Chapter-3「滅びぬ夜の夢」

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 夜は息を詰めて、ひたすら陽光が射すのを待つ街の朝は、待ち焦がれていたように飛び切り早い。まだ完全に夜が明けきらぬうちから、人々の活動は始まっていた。
 食欲を誘う、パンの焼ける匂い。井戸から水を汲み上げる音。近隣の人間と、朝の挨拶を交わし合う声。
 どんなに夜の闇が濃く深く恐ろしくとも、朝日が昇れば魔の時間は終わる。陽の光は、まさに恵みの光である。生きている限りは、人は生活しなければならない。だから、待つ。夜明けを。日が暮れれば、また夜が来るとは知りながらも。
 朝の挨拶は、一晩無事に生きていられた、という喜びの声だ。


 瞼を透かす朝の光に、カインは目を覚ました。それほど疲れていたとは思わなかったが、久しぶりに屋根の下で寝られたせいか、随分熟睡していたらしい、と、優美な長身をベッドから起こす。
 隣のベッドを見ると、既にそこに人の姿はなかった。相変わらず、彼の相棒は朝が早い。
 くしゃくしゃと黒い髪をかき、あくびをして、大きく伸びをする。その何気ない動作の一つ一つまでもが、うっとり見とれたくなるほど流麗で洗練されていた。繊細さを感じさせる細い指から流れ離れた髪の筋が、秀でた額に落ちかかる様が、妙に艶めかしい。
 カインの背後で、バルコニーに繋がる窓が開閉した。その音に、カインは振り向いた。
 窓の向こうから姿を現したレオンハルトは、鞘ごと剣を右手に握っている。起きたばかりで夜着姿のカインとは違い、レオンハルトは既に着替えも済ませていた。
「おはよう、レオンハルト」
「ああ、おはよう」
 爽やかな朝に、これ以上相応しいものはあるまい、澄み渡った青空を思わせる笑顔を、カインは見せた。カインと出会う前はほとんど癖になっていた、愛想笑いや苦笑ではない笑みで、レオンハルトも応える。
 カインは、レオンハルトの手元に目を落とした。
「探っていたのか?」
「遠くはない所に居るのは確実だが、特定は出来なかった」
「正体不明の、謎の吸血鬼、だからな。一筋縄ではいかんか」
 軽く肩を竦めるカインに、レオンハルトは小さく頷いた。
「あの屋敷を、もう少し探ってみるか」
 レオンハルトは、魔剣を剣帯に納めて腰に吊るしながら、カインの言葉に首肯した。それから、カインが夜着の襟に手をかける前に、身を翻す。
「先に下りているぞ」
「ああ」
 万事につけ、豪胆で恐れという感情などとは無縁のように見えるカインだが、自分の肌を見られたり触れられたりすることは、相手がレオンハルトであっても、ひどく嫌がる。嫌がるどころか、怯えたような態度すら、見せたことがある。過去の記憶を失ったカイン自身にも、その理由は分からない。そして、理由が分からずに怯えなければならないことが、カインを苛立たせるのだ。
 それを知っているからこそ、レオンハルトは何気ないふりをして、カインが着替えるようなときは、黙って傍を離れる。
 失った苦しみは、失う前の苦しみよりも、小さいだろうか?
 レオンハルトには、カインが失った過去が、幸せなものだったとは決して思えなかったが。過去の記憶を取り戻したとして、カインは今より苦しまずに済むのだろうか。




