Chapter-2「魔の娘」

―6―

「……神は、特殊な力を、人間にお与えにはなりませんでした」
 高司祭の静かな声音は、諭すようだった。
「人間が、生まれながらに備えている、“可能性”という力を信じたからです。それは、私も同じです。私は祈ることしか出来ない、無力な人間ですが、貴方達は違いますね。とてつもない苦しみを経験しながら、それを生きていく力に昇華できる強さを持っている、と見受けられます」
「そんなに立派な人間ではないですがね」
 カインは苦笑した。
「これぐらいの年齢にもなると、多くの人と触れ合った経験から、色々見えてくるのですよ」
 そんなカインを励ますように、高司祭は微笑む。いかにも、「偉大な母」大地母神の信徒らしい、物柔らかでいて、芯の通った笑顔である。

「……封印する、という可能性についても考えたのですが。道々、二人で話し合い、それは止めた方がいいだろうと。封印というのは、いつか破られるという可能性が、全く無いわけではありませんから。それに、そいつは、元々、恐ろしい力を持った魔術師でした。封印に必ず成功する、という確証もありませんし」
 いずれにせよ、魔王を封じた大地母神の力が衰えている、という現状では、封印しようとしてもどうしようもないだろうな、とレオンハルトは話しながら冷静に思った。
「何とかして、倒す手段を探すしか、無さそうですね」
「……お力になれなくてすみません」
「いえ、こちらこそ、急に押しかけて失礼いたしました。やはり、自らの手で、道を切り開くしかないのでしょう。……罪深いこの身では」
 そう言って、立ち上がったレオンハルトは優雅に一礼した。高司祭は、レオンハルトの最後の一言を聞きとがめたように、一瞬、怪訝な顔をしたが、言葉にして追求することは無かった。大地母神の教えでは、過ちを許す強さ優しさを持て、と説くのだ。

 レオンハルトが立ち上がったので、カインも立ち上がった。しかし、不意に身体の均衡を失ったように、カインはよろめいた。レオンハルトが、咄嗟に手を伸ばして支えなければ、そのまま倒れてしまっていたかもしれない。
「カイン?」
「いや……、少し眩暈が……」
 カインは、どうにか自力で立とうとするのだが、意識の焦点が合わないようで、足元は覚束ない。
「何だ、お前、熱があるぞ。無理をするな」
 レオンハルトは、カインの額に手を当て、呆れたように言った。そういえば、カインの端整な顔は、やや上気しているようだった。カインの額に手を当てたまま、レオンハルトは、低く、呪文を唱えた。そして、ひどく何気ない動作で、自分より少し背が低いだけで、充分に長身な青年の身体を、軽々と担ぎ上げる。カインは気の強い青年だが、具合が悪いせいか、文句を言わなかった。
「少し横になっていれば、じきに良くなると思います。重ね重ね申し訳ありませんが、場所をお貸し願えませんか」
「神殿を訪れる人々のための、診療所に使っている部屋があります――しかし、貴方は一体……?」


 神に仕える僧侶には、修行の度合いや、その能力に従って、大雑把に神官・侍祭・司祭・高司祭・大司祭・最高司祭、の序列がある。一般の神官以上の位階には、祈りによって奇跡を起こす白魔法(ホーリーマジック)を行使し得る、所謂「魔法使い」の僧侶が少なくない。
 魔法が使えるということは、魔力を感知することが出来る、ということである。高司祭は、レオンハルトが魔法を使った、その事実に驚いたのではない。彼が腰に提げていることに、疑問を抱いたのだ。厳密には、その剣が明らかに魔力を帯びていることに、と言うべきか。
 魔剣というのは、使い手を選ぶ武器だ。強力な力を持つ武器の場合、武器そのものが所有者を選ぶこともある。
 青年が、世に言う魔法戦士の一人ならば、剣を携えつつ魔法を使ってもおかしくはないのだが、戦士と魔法使い、二つの技能をこなす魔法戦士の力は、個々で言えばそれぞれの専門家には及ばない。それが、強力な、凄まじいまでの魔力を帯びた剣を佩いている。高司祭の疑問は、至極当然のものだった。

「……魔法戦士です。いささか、普通とは違うでしょうが」
「そうですか……貴方が、英雄譚(サーガ)にその名を讃えられる、“静かなる魔法戦士”なのですね」
 レオンハルトは、沈黙をもって、高司祭の言葉を消極的に肯定した。高司祭も、それ以上は何も言わず、彼を病人や怪我人の診療に使われている部屋に案内した。



