Chapter-3「滅びぬ夜の夢」

―3―

 人と魔の戦争が終わった今、夜は安らかな眠りや、穏やかな語らいの時間を、人間に与えてくれる筈だった。
 だが、この街は、今なお夜の闇に怯えて息を殺し、朝の光をひたすら待ち望む、恐悸の沈黙に包まれていた。家々の窓にはがっちりと鎧戸が下ろされ、街路には人の姿どころか、まさに猫の子1匹いない。
 そんな街では、1階を酒場として営業している宿屋も、全く商売上がったりというもので、早々と「営業中」の看板を下ろし、灯りを消していた。
 その宿屋の扉を、叩く音。
 夜も更けてから宿屋を訪ねて来るのは、旅人に決まっている。大切な収入源の(おとな)いを歓迎するために扉は開き――開いたまま、凍りついた。
 恐ろしい夜が、最大限の詫びとして、この上もなく美しい幻を生み落としたのかなどと、埒も無いことを、扉を開いた者が思ったとしても、無理はない。

 細い三日月の光が、そこに当てる光だけを強くしたように見えた。
 闇と同じ色でありながら、闇に溶けない、艶やかな黒い髪。冬の湖の静謐を湛えた黒曜石色の瞳と、不可思議な神秘を秘めた黒紫色の瞳。
 怜悧な、2つの青年の姿をした美影。美しい、という言葉以外で、その相貌を形容したら、恥ずかしさのあまりに卒倒してしまいたくなるかもしれない。
「夜分にすまないが、この女性は、この街の人だろうか?」
 その声もが、天上の楽器を奏でたが如くの美しさだった。ランプを掲げて扉を開けた、まだ若い――2人連れの美青年と、さほど年齢は変わらないだろう――宿屋の主人は、そう言われてようやく、その2人連れのうち、片方の青年が、両腕に人間の身体を抱えているのに気付いたらしく、目を見開いた。
「……薬屋の女房のタマーラです。子供がずっと高い熱を出しているから、解熱剤を作る薬草を採りに行く、と言っていましたが……まさか!?」
「吸血鬼に襲われた」
 簡潔に事実のみを告げる、淡々とした言葉に、宿屋の主人は、悲鳴に似た声を上げた。
「吸血鬼に……!!」
 もっとも、その表情自体に、未知のものに遭遇した類の、驚いた様子はない。それどころか、
「ああ、やっぱり……! だから、日が暮れそうになってから出かけるのはやめた方がいい、とあんなに止めたのに……!」
 という嘆きと共に、目元を覆った。

 僅かに、レオンハルトとカインは、視線を交差させた。この様子では、随分以前から、吸血鬼はこの地で跋扈していたようだ、と確認出来たからだ。そして、それに対して、何の手立ても為されていないことも。
 戦争終結後、主である皇帝グレゴールを失った旧ブルグント帝国は、フロレンツ王国にその旧領を丸ごと併合された。フロレンツの同盟国であり、共に協力して戦ったカスティーリエン王国も、ブルグント旧領に対して、戦利として領有権を主張することが出来たが、その場合、フロレンツの国土を挟んでの飛び地となり、統治的に難しいことから、カスティーリエンはその主張をしなかったからだ。また、フロレンツのように直接に領土を接しなかったおかげで、侵略の牙にほとんどさらされなかったカスティーリエンにとっては、ブルグントは話を伝え聞く、遠い「魔物の巣窟」の国だった、というせいもあるだろう。加えて、ブルグントの国土は不毛の湿原が多いために資源に乏しく、領土としての価値が少ない、という実際問題もあった。フロレンツがブルグントを併合したのは、勝者の権利というよりも、義務に近かった。生き残った勝者は、生き残った罪の無い敗者を保護せねばなるまい。
 それが熱心か不熱心かは別問題として、である。
 フロレンツ王国は、先の戦争で、人も土地も、あらゆるものが大打撃を受けた。そこからようやく立ち直ろうとしているところ、侵略側であった旧ブルグント帝国に、優しい手を差し伸べる「余裕」は、物理的にも精神的にもまだ難しいといえよう。
 旧ブルグント帝国領民としても、自分達が魔族と手を組んだ侵略者、と見做されていることは分かっているから、例え困っているから助けてくれ、と頼んだとしても、応じてはもらえない、と思っている。
 離合集散、国や王朝の興亡は、有史以来、今に始まったことではない。しかし、今までに人でない存在を使って、他者を征服した例はなく、従って、それに失敗した例もない。どうすれば互いの禍根が少しでも薄くなっていくか、誰にも分からないのだ。
 確かに、戦争は終わった。しかし、“暗黒戦争”が、この大陸に残した傷痕は、人が生まれ、一生を終えるまでに癒えるかどうか、というほどに深く抉っているのではないだろうか。レオンハルトはそう思う。
 そして、その傷を自分も刻んだのだ。――決して、浅くも軽くもない傷を、この手で。

