Chapter-3「滅びぬ夜の夢」

―5―

 頭の上に気ままに広がる蜘蛛の巣を払いながら、カインは土の下に穿たれた、無意味に思えるほど広大な空間を歩いていた。まったくもってがらんとしていて、何も無く、無闇と出鱈目に広い。辺りを見回す、その手に、灯りは握られていない。
 闇を見透かす黒紫色の目には、灯りは必要ないからだ。勿論、陽の光の下でものを見るよりは少し暗いが、不自由するほどではない。

 旧領主館だった廃屋で、地下へ続く階段を発見した時、カインはレオンハルトに向かって言った。
「あいつ、よっぽど地下が好きなんだな。だったら、地上へ出てこなければいいんだ。羽化する蝉じゃあるまいに」
「まったくだ」
 カインに相槌を打つレオンハルトの脳裏を、人を不快にさせる笑みを浮かべた死霊魔術師の顔がかすめていった。
 あれだけ数多の人間の運命を散々に狂わせておいて、まだこの世界に望むことがあるとは。
 ――滅亡を。
 滅亡など、そんなもの、貴様だけが滅亡すればいい。貴様1人だけが、この世から消えればいい。昏く閉ざされた地の底で!
 普段は、感情を(うしな)っているのではないか、と思われるほど静かな黒曜石の瞳が、激情に揺れる。
 返せ。俺の故郷を、俺の両親を、俺の――俺の、愛する人を! あの穏やかな村で、家族や友人達と平穏無事に、生きていけたら、俺はそれで良かった。この手を、罪なき人の血で染めることもなかった。優しい思い出に鍵をかけて、再び開けられないように鍵を捨てる必要もなかった。英雄になんて、別になりたくなかった。この身体の中に、人知を超える力が眠っていたことなど、知りたくもなかった。
 確かに愛していたのだ。平凡な毎日の繰り返しを。そこに生きていた自分が、どれだけ幸せだったか、今なら分かる。
 もう戻らない時を、手繰り寄せたいと何時までも悔やむのは愚かなことだ。そんなことは分かっている。やり直しなどきかない、分かっている。けれど、分かっていても、願うことを忘れられない。それが、俺の罪と罰だ。永劫に許されない、許せない、俺の罪に与えられた罰だ。
 それでも、あいつがいなければ、あいつが、フロレンツをブルグントに売らなければ、あるいは、俺は。ただの人でいられたかもしれないのに。
 憎悪と悔恨と憤怒と悲嘆と――様々に荒れ狂う昂ぶりは、しかし、唐突に鎮められた。

「悪かった、思い出させて」
 無意識に固く握り締めていた拳の上に、温かい手が重ねられたからだ。
 畏れすら感じさせる誇り高き美貌が、レオンハルトをまっすぐに見つめていた。鋭く切れ上がった黒紫色の瞳に、レオンハルトの顔が映されている。
 それだけで、全身を焼き尽くしそうだった烈火は、瞬く間に勢いをなくした。奇跡に似て。
「カイン……お前が、謝る必要は何もない。大体、俺が勝手に」
「俺が思い出させたせいで、お前、泣いているじゃないか」
 レオンハルトは、意表を突かれた。涙の一筋も流していないのに、カインはレオンハルトが泣いている、と言う。だから、レオンハルトはちょっと反論したくなった。
「泣いてなどいないぞ、俺は」
「嘘つきめ」
 言葉とは裏腹に、ふわり、とカインが笑った。柔らかく、優しく。泣きじゃくる子供を抱き締め慰める、母のように。
「俺は地獄耳だと言っただろう」
 そう言いながら、白いレオンハルトの額を、カインの細い指がぴん、と弾いた。思いもかけないカインの行動に、レオンハルトは常の彼らしくなく、目を白黒させる。
「ついでに、目もよく見える」
 そんなレオンハルトに先んじてさっさと階段に足を掛けたカインは、肩越しにレオンハルトを振り向き、片目を瞑ってみせた。
「というわけで、俺の前では我慢しても無駄だから、誤魔化す必要はないぞ、強情っ張り」
 俺の前では泣いたらいい、声なき声が囁く。心の中の慟哭も、聞こえるから、見えるから。受け止めるから、せめて、俺の前では泣いてくれ。魂が壊れないように。俺は、いつでも何があってもお前の味方だから。
 もう一度笑って、じゃあまた後でな、と、カインはひらひら手を振って地下へと降りて行った。
「……敵わんな」
 カインが、失った過去の断片に、悪夢という形で(うな)されていることを、レオンハルトは知っている。いっかな思い出せぬ自分の過去に苦しみ苛立ちながら、それでも、カインは笑う。
 あの剄さがもしも揺らぐことがあれば、その時は、全身で支えてやることが、出来るだろうか。
 落ちて転がっていた、適当な廃材を拾い上げて松明代わりに火を点けると、レオンハルトも人工の暗闇へと足を踏み入れた。