 1階を酒場として経営している宿屋は、食堂も兼ねている。夜の酒場の持つ猥雑さとは違い、朝の食堂は活気に溢れている。
 筈だが、2階に繋がる階段に、1人の青年が姿を現した瞬間、しん、と、しわぶき一つ聞こえないほどに静まり返ってしまった。
 その場の誰もが、白皙の典雅すぎる美貌に度肝を抜かれたり、見とれたり、で、一様に言葉を失ってしまったのだ。
「おはようございます、昨夜はよくお休みになられましたか?」
 小走りに、宿屋の主人であるアウグストがレオンハルトに駆け寄ってきた。レオンハルトはゆっくり休めた、と返事を返し、別の言葉を継いだ。
「手が空いてからで構わないから、少し話を聞きたいんだが」
「話ですか? ……分かりました」
 アウグストは少し首を傾げたが、それが必要なことであるらしい、とは悟ったらしく、すぐにレオンハルトに承諾した。
「薬屋のタマーラですが」
 それから、声と視線を落とした。
「旦那のヴィリーは、一晩、妻が帰ってこなかったことで、ある程度、覚悟はしていたようでした。……泣いていましたが」
「君も」
 峻烈な黒曜石の瞳が、静かな光を湛えて、微かに背中を震わせる若い宿屋の主人を見た。レオンハルトは、アウグストが口にした「エレミア」という名前を覚えていた。
「同じ立場だから、気持ちがよく分かるか」
「……まだ、結婚はしていませんでしたが……」
「死んでいないのなら、また会える」
 そう、死んでいないのなら。永遠の喪失の傷が、胸を疼かせる。記憶の中で、金髪の娘がレオンハルトの名を呼んで、笑う。もう届くことのない、愛している、という言葉は、どれだけ叫んでもただ虚しく(こだま)するだけ。
 だが、少なくとも死んでいなければ、伸ばした指は届く。手を取り、握ることが出来る。深い闇に取り巻かれていても、その闇が切り払われれば。
 その“静かなる魔法戦士”の称号に反することなく、寡黙な青年は、それ以上は何も言わず、空いている席に座った。



「おいアウグスト、ありゃ何者だ」
 レオンハルトの耳に、彼の素性を問う声が聞こえてきた。直接、レオンハルト自身にそれを訊かないのは、彼のあまりの美貌と、全身に纏う厳しさ、寂寥感のせいに違いない。そして、その外見がために、他人の好奇心を刺激する、というのもある。
「冒険者だよ。あの吸血鬼を倒してくれるそうだ」
 前日に、レオンハルトの口から、その複雑な素性を聞いていたアウグストは、当たり障りのない答え方をした。
「そりゃ願ってもない話だが――あんな細っこい、綺麗な顔した奴が、か?」
 この手の「誤解」に、レオンハルトは慣れている。だからといって、自分の過去を誇るべきものではない、と思っている彼は、殊更に誤解を解こうとはしないのが常だった。自嘲の感情が、苦く唇を歪める。
 ブルグント帝国の“闇将軍(ダークジェネラル)”は、帝国を滅ぼした4人の英雄の1人である“静かなる魔法戦士”と同一人物で、今、ここにいて、この地の旧領主の置き土産と目される吸血鬼と戦って倒そうとしている、と知れば、人はどう思うだろうか。
 別に、今更、嫌悪も侮蔑も痛罵も怨恨も憎悪も構いはしないのだが。
 そんなレオンハルトの内心を見透かしたかのようなタイミングで、世にも美しい声が2階から降りてきた。
「レオンハルト、2日続けて強情はよしてくれよ。やりにくくなったら困るだろ」
 この朝、食堂に居た人間は、長くない時間に、何度も度肝を抜かれる羽目になった。

