Chapter-2「魔の娘」

―8―

「……随分と、安っぽい偶然もあったものだな」
 溜息とともに、カインは低い声で言った。
 彼は慧眼の主だが、まさか、自分が本当に偶然、目を留めた相手が諸悪の根源だったとは思いも寄らなかった。
 完全に詰問口調になって、カインは相手の胸倉を掴む。腰に帯びた剣には手も触れないが、あるいはその声音だけでも人が斬れるのではないか、と思えるほどに、カインの声には凍りついた氷の刃が生じていた。
「全て話してもらおうか。洗いざらい、全てをだ! いやしくも、神の(しもべ)を自認する僧侶ならば、貴様の仕える神の御名に懸けて、真実をな!」
「……訊いてどうする?」
 ここまで来ては、誤魔化しても仕方がないと見たか、単に自暴自棄になったのか、僧侶は居直った。
「お前が、私を告発するとでも言うのか? 例えそれが出来たとして、お前のような流れ者の言うことなどよりも、神に仕える僧侶たるこの私を、誰もが信じるに決まってるだろう!」
「嘘も方便、とは言うが、不正直が美徳だ、というのは初めて聞いた」
 嘲笑も冷笑もなく、カインは至極冷淡だった。
「……もっとも、そちらがそういう態度に出るのなら、こちらも、何も遠慮する必要はないな」
「こんな、女みたいな細い手で、武器も持たずに、力ずくで言うことを聞かせようとでも言うつもりか!? それとも、その綺麗な顔で色仕掛けでもしようというのか!?」
 馬鹿にしきったように、僧侶は自分の僧衣の胸元を掴んでいるカインの手を、乱暴に引き剥がそうとした。しかし、まるでびくともしない。傍目には、軽く掴んでいる風にしか見えない、繊手ともいっていいほっそりとした手は、逃亡を許さない万力のごとき強さでもって、僧侶をその場に固定していた。

 美しく切れ上がった、青年の双眸が、僧侶を冷ややかに見据えている。その、いっそ容赦のない眼差しは、見覚えがあった。ただし、その視線の主は、眼前の青年のものではなかった。
『もう来ないで。迷惑なのよ』
 そう言い放った、あの女だ。
「おのれ……!」
 僧侶は、強引にカインの身体を捻じ伏せようとした。聖印を落としてしまったため、魔法を使うことは出来ないが、見るからに華奢な身体つきの青年一人、どうとでもなると思ったのだろう。
 急に逆上した僧侶に、一瞬、カインは不意を衝かれたが、あえて相手の力に逆らわずに受け流し、その勢いを利用して相手を床に叩きつけた。どっ、と仰向けに倒れた僧侶の胸の上を、遠慮も躊躇も欠片すらなく、カインは踏みつける。僧侶が息を詰めるが、カインの知ったことではない。
 神に仕える身でありながら、歓楽街で11人もの人間を殺し、同じ神に仕える同僚を殺し、その全ての罪を、魔族の特徴を持つだけの、ただの娘に押し付けようとした男だ。そして、うんざりするような侮辱を、カインに向かって浴びせかけた。
「貴様が話す気がないのなら、俺が話してやる。要するに、貴様が神職にあるまじき欲望を抱いて、女を買いに行ったのが始まりだろう!」