 地上と違って、何もかも、処分されて残っていない。研究室としては、こちらが本命か。そう思ったとき、不意に、カインの剣が鞘鳴りの音を立てた。
「おいおい、吸血鬼の被害者は、昼間は歩けないんじゃなかったのか」
 そして、ぼやくというには、あまりにも危機感が欠けた声を発する。
「いくら地下だからって、反則だろう。どうやってここまで来た」

 吸血鬼は陽光を厭う。人間に恵みを与える太陽の光は、吸血鬼にとっては呪いの光だ。不死の心臓の動きを止め、不死の身体を灰にする、忌まわしい光なのだから。夜闇での圧倒的な力と引き換えに、太陽が出ている時間は光を避けて眠りを強いられるしかない。曇りや雨の日だったら太陽は出ていない、などと屁理屈屋は反駁するかもしれないが、曇りの日にも薄日が射さないことはないし、雨の日は、吸血鬼のもう一つの天敵、流れ水が空から降ってくる。ともかく、吸血鬼は、昼間といわれる時間は動けない、筈だ。
 あくまでも伝承にのみ存在すると思われていた不死の王。擬似的に作られたと目される、夜の悪鬼には、伝承を甘受する必要はないのだろうか。
 幽鬼めいた足取りが、カインに向かってくる。それがすぐに吸血鬼本人ではなく、その被害者だと知れたのは、相手の外見が明らかに男性のものであったことと、首筋にはっきりとした咬み傷が見て取れたからだ。
 死魚を思わせる、どろりと濁った目が、カインに向けられた。たちまち、男の口元が笑いの形に歪められた。唇の端からは、見間違えようもない牙が零れ出る。
 吸血鬼は、血の嗜好を満たすだけではなく、己の手足となる眷属を増やすためにも、人の血を啜る。血を吸われて以来、ずっと眠り続けていたという男は、主の意によって叩き起こされたらしい。
「手下を使ってご招待、か? ぞっとせんな」
 前夜の宣言通りに、正しく「美しき獲物」を、手にするため。

 猛然、と表現するに値する速度で、男はカインに踊りかかってきた。吸血鬼のそれと違い、鉤爪などない、平凡な人間の手だった。
 軽やかに身を躱しながら、遅い、とカインは思った。確かに普通の人間よりは男の攻撃は遥かに速く、鋭い。しかし、まがいものは所詮まがいものに過ぎないのか、昨夜遭遇した吸血鬼よりもずっと緩やかな攻撃だった。そう思えるのは、カインだからこそ、だろう。並みの戦士であれば、喉を握り潰されたり、頚骨を折られていてもおかしくない。
 だが、問題は、男を斬り捨てて終わり、とはならないことだ。吸血鬼さえ斃せば、元の人間に戻れる生命を、ここで絶つわけにはいかない。ただ躱し続けるしかないとすれば、次第に自分が不利になる。
 二撃、三撃、と無為に繰り返される、意思無き操り人形(マリオネット)の、力任せな単調な攻撃を空に切らせおいて、適度な距離を取る。
「ご招待など受けずとも、何処にいるか教えてくれれば、すぐにでもそこに行ってやるのにな」
 低声(こごえ)で言い、カインは剣帯から鞘ごと剣を外した。
 いくら吸血鬼に(しもべ)たる妖力を与えられたとはいえ、男は、元々は普通の人間である。カインから見れば、隙だらけだった。
 狙いすました突きが迸り、鋭く正確に男の心臓の上を打った。剣が鞘に納まっていなければ、間違いなく心臓を貫いていただろう。
 心臓というのは、人間の最も重要な急所の一つである。それ以上に、吸血鬼の被害者が呼気を止めてしまってもなお、心臓だけは動かしていたように、不死身の吸血鬼の唯一の弱点が心臓なのだ。そこに激しい衝撃を加えられて、擬似吸血鬼が堪ろうか。
 突きの鋭さか、男は吹っ飛ばされ、床に叩きつけられて動かなくなった。鞘に入ったままの剣を、元通り腰に吊るすと、カインはやや浅かった手応えが気にかかり、念のために相手の失神を確かめようと、仰向けに倒れた男に近寄った。

