その城館は、いや、正確には、以前は城館だった廃墟は、その持ち主を失ってから、まだ2、3年しか経っていない、とは到底思えないほどの荒れようだった。
壁を覆っていただろう白い塗料は見る影も無く汚れ、あちこち剥がれ落ちている。それどころか、壁土自体が箇所によっては崩落して、土台を剥き出しにしている。人が住んでいた頃は整備されていただろう中庭は、様々な種類の青草が、気儘放題に茫々と伸びている。窓に嵌められたガラスは、風雨に晒され、磨かれることもなく澱んだように曇っている。
それは、人に見捨てられ、朽ち果てるがままに見放された城館。いや、むしろ、一刻も早くその姿を消してくれ、と願われているようですらある。
全ては、死んだこの館の主への、恐怖と嫌悪ゆえに――。
使われなくなって久しい、大きな両開きの扉に留められた蝶番が軋みを立てる音が、まるで不平を言っているようだ。
「おっ、……と……」
開かれた弾みで、錆びついて弱っていた金属は、その役目を放棄して、僅かな音を立てて外れ落ちた。支えるものを失った扉が、再び閉ざされることなくがくんと垂れ下がる。
「馬鹿力だな」
「単に金具が弱っていただけだろう。大体、お前に言われたくはないぞ、レオンハルト」
地元の人間ならば、近寄るどころか、視界に入れることすら忌む館に、一切恐れる様子の欠片も無く踏み込んでいく2人の人影があった。互いに軽口を叩く余裕すらある声は、2人ともまだ若い男のものである。しかも――声を聞くだけで、その声の持ち主が、恐ろしいほどに美しい、と分かる声だった。
光さやけき昼間でも、太陽の恵みを拒む陰鬱さに満ちた薄暗い屋内に、小さな灯りが点される。
ぼんやりと滲んだ光の中に、優美な長身が2つ、浮かび上がった。弱々しい灯火がかえって、青年達の静謐で怜悧な美貌を、この世のものならぬほどに夢幻的に見せていた。
携帯用のランタンを手にしたレオンハルトの傍らで、カインが無造作に周囲を見回す。ランタンの灯が照らし出す範囲は、そう広いものではなかったが、彼の、光の当たる強さと角度によって色が変わって見える、美しい切れ長の黒紫色の瞳は、常人よりも遥かに闇を透かしてものを見ることが出来るのだ。
「中も外に負けず劣らず、荒れてるな」
床の上に降り積もった埃を爪先で払いながら、カインの声は奇妙なほどに冷めていた。
「致し方あるまいよ。かつての、ブルグント帝国宮廷魔術師の城館とあっては、な」
それに答えるレオンハルトの声には、言葉以上の感慨は込められていなかった。
旧ブルグント帝国宮廷魔術師、フーリック。
現在は、不死の
かの悪霊がまだ人間であった頃、仕えていた主君、ブルグント皇帝グレゴールによって、食邑(しょくゆう)としての領地を与えられていた。それが、今、レオンハルトとカイン、2人の立っている土地だった。
滅ぼす手立てを考えるためにも、
旧ブルグント帝国であった地に足を踏み入れるということは、レオンハルトにとって、自分がかつて忌まわしい“
それは、随分と前から自分の傍らにいるような気がする、美しい青年のおかげだ、と、レオンハルトには分かっていた。
レオンハルトは、カインに見えないように、そっと苦笑を浮かべる。
全く、自分がここまで身勝手で調子のいい人間だとは、知らなかった。それが、自分にとって歓迎すべきことであるかどうか、レオンハルトにはにわかに判断はつかないが、少なくとも、自分が「生きているのだ」ということを強く意識させられることであることは、確かだった。
18歳の時、ブルグント帝国に捕らえられ、皇帝の手によって“闇将軍”に仕立て上げられ、それからの自分は、ただ命を消費しているだけで、生きてはいなかった、とレオンハルトは思う。生きている、という自覚もなかった。生きたい、という願いが無かったからだ。生きることは希望ではなく、強制であり義務だった。
今は、生きている。
過去を悔いることがなくなることはないだろうが、それでも今は、誰かを安心させるために見せる笑いではなく、自然に笑うことが出来る。
感謝、すべきなのだろうな、などと、今この場で考えている自分が、レオンハルトは妙に可笑しかった。
辺りを見渡していたカインが、頭の上に漂う塵を払うような仕草をして、レオンハルトを振り向いた。
「人間だった時から、あいつはこんな感情を人々から受ける対象だったのか?」
恐れられはしても、畏れられることはなく、いつまでも頭上にわだかまる不吉な暗雲のように、今なお、人の心に恐怖の感情を残すほどに。
「フーリックが領主だった頃、この辺りでは頻繁に“神隠し”が起こっていたそうだしな」
