Chapter-2「魔の娘」

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 四人の救国の英雄のうちの一人、戦争の後で人知れず何処かへと去っていった、“静かなる魔法戦士”が突然現れたということ、ただそれだけでも十二分に驚愕に値するというのに、その美しい英雄はとんでもない告発を口にしたのだ。すぐに彼の告発に関して、事実関係を調査するため、神殿は大騒ぎになった。

 (くだん)の僧侶は、身分と資格を剥奪され、囚人用の檻車に乗せられて、王都ロートリンゲンに護送されていった。フロレンツ王国の刑法には死刑が存在しないので、罪に対しての罰として、死を宣告されることはないが、罪状から見て、終身刑は免れないだろう。無論、レオンハルトは一切、同情など感じなかったが、僅かに唇を歪めるような笑い方を、した。
「……もっと、比べ物にならないほど、大勢の人間を殺したのにな、俺は」
 苦すぎる自嘲。裁かれることがなくとも、いや、裁かれることがないからこそ、心を抉り続け苛む、重い罪の記憶。許して欲しいとも思えない、自分自身が最も許せない、罪。
 それが、何と滑稽なことだろう、他者を軽蔑するなどと。
 カインは、ただ、ぽつりと言った。
「お前は、あの男とは違うさ――あんな、欲望で人を殺すような」
 レオンハルトは、自分への侮蔑を唇に刻んだままだったが、それでもカインの思いやりを素直に受けられないほどに愚かではなかったから、大丈夫だ、と言う代わりに、軽くカインの背を叩いた。



 ヘレナの遺骸は、大地母神の神殿の墓地に葬られた。
 真新しい墓碑の前に、レオンハルトは街で買い求めてきた花束を置いた。
 脈々と人の中に受け継がれてきた、魔族への恐怖の記憶。そして、二年前の“暗黒戦争”の、生々しい記憶。二年というのは、記憶が風化するにはまだまだ短い時間でしかないが、だからといって、魔族の外見の特徴を備えていたとはいえ、何ら人間と変わるところの無かった娘を、無実の罪で死に追いやっていいのだろうか。
 救いきれなかった事実は、レオンハルトの心にもカインの心にも、苦い翳を落とした。
 神ならぬ身である以上は、手の届かぬこともある。しかし、それでも。
 人間と他種族の融和は、言うほど簡単なことではない。同じ人間同士であっても、価値観や思想の違いで争うのだから。ましてや、憎みあい、狩りあって来た魔族相手となれば、尚のこと。
 だが、一口に魔族とは言っても様々の種族がいる。中には、人間とほとんど変わらない魔族もいて、ごく稀にではあるが、両者の間に愛情が芽生える例が過去になかったわけではない。そうして生まれた子供が、あるいはヘレナの父か母の祖先の中にいたのかもしれない。
 しかし、ヘレナの例を挙げるまでも無く、人間と魔族の間に生まれた子供というのは、生まれ落ちた瞬間から――いや、生まれる以前から、有形無形の迫害を受けることになる。決して祝福されない存在として。
 何と愚かな話だろう、とレオンハルトは思う。生まれ落ちたばかりの命は、親がどうであれ、無垢で純粋なものではないのだろうか。そして、人間と違う血の混じった子供を生み、育てようとする者の思いを、何故、責めなければならないのだろう。ただ、愛している、という心だけではどうにもならないことは知っているが、それでもだ。
 その一方で、ヘレナが住み込んでいた娼館の女将や同僚、魔族の外見を持つヘレナにも分け隔てなく接していた大地母神の神殿の僧侶達、彼女らは心から娘の死を悲しみ、涙を流していた。その生まれだけで、外見だけで命までも脅かされる危険に晒される者に対して、温かい手を差し伸べる人間もいる。
 ――単に自分が、救いが欲しいだけなのかもしれないが。
 それでも、不幸な死を強いられた娘が、死んだ後も不幸だとしたら、あまりにも救いがなさすぎるから。
 ささやかな、本当にささやかな葬儀が終わり、娘の遺骸を納めた棺が地中に埋められ、名前が彫られたばかりの小さな墓碑が建てられて、一人の人生が完全に終わったことが無言で告げられる。参列者達が帰って行った後も、レオンハルトは墓碑を見つめたまま、暫く動かなかった。
 ふと、レオンハルトは隣に立っているカインに視線を動かした。カインも、ほぼ同時にレオンハルトに目を向ける。
 二人は、互いに促すこともなく、その場を離れた。
 風はなく、どんよりと曇った、雨が降りそうで降らない空が、頭上にのしかかってくるように重苦しい葬送の日だった。