 まるでそれを待っていたかのように、男が跳ね起きた。ばね仕掛けの不自然さで。
 さしものカインに跳び退(すさ)る余裕を与えず、両肩を掴むや、彼の身体を打ち据える勢いで床の上に押し付けた。鎧の防護無しでの直の背中を(したた)かに打たれ、一瞬、カインの息が詰まった。
「……!」
 その隙に、男はカインの両手首を難なく片手で一つに纏め、頭の上で押さえ込んだ。
「な……何をする、離せ!」
 カインは、自分の上に覆いかぶさる男の手を振り解くか、蹴り飛ばすかしてやろうとしたが、手首を縛める男の手は打ち込まれた楔よりも強く、脚の上に乗り上げられていては如何ともし難かった。
 見た目にも明らかに華奢なカインだが、決して非力ではない。非力どころか、彼に敵対した者なら、せめて外見通りに非力であってくれたら、と願ったに違いない。その彼が、完全に押さえ込まれて、文字通りに手も足も出ない。何とか逃れようとカインは身をよじるも、彼を捕らえる腕は、万力にも等しかった。
 これが、吸血鬼の魔力か。
 男が空いている片手を伸ばした。その行為が何を意味するか、飢えを隠そうともしない口元を見るまでもなく分かる。
 布地の裂ける音。シャツの襟を引き裂かれて、カインの胸元が露になる。とても戦いを生業としている者とは思えない、傷痕一つも見当たらない薄い胸だった。
「やめろ!!」
 自分の首筋に降りかかってこようとする、牙を剥いた唇を見たとき、カインの中で、「何か」が弾けた。
 その「何か」は、見えざる力となって、吸血鬼の下僕を打擲(ちょうちゃく)した。跳ね飛ばされた男は、勢いのままに天井に激突し、更にその勢いで床に叩きつけられた。敷き詰められた石畳が砕け、大小様々の破片や埃、塵芥(じんかい)を甚だしく撒き散らす。
「……え?」
 何だ、今のは……俺は、一体、何をした?
 カインは暫く愕然とし、自分の上の圧迫が消えたというのに、体を起こすことも忘れた。

 ――愚か者め。
 陰々とした声が、カインに聞こえた。聞こえたというより、声が、直接脳髄に突き刺さるような感覚だった。
 ――そこに留め置けばよいと言ったのに、無闇に飢えを満たそうとするから、その様だ。
「動かすだけ動かさせておいて、餌はやらん、とはまた酷い主だな」
 今度こそ完全に失神したのか、男は床板の下に半ばめり込んだまま、ぴくりとも動かない。カインは立ち上がっていた。
「別にこんな所でお前を待つ必要などない。お前の居場所を教えてくれさえすれば、今すぐ、俺から会いに行ってやるぞ」
 その呪われた心臓の鼓動を止めるために。
 ――狩りの楽しみは、逃げ惑う獲物を追い詰め、捕らえることにある。そのために、自分に有利な状況を作り上げることが定石。希望に沿えんで悪いが、後日に必ず会おう。
「……作り出されたものは、作り出したものに似るのか」
 声は途切れ、カインは面白くもなさそうに独語した。
 似ていた。あの吸血鬼の話し方は、あの死霊魔術師の話し方に、至極よく。それはさながら、子が親に似るように。自分を、闇の魔性に勝手に変貌させた男と同じく。

