Chapter-2「魔の娘」

―4―

 レオンハルトは気付くと、薄暗い場所にいた。冷たい石の壁と床。ねっとりと湿った空気。僅かな明かりは、申し訳程度の小さな鉄格子の嵌められた鉄扉の向こうに、頼りなげに揺れている、松明の灯り。
 そう、この光景を覚えている。レオンハルトは、身体を起こした。身体の動きに合わせて、ジャラ……という、無粋な金属の音がする。レオンハルトの両手首は、手枷で繋がれていた。不自然にこもった冷気が、剥き出しの上半身の肌を刺す。埃と黴と――血、の饐えた臭い。



 あの日、の記憶。
 ただ独り、ブルグント宮城の地下牢で目覚めた。



 外傷は全て治療されて消えていたが、それを有り難く思う心は、レオンハルトにはなかった。
 殺されたのか。父や母、村の人々と同じように、ユリアナも、フリードリヒも、カールも。――それなのに、何故、俺は生きているんだ?
 ただ、独り……。
 ぼんやりと、絶望的にレオンハルトが背を無愛想な石の壁に凭せ掛けていると、ガチャリ、と重い物の落ちる音がした。自分が容れられている牢の鍵が外されたのだ、とレオンハルトが理解したのは、音を立てて扉が開かれたからだ。レオンハルトは、無意識のうちに、咄嗟に壁から背を離して、身構えた。
 入ってきたのは、男が数人だった。そのうちの一人は、いかにも尊大で不遜な顔つきに、豪華な衣装を身に纏い、頭には絢爛たる王冠を戴いていた。倣岸な態度で、レオンハルトを見下ろすその男が何者か、考えるまでもない。

 ――ブルグント帝国皇帝グレゴール――。

 レオンハルトは、カッと自分の頬が怒りで紅潮するのを感じた。この世で、最も憎い人間の姿に。
 皇帝は、火を噴くようなレオンハルトの視線を真っ向から浴び、しかし、平然とその炎をかき消した。石の床の上の虜囚の若者を、面白そうに眺めやる。
「確かに、類稀なる美形だ。……面白いな、これは」
 一切の感情の欠片も含まぬ冷たい声に、レオンハルトは白い背をぞくりと震わせた。が、気丈にも、皇帝の氷の青と同じ色をした瞳に映る、怖気づいた自分を叱責するように、強く皇帝を睨み返した。
「気の強いことだ」
 皇帝は手を伸ばし、レオンハルトの細い顎を上向かせた。レオンハルトは、その手から凄まじいまでの血臭を嗅いだ気がして、同時にしか動かぬ手で、皇帝を振り払った。
「離せ、触るな! 汚らわしい殺人鬼が!!」
「気位も随分高いと見えるな」
 奥の壁際まで跳ぶようにして退いたレオンハルトに、皇帝は温かみを全く欠いた笑顔を向けた。
「……俺を、どうするつもりだ」
 低い声でレオンハルトは言った。
「無論、役立ってもらうのよ、余のために」
「何だと……?」
 個性に欠ける反応を示したきり、レオンハルトは冷たい石壁に背を押し付け、皇帝を凝視した。

「……俺は、ただの猟師の息子だ。何の力も持っていない。……王都のあまりの陥落の早さは、内通者がいたからだろう。俺には、そんなことを期待される権力も地位もない。何も、残っていない。住む家も家族も友人も、何もかも……この、俺の命以外は! 俺が、一体、何の役に立つという!?」
 皇帝にとっては、自分の血を吐く思いの叫びなど、風にも等しいだろう。そうは思っても、レオンハルトは叫ばずにいられなかった。そうしなければ、この怒りで、この憎しみで、この悲しみで、自分がどうにかなってしまいそうだった。
 冷酷な笑顔が、皇帝の眼に浮かぶ。
「お前自身が、役に立つ。単なる黒騎士以上にな」
「……まさか、黒騎士、とは……」
 皇帝の言葉に、今までとは別種の戦慄が、レオンハルトの身体の中を駆け抜けた。
「そう、元はといえば、お前のような、フロレンツの遺民よ」

 つまりは、そういうことなのだ。
 ブルグント帝国は、元々は不毛の地から発生した国家。資源は乏しく、人口も少ない。そんな国に、この巨大な野心と才覚を備えた、グレゴールという男が皇帝の家に生まれたことが、大陸全ての人間にとっての、共通の不幸といえる。
 グレゴールは魔界との門を開き、魔族を配下としてもなお、少ない兵力を補うために、難民と化して流浪しているフロレンツの人間を洗脳して、黒騎士、という兵に仕立て上げているのだ。それには、生命力の高い若者が標的とされる。
 ここにレオンハルトがいるのは、そうやって「選ばれた」からだ。

「名は、何という?」
 レオンハルトは答えなかった。
 生まれて初めて、「死んだ方がましだ」と思った。この男の、手先にされるぐらいなら。
「余は、役に立つ者には、望む全ての欲求を満たしてやることが出来る。何でもだ」
 皇帝が小さく指を鳴らすと、レオンハルトの手首を拘束していた、手枷がじゃらりとだらしなく床の上にわだかまる。
「こちらへ来い」
 皇帝の瞳が、妖しく輝いたように見えた。
 その輝きに魅入られたように、レオンハルトはよろり、と立ち上がる。

 が、レオンハルトは皇帝の前に(ひざまず)くのではなく、皇帝の従者が腰に差した剣を、自分の手元に素早く抜き取るや、その刃を皇帝目がけて渾身の力を込めて突き出した。
 キン、と異様に澄んだ音がした。剣の刃は、皇帝の身体に届く前に、何か、眼に見えない障壁に途中で阻まれて、折れた。
「!?」
 黒曜石の眼が瞠られる。
 若者の、あまりにもささやかすぎる抵抗を哀れむかのごとくに、皇帝は口を開いた。
「お前は、人の世に常でない力を持って生まれてきている。その力を、目覚めさせたくはないか? 力が、欲しくはないか?」
 びくり、と僅かに自分の心臓が跳ねる音を、レオンハルトは聞いた。耳を貸すな、これは悪魔の囁きだ、人を唆し惑わせる、毒の言葉だ。

 それでも。力が――力があれば? 復讐、出来るのではないか?

 そのレオンハルトの僅かな動揺を、皇帝が見過ごす筈もない。皇帝の指が、軽くレオンハルトを指し示すと、レオンハルトの身体はたちまちのうちに動けなくなった。
「お前は、常人とは違う。生命力だけではない。その身に備えた力、その全てが人の域を越えている、異能者として生まれたからだ、美しき若者よ」
「――その力をもって、貴様に仕えよと言うのか、ふざけるな! 誰が、……誰が、貴様などの手先に成り下がるか!!」
 自らの意思で動かすことの出来ぬ身体を、両側から引き倒され、レオンハルトはそれでも、自分の裡に已然として燃え盛る、憎悪の炎を消すことはなかった。だが、皇帝は知っていた。
 炎は、風が吹けば揺れる、ということを。

 皇帝は、自分の指を飾る指環を一つ、抜き取った。それを掌に載せて呪文を唱えると、指環はたちまちのうちに、黒金剛石(ブラックダイヤモンド)を嵌め込んだ額環(サークレット)と化す。
 額環は、皇帝の掌の上からふわりと浮き上がった。緩やかに。それは、自ら意志を持つが如く、レオンハルトの額の上に収まった。
「…………!!」
 襲い掛かってくる、暗黒の呪い(カース)。その呪いは、たちどころに、レオンハルトの心の中の「強さ」を望む感情を捉える。そこから、徐々に、確実に、レオンハルトの全身を、呪いが絡めとり、侵蝕していく。
 抵抗出来なかった。ただ、為す術もなく、自分の自我が、自分のものでなくなっていくのを、レオンハルトは愕然と受け入れるしかなかった。
「う……ああ、ああああ……!!」
 レオンハルトの唇から洩れた苦鳴は、断末魔に似ていた。
 皇帝が、満足そうな、残酷な笑みを刻んだ。
「お前の名は?」
 もう一度、皇帝が訊く。
「……レオン……ハルト……」
 “制約(ギアス)”の呪いに支配されたレオンハルトは、皇帝に臣下の礼を執った。
「レオンハルトよ、今日からお前に“闇将軍(ダークジェネラル)”の称号を与えよう。そして、小うるさいフロレンツの残党どもを駆逐しつくし、この地上にブルグント帝国が覇を唱えるため、大いに働くのだ」
「……御意」


 この日から、レオンハルトの“意思”は、彼自身のものではなくなった。彼の歩む所は、破壊と流血と殺戮の焦土と化した。心の奥底では違う、と叫びながら、レオンハルトは絶望に囚われていた。この世界で、俺は何のために生きているのだろう?

 真っ赤な光景。赤いのは、炎が燃えているせいだった。レオンハルトは熱さを感じなかった。炎と彼が透明な膜で仕切られていたからだ。
 膜を透かし、向こう側から、誰かがレオンハルトを見ていた。
 紅に彩られた、黄金の髪の美しい娘。微笑みながら、娘は涙を流していた。
「さよなら」
 娘の声。
「さよなら、レオンハルト」
「……アルテミシア……?」
 娘は、業火の中に姿を消した。
 それまで、何処かで暗黒の“制約”に抵抗し続けていた、レオンハルトの最後の寄る辺は、失われた。以前よりもより冷静に、レオンハルトは“闇将軍”としての務めを果たすようになった。絶望はあまりにも深く、レオンハルトはそこから抜け出す手立てを知らなかった。
 帝国に敵対する、“反乱軍”が、攻め上ってくるまで。



 生きていたのだ。
 奪われたはずの心が、甦ってくる。
 ユリアナも、フリードリヒも、カールも、生きていた。
 レオンハルトの心は激しく揺れたが、呪いの力は凄まじかった。妹達の呼びかける声にも答えず、彼はあくまでも闇将軍として、彼等と相対した。
 闇将軍レオンハルト、宮廷魔術師フーリック、そして皇帝グレゴール。強大な闇の力を持つ、たった三人は、その千倍以上もの人数の反乱軍を、いとも容易く屠っていく。
 しかし、フリードリヒ達は、決して怯まなかった。時の神の高司祭が、フーリックの邪なる魔法を封じることに成功すると、フリードリヒの持つ聖なる剣が、宮廷魔術師を斬り(たお)した。ユリアナは、鋭すぎる兄の斬撃を、間半髪の際どさで辛うじて(かわ)しながら、兄への呼びかけを止めなかった。レオンハルトの胸中の、動揺、という名の小波を見て取ったかのように。
「兄さん! 兄さん、目を醒まして! 兄さんが戦うべき相手は、私達ではないでしょう!? 私達からたくさんのものを奪っていった、皇帝にこそ、その剣は向けられるべきでしょう!?」
 ユリアナの声は、少しずつレオンハルトの心を縛る暗黒の呪いを、穿ち始め、揺さぶった。しかし、その揺らぎを、皇帝の声が無情に打ち砕く。
「無駄だ。制約の呪いは解けぬ。呪いをかけた人間が死ぬか、かけられた人間が死ぬまでだ。どうだ、殺してみるか、レオンハルトを。そして、殺せるか、余を!」

 フリードリヒが剣を、カールが戦斧を手にして、皇帝に突進する。だが、その前にレオンハルトが――闇将軍が、立ちふさがった。
「……レオンハルト、剣を引け! 俺達が、戦う理由なんて無いだろう!!」
「お前は反乱軍の戦士、俺は帝国軍の闇将軍だ。戦わねばならぬ理由が、他に何処にある?」
 レオンハルトは冷然と言い放ったが、その声は微かに震えていた。次々と繰り出される剣にも、僅かな迷いがあった。呪いと、レオンハルト自身の本来の意思が、激しい葛藤を起こしているのだろう。それを証明するかのように、レオンハルトの額の額環の黒金剛石が、ちらちらと不安げに光を揺らす。攻守巧みに所を変えながら、それを看破したフリードリヒはカールに、小さく耳打ちした。
「どうも、あの額環が怪しい。あれを引き剥がしたら、あるいはレオンハルトは……」
「分かった」
 小さくフリードリヒに頷いて見せ、カールはフリードリヒと同時に、レオンハルトに打ちかかった。ガキュウッ、と金属の打ち合う音が激しい不協和音を奏で、火花が飛び散る。フリードリヒの剣と、カールの戦斧を、孤剣でレオンハルトは受け流した。弾かれた振りをして、素早くカールはレオンハルトの背後に回り、羽交い絞めにした。
「やれ、フリードリヒ!」
「レオンハルト、その呪縛、今、断ち切ってやるからな!」
 フリードリヒの剣の刃は、レオンハルトの額を掠めた。その