 簡素な診療室のベッドの上にカインの長身を横たえさせながら、レオンハルトは、内心、首を捻らずにいられなかった。つい先ほどまで、具合の悪そうな素振りさえ見せなかったのに、急に何故、と思ったのだ。
「……妙だな」
 そうぽつりと呟いたのは、レオンハルトではなく、他ならぬカイン本人である。レオンハルトは、ベッドの傍らに置いてある、背凭れのついてない簡素な丸椅子に座った。
「楽になったか?」
「ああ……。それにしても、どうなってるんだ、俺の身体は。こんなに急に……」
「こういう神殿などは、神を祀るということで、自然と微弱な結界が発生する。それに『あたる』人間も、稀にいるらしい」
「……それで一応の説明はつくが、我ながら腑に落ちんなあ……」
 カインは、気だるそうに、自分の額まで手を動かした。レオンハルトの施してくれた治癒の魔法のおかげで、少し倦怠感は残るものの、熱は引いたようだった。しなやかな黒い髪が指にかかって、さらさらと流れる。カインは身体を起こしかけたが、レオンハルトが肩を抑えて、それを止めた。
「暫く横になっていろ」
 きつい調子でなく、レオンハルトは言った。
「自分でも、自分が何者かよく分からないんだ。無理や無謀は、容易く命取りになりかねんぞ」
「……ああ、分かっている。……分かっているが、俺は正直、もどかしくてたまらん」

 胸元に手をやり、カインはペンダントを開いた。精緻な線で生き生きと刻み込まれた肖像画が現れる。父、母、そして自分。誰もが口元に笑みを浮かべ――“幸福”という言葉を絵で表現しようとすればこうなるのだろう、とでも言える家族の肖像。

 思い出したいんだ。思い出したことで得る、確たる罪の意識の苦しみより、思い出せないための漠とした罪の意識と、自分が一体何者なのかという根源的な疑問の方が、よほど苦しい。そうだ、何より、自分にとって大事なものまで、忘れたままではいられない。この肖像画に描かれた、大切な――。

「これから……あてずっぽうに旅を続けるしかないのか?」
 ペンダントを閉じ、カインはベッドに横たわったまま、レオンハルトに顔を向けた。
「奴の口ぶりからすると、俺達が追っていかなくても、そのうち向こうから現れるだろうがな」
「ここで待つか? 奴が来るのを」
「待つつもりは無いが、少し気になることがある」
「あの娘のことだな」
 レオンハルトは無言で頷いた。
「放っておけば死ぬ――いや、殺されてしまうかも?」
 そこまで、カインは読み取っていた。再び、レオンハルトは頷いたが、その表情はカインよりも遥かに苦かった。
「まともな稼ぎ口も絶たれ、命までも……か」
「分かったのか?」
 淡々としたカインの声に応じる、レオンハルトの顔には驚きの成分は含まれていなかったが、何処か疲れたような響きがあった。
「普通の生活をしている人間が、あんなにきつい香料の匂いをさせているか? それに、外見に魔族の特徴を備えた娘に、人間は普通の生活を許すか?」
 レオンハルトは、軽く眼を瞠った。そうせねばならぬほどに、カインの声は真摯だった。――妙に実感がこもっていた。

「お前は、どう思う?」
 この場合、レオンハルトの問いには目的語が欠けていたが、カインには、その言わんとしていることが分かるらしい。二人とも、そう多弁な方ではないからか、言葉が少なくても意は通じている、というようなところがある。
「俺には、別に異存はない。……それで、どんな理由なんだ? 何も起こらなかったら、ただ白眼視される程度で済むだろう?」
 そう問われたので、レオンハルトは知る限りの事情を話した。といっても、彼の方でも、大した事情を知っているわけではない。昨夜、路上で聞いただけが、彼の知る全てである。もっとも、それだけでも、魔族の血を引く娘が疑われるのには、充分に理不尽だと、カインも思った。
「それにしても、魔の恐怖とはえらいものだな」
 外見以外は、何ら普通の人間と変わらない、ただの娘に理不尽な疑いをかけずにいられないほど。
「二年前に、魔族との生存と滅亡をかけた、大戦争が終わったばかりだからな――それに」
 遥か昔。単に昔と言うには、あまりにも遠い、神話の時代。この世の創世紀に行われた、神々と、魔に堕ちた堕神、及びその眷属の戦争が、神々の勝利で終わった後。魔王となった破壊神は、大地母神の手にした槍に貫かれて封じられ、魔族もまた、神々の創った魔界に封じられた。
 しかし、人の子が棲む世界に残った魔族も、結構な数がいたのである。神々も無論、それに気付いてはいたが、放置しておいた。異界へ追いやらねばならない程の大物はいなかったし、神々としては、人間が大地という世界を委ねるまでに成長した子、と見做していた。成長した子にとって、過干渉な親というのは迷惑なものだ。それに、そんな小物の魔族に滅ぼされてしまうようなら、この先、人間という種が存続していくことは難しいだろう、と。
 人間達は、当初、何の力も持たないに等しく、「小物」の魔族にすら震えて怯え、逃げ惑うしかなかったが、徐々に自分達で魔族を駆逐できるようになっていった。神々が特殊な力を与えなかったからこそ、人間達は自力で“可能性”という力を見つけたのだ。
 人間は、名実ともに大地の覇者となった。それでも、やはり、魔族への恐怖と嫌悪は、綿々と人の記憶に受け継がれていったのである。
「相容れられない、生き物同士なのだろう」