「“神隠し”、ね……」
カインは、微かに鼻先で笑った。
神隠し、とは通常、どう考えても人の手によらない、ありえない、原因不明の失踪を指す。だが、あの死霊魔術師の人となりを知っていれば、その男が領主を務める地で謎の失踪が相次ぐ、という事象が何を指すか、容易に想像できようというものである。そんな、事件にすることの出来ない度重なる失踪を、人は“神隠し”と呼んだのだ。
「それに、人間から不死の悪霊になったからといって、自我である性格や性質が激変するわけでもあるまい」
「確かにな」
激しい不快感こそ与えても、決して、人にいい印象を与えることのない、死霊魔術師の言動を思い起こして、カインはレオンハルトに皮肉げに笑って見せる。
「とりあえず、書庫か研究室、その類を探そう」
「そうだな」
小さくカインが頷き、2人は、暗い空気の中を、探索のために歩き出した。
いかにも、領主の城館だった建物らしく、広い建物の中は、今は埃や蜘蛛の巣にまみれているとはいえ、内装が整えられ、豪壮な調度品があちこちに置かれて、かつての住人の以前の裕福な暮らしぶりを連想させた。
筈だが。
元々、主が同じというせいか、この城館だった廃墟も、ラシクーサでのフーリックの館と同様、人が生活していた息吹が感じられなかった。住人を失った事実を差し引いても、である。フーリックが、かつては人間として生きていた、ということが、何か質の悪い冗談と思えるほどだ。
第一、壁に架けられた絵1枚を見ても、持って行く場所に持っていけば、平民の一家ならば何年も遊んで暮らせそうなものなのに、一切の荒らされた形跡がない。大体、盗賊や屋敷荒らしなどにしてみれば、元領主の城館など、格好の獲物であろう。しかし、何もかもが手付かずのまま放置されている。つまりそれは、この館の主だった魔術師に対して、欲望など遥かに凌駕するほどの、根源的な恐怖を、誰もが感じずにいられない、ということだ――帝国が崩壊してから初めて、城館に踏み入った、この2人以外の人間は。
ほとんど片っ端から扉を開けていっていたカインが、ふと手を止めた。
その部屋は、壁が書架で埋め尽くされ、書架は書物で埋め尽くされていた。カインは、中に入り、書架から適当に1冊を取り出して、ざっと目を通す。
「分かるのか?」
そのカインの様子が、まるきり未知のものを見る風ではなかったので、レオンハルトは訊いた。
「理屈はな」
至極あっさりとカインはレオンハルトに答えたが、かつてはブルグント帝国で宮廷魔術師を勤め、現在では、謎の邪法をもってして不死の悪霊とまでなった男の、所持していた研究書である。
ましてや魔法使いでもないのに、その書の理論を理解できる、と、カインは言う。それから、何となく興をそそられたようで、何冊かを手にしては、表紙を開いて中に書かれた文章を読む。
その様子は、知的好奇心に溢れた学者にも似て、レオンハルトはカインの意外な一面を見た気がした。漠然と、言動から、頭はいいのだろう、とは思っていたが、学殖まで豊かだとは思いも寄らなかった。
レオンハルトは、自らも書架に近寄り、目的に近しいであろうと思われる書物がないか、膨大な量の蔵書の背表紙を確かめ始めた。
「……あのおっさん、研究自体は意外とまともにやってたんだな」
本のページを繰りながら、カインはそう呟いた。その呟きを耳にしたレオンハルトが、顔を上げて何ともいえない表情を、カインに向ける。
「……」
「どうした?」
「……いや、何でもない」
再び、レオンハルトは書架にぎっしり詰まった本の群れに視線を戻した。
普段は、いかにも身分の高い貴族の貴公子らしい、毅然として優雅な立ち居振る舞いを見せるくせに、カインは時折、下町の若者が使うような言葉を、平気で口にする。彼の外見だけ見ると、とてもあのフーリックを、「おっさん」呼ばわりするような人間とは想像できまい。
つくづく、不思議な青年だった。極端に相反する性質を、何の矛盾もなく感じさせる、過去を失った美貌の青年。
カインの横顔は、不思議なほど穏やかに見えた。
その時。
腰から外されて、壁に立てかけられていたレオンハルトの剣が、かたかた、と、小刻みに震えた。
闇に潜む悪意に反応し、主にその魔を狩ることを求める魔剣、“
この廃屋に足を踏み入れたときは、まだ空にあった太陽はすっかり地平に埋没し、薄暮がどんどん空を濃く支配し始めている。
逢魔が
光を避け、闇に息を潜めていたものが、凶暴な牙を剥き始める時間の訪れ。
がたつく窓を音高く押し開け、レオンハルトとカインは同時に身を躍らせた。