 大地母神の神殿には、奇妙な客人が滞在することになった。奇妙な、というのは、特に神の救済を望んでいるわけでもなさげな青年が二人も、女性ばかりの神殿に留まっていたからである。二人は、死んだ――殺された娘が、最期に願いを託された、その望みを叶えるために、彼女の弟を待っていた。
 彼らの待っていた訪問者は、前もってヘレナとあまり似ていないと聞いていないと、すぐにそうだとは分からなかったかもしれない。ヘレナの双子の弟ハンスは、姉の持っていた色彩とは全く違う、濃い茶色の髪と灰色の目の若者だった。それでも、同じ血の繋がりを持つからだろうか、目元が少し似ているように、知っている者なら思うだろう。
「姉さん!」
 聡明そうな若者は、旅の疲れを感じさせないような声で、神殿の中に向かって呼びかけた。いつもなら、彼のたった一人の姉は、嬉しそうに飛びつかんばかりの勢いで出てくるのに、この日は違った。
 扉を開いて、姿を現したのは、ハンスが今まで会ったことのない、しかし、一度でも見たら二度と忘れられそうにないほどの美貌の青年だった。とりわけ、長い睫毛の下の、光の当たる角度や強さによって色味が変わって見える、切れ長の瞳が印象的な。
「君がハンスだな。こっちへ来てくれ」
 と言う声も、手招く姿も、脳裏が眩むほど美しい。ハンスは、どぎまぎしながらも、青年に逆らわずに、その後についていった。状況に疑問を抱く暇を与えぬほど、青年は美しすぎた。
 青年は、神殿の裏手に出た。そこは、墓地になっていて、もう一人、こちらもまた怜悧な美貌の青年が立っていた。
(姉さんの知り合いか?)
 ハンスは、いかにも自分を待っていたらしい、二人の美貌の青年に、ようやく困惑を覚えた。とてもではないが、姉の「客」には見えないし、一体どういうことだろう。
 ヘレナは、自分の仕事を弟には教えていなかった。会う場所は決まってこの神殿で、いかにも神殿で働いている風をヘレナは装っていたが、聡いハンスは気付いていた。しかし、自分のために働いてくれている姉を、責める気持ちは無かった。だからせめて、何時か必ず、姉に恩返しをしよう、と心に決めて。

 佇んでいた方の青年が、静かに指を指し示した。新しい光沢を持った墓碑を。そこに、刻まれた名前が、一瞬、ハンスには現実のものとは信じられなかった。
「ね、姉さ……ん…………!?」
 全身をわななかせて、ハンスは座り込んでしまった。衝撃の大きさのためか、両肩は震えたが、嗚咽は洩れず、涙も出てこない。
「姉さん……死んじまったの、か……?」
「そうだ」
 ハンスの正面に膝をつき、冷厳に、レオンハルトは言った。悲しみを本当に癒すことが出来るのは、いくら残酷であっても、下手な嘘や誤魔化しではなく、真実だけだ。
 全ての事実を、レオンハルトは静かな声で話した。若者の肩が、がくりと落ちた。
「――誰が、看取ってくれたんだい?」
「俺だ」
 無愛想なほどに簡単な答えだったが、その声には、確かに、悼みの感情が込められていた。
「苦しそうな死に顔だった?」
「いや。安らかで、綺麗な顔だった」
「……ありがとう……」
 レオンハルトの顔を見上げ、ハンスはぼんやりと、姉がどんな死に方をしたにせよ、今際の際だけは不幸ではなかったのだ、と思った。こんなに綺麗な人が、看取ってくれたなら……。
「姉さんからの伝言がある。自分の好きなように生きろ、と」
 ヘレナからの最期の言葉を、レオンハルトはハンスに伝えた。
 それを聞いて、ハンスの目に涙が盛り上がり、たちまちのうちに溢れる。ハンスにとっては、自分の好きなように生きることは、双子の姉にこれ以上辛い思いをさせないで、生活させてやることだった。その姉がいなくなってしまった今、何をどうやって生きていけばいいのか、ハンスには分からなくなってしまった。
「君は、学問を修めて、どうするつもりだった?」
 レオンハルトは訊いた。あるかなしかの微風が、僅かに漆黒の髪をそよがせる。
「姉さんと、何処か静かな村にでも行って、教師をしようと、思っていた……」
「……彼女と行くことはもう出来ないが、その思いまで捨てることはないだろう。悲しみを知る人間として、その悲しみを繰り返させないように、教え努めるといい」
 半ば茫然自失でレオンハルトの声を聞いていたハンスは、不意に覗き込まれるほどの近さでカインの美貌を見て、一瞬、息を詰めた。カインが、ハンスと同じ目の高さに自分の顔を持ってきたのだ。
 鋭利な名剣のような黒紫色の瞳は、何処か慰めるような励ますような、物柔らかな色を浮かべていて、束の間、ハンスは悲しみの感情も忘れて、陶然とカインに見入った。
 カインは、皮の袋を、ハンスの手に握らせた。その重さが、ハンスを現実に帰らせて、彼は目を丸くする。
「預かりものだ。君に渡して欲しい、と言われた」
 紐で締められた袋の口を少し緩めて中を覗いてみると、ぎっしりと金貨が詰まっている。
「こ、こんな大金……!」
 ハンスは狼狽したが、レオンハルトは事も無げに言った。
「君の姉さんが、君のために貯めていた金だ。君が受け取ってくれないと、俺達も困る」
 本当は、ヘレナに託された金は、袋の中の半分ほどだったが。残りの半分は、彼女の味方だった人達からの、彼女の弟への餞別(はなむけ)だ。
「姉さん……」
 ハンスは、交互にレオンハルトとカインを見た。そして、心を定めたように皮の袋を左手で握り締め、右手の甲で涙に濡れきった目を拭った。
「……俺がここでただ泣き濡れて、何もかも止めて世を儚んでしまっては、姉さんの死どころか、今まで生きてきた命までもが、全部無駄になってしまう。姉さんの思いを無駄にするつもりは、俺にはないよ」
 もはや、決然とした表情を湛えた若者の顔には、曇りは無かった。ハンスに、二人の美青年は微笑を向けた。何処か寂しげな、それでいて毅然とした微笑だった。
「頑張れよ」
 短い、ありきたりな激励の言葉だったが、その奥にある感情はありきたりなものではなかった。