「カイン」
 呼ばれて、カインは振り向いた。何故、ぎくりとしたのかはよく分からなかった。足早にレオンハルトが近づいてくる。
「大丈夫か?」
「ああ」
「はっきり分からんが、大きな力が弾けたようなものを感じたんだが」
「……俺だ」
「何?」
 カインは視線を滑らせた。その行く先を、レオンハルトも追う。
 1人の男が、床板を砕いて倒れ伏している。左の首筋には、生々しい肉の色を見せて盛り上がった、うじゃじゃけた2つの傷。
「何があった、なんて訊くなよ。俺にもよく分からないんだから」
 問われるよりも先んじてそう言い、カインは、レオンハルトの顔に霜が降りているのに気付いた。
 それは、遣る瀬無い哀しみだ。どうしようもない怒りだ。何処へも持っていけない嘆きだ。
「……どうした?」
「俺は所詮、他人の命を奪うことでしか生きられないのか」
 淡々とした声音は、凍り付いていた。
「……レオンハルト……」
「殺してくれ、と縋り懇願する、人だった『もの』の望みを叶えた」
「それは」
「“神隠し”に遭った人間達の成れの果てだ」

 レオンハルトが見たものは、幾つもの檻の中に放置された、奇怪な姿の、怪物、と呼ぶべき生物達の群れだった。しかし、その怪物達は、体の何処かにかつては人間だった証を持っていた。怪物の体に人間の顔。怪物の体に人間の手。怪物の体に人間の脚。怪物の顔に人間の体。
 転生の秘術(リーインカーネイション)の研究のために拉致され、魔法実験を施され、捨て置かれていった人達。呪われた術法のため、人の姿に戻れぬまま、死にきれない人達。
 剣を携えた美しい青年に向かって、口がきけるものは言葉で、口がきけないものは全身で、訴えた。
 戻れない、戻らない、死ねない、殺してくれ、殺してください、殺して、殺して、殺して。
 人の理性を残したまま、唯一つ持つことを許された願いを、望みを、どうして退けられようか?
「請い願われるままに心臓を串刺しにして、首を刎ね、喉をかき切り、胴を薙いだ。ごく自然に、当たり前に、俺の体は動いた。……殺すために」
 レオンハルトは、自分の顔を手で覆った。
 俺は英雄なんかじゃない。俺はただの残忍な殺戮者だ。それが証拠に、どうして俺の目は乾ききって涙の一粒も零さない? あれだけの悲しみを、苦しみを感じて、どうして俺は。あれだけ冷静に人を――そう、あれは人だった、あんなにたくさんの人を殺して、なおかつ冷静に死体を燃やした。悼みのための涙すら、俺は流せない。
「殺す、ために」
 あれだけ人を殺しながら、俺は浅ましく生きている。人を殺すことが、自分の存在意義だとでもいうように。
「レオンハルト!」
 ぱん、と小気味いい音がした。カインの両の掌が、レオンハルトの細面の白い(かお)を挟んで、真っ直ぐに自分の方へ向かせた。
 そして、カインは低い声で、命じる口調で言った。
「泣け」
 と。
「泣け、ちゃんと。我慢するなと言っただろう」
「違う、俺は」
 泣けないのだ、とレオンハルトが口にしようとするのを、カインは遮る。
「そんな顔して、誰が泣くのを我慢してないって? この、とことん強情っ張りが」
 カインはレオンハルトの顔から手を離した。離された手は、そのままレオンハルトの首の後ろと背中に回された。そして、レオンハルトを自分の方へと引き寄せて、あやすようにそっと背を撫でる。
「……馬鹿。涙が出ないのは、お前が傷つきすぎているからだ。自分で、泣いてはいけない、と無意識に言い聞かせてるからだ。だが、お前が自分を許せなくても、今は俺が許す」
「……カイン……」
 細い肩、細い腕。温かい人の体が、支えてくれいてる。絶望に惑う心に寄り添って、己の苦悩も顧みずに。
 忘れていた、こんなにも誰かの体温が温かく――優しいものだなんて。
「泣けよ。……泣いていいんだ」
 レオンハルトの耳元で囁く声は、それにもまして優しかった。
「な?」
「……カイン……っ、……」
 目を閉ざすと、すぐに熱いものが、瞼を割った。一旦、零れた涙は後から後から溢れ出てきて、止まらなかった。
 故郷を失ってから、ずっとレオンハルトは泣かなかった。泣けなかった。泣くことは許されない、と思っていた。愛する人を永遠に喪ったことを知っても、自分には泣く資格などないと、戒めていた。
 嗚咽の声も無く、レオンハルトは初めて泣いた。
 自分と同じ闇色の髪を持つ、美しすぎる青年の肩の上で、涙を流して、泣いた。