 レオンハルトが冬の月光を思わせるなら、カインは秋の黄昏の光を連想させる。不可思議な神秘に煌く黒紫色の双眸は、清冽な不敵さをたゆたわせながら、同時に、見る者を虜にして酩酊させる、魔性のような相反する雰囲気を、矛盾することなく同居させていた。
 細い腰に剣が提げられているのが、あまりにも不釣合いにも、この上なく相応しい装飾品にも見える。
「よく聞こえていたな」
「地獄耳なんでな。言葉にしていない、お前の心の声も聞こえるぞ」
 レオンハルトと同じテーブルに着きながら、カインは澄まして言った。レオンハルトは、苦笑に近い笑い方をした。
「だから、奴の声も聞こえた」
「その、例の声だが。何か手がかりにはなりそうか」
「どうだろう。受け取りようによっては、老若男女、どれにも聞こえた。あの声だけでは、判断は出来んな」
「見目と同じか」
「そういうことだ」
 いずれにせよ、現時点では材料が少なすぎて、判断を下すには何事でも性急すぎた。まずは、アウグストの話を聞いてからだ。気を利かせてアウグストが朝食を運んできてくれたので、2人はとりあえずは腹ごしらえをすることにした。
 ちらちら、と、自分達の方を窺う視線を、何度も複数感じるが、取り立てて変にちょっかいをかけてこようとする者もおらず、食事を済ませた順から食堂を出て行き、自分の仕事場に向かっていった。昼までには、2人の美貌の冒険者の噂が街中に広がるだろうことは、まったく想像に難くない。誰であろうと、正体不明の吸血鬼と戦ってくれる、という人間が、この街で拒まれる理由はなかった。



「すみません、お待たせしました」
 レオンハルトとカイン、2人以外の人間が姿を消してしまってから、アウグストはテーブルの傍までやって来た。
「聞きたい話とは、何でしょう?」
「“神隠し”の件だ」
 遠慮会釈の欠片もなく、レオンハルトが口を開いた。その単語を聞いて、アウグストの顔が、目に見えてさっと青ざめる。
「それは、どういった……」
「決め付けてるわけじゃない。だが、宮廷魔術師である領主が居た地で“神隠し”が頻発し、伝説のはずの吸血鬼が現れた。この符合の意味を、誰もが考えなかったわけではないだろう?」
 それは、誰もが考えて、口に出せない恐ろしい想像だ。幾人もの人間が行方不明になり、吸血鬼と変じて、同じ街の人間を襲っている、などと!
 解明することが必要だとは分かっていても、躊躇わずにいられようか。
 禁忌を暴きたてようとする美しい青年は、凍れる冬の湖の瞳で、アウグストを凝視した。
「君は、“神隠し”に遭って、帰って来られたと言ったが、その間のことは何も覚えていないのか?」
 “闇将軍”としてフロレンツ王国軍を狩り立て、“静かなる魔法戦士”としてフロレンツ王国を救った青年の眼には、ただ深い静寂だけがあった。見つめていると、その中に吸い込まれてしまいそうな気がする、深淵。
 怒りも憎しみも蔑みも、全ては自分だけに向けられた感情だ。英雄だの勇者だの讃え上げられても、決して自分を許せないということは、どういうことなのだろう。
 この眼差しを作った過去に比べれば、この街の悲嘆も、平凡なものに感じられてしまう。

「……はい」
 アウグストは頷いた。立ち尽くしたままの彼に、カインが「まあ、座ったらどうだ」と、傍らの椅子を引いた。座ったままで、立っている相手の話を聞くのは尋問のようだ、と思ったせいもあるだろうが、アウグストの身長がレオンハルトとほぼ同じくらいに高いため、見上げるのに疲れる、といった散文的な理由がないわけでもないだろう。
「“神隠し”に遭ったのは、4年前です」
 硬い表情は崩れなかったが、それでもアウグストは話し始めた。
「その時のことは、本当に覚えていないんです。食料品の買い出しのために、隣の街の十日市に出かけた時のことでした。その帰り道――それ以降の記憶は、半年間ほどありません。気付いたら、街に向かって街道を歩いていました」
「君以外にも、“神隠し”から帰ってきた人間はいるのか?」
「この街では、3年間で30人……40人近くが行方不明になり、俺を含めて、7人が戻ってきました。他の街や村で同じことが起こっているかどうかは、……ちょっと分かりません」
「3年間というのは、5年前から3年間か」
「そうです。あの宮廷魔術師がここの領主になったのが、5年前ですから」
 5年前、といえば、“暗黒戦争”が勃発した頃だ。レオンハルトは、白い陶磁器に似た指で、軽く自分の顎をつまんだ。
 ブルグント帝国は、身分制度が厳しかった。その代わり、皇帝に対して能力を示しさえすれば、氏素性は問われず、皇帝位を除けば上に昇ることはいくらでも可能だった。異能者の才を、目醒めさせられたレオンハルトのように。
(……まさか、な)
 戦争開始後よりほぼ間を置くことなく、陥落せしめられたフロレンツ王都ロートリンゲン。そのあまりの攻略の早さに、内通者が居たせいだろう、とレオンハルトはグレゴール皇帝に言い、皇帝は否定しなかった。
 性質云々は置いておいて、フーリックが極めて有能な魔術師であるという事実は否めない。その男が、5年前に皇帝から領地を与えられた。5年前に、大きな功績によって。
(だとしたら)
 例え八つ当たりだとしても、フーリックを滅ぼさねばならない理由が増える。運命を狂わされたのは、俺だけじゃない。
 何よりも、あの戦争さえ起こっていなかったら――アルテミシアは、死なずに済んだ。
 もしも俺が、自分以外の誰かを憎むのなら、それはお前以外に居ない!