「……病気の子供がいるのなら、少なくとも、現状では家には帰さない方がいいかもしれんな」
 一瞬、過去に向かいかけていたレオンハルトの意識を、カインの声が現実に引き戻す。それが、カインの意図的な行為であることが、レオンハルトには分かっている。そして、それを単純にありがたい、と嬉しく感じる。
 彼がいなければ、この地にやって来ようという気が起きたかどうか、そして、ブルグント旧領の現実を自分の目で見ることが出来たかどうか。
 かつてのブルグント帝国軍“闇将軍(ダークジェネラル)”として。そして、フロレンツ救国の英雄“剣と魔法を意のままにする静かなる魔法戦士”として。あの“暗黒戦争”に、深く深く関わった――関わりすぎた人間として。


 ほとんど、殺されたも同然の女の顔に、痛ましげに目をあて、宿屋の主人は嘆息を吐いた。
「家の者には、事実を伝えるしかないでしょうね……」
「吸血鬼を倒せたら、元に戻るんだろう?」
 至極簡単にそう言ってのけたのが、いっそ神をも畏れぬのではないか、というほどの不敵な雰囲気を感じさせる、並外れた美貌の青年でなかったら、人は普通、何を馬鹿げた大言壮語を、と、失笑するか、たしなめるかするところだ。だが、カインが口にすると、ただ、彼が単なる事実を口にしている、としか聞こえなかった。ましてや、
「倒して、いただけるのですか、奴を? 正体不明の、神出鬼没の恐ろしい吸血鬼を?」
 暗闇に閉ざされ、恐れ諦めていた者の耳になら、尚更だろう。
「一度は逃がした。だが、次は必ず倒す」
 それは、勇者の凛乎たる宣言に他ならなかった。

「奴と会って……、しかも、殺されたり、血を吸われたりしなかったのですね……! それどころか、撃退したと……!!」
 宿屋の主人は、感極まった表情で、今にも涙を流さんばかりだった。それから、ようやっと気づい、と、慌てた風にドアを大きく開いた。
「ああ、すみません、ずっとこんな入り口で立ち話をさせてしまって。どうぞお入りください。ここに滞在される間は、好きな部屋をお使いくださって結構です。無論、御代は頂きません。それから、彼女はうちの方でお預かりしましょう。事情を話せば、家の旦那も納得してくれるはずです」
 安堵したせいか、いかにも商売人らしく、急に如才なくなった主人の振る舞いに、カインは微苦笑を浮かべたが、レオンハルトは相好を崩すこともなく、静かに口を開いた。
「ただし、一つ言っておくことがある」
 レオンハルトの言わんとすることを察知して、カインが整った眉を微かに上げる。無論、それには気づいていたが、レオンハルトはあえて気づかなかったふりをして言葉を続けた。
「俺は、かつて“闇将軍”と呼ばれていた人間だ」

 いそいそとしていた宿屋の主人が、動きを止めた。
 衝撃的な一言を放った本人は、秀麗な美貌に一切の表情を浮かべずに、更に付け加える。
「そして、“闇将軍”と、巷間の英雄詩(サーガ)に謳われる、“静かなる魔法戦士”は同一人物だ、と伝えないのはこの場合、公正とはいえないだろう」
 このブルグント旧領にあって、その二つの呼び名は、どういった意味を持つのか。
 一つは、ブルグント帝国の「無残で無慈悲な侵略」を体現した殺戮の名、ブルグントの“闇将軍”。
 一つは、ブルグント帝国、という国を地上から失わせた消滅の名、フロレンツの“静かなる魔法戦士”。
 物事には、常に裏面がある。レオンハルト達4人は、フロレンツ王国からしたら、救国、どころか、救世の英雄だが、果たして、ブルグント帝国に属していた人間から見たら、どうか。
 かつてグレゴール皇帝の左側に侍していた、宮廷魔術師の領地だった場所に住む人間は、グレゴール皇帝の右側に侍し、後に皇帝を斃した青年を暫く凝視したが、あまりの端整さに正視しきれなくなったらしく、すぐに頭を振って目を背けた。それから、もう1人の美貌の主に声を向けた。
「……こちらの方も?」
 も、とは、カインもまた、4人の「英雄」の1人か、という問いである。“静かなる魔法戦士”が共に旅をしているのなら、やはり英雄と、と思うのは、ごく自然な思考の筋道だろう。
「俺は」
「彼はあの戦争とは無関係だ。つい最近、西方大陸から来たばかりだからな」
 カインが答える前に、レオンハルトが(いら)えを発する。レオンハルトは嘘を言ったわけではないから、別にカインも不服を唱える気はないが、あまり1人で全てを背負い込もうとするな、とは言いたかった。

