夜は息を詰めて、ひたすら陽光が射すのを待つ街の朝は、待ち焦がれていたように飛び切り早い。まだ完全に夜が明けきらぬうちから、人々の活動は始まっていた。
食欲を誘う、パンの焼ける匂い。井戸から水を汲み上げる音。近隣の人間と、朝の挨拶を交わし合う声。
どんなに夜の闇が濃く深く恐ろしくとも、朝日が昇れば魔の時間は終わる。陽の光は、まさに恵みの光である。生きている限りは、人は生活しなければならない。だから、待つ。夜明けを。日が暮れれば、また夜が来るとは知りながらも。
朝の挨拶は、一晩無事に生きていられた、という喜びの声だ。
瞼を透かす朝の光に、カインは目を覚ました。それほど疲れていたとは思わなかったが、久しぶりに屋根の下で寝られたせいか、随分熟睡していたらしい、と、優美な長身をベッドから起こす。
隣のベッドを見ると、既にそこに人の姿はなかった。相変わらず、彼の相棒は朝が早い。
くしゃくしゃと黒い髪をかき、あくびをして、大きく伸びをする。その何気ない動作の一つ一つまでもが、うっとり見とれたくなるほど流麗で洗練されていた。繊細さを感じさせる細い指から流れ離れた髪の筋が、秀でた額に落ちかかる様が、妙に艶めかしい。
カインの背後で、バルコニーに繋がる窓が開閉した。その音に、カインは振り向いた。
窓の向こうから姿を現したレオンハルトは、鞘ごと剣を右手に握っている。起きたばかりで夜着姿のカインとは違い、レオンハルトは既に着替えも済ませていた。
「おはよう、レオンハルト」
「ああ、おはよう」
爽やかな朝に、これ以上相応しいものはあるまい、澄み渡った青空を思わせる笑顔を、カインは見せた。カインと出会う前はほとんど癖になっていた、愛想笑いや苦笑ではない笑みで、レオンハルトも応える。
カインは、レオンハルトの手元に目を落とした。
「探っていたのか?」
「遠くはない所に居るのは確実だが、特定は出来なかった」
「正体不明の、謎の吸血鬼、だからな。一筋縄ではいかんか」
軽く肩を竦めるカインに、レオンハルトは小さく頷いた。
「あの屋敷を、もう少し探ってみるか」
レオンハルトは、魔剣を剣帯に納めて腰に吊るしながら、カインの言葉に首肯した。それから、カインが夜着の襟に手をかける前に、身を翻す。
「先に下りているぞ」
「ああ」
万事につけ、豪胆で恐れという感情などとは無縁のように見えるカインだが、自分の肌を見られたり触れられたりすることは、相手がレオンハルトであっても、ひどく嫌がる。嫌がるどころか、怯えたような態度すら、見せたことがある。過去の記憶を失ったカイン自身にも、その理由は分からない。そして、理由が分からずに怯えなければならないことが、カインを苛立たせるのだ。
それを知っているからこそ、レオンハルトは何気ないふりをして、カインが着替えるようなときは、黙って傍を離れる。
失った苦しみは、失う前の苦しみよりも、小さいだろうか?
レオンハルトには、カインが失った過去が、幸せなものだったとは決して思えなかったが。過去の記憶を取り戻したとして、カインは今より苦しまずに済むのだろうか。
1階を酒場として経営している宿屋は、食堂も兼ねている。夜の酒場の持つ猥雑さとは違い、朝の食堂は活気に溢れている。
筈だが、2階に繋がる階段に、1人の青年が姿を現した瞬間、しん、と、しわぶき一つ聞こえないほどに静まり返ってしまった。
その場の誰もが、白皙の典雅すぎる美貌に度肝を抜かれたり、見とれたり、で、一様に言葉を失ってしまったのだ。
「おはようございます、昨夜はよくお休みになられましたか?」
小走りに、宿屋の主人であるアウグストがレオンハルトに駆け寄ってきた。レオンハルトはゆっくり休めた、と返事を返し、別の言葉を継いだ。
「手が空いてからで構わないから、少し話を聞きたいんだが」
「話ですか? ……分かりました」
アウグストは少し首を傾げたが、それが必要なことであるらしい、とは悟ったらしく、すぐにレオンハルトに承諾した。
「薬屋のタマーラですが」
それから、声と視線を落とした。
「旦那のヴィリーは、一晩、妻が帰ってこなかったことで、ある程度、覚悟はしていたようでした。……泣いていましたが」
「君も」
峻烈な黒曜石の瞳が、静かな光を湛えて、微かに背中を震わせる若い宿屋の主人を見た。レオンハルトは、アウグストが口にした「エレミア」という名前を覚えていた。
