は、咄嗟に取り押さえようとした数人を、素手でもって肋骨を折り、胸郭に
この街には、神殿がない。神の奇跡たる御技もて、人を癒す僧侶が居ない。医者の手と、薬屋の薬で、出来うる限りの治療は施されたものの、ちぎれた腕は戻しようがないし、折れた骨をすぐに元通り癒着させるのは無理だ。あるいは、治療の魔法に優れた
現場から最も手近な建物だった宿屋に怪我人を運び込んで、誰しもが、どうしてこんなことに、何故こんな目に、と肩を落としているとき。
光が射したように見えたのは、単に扉が開かれたから、だろうか。
正体不明の吸血鬼と戦ってくれるという、旅の戦士が現れた、という噂は、既にほとんど街中に広がっていた。しかも、それが2人連れで、2人揃って筆舌に尽くしがたいほどの美青年である、ということも合わせてだ。
知っていてもなお、人々は陶然と見惚れた。それほどに、青年達は美しかった――美しすぎた。
2人とも、何があった、などとは訊かない。見るだけで、何となく状況は知れる。
「ヨハネス!」
声を上げたのは、最初はカインに、今はレオンハルトの肩に男が担がれているのに気付いた宿屋の主人、アウグストだった。
カインから、レオンハルトがほとんど奪い取るようにして受け取った、吸血鬼の下僕と化したる男は、今は死によく似た沈黙を保っている。
誰かが奇声を上げた。
ヨハネス、と呼ばれた、吸血鬼に操られた男めがけて突き出されたナイフは、躊躇がなかった。その行動を、止める者は誰もいない。
「何の真似だ」
だが、刃は空中で固定されていた。繊手、と呼んでもいい、細い手によって、ナイフを持つ手を掴み取られたからだ。それは、華奢な、美しい青年の手だった。
ナイフの持ち主は、愕然とした。軽く押さえられているだけ、に見えるのに、押すことも引くこともかなわない。滑稽なぐらいにじたばたしてみたが、まるでびくともしない。
「何の真似だ、と訊いた」
もう一度、カインは同じ問いを重ねた。この世の全ての美の結晶、とでも言えそうな天性の美貌には、微笑が浮かべられている。しかし、
「こ、……こいつはもう、吸血鬼の手先だ! このまま放っておいたら、俺達は皆殺される!!」
果たして、ヨハネスにナイフを振るおうとした男は、そう叫んだ。恐慌から、半分錯乱している様子の男に対して、カインはあくまでも笑顔を崩さず、それでいて冷徹に言った。
「だから先に殺すと? 吸血鬼に人を殺させないために、俺達は討伐を了承したんだが」
「こいつも、吸血鬼の一味じゃないか!! そっちこそ、何で邪魔する!!」
「吸血鬼が倒されれば、まだ元の人に戻れる」
戻れなかった人達とは違う。僅かに、レオンハルトが眉を寄せたが、それには誰も気付かない。
「また、さっきみたいに暴れだしたらどうするんだ! そいつを殺せば……」
往生際の悪い男が、更に言いつのろうとしたが、カインが貼り付けた笑顔の仮面を脱ぎ捨てた。鋭い眼光が、真っ直ぐに男を射抜く。断罪にこの上もなく似て。
「いい加減にしろよ」
格別押し殺したわけではない声は、魂を底冷えさせるような響きを持っていた。男の言動に、無言の同意を示していた人々が、思わず身を竦ませる。
「分かっていないようだな」
無造作に伸ばされた手が、やはり無造作にナイフの刃を握った。
ぱきん。奇妙に儚い音と共に、ナイフは、カインの手の中で折れた。鋭い鋼が、カインの掌の皮膚と肉を切り裂いて出血を強いたが、彼は意に介さなかった。何事もなかったように、シャツの裾を破りとって平然と血を拭う。
「カイン」
「すぐ治る。気持ちだけありがたく受け取っておく」
レオンハルトが傷を見せろ、という仕草をしたが、こともなげにカインは手を振った。それから、指先で摘み上げていた、赤い血を纏ったナイフの破片を、持ち主の手に戻した。
「1人殺せば、残りも全員殺さねばなるまい。神殿に預けられたという1人以外は、条件は皆同じだからな。5人分、繰り返すことになる。その中に、例え自分の家族や友人知己、恋人が含まれていてもな。出来るか? 殺しつくせるか? それに、心臓を刺して殺す時、流れる血はこの程度じゃない。その感触に耐えられるか?」
折られたナイフの柄を握った男は、へたり込んだ。有形無形に威圧されて、ようやく、カインの言葉を理解しえたように。
そして、空気が変わった。男ほど狂熱に浮かされていなかったとはいえ、ヨハネスを殺すことを容認しかかっていた人々は、冷水、いや、氷水を頭から浴びせかけられたのに気付いたのだ。
呆然としているアウグストに、レオンハルトが目を向けた。
「怪我人は何処にいる?」
「2階の一室に……しかし」
何を、と問う前に、簡潔な答えが返ってくる。
「死んでさえいなければ、治せる」
「ど、どうやって!?」
「言っただろう、俺は魔法戦士だと。
そう、レオンハルトはただの魔法戦士ではなく、“剣と魔法を意のままにする静かなる魔法戦士”――魔剣を操り、あらゆる魔法を駆使する、戦争終結後に人知れず姿を消した、半ば伝説化した英雄なのだから。彼の素性を聞かされていたアウグストは、「あ」と小さく声を出し、深く頭を下げた。