「――あの、あんた達、それにしても……一体?」
 ふと、ハンスはずっと首をもたげていた疑問を口にする。すると、カインがやや悪戯っぽい笑い方をした。
「俺はともかく、こちらは、英雄詩(サーガ)にその名を高く謳われる、“剣と魔法を意のままにする静かなる魔法戦士”さ」
「カイン!」
 咎めるというよりは、少し困った風に、レオンハルトはカインを見たが、カインは悪びれた様子もない。カインは、その勇者の称号が、他人にどういう反応をもたらすものか、よく分かっていたからである。
「えっ……あんたが、あの……!」
 ほとんど限界まで、ハンスは目を見開いた。たった二年の歳月の間に、伝説となった勇者が、今眼前に立つ、世にも美しい青年だとは! 確かに、英雄譚では、魔法戦士だけが、戦いの後で何処かへと姿を消したと詠うが、まさか、こんな所でこんな形で出会うことになろうとは、思いも寄らなかった。
「そうか、光栄だよ」
 ようやく、若者は笑顔を取り戻した。心の中に負った傷は大きかったが、生きている限り必ず傷は癒える筈だし、癒されなければならない。それをハンスに気付かせてくれたのは、美貌の伝説の戦士だった。
 勇者だの英雄だのと呼ばれる人間が存在する時代は、決して幸福な時代ではなく、幸せな人間は英雄などと呼ばれることはあるまい。平和な時代には、勇者は伝説以外には存在しないし、平和な時代には、英雄は必要ないのだ。苦難に満ちた時代に、克服することも不可能ではないか、と思われるほどの辛さも困難も苦しみも、乗り越えて勝利を手にした人間が、勇者や英雄と呼ばれるのだ。
 ――そのような英雄が、深く関わったわけでもない、魔族の血を引く娘の最期の願いを叶えるために、わざわざ彼女の双子の弟を待って、悲嘆から立ち直らせてくれた。その負ったものの大きさが違っても、人は自分の身に降りかかる困難を、自分で跳ね除けなければならないが、誰でもたった独りで戦っているわけではない。
 多分、彼の姉もそうだった、ハンスはそう信じたかった。
「俺達は、もう発つ。達者でな」
 既に旅装を完全に調えていたレオンハルトが、そう告げた。
 何処へ、と問いかけ、ハンスは口を噤んだ。優美な青年の長身が、ひどく哀しみに満ちているように見えたからだ。他人にとって戦争は終わっても、この青年にとっては、まだ何も終わってないのだ。そして、どんな人間よりも哀しいものを、背負ったままで、彼は生きている。
「行こう、カイン」
「ああ」
 カインも立ち上がった。その動作に伴い、剣環の鳴る音がする。
 そう、戦いの旅は、まだ何も終わっていないのだ。自分自身との孤独な戦いと――不死身の悪霊との戦い。どちらも想像を絶する苦難に満ちた戦いだろうが、だからといって逃げるわけにはいかない。
 それが、彼らの選んだ生きる道だから。
 ハンスに向けて、カインが軽く右手を上げた。別れの言葉の代わりに。


『Shadow Saga』Chapter-2「魔の娘」 fin
2004/03/18