「同じ立場だから、気持ちがよく分かるか」
「……まだ、結婚はしていませんでしたが……」
「死んでいないのなら、また会える」
そう、死んでいないのなら。永遠の喪失の傷が、胸を疼かせる。記憶の中で、金髪の娘がレオンハルトの名を呼んで、笑う。もう届くことのない、愛している、という言葉は、どれだけ叫んでもただ虚しく
だが、少なくとも死んでいなければ、伸ばした指は届く。手を取り、握ることが出来る。深い闇に取り巻かれていても、その闇が切り払われれば。
その“静かなる魔法戦士”の称号に反することなく、寡黙な青年は、それ以上は何も言わず、空いている席に座った。
「おいアウグスト、ありゃ何者だ」
レオンハルトの耳に、彼の素性を問う声が聞こえてきた。直接、レオンハルト自身にそれを訊かないのは、彼のあまりの美貌と、全身に纏う厳しさ、寂寥感のせいに違いない。そして、その外見がために、他人の好奇心を刺激する、というのもある。
「冒険者だよ。あの吸血鬼を倒してくれるそうだ」
前日に、レオンハルトの口から、その複雑な素性を聞いていたアウグストは、当たり障りのない答え方をした。
「そりゃ願ってもない話だが――あんな細っこい、綺麗な顔した奴が、か?」
この手の「誤解」に、レオンハルトは慣れている。だからといって、自分の過去を誇るべきものではない、と思っている彼は、殊更に誤解を解こうとはしないのが常だった。自嘲の感情が、苦く唇を歪める。
ブルグント帝国の“
別に、今更、嫌悪も侮蔑も痛罵も怨恨も憎悪も構いはしないのだが。
そんなレオンハルトの内心を見透かしたかのようなタイミングで、世にも美しい声が2階から降りてきた。
「レオンハルト、2日続けて強情はよしてくれよ。やりにくくなったら困るだろ」
この朝、食堂に居た人間は、長くない時間に、何度も度肝を抜かれる羽目になった。
レオンハルトが冬の月光を思わせるなら、カインは秋の黄昏の光を連想させる。不可思議な神秘に煌く黒紫色の双眸は、清冽な不敵さをたゆたわせながら、同時に、見る者を虜にして酩酊させる、魔性のような相反する雰囲気を、矛盾することなく同居させていた。
細い腰に剣が提げられているのが、あまりにも不釣合いにも、この上なく相応しい装飾品にも見える。
「よく聞こえていたな」
「地獄耳なんでな。言葉にしていない、お前の心の声も聞こえるぞ」
レオンハルトと同じテーブルに着きながら、カインは澄まして言った。レオンハルトは、苦笑に近い笑い方をした。
「だから、奴の声も聞こえた」
「その、例の声だが。何か手がかりにはなりそうか」
「どうだろう。受け取りようによっては、老若男女、どれにも聞こえた。あの声だけでは、判断は出来んな」
「見目と同じか」
「そういうことだ」
いずれにせよ、現時点では材料が少なすぎて、判断を下すには何事でも性急すぎた。まずは、アウグストの話を聞いてからだ。気を利かせてアウグストが朝食を運んできてくれたので、2人はとりあえずは腹ごしらえをすることにした。
ちらちら、と、自分達の方を窺う視線を、何度も複数感じるが、取り立てて変にちょっかいをかけてこようとする者もおらず、食事を済ませた順から食堂を出て行き、自分の仕事場に向かっていった。昼までには、2人の美貌の冒険者の噂が街中に広がるだろうことは、まったく想像に難くない。誰であろうと、正体不明の吸血鬼と戦ってくれる、という人間が、この街で拒まれる理由はなかった。
「すみません、お待たせしました」
レオンハルトとカイン、2人以外の人間が姿を消してしまってから、アウグストはテーブルの傍までやって来た。
「聞きたい話とは、何でしょう?」
「“神隠し”の件だ」
遠慮会釈の欠片もなく、レオンハルトが口を開いた。その単語を聞いて、アウグストの顔が、目に見えてさっと青ざめる。
「それは、どういった……」
「決め付けてるわけじゃない。だが、宮廷魔術師である領主が居た地で“神隠し”が頻発し、伝説のはずの吸血鬼が現れた。この符合の意味を、誰もが考えなかったわけではないだろう?」
それは、誰もが考えて、口に出せない恐ろしい想像だ。幾人もの人間が行方不明になり、吸血鬼と変じて、同じ街の人間を襲っている、などと!