「……お願いします」
「気にしなくていい。俺の単なる自己満足だ」
人を殺した手が、まだ人を救えると、思いたいだけの偽善だ。
レオンハルトの胸の裡の呟きは、やはりカインには気取られたらしく、軽く小突かれた。
「あまり自分を卑下するな。偽善だろうが何だろうが、それで助かる人間がいるなら、結構なことじゃないか」
それでいて、限りないいたわりを含んで。全く敵わんな、レオンハルトは苦笑するしかない。本当は、カイン自身も、自分が何をしたか分からない不安に苛まれているだろうに。だが、彼は「俺は、何者なんだろう」という疑問を飲み込んで、レオンハルトに向かって笑うのだから。
「俺はちょっと着替えてくる。何か俺が役に立つことがあったら、呼んでくれ」
ぽん、とカインは空いているレオンハルトの肩に手を置いた。掌で白刃を握り折ったその手は、先ほど本人が言ったように、既に傷など一筋も見当たらない滑らかさを取り戻していた。
「ああ、そうそう」
歩き出しかけて、カインは何かを思い出した、という風に振り向いた。先ほどの苛烈さは何処へいったものか、思い切り人の悪い表情を作っている。
「吸血鬼の奴が何故か狙っているのは俺だから、吸血鬼被害に関しては恐れる心配はないぞ、多分な」
発せられた言葉も、何とも人を食っていた。
6人用の大部屋では、4人の怪我人が看護を受けていた。とはいえ、既に可能な限りの手当てが終わっている以上は、じくじくと血の滲んでくる包帯を替えてやる、痛み止めに効果があるという煎じ薬を飲ませる、その程度の「気休め」しか出来ないのだが。
街に1人しかいない初老の医者は、助手に急患です、と呼ばれて出て行っている。扉が開閉する音に、薬屋のヴィリーは、足りなくなった煎じ薬を薬棚から持ってくるように頼んだ店の者が戻ってきたか、と振り向いた。
傍に付き添っていた家族のみならず、傷の痛みに魘されていた者までが、それを忘れて口と目を見開いたほど、端整極まりない白皙の青年が、そこに立っていた。
「あんたは……」
空いているベッドにヨハネスを降ろして、レオンハルトは途方に暮れたようにテーブルの上に置かれていた、人間の腕に目を留めた。
「治癒魔法の使い手だ」
簡潔な自己紹介を受け、ヴィリーは目を剥いた。こんな時に、都合よく魔法使いの旅人が来るなんて、そんなうまい話があるのか、と思いかけたが、青年は腰に剣を帯びていた。
「あんたが、昨日、吸血鬼を追い払って、うちのタマーラを連れ帰ってくれたっていう、旅の戦士かい」
レオンハルトの黒曜石の瞳が、30がらみの実直そうな薬屋の主人を見て、伏せられる。
「……間に合わなくて済まなかった」
「ああ、よしてくれよ。陽が暮れそうなのに外に出ようとした女房を、止められなかった俺も悪いんだ。それよりも……こいつらを治せるって?」
生まれつきなのか、諦めのせいなのか、それとも両方か、ともかくヴィリーは驚くほど物分かりが良かった。諦めることを強いられてきた街に生きる者は、戦争が終わっても、諦め続けねばならないのか。何処まで祟れば気がすむのか、あの男は。
「そうだ」
作り物めいた、体から奪い取られた腕を手にして、レオンハルトは腕の元々の所有者に歩み寄った。血に汚れた包帯を取り去り、ヴィリーを振り向く。
「すまんが、手を貸してくれ。ここと、ここを押さえていてほしい」
「あ、ああ」
ヴィリーは、レオンハルトに言われた通り、ちぎられた腕を肩と繋がっていた位置にあてがい、動かないように押さえた。
レオンハルトは、その傷口に手をかざし、呪文の詠唱を始める。
一般人には理解できない魔法の言葉の連なりは、徐々にレオンルトの手に白い光を集めていく。光が一際強く輝いたとき、それは起こった。
「腕が……!」
本来なら、元に戻るはずがないもぎ離された腕は、あるべき場所を思い出したとでもいうように、体と繋がっていた。
「元通りに動くようになるには、半月くらいかかるかもしれないが」
それは正しく、奇跡だ。
しかも、奇跡はそれだけで終わらなかった。レオンハルトが歌の旋律の如く、呪文を唇から次々と紡ぐや、負わされた傷が痛みごと消えていく。
賛嘆も感謝も声に出ない。ただ、1人の青年が起こした奇跡に、人はただ、目を
レオンハルトは、しかし、どんな賞賛も自分には無縁だ、と沈黙のうちに示し、静かに優美な長身を翻した。
「お、おい、待ってくれ! あんた、あの吸血鬼と戦うってんだろ? その……勝算とか、あるのか?」
慌ててヴィリーが、レオンハルトを呼び止めようと声を上げた。謝意を一切受け取らなくても、これならば答えてくれそうな気がしたからだ。自分の妻も助けてくれるのか、という懇願を、聞いてくれそうな気がしたからだ。
果たして、レオンハルトは振り向きはしなかったが、よく通る美声を発した。
「いかに不死の王といえど、人の手によって作られたに過ぎない所詮は擬似の魔物が、魔界の貴族と化したグレゴール皇帝よりも強いとは思えん」
一息に言い切って、レオンハルトは扉の取っ手に手を掛け、開いた。
「グレゴール皇帝……って、あんたまさか!」
「“静かなる魔法戦士”……」
誰かが呟いた