「吸血鬼の被害が起こり始めたのは、何時頃からになる?」
 内心でどれだけの激情が逆巻こうと、レオンハルトはおくびにも出さずに問いかけた。
「戦争が終わった頃です。……何もなければ、最初の被害者であるエレミアとは、その3日後に結婚しているはずでした」
 何もなければ。あの戦争中、どれだけの人間が、同じ言葉を叫んだだろう。しかし、戦争が終わってまで、そう口にすることになろうとは、誰が望む?
「それ以来、昨日のタマーラを入れたら、被害者は6人になります。うち、男が2人です」
「女だけを狙ったんなら、敵は男だと考えられそうなもんだったんだがなぁ」
 頭の後ろで手を組み、カインは椅子の背に凭れ掛かった。そのまま、ギイ、と椅子を後ろに傾ける。いささか悪童めいた行儀の悪い仕草だが、それなのに、溜息が出そうなほどに美しい。
「被害者達はどうしている?」
「1人だけは、二つ向こうの街にある光の女神の神殿に預けられました。少なくとも、神殿で守られれば、心配はないだろうと。この街には神殿がありませんから。後は……どう扱えばいいか悩みながら、家に寝かせている筈です」
「フロレンツの役人は当てにならんからな」
 厭味でもなく、レオンハルトは単に事実を指摘した。アウグストの無言は肯定を意味した。
 フロレンツ王国の人間にとって、旧ブルグント帝国領に派遣されるということは、とりもなおさず、左遷と同じである。かつての敵国の地に追いやられるのだから。それでも立派に任期を勤め上げてやろう、という気概のある人間なら、そもそも左遷などされまい。
「ならば、早く悪夢から目覚めさせてやるとするか」
 カインが、反動をつけて椅子から立ち上がった。頬の上に落ちかかってきた黒髪を、さらりと払う。舞踏会で優雅なステップを踏むように、それでいて颯爽と、体を半回転させる。
「どちらへ?」
「昨夜、元凶たる旧宮廷魔術師の館に、吸血鬼が現れたのは偶然かどうか――それを調べてくるのさ。滅びたものに、夢など見させ続けないために」
 そう言ってから、不意にカインは鋭く切れ上がった目を、やや細めた。
「……だが、それでいいのか?」
「どういう意味でしょう?」
「俺は、敵であれば、男だろうが女だろうが、年寄りだろうが子供だろうが、誰でも容赦をするつもりはない」
 今はおぞましい化け物であっても、隣人であったかもしれない「人」であったものを殺すが、構わないのか。声なき声が、はっきりとそう告げる。
「……俺には、分かりません……」
 アウグストは、俯いて膝の上で両の拳を握った。
 殺戮者と英雄という相反する過去を持つ青年と、過去の記憶を失った青年は、音もなく、しかし、はっきりと戦いに向かうために、その場を後にした。