解明することが必要だとは分かっていても、躊躇わずにいられようか。
禁忌を暴きたてようとする美しい青年は、凍れる冬の湖の瞳で、アウグストを凝視した。
「君は、“神隠し”に遭って、帰って来られたと言ったが、その間のことは何も覚えていないのか?」
“闇将軍”としてフロレンツ王国軍を狩り立て、“静かなる魔法戦士”としてフロレンツ王国を救った青年の眼には、ただ深い静寂だけがあった。見つめていると、その中に吸い込まれてしまいそうな気がする、深淵。
怒りも憎しみも蔑みも、全ては自分だけに向けられた感情だ。英雄だの勇者だの讃え上げられても、決して自分を許せないということは、どういうことなのだろう。
この眼差しを作った過去に比べれば、この街の悲嘆も、平凡なものに感じられてしまう。
「……はい」
アウグストは頷いた。立ち尽くしたままの彼に、カインが「まあ、座ったらどうだ」と、傍らの椅子を引いた。座ったままで、立っている相手の話を聞くのは尋問のようだ、と思ったせいもあるだろうが、アウグストの身長がレオンハルトとほぼ同じくらいに高いため、見上げるのに疲れる、といった散文的な理由がないわけでもないだろう。
「“神隠し”に遭ったのは、4年前です」
硬い表情は崩れなかったが、それでもアウグストは話し始めた。
「その時のことは、本当に覚えていないんです。食料品の買い出しのために、隣の街の十日市に出かけた時のことでした。その帰り道――それ以降の記憶は、半年間ほどありません。気付いたら、街に向かって街道を歩いていました」
「君以外にも、“神隠し”から帰ってきた人間はいるのか?」
「この街では、3年間で30人……40人近くが行方不明になり、俺を含めて、7人が戻ってきました。他の街や村で同じことが起こっているかどうかは、……ちょっと分かりません」
「3年間というのは、5年前から3年間か」
「そうです。あの宮廷魔術師がここの領主になったのが、5年前ですから」
5年前、といえば、“暗黒戦争”が勃発した頃だ。レオンハルトは、白い陶磁器に似た指で、軽く自分の顎をつまんだ。
ブルグント帝国は、身分制度が厳しかった。その代わり、皇帝に対して能力を示しさえすれば、氏素性は問われず、皇帝位を除けば上に昇ることはいくらでも可能だった。異能者の才を、目醒めさせられたレオンハルトのように。
(……まさか、な)
戦争開始後よりほぼ間を置くことなく、陥落せしめられたフロレンツ王都ロートリンゲン。そのあまりの攻略の早さに、内通者が居たせいだろう、とレオンハルトはグレゴール皇帝に言い、皇帝は否定しなかった。
性質云々は置いておいて、フーリックが極めて有能な魔術師であるという事実は否めない。その男が、5年前に皇帝から領地を与えられた。5年前に、大きな功績によって。
(だとしたら)
例え八つ当たりだとしても、フーリックを滅ぼさねばならない理由が増える。運命を狂わされたのは、俺だけじゃない。
何よりも、あの戦争さえ起こっていなかったら――アルテミシアは、死なずに済んだ。
もしも俺が、自分以外の誰かを憎むのなら、それはお前以外に居ない!
「吸血鬼の被害が起こり始めたのは、何時頃からになる?」
内心でどれだけの激情が逆巻こうと、レオンハルトはおくびにも出さずに問いかけた。
「戦争が終わった頃です。……何もなければ、最初の被害者であるエレミアとは、その3日後に結婚しているはずでした」
何もなければ。あの戦争中、どれだけの人間が、同じ言葉を叫んだだろう。しかし、戦争が終わってまで、そう口にすることになろうとは、誰が望む?
「それ以来、昨日のタマーラを入れたら、被害者は6人になります。うち、男が2人です」
「女だけを狙ったんなら、敵は男だと考えられそうなもんだったんだがなぁ」
頭の後ろで手を組み、カインは椅子の背に凭れ掛かった。そのまま、ギイ、と椅子を後ろに傾ける。いささか悪童めいた行儀の悪い仕草だが、それなのに、溜息が出そうなほどに美しい。
「被害者達はどうしている?」
「1人だけは、二つ向こうの街にある光の女神の神殿に預けられました。少なくとも、神殿で守られれば、心配はないだろうと。この街には神殿がありませんから。後は……どう扱えばいいか悩みながら、家に寝かせている筈です」
「フロレンツの役人は当てにならんからな」
厭味でもなく、レオンハルトは単に事実を指摘した。アウグストの無言は肯定を意味した。
フロレンツ王国の人間にとって、旧ブルグント帝国領に派遣されるということは、とりもなおさず、左遷と同じである。かつての敵国の地に追いやられるのだから。それでも立派に任期を勤め上げてやろう、という気概のある人間なら、そもそも左遷などされまい。
「ならば、早く悪夢から目覚めさせてやるとするか」
カインが、反動をつけて椅子から立ち上がった。頬の上に落ちかかってきた黒髪を、さらりと払う。舞踏会で優雅なステップを踏むように、それでいて颯爽と、体を半回転させる。
「どちらへ?」
「昨夜、元凶たる旧宮廷魔術師の館に、吸血鬼が現れたのは偶然かどうか――それを調べてくるのさ。滅びたものに、夢など見させ続けないために」
そう言ってから、不意にカインは鋭く切れ上がった目を、やや細めた。
「……だが、それでいいのか?」
「どういう意味でしょう?」
「俺は、敵であれば、男だろうが女だろうが、年寄りだろうが子供だろうが、誰でも容赦をするつもりはない」
今はおぞましい化け物であっても、隣人であったかもしれない「人」であったものを殺すが、構わないのか。声なき声が、はっきりとそう告げる。
「……俺には、分かりません……」
アウグストは、俯いて膝の上で両の拳を握った。
殺戮者と英雄という相反する過去を持つ青年と、過去の記憶を失った青年は、音もなく、しかし、はっきりと戦いに向かうために、その場を後にした。