 何とはなしに、沈黙が落ちたところへ、快活な声がそれを破るように入ってきた。
「カイン、倒れたんですって? 大丈夫?」
 その職業が信じられないほどの明るさで、ヘレナは二人の青年の傍に寄ってくる。たった一人でも、凄まじいほどの美貌の青年が二人も揃っていては、異性どころか同性ですら、しばしば声すら――いや、呼吸すら止めてしまうこともあるというのに、この娘は全く平気なようだった。物怖じしないというか、度胸があるというか。
 大丈夫だ、と短く答えて、カインは身を起こした。今度は、レオンハルトも止めなかった。
「何かあったのか?」
 娘の浮き浮きしたような表情に、ふとレオンハルトが尋ねた。
「うん、うちの弟がね、一週間後にこっちに会いに来てくれるって。半年振りくらいかな。あんまり、長くはいられないんだけど」
「しかし、今の調子が続くと、弟さんにも迷惑がかかるぞ」
 一瞬、娘の顔色が変わった。沈んだ顔は、しかし、次の瞬間には決然とした表情を湛えていた。
「あの子には、手出しをさせないわよ。絶対にね」
 すがろうとする卑しさは無かった。辛く寂しい世界を、懸命に生き抜いてきた娘だった。
「……良かったら、もう少し詳しく事情を教えてくれないか」
「いいわよ。何かのときのために、味方はつけておいたほうがいいもんね」
 そして、強かな娘であった。青年は、二人とも苦笑した。

 ヘレナは、明快な口調で話し始めた。
 事の起こりは、正確に25日前。その夜、彼女は休みを貰っていたのだが、暇を持て余して、何となくそぞろに部屋の外を眺めていた。外とはいえ、彼女の部屋は裏通りに面していて、眺望がいいわけではない。それで、見るともなしに空の星など見上げていたのだが、そうしていたら、急に鋭い女の悲鳴が響いてきた。隣の部屋かららしい。驚いて、ヘレナは部屋の外に飛び出し、隣の部屋のドアを叩いた。二、三度それを繰り返し、返事が無いのを確かめてからドアのノブを回した。鍵は掛かっていなかった。
 ドアが開いた途端、むっとした血臭が鼻をついた。そこには、真一文字に喉元を切り裂かれた、男女の死体が無造作に転がっていた。窓が開け放たれていたので、見渡してみたが、怪しい人影は無かった。女は、稼ぎのいい部類に入る娼婦で、部屋には結構な金額の貨幣や、客に贈られた宝石類などが仕舞われていたが、それに手をつけられた形跡は無かった。
 個人的な恨みだろうか、とその時は深くは詮索されず、女は葬儀を執り行われた上で、埋葬された。男の方は、遺品から役所に勤める役人ということが分かり、遺骸は家族に引き取られた。
 それから三日後。死んだ女の、向かい側の部屋の女が殺された。この時、ヘレナはたまたま客を取っていなくて、弟に手紙を書いていた。
 更に一週間後。隣の店の常連客が殺された。ここに来て、ヘレナが疑われ始めた。全く痕跡を残さない謎の殺人者、それを魔族の特徴をあからさまに備えた娘に重ねたのだ。体よく、魔族の血を引く、という事実に押し付けたのである。
 そして、今日までに計11人が殺されている。男は4人、女が7人。全て、事件は彼女の働く店の近くで起こっている。


「心当たりは無いのか?」
 ヘレナが潔白の身であるのは当然の前提であるから、カインは訊いた。
「ないわよ、だから困ってんのよ。大体、連続殺人事件たって、被害者にある共通点といったら、娼婦とその客ってぐらい。金品の類には触れた形跡もないし、もう、とにかく殺すことだけが目的って感じ? 狂人の仕業としか思えないわね」
「容疑者を処断しておいて、新たな犠牲者が出たら、亡霊を犯人に仕立てるつもりかな」
 痛烈極まる皮肉を、レオンハルトは口にした。

「とにかく――」
 と、レオンハルトが言いかけたときだった。
 言い争うような声が、扉の向こうでする。司祭ジョアンの静かながらも、厳しい詰問の声がして、それに応じる、いや、とても応じているとは思えないような荒々しい声は、複数のもののようであった。しかも、ジョアンの制止を拒絶し、高く靴音を響かせながら、診療室に近づいてきている。油断なく、レオンハルトはヘレナを背後に庇い、カインも立ち上がった。

 非友好を扉を開く音で表現して、どかどかと踏み込んできたのは、三人の男だった。鎖帷子(チェインメイル)の上に紫の外套を羽織っている。外套の左胸には刺繍が施されていた。レオンハルトには、それが時の神アスタルドのシンボルだと分かった。彼が昔、暮らしていた地方では、時の神の信仰が盛んだったからだ。
(アスタルドの神官戦士か)
 神官戦士とは、特殊な僧侶で、戦士としての訓練を受けた神官である。身分としては、侍祭と神官の間くらいに位置し、簡単な魔法を使える者もいる。これは、僧侶としての修行に戦闘技術が組み込まれていない宗派の場合で、軍神ラカルや大地母神ルンナの僧侶は、全員が戦士の心得を持つ。
「何の用だ」
 低い声で、レオンハルトは神官戦士たちに言った。特に威圧をかけたわけではないが、うっかりしていると見惚れてしまうそうな麗貌と、その双眸から洩れるあまりにも強すぎる輝きに、神官戦士たちは圧倒され、腰に提げた細剣(レイピア)に手を掛ける事も忘れた。
「何の用だ。他神の神殿を踏み荒らすことが、アスタルド神の教義だとしたら、随分と堕ちたものだな」
 意図的な嘲弄を、レオンハルトが声に込めると、神官戦士たちはようやく我に返った。
「その後ろの娘、渡してもらおう」
「何のために?」
 凄みのある、というには美しすぎるもう一つの声。どんな彫刻よりも端整な美貌の主は、彫刻のように無機質ではない。カインの身体全体からは、生気が溢れいている。
「その娘、畏れ多くも神に仕える者を殺したのだ」
 完全に気圧されつつ、神官戦士の一人が言った。ヘレナが息を呑んだのが分かった。
「悪辣極まる冤罪(ぬれぎぬ)だな。この娘は、さっきからずっと、この神殿にいたのだぞ」
 カインの口調が冷たくなる。来たな、とレオンハルトは思った。滅多に感情を激発させないこの青年が、怒った時は炎のように猛るのではない。氷すら及ばぬほどに冷ややかに、相手を圧倒するのだ。いつものイメージからすると逆だろうが、怒った時に、音もなく燃える炎となるのは、レオンハルトの方だった。
「……それとも、無実の人間を、罪人に仕立て上げるのが、神官戦士の仕事か」
 底意地の悪い台詞を、カインが口にしたが、それですら美に彩りを与えていた。
「い、いや、これは確かなことだ。目撃者もいる」
「殺害の現場をか? 物的証拠はあるのか? 目撃証言だけで人を裁くことが出来るなど、いくらでも人を陥れることが出来るのと、同じことだろう。それが神に仕える聖職者の所業か!」
 弱々しい神官戦士の反論を、カインは一撃で粉砕してのけた。更にカインは言いつのろうとしたが、黒い手が、そっと彼の手を引いた。
「もういいよ、カイン。レオンハルトも。貴方達は旅人だから知らないだろうけど、この街で神殿に逆らったら、生きていけないんだから」
「……穏やかじゃないな。ヘレナ、それでいいのか、本当に?」
 小さく、娘は首を振った。縦に。そして、前へ進み出た。その時、二人の青年にしか聴こえないような小さいな声で、ヘレナは囁いた。
「本当は、ちっとも良くなんかない。本当の犯人を、捜してもらえる?」

 ヘレナは大人しく神官戦士に連行されていった。彼女の去った後、レオンハルトは短い言葉を、決然とした口調で言った。
「必ず」
 と。