「……俺」
 その声音は、宿屋の主人、としてのものではなく、1人の普通の若者のものだった。
「神隠しに遭ったんです。どうやって帰って来れたのか、全然覚えてないけど。それでも、帰って来れた。帰って来れて、ここの領主も死んで一安心と思ったら、謎の吸血鬼が現れて、エレミアが……」
 若者は、唇を噛んだ。
「街の他の人間が、貴方を何て思うかは、俺は分からない。けども、俺は心から貴方を歓迎します――帝国を滅ぼした、“静かなる魔法戦士”。その力で、どうか、どうか吸血鬼を滅ぼしてください!!」
 慟哭にも近い、請願。
「無論だ」
 あくまでも静かに、しかし、それでいて限りなく力強く、2つの過去を持つ美しい魔法戦士は頷いた。
 そう、不死の死霊魔術師を滅ぼそうというのに、吸血鬼を倒せなくて、どうする。

 冬の湖よりも深く澄んだ静謐に、激情が少し落ち着いたのか、若者は半分ほどだが、宿屋の主人の顔を取り戻した。
「では、2階にご案内します。大したものは出来ませんが、よければお食事も用意しますが」
「そうだな、何か軽いものを頼む」
「分かりました、後で部屋までお持ちします」
 主人の後について、2階に上がった2人は、適当な2人部屋を選んだ。ずっとレオンハルトの腕に抱えられていた、吸血鬼の毒牙にかけられた子想いの母は、アウグストと名乗った、宿屋の主人に託された。

「レオンハルト」
 腰の剣を外しながら、カインはレオンハルトの名を呼んだ。咎める、というには、あまりにも優しい色が、その面上に浮かべられている。まるで、レオンハルトの苦悩を抱き寄せて、穏やかに包み込もうとでもいうように。
「俺はそんなに頼りないか」
「そんなつもりはないが……、俺自身で負うしかないものだからな、全ては。その気持ちだけでも充分だ。それにここはブルグント旧領だ、元“闇将軍”の俺の顔を知っている人間がもしいても、おかしくはない。隠しおおせるものでもなかろう」
「どうせ今の俺は、過去を失って空っぽだ。少しぐらい、お前の重荷を分けてくれても構わないものを」
「生まれつき、強情でな」
「だろうな」
 声を立てずに、カインは笑った。鎧を脱ぎ捨てたせいか、軽やかな笑い方だった。カインの纏う鎧は、材質が何で出来ているのか、なまじの武器では傷一筋もつけられないほどの硬度を持つのに、服を1枚着重ねるくらいの重量しかない。とはいえ、やはり、鎧を身に着けているということは、戦闘に赴くことである。
 カインは、緩く握った拳で、とん、とレオンハルトの胸を叩いた。
「が、あまり強情張りすぎると、本気で怒るぞ」
「気をつけよう」
 いやに鹿爪らしい顔をして、レオンハルトは自分も拳を作り、カインの拳に当てた。
「ところで」
 不意に、カインは笑いを消し、振り向いた。誰もいない方を。
「『見られている』感じがしないか?」
「俺はそこまで、直接的には感じないが……警告は受けている」
 レオンハルトが“暗闇の剣(ダークブリンガー)”の柄頭を押さえる。闇に潜む妖気を察知し、その剣を握る者に狩ることを知らしめる魔剣は、吸血鬼と相対した時ほどではないにせよ、ずっと警告を続けていた。警戒を怠るな油断をするな、と。
「奴の声を聞いた。――そのせいか」
 その時、カインの口元をかすめた表情は、剣光によく似ていた。レオンハルトは、やや訝しげに訊く。
「どういう意味だ?」
「奴の次の獲物は、俺らしい。そう言ったのが、俺には聞こえた」
 聞き違えたか、と思いたいくらいに、世間話でもする口調で、返答があった。
「ある意味、願ったり叶ったりだ。次に(まみ)えたときは、必ず返り討ちにしてやるさ。お前と俺、2人でな」
 最後の「2人」というくだりを心持ち強調して、カインは片目を瞑った。
「ああ、頼りにしているとも、カイン」
 


 窓の外で、夜の闇は濃さを増していく。その闇は、人を恐怖という感情で押し潰そうとする、魔の黒衣に似ているのかもしれない。
 だが、どんな過去が自分にあろうとも、魔の闇を引き裂くために自分は生きている、それだけはレオンハルトは迷わなかった。