Chapter-3「滅びぬ夜の夢」

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 一瞬、一気に宵の闇が濃く深くなったか、と思われた。既に、レオンハルトが身に帯びる魔剣“暗闇の剣(ダークブリンガー)”は、最大限の警告を発している。そして、レオンハルト自身も、これほどまでに禍々しい魔の気配、を肌に刺さるほどに感じたのは、あの“暗黒戦争”の時――魔界の貴族と化したブルグント帝国皇帝グレゴールと相対した時以来だった。
「……何だ、あれは?」
 カインが低い、驚きに似た声を上げたのは、城館の敷地を走り出てから、さほど距離も時間も離れてはいない。
 闇を見通す黒紫色の目が、隣を走る、魔力に長けたレオンハルトよりも早く、その光景を視界に捉えたのだ。


 何か、黒ずくめの異形の「もの」が、若い女を抱きすくめていた。
 半ば闇と同化しているようなその「もの」は、がくりと天を仰いだ女の首筋に、そこだけはやけに白々と光る、獣のそれと至極よく似た牙を食い込ませた。牙と首筋の接合面から、ちょろちょろと朱線が流れ出る。考えるまでもない。異形は、女の体内から血液を貪っているのだ。
「化け物が!」
 一切の迷いも停滞も無く、カインの腰に挿した鞘から、銀の剣光が迸った。
 黒い異形は、カインの鋭すぎる斬撃から身をかわし、女の身体を手放した。女が地面に倒れ落ちる前に、レオンハルトの腕が彼女を抱きとめ、落下の衝撃から守った。
 異形の牙が離れた瞬間に出血は止まったらしく、女の首筋には、2本の牙の傷痕が生々しい肉の盛り上がりを見せているだけで、そこから溢れて凝固しつつある血の塊以外は、もはや命の血潮が零れる気配は無い。
 それを見た瞬間に、まさか、とレオンハルトは嫌な予感に襲われた。まさか、そんなことがある筈が無い。しかし。
 半ば無意味だと思いながらも、レオンハルトは瞼を閉ざした女の手首を取る。脈拍を測るまでもなく、ひんやりと冷たい、生命の脈動を失った氷の肌。カインほど夜目がきかなくとも、女の皮膚の色がぞっとするほど青白く、生者のものでないことは明らかに分かる。僅かな呼吸音すら、彼女からは聞き取ることが出来ない。
 それは、死者の沈黙だった。だが、それなのに、女は完全なる死者とは違っていた。
 ただ、心臓だけは動いているのだ。弱々しくはあったが、確かに心臓だけは生者の鼓動の音を刻んでいるのだ。
 レオンハルトは、異形と剣を交える、彼が唯一心を許す青年に、短く的確な警告を発した。
「カイン、そいつは『不死者の王』――吸血鬼(ヴァンパイア)だ!!」

 長く伸びた鉤爪が、カインの剣をへし折ろうと掴みかかる。カインは力点を上手くずらし、剣でその手を跳ね除けた。そのまま、走った剣は、異形の頚部の辺り、と思われる箇所に叩きつけられる。手ごたえを感じられぬまま、カインは素早く体ごと剣を引いた。鉤爪は、カインの黒い髪の一筋も散らせずに空を切った。
 さながら、まるで華麗な剣舞でも行っているかのように、カインの動作はあくまでも優雅ですらあった。だが、その所作とは裏腹に、一見、華奢な腕が振るう剣は、敵とみなした相手を必ず屠る、圧倒的で無慈悲な強さに満ちている。
 その剣が、眼前の異形を斃せないでいる。それは、とりもなおさず、異形が、恐るべき強敵である、ということだ。そうだろう、レオンハルトの“暗闇の剣”が、カインにも伝わってくるぐらいに、激しい警告を与えていたのだから。
 そして、カインの耳に、レオンハルトの放った声が届いた。
 過去の記憶と共に、持っていたであろう知識も失っているカインだが、レオンハルトが口にした「不死者の王」という言葉に素早く反応した。少なくとも、魔法のかかっていない自分の剣では、この敵を倒せない、と瞬時に判断したカインは、確実にレオンハルトの魔法の援護が受けられる位置まで跳び退った。