 宗派によって戒律は違うが、基本的には僧侶には、恋愛も結婚も許されていることが多い。
 しかし、金銭で異性を買う行為は、固く禁じられている。その禁を、この男は破った。あまつさえ、一晩買った娼婦に夢中になり、神殿の管理する金を盗んでまでして、度々女に会いに行ったのだ。男としては、いずれは、女を身請けするつもりだった。
 女は、そこまで甘い幻想を男に抱いていなかった。客ならば客として扱うが、男の要求はその域を越えていた。神職を生業とする男と、自分の身を売って生きる娼婦。違いすぎる世界に生きる二人の男女を結びつけるための愛情が、女には無かった。
 だから、女は告げた。もう来ないで、と。男から押し付けられる感情も迷惑だったし、男が通って来ていることが発覚したら、男だけでなく自分も罰せられるのだ。
 完膚なきまでに拒絶されて、男は怒り狂った。文字通り、狂ったのだ。手に入れられないのなら、――いっそ、殺してやる。
 そして、女を殺した。その時、女と同衾していた客ともども。
 狂った男は、血に酔った。自分の姿を見た、目撃者と見做した人間を、次々と殺していった。僧侶としての能力を悪用すれば、誰にも悟られぬように殺人をしてのけることは、そう難しいことではなかった。何時しか、人は謎の殺人鬼を、魔族と同じ肌と目の色を持つ娘に重ね始めた。真犯人にとっては、それは非常に都合のいい誤解だった。
 昨日、殺された僧侶は、神殿の会計を預かる立場にあった。管理している実際の金額と、計算が合わないので、友人であるこの男に相談したところを、殺されたのだ。それから幻覚を操る魔法でもって、ヘレナの姿を映し出し、彼女が犯人であるかのように見せかけて、神官戦士に指示を与えた。
 いかにも、自分は清廉潔白な僧侶である、という顔をして。


「……神に懺悔するほど、悔い改める心は持っていなさそうだな」
 醜悪なほどに利己のみを剥き出しにした男に、カインは軽蔑以下の感情を持てようもなさそうだった。やがて、触れているのも汚らわしい、とでも言いたげに男を踏みつけていた足を外した。
「……お前に何が分かる」
 地を這うような、陰気な声が恨めしげに言う。
「狂うほどに恋焦がれる、この気持ちが分かるまい!」
「ああ、俺には分からんね。恋だの愛だのいう感情が、どんなにエゴに満ち満ちたものであろうと、貴様のは、ただ単に狂ってる、というんだ。それを、狂恋という、都合のいい、耳当たりの良さげな言葉にすりかえて自分を誤魔化しているだけだろう。そんなものが分かるか!」
 言い放ちながら、何故かカインの胸の奥が痛んだ。遠くから、誰かが彼に「愛してる……」という言葉を囁きかける声が、聞こえたような気がした。単なる気のせいにするには、ひどく生々しい実感を伴った声。そして、理由は分からないながらも、それはカインにとって、決して受け入れられない言葉。カインは、小さく唇を噛んだ。
 ――どんなに愛されても、その愛を、受け入れられないこともある。愛した分だけ、愛が返って来るとは限らない。
 それが、この男には分からなかったのだろう。カインに、男の気持ちが決して理解できないのと、同じように。
 だからといって、この男の行為を、到底許容など出来ないが。

「とにかく、一緒に来てもらおうか」
 冷然と、カインは男を見下ろした。何とか、床の上に身を起こした男は、憎々しげに唇を歪める。
「何処へ?」
「分かっているだろうに、訊くな。ヘレナを解放しろ。貴様、そこそこの地位があるだろう。貴様のような、恥などという上等な感情も残ってなさそうな人間が、高位の聖職者だなどと、有り難すぎて涙も出ないがな」
「……もう遅い」
「何?」
 僧侶は、昏い笑いを洩らした。
「魔族の血を引く女が、清浄なる神殿に一晩、留め置かれたらどうなると思う?」
「……貴様……!!」
 魂を射抜くのではないか、というほどに鋭い眼光に晒されて、さすがに男は怯んだ。まるで、神の御前に引き出されたかのような――というのは錯覚などではない。それほどまでに、カインの麗姿は峻厳に満ちていた。
「ヘレナは何処だ!」
「神殿の地下牢だが――生きていまいよ、もはや」
「この期に及んで、余計なことを言える根性はご立派なことだ」
 口封じまで行ったのだ、この男は。自然死に見せかけるために。身を守る術すら持たぬ娘に対して。
 カインは身を翻した。
「死んだ女が、決して貴様に好意を抱かなかった理由が、よく分かったというものだ!」
 この世にまたとない美貌を、侮蔑の表情で染めて、カインは吐き捨てる。
 そして、乱暴に、引きちぎる勢いでドアを開け、堂々と宿舎正面の出入り口から外に出て駆け出した。



