Chapter-2「魔の娘」

―5―

「……レオンハルト?」
 レオンハルトは、自分を呼ぶ声に、薄く目を開いた。過去の記憶の中からではなく、今、実際に自分を呼ぶ声に。
 開いた瞳に映ったのは、夢の中に出てきた誰でもない、黒い髪と不思議な眸を持つ、美貌の青年だった。カインが、心配げに、自分を見ている。レオンハルトは、大丈夫だ、と低い声でそう告げた。
 カインは、ほっとしたように息をついた。
「人の眠っているのを妨げる気は無かったが……、少し(うな)されていたからな」
「……昔のことを、夢に見ていた」
 額に浮いた、じっとりとした嫌な汗を拭いながら、レオンハルトは身を起こす。その声はいつもと同じように淡々としていたが、完全には平静を保ててはいない、とカインには見えた。微かに、レオンハルトの指先が震えていたからだが、カインは口に出しては言わなかった。代わりに口にしたのは、別のことだ。
「街の案内で聞いてみたら、規模は小さいが、大地母神の神殿もあるそうだ。どうだ、これから行ってみるか、それとも明日にするか?」
「……そうだな、これから行くか」
 音を立てない滑らかな動作で、レオンハルトはベッドから滑り降りた。少し寝乱れた、夜の闇を切り取った黒髪を手でさっと撫でつけ、簡単に身繕いを整える。鎧は身に着けず、剣だけを佩く。カインも似たり寄ったりの格好だが、白昼の街中で大袈裟な武装をする必要は無いだろう。もっとも、たとえ夜であっても、彼等二人を害そう、などという途方も無いことを企むような人間の刃など、鎧を纏わずとも届くわけが無いのだが。

 あんなに鮮烈な過去の夢を見たのは、久しぶりだ。
 部屋のドアを閉めながら、レオンハルトはふと思った。
 悔恨を嫌というほどに心に刻み込ませる夢。
 だが、不愉快ではなかった。それは自分が選んだことだ。罪に対する罰として。
 ただ、少しだけ、自分はずるいな、とも思った。ある意味、今は辛い夢も「安心して」見ることが出来ることが。それは、間違いもなく自分の傍らにいる青年のおかげだ。

 あんな夢を見て、魘されまでしたというのに、いやに心が重苦しくない自分が、レオンハルトは少し可笑しかった。




 季節は初夏。
 投げかけられる太陽の光は、真夏ほど厳しくはないものの、それでも長い間外を歩き回ると、軽く汗ばむ。適度な涼気を含んだ風が通り抜けると、実に快い。

 大地母神ルンナの神殿は、街の中心部からやや離れたところにあった。真っ白な雪花石膏(アラバスター)を刻んだだけの、装飾の一切無い、質素な神殿である。それもそのはず、質素がそのまま大地母神の教義なのだから。
 大地は万物を支え、磐石の力を持って生命を守護する。優しく、強固に命を育む母の力。
 大地母神の教えは、人に、大地のように、飾らず、優しく強くあれ、と説くという。そして、無闇と争ってはならないが、それが愛する者を守るための戦いならば、怯んではならない、と。そのためだろうか、大地母神の神像は、母性を思わせる優しく温かい微笑を口元に浮かべ、大地の豊穣を示す小麦を右手に持ちつつ、左手には長柄の槍を握っている。この槍を持って、大地母神は、魔王と戦い、封じたのだそうだ。生命の母であるこの女神の信者は、女性が非常に多いらしい。

 街の案内所でそう聞いた、とカインは「敬虔な信者を案内する、というよりは、何だか観光案内みたいだったな」と小さく笑った。

 神殿に入ってすぐ正面に、女神の神像が置かれている。さすがに平日の昼間、しかも北方大陸では信仰の主流ではない神殿とあっては、参拝客の姿もなく、閑散としている。
 いや、違う。一人だけいた。
 女神に向かって、一心に祈りを捧げていたらしいその人物は、自分以外の人の気配に気付いたのだろう、顔を上げて振り返った。
「ヘレナ……?」
「レオンハルト……! やだ、嬉しい! また会えるなんて思ってなかった!」
 魔族の血を引く娼婦の娘は、今は普通の街娘と同じような服装をしていた。

「こっちの人、貴方の連れ? すっごい、いい男! 貴方と同じくらい凄い美形じゃない!」
 レオンハルトに並んだカインを見上げ、無邪気にヘレナは笑った。
「ヘレナ、どうしてここに?」
 驚いた、とまではいかないまでも、やや意表を突かれた、という風にレオンハルトはヘレナを見た。
「護符をつけてもらう時にお世話になってから、ちょくちょく来てるの。昼間は特にすることもないしね。柄じゃないみたいに、見えるかもしれないけど。でも、これもご利益なのかな、また貴方に会えるなんて」
 娘の笑顔は、底抜けに明るかったが、その根幹にあるものは果たして、見たままの純粋な快活さなのだろうか。

「あらへレナ、何か良いことでもあったの?」
 声を聞きつけてか、参拝堂の奥にある、木の扉が開いた。人目で僧侶のものと分かる、裾の長い法衣を着た女性が姿を現す。何の飾り気も無い、綿と麻で織られただけの簡素な白い法衣だが、それが大地をモチーフにしたしるしだ。
「まあ……こちらの方々は、お友達?」
 神に仕える身とはいえ、中身は普通の人間である。尋常でないほどに美しい二人の青年を目の当たりにして、女性は、耳元までうっすらと紅を刷いたように淡く染まってしまっている。
「夕べ、会ったばかりだから、友達とはいえないなあ。精々知人ってとこね。こっちがレオンハルト、ええと、そっちの美形は?」
「……カイン」
 面と向かって、直截に“美形”と呼びかけられるとさすがに面映いのか、カインの名乗りはいささか歯切れが悪かった。ヘレナはそんなことはお構いなく、
「じゃ、カイン。この人はね、この大地母神の神殿の司祭のジョアンさん。ここでは、三番目に偉い人なの」
「五人しか僧侶がいませんから、下からも三番目ですけどね」
 ジョアンは、決して、いわゆる「美人」という顔立ちではないものの、笑うと春の陽光を浴びた大地のように、穏やかな温もりを感じさせる容貌だった。

「ヘレナ、弟さんから手紙が届いているわよ」
「えっ、本当?」
「ええ、昨日の便で。――ああ、申し訳ございません、そちらのお二方は、この神殿に何か御用だったのではございませんか?」
「出来るなら、この神殿の最高責任者に会わせていただけないだろうか?」
 レオンハルトの申し出に、ジョアンはやや首を傾げた。相手の言うことが、予想外のものだったからだろう。
「無理ならば、仕方が無いが」
「いえ、高司祭に伺って参りますわ。少しお待ちください」
「じゃ、あたし、手紙見に行く」
 恐らく、気配で察したのだろうが、聡い娘である。自分がいては困るだろう、と余計な好奇心を働かさなかったのは、年齢の割に人の世の裏側に触れてきたせいか。礼拝堂を出て行く時に、ヘレナは「じゃあね」とでも言うように、レオンハルトとカインの二人に向かって、手を振った。

 所在なげに礼拝堂に佇んでいる時間は、さほど長くはなかった。ジョアンは程なく戻ってきて、
「高司祭が、お通ししなさいと」
 と告げ、二人を礼拝堂の奥の扉に導いた。扉を開くと、廊下があり、両側に幾つかの部屋が並んでいる。突き当りには、両開きの扉があった。ジョアンが扉をノックすると、「入りなさい」と声が応じる。70がらみの老婦人の声のようだった。扉を開き、ジョアンは「どうぞ」と二人の青年を中へ促した。
 レオンハルトとカインは、軽く頭を下げながら、部屋に入る。
 部屋の主は、彼等の祖母ぐらいの年齢の女性であった。枯れたような印象は否めないが、態度は堂々としており、背筋も真っ直ぐに伸びている。
「私に何か御用でしょうか」
 口調はやや緩やかだが、声にはまだ充分な張りがある。
「突然の訪問は失礼だと存じますが、是非とも教えを請いたいことがございまして」
 レオンハルトが丁寧な礼を執る。
「私で分かることならば、何でもお話しいたしましょう」
 そう言って、高司祭は、客人に椅子を勧めた。二人とも、それに従って、手近な椅子に座った。
「我々は、故あって、とある悪霊を浄化せんと旅を続けている者です。その悪霊は、元々は優れた魔術師であり、転生の秘術(リーインカーネイション)によって、不死の魔力を得ています。これを討ち滅ぼすための知恵が、大地母神の神殿にならあるかもしれないと、伺った次第なのですが」
 簡潔に、かつ的確にレオンハルトは自分達の事情を話した。その言葉を聞き、高司祭は眉を顰めた。
「そのような悪霊……大地母神の御力が健在なら、のさばらせてはおかないでしょうに……」
「――!? それは、一体……どういうことなのですか?」
 レオンハルトが軽く眼を瞠る。カインも似たような反応をし、二人は軽く顔を見合わせた。
「もう十数年になりますか、女神の声が、私達信徒に、全く聞こえなくなったのです。祈れば、奇跡の力をお貸しは下さるのですが。女神は、創世戦争の後に、他の神々とは違い、天界には昇らずに、人の姿を借りてこの大地に残ったといいます。それでも、以前は確かに女神の声を聞くことが出来ました。それが、今では全く……」
「大地母神の力が、弱まっていると?」
「そうとしか……。そうでなければ、あのような戦乱が起こるはずも無いのです」

 高司祭の話によると、魔族の王を封じ込める結界を造ったのは、やはり大地母神だという。大半の魔族は、神々の創った異界に閉じ込めることに成功した。しかし、魔王はさすがに強大で――本来、創造神ハルキフスズと双子の兄弟神であるから、当然なのだが――魔界へ追い落とすことが出来ず、止むを得なく大地を掌る女神の手で人の地に封じられたと、聖典に記されている、ということだった。さすがに魔王が復活したという話は聞かないが、ブルグント皇帝グレゴールが、魔界と契約を結ぶことが出来たのも、恐らくは女神の力の衰えによるものだろう。一度死んだ皇帝が、高位の魔族として復活したことも、また然りである。

「では、打つ手が無い、というのが現状ですか……」

 邪悪は、人の心の隙間を縫うように忍び寄ってくる。人は、完璧な存在ではない故に、完璧を求めて外道に陥ることがある。もっとも、グレゴールを「そう」と言い切るには、そのために払われた犠牲が大き過ぎるが。
 グレゴールは、魔界への扉を開くために、老若男女二千人もの生命を奪ったという。更に、北方大陸の全人口の三分の一が失われるという、大惨事を引き起こしたのだ。
 そして、それ以上の惨禍――全ての滅亡のための準備が、密かになされている。その事実を知った以上は、見過ごすことは出来ない。だが、どうすればいいのだろうか。