 その時、不意に、カインは真紅の瞳に射すくめられた。その瞳は、カインに、
「次の獲物は、お前だ」
 と、宣言しているように見えた。のみならず、乱杭歯を剥き出しにした口元が、はっきり、にっと笑いを浮かべているのが見て取れる。カインが、微かに背中を震わせたのは、恐ろしかったからではない。気のせいではなく、彼の耳にはその宣言が聞こえていた。嫌悪と不快の感情が、それでいて、毅然とした美貌に、息を呑んで見とれたくなるほど強く凛とした表情を与える。
「やってみるがいい」
 冴え渡った声が、そう言うのを待っていたとでもいうように、黒い異形はすうっと夜の中に消えていった。夜と同化し、あっという間に、気配の一片すら残さず。
 取り逃がした、と思わないでもなかったが、果たしてどうやって捕縛できたろうか、と、カインは剣を鞘に収めて振り向いた。
 レオンハルトが、両腕に女の体を抱き上げて、立ち上がるところだった。カインは、レオンハルトが癒しの魔法を使っていないことに、とっくに気づいていた。
「……殺されたのか?」
 死人相手に、傷を癒す魔法を使っても意味が無い。どれだけ傷を癒したとて、失われた命は蘇らない。
「もっと厄介だな」
 小さな溜息を、レオンハルトはついた。
「死んではいない。だが、生きてもいない」
 その状態が、かの死霊魔術師(ネクロマンサー)のことを連想させ、カインは不機嫌そうに形のいい眉を顰めた。
「脈も呼吸も無いが、心臓だけは動いている。何も食べなくとも、ずっとこのまま眠り続けるだろう。そのうち、いずれは肉体の方が年月に耐えかねて滅びるかも知れんが、そうなるまでどれだけの時間が必要になるか……それも、今のところ、だ。さっきの奴が、血を吸い尽くして殺そうとしない限りはな」
 御伽噺の眠り姫なら、勇敢な王子様が助けに来てくれるかもしれないが。
 それも全ては、元凶の悪い魔法使いを倒せたら、だ。
「……ぞっとしないな。あいつを倒せることが出来れば、助かるのか?」
「そう聞く」
 まさしく「死んだように」目を閉じている女の顔に、カインは視線を落とした。
 彼らとほぼ同じか、あるいは少し上ぐらいの年齢かと思われた。やや疲れたような印象はあるが、客観的に見て、十分に美人といわれる顔立ちである。
 ただし、彼女を抱き上げる青年と、彼女を見る青年が傍にいなければ、だが。いや、それに関しては、夜の闇の下ですら(かす)みようが無い、桁違いの美貌と比較する方が間違っている。

「この近辺に住む人間みたいだな。若い綺麗な女が、日も暮れてから1人で外にいるとは無用心、と言いたいところだが……」
 近くの地面の上に、篭が転がっている。ひっくり返った籠の口から、薬草と思われる緑色が零れていた。
 迷信的なことだが、魔力の強い土地では、薬草はよく育ち、効き目がいいと俗に言われる。特に、夜に摘んだ薬草は効果が絶大だ、と。かつて、宮廷魔術師であった領主の住んでいた城館の周辺の土地には、いい薬草が育つと人々が信じるのも、むべなるかな。
 あるいは、それくらい信じていないと、この土地に住んでいられなかったのかもしれない。
「切羽詰っていたら、そんなことを考える余裕もなくなるからな。ともかく、一番近い町か村かまで連れて帰ったほうがいいだろう」
「ああ、置いてきた荷物を取って来るから、少し待っててくれ」
 先ほど出てきた、廃墟になりつつある城館に戻りかけて、カインは足を止めた。
「あの化け物――お前は、『不死者の王』吸血鬼と言ったな。とんでもない大物のようだが」
「大物も大物だ。伝説に語られるだけの不死の王……、まさか、人の世界に姿を現すことがあろうとはな」
「……“神隠し”の成果か」
 レオンハルトの答えに、カインは苦々しげに吐き捨てた。


 吸血鬼。
 今の世では、ただ神話伝説にのみ登場する、不死の怪物達の王。
 その姿は人には似ているが、青白い肌と真紅の瞳と不老不死の体を持ち、人間などはるかに凌駕する体力と魔力を有すると伝えられる。
 陽光と流水を甚だしく厭い、昼は何処とも知れぬ闇の中に眠り、夜ともなれば眼を覚まし、人を襲って血の嗜好を満たすと言う。吸血鬼が、最も恐れられ忌まれるところは、そこである。人の血を吸い、自らの不死命の糧とすること。そして、吸血鬼がそれを望めば、血を啜られた人間は、吸血鬼の下僕として、同じく呪われた闇夜の悪鬼と化すこと――。望まなければ、全身の血を吸われて殺されるか、朽ち果てるまで死に切れぬままの時を放置されるか、……あるいは、同胞たる人間の手によって、擬似吸血鬼となることを懸念されて、「始末」されるか。いずれにせよ、犠牲者に待つ運命は苛酷なものしかない。
 神に祝福された武器でか、心臓を串刺しにしてのみ倒せる、と言われる、この恐ろしくおぞましい魔物は、神々の創り出した魔界の、最も奥深いところに封ぜられたと伝えられる。だから、伝説にのみその名が存在するのだ。
 その筈が、何故、この世に姿を現したのか。
 よりにもよって、この地で。

 この地だからこそ、か。

 不死の悪霊と化したあの男は、成功するか失敗するか分からない術を、一か八か我が身に試してみるようなやり方はしない。帝国の“闇将軍(ダークジェネラル)”であった頃、レオンハルトは、フロレンツ王国軍の捕虜や、拉致された流民やブルグントの領民と思しい人々を、自分の実験室に連れ込むフーリックを幾度も見ていた。
 一体、どれほどの人間に試したのか、どれほどの数の人間を犠牲にしたのか、完全に転生の秘術(リーンカーネイション)が成功すると確認して、フーリックはようやく術を我が身に施したのだ。
 恐らくは、先ほどの吸血鬼は、転生の秘術の失敗の結果だ。確かに、フーリックは不老不死を得るための研究はしていたが、それは、人の生き血を啜って己の命を保ち、心臓を貫かれれば滅びるような、「不完全な」不老不死ではなかった。
 完全なる不老不死。人間の域を越え、神の領域にまで踏み込む行為。
 だが、あの吸血鬼は、まさかそれを望んでいたわけではなかろうに。人でなくなることを。

「たとえそこが地獄の果てであろうと、俺は貴様のいる所まで追い、必ず滅ぼしてやる、フーリック」
 そう呟いたレオンハルトの黒曜石色の瞳に、佩剣の柄が映った。
 皇帝が滅び、戦争終結を祝う宴のさなか、レオンハルトはひっそりとフロレンツ王都ロートリンゲンを離れた。この剣も、置いていくつもりだった。だが、宴の間から出て行く寸前に、レオンハルトは呼び止められた。振り向かず、答えもしなかったが、彼は立ち止まった。
『何処へ行くつもりなんだ、レオンハルト』
『さあな。だが、ここへ留まる理由も無い』
『ユリアナが悲しむぞ』
 長身のレオンハルトよりも更に背が高い、というよりも、大男という形容の相応しいカールは、能弁ではなかった。それだけに、短い言葉には真摯さが溢れていた。
 ちらりと、レオンハルトは自分の妹に目を走らせた。
 美しい彼の妹は、とても幸せそうに笑っていた。その傍らには、薄い亜麻色の髪の若者がいて、その2人は、誰が何処から見ても、祝福すべき2人に見えた。
『ユリアナには、フリードリヒがいる。俺はもうお役ごめんだ』
『そんなことはない。お前にこそ、ユリアナは自分の幸せを祝って欲しいはずだ』
『俺は、もう過去の亡霊だ。未来に、俺の居場所は無い。戦いの間にこそ、俺は有益な存在だが、帝国の影を負った俺は、平和が来たこの国には、害にしかなるまい』
『レオンハルト……』
『俺を庇い立てすると、お前達の立場も悪くなる。だから、俺は行く。達者でな』
 レオンハルトの翻意が困難であることを、カールは最初から知っていたのだろう。カールは小さく頭を振り、それから、1本の剣を差し出した。
 フリードリヒの持つ聖剣、“太陽の剣(サンブレード)”と対になる魔剣“暗闇の剣”。レオンハルトが、「剣と魔法を意のままにする静かなる魔法戦士」となってから、彼と共にあった剣だった。
『その剣は、借り物だから、返す』
 と、レオンハルトは受け取らなかったが、
『お前以外にこの剣を扱える人間は誰もいないから、これはお前のものだろう。外の世界はまだ危険だ、この剣ぐらい持っていかないと、俺は力ずくでもお前を行かせないぞ』
 精一杯のカールの思いやりだった。レオンハルトは、僅かに寂しげな微笑を浮かべ、『分かったよ』と、手を伸ばして剣を受け取った。剣は、そこがあるべき場所だ、とでもいうように、レオンハルトの腰に納まった。
 レオンハルトは、歩き出した。今度こそ振り向かずに。そして、小さな声で言った。
『さよなら』
 永遠の訣別の言葉を。
 あれから、一度も王都の近辺には立ち寄っていない。フリードリヒ達の動向は、噂として聞くのみだ。
 彼らは、幸せらしい。それでいい、とレオンハルトは思う。そのまま、俺のことなど忘れてしまえばいい、と。

 白皙の美貌に、疲労のような翳がこびりついて見えるのは、果たして気のせいだろうか。