 見慣れぬ青年が、宿舎の方から走ってくるのを見咎めて、鉾鎗(ハルバード)を構えた神官戦士が、制止の声を上げる。
「な、何だお前は! 止まれ!」
 しかし、
「どけ!」
 短い声とともに、首筋に手刀を叩きこまれて、たちまちのうちにその場で昏倒した。

 神殿に駆け込んだカインは、地下へと続く階段を探した。それは長い時間ではなかった。
 荘厳な神殿に似合わぬ異様にざわめく空気の中、カインは長身の影をすぐに見出した。
「レオンハルト!」
 レオンハルトは、ぐったりとした娘の身体を、両腕に抱えていた。黒いはずの娘の肌が、異様に青白く見える。赤い瞳は――ぴくりとも動かない瞼に、閉ざされていた。
 ゆっくりと、レオンハルトはカインに向かって(かぶり)を振る。
「……間に合わなかった」
 娘は、息絶えていた。
 その死に顔は、不思議なほど安らかだった。“死”によって、彼女は、自分を縛る呪いの鎖から、ようやく解放されたからだろうか。しかし、それに何の意味がある? 死ねば、確かに苦しみも悲しみもなくなるかもしれないが、同時に喜びや楽しみを感じることもできなくなるというのに。
 まだ、彼女の人生は、これからだったかもしれないのに!
「……昨日のうちに来ていたのなら、助けられた。俺が会ったときには、もう死に瀕していた。……手遅れだった」
 短い、それでいて激しい悔恨を、レオンハルトは口にする。黒曜石の瞳が、悼痛に沈んでいる。
 本来なら、癒えぬ病の主を安らかに神の御許に導くための魔法を、ヘレナはかけられたのだ。ゆっくりと死に至っていく恐怖の中、それでも彼女は笑って見せた。レオンハルトに向かって。
『死ぬ前に、貴方に会えて良かった。ねえ、あたしの最期のお願い、……聞いて欲しいの。来週、あたしに会いに来る、あたしの弟――ハンスに、あたしの部屋にあるお金、全部、渡してやって。それで、自分の好きなように生きろって……伝えて……』
 そう言って、ヘレナは死んだ。

 せめてもの手向けの代わりに、カインはヘレナの頬に掛かった髪を、そっと払いのけてやった。それから、レオンハルトの愁嘆を引き受けるかのように、彼の手に自分の手を重ねた。
「お前のせいじゃない……狂人の行動を、誰が予測できる?」
「狂人?」
「ああ、狂人さ。しかも、神に仕える身でありながら、その力を悪用して、さんざんに人を殺した挙句に、この娘に全ての罪をなすりつけようとした、卑劣な、な!」
 レオンハルトが、微かに眉を上げた。
「そうか……」
 一度、視線を娘の死に顔に落としてから、レオンハルトは頷いた。
 助けられなかった。助けて、と哀願した娘を。ならばせめて、彼女の名誉だけは守ってやらねばなるまい。

 強引に、収監されていた殺人事件の容疑者の娘を地下牢から出した青年を、神官戦士達が用心深く取り囲みながら、細剣(レイピア)の切先を向ける。
 その様を、何の感慨もなく見やり、レオンハルトは秀麗な唇を開く。
「……俺の名は、レオンハルト・ベルンシュタイン。一般には、“剣と魔法を意のままにする静かなる魔法戦士”と言った方が、通りが早かろうな」
 もはや伝説の域に近い、英雄詩(サーガ)にその名を讃えられる英雄の名を突然聞かされて、神殿の僧侶達が一様に度肝を抜かれた表情を浮かべる。レオンハルトは、ただ事実を告げる口調で、続けた。
「この名にかけて、俺は弾劾する。神の名を汚す、醜い殺人鬼が、歓楽街で11人もの人間の命を奪い、同じ神に仕える同僚を殺し、その罪をこの娘に被せて口封じに殺したことを。その者が、紛れも無くこの神殿で神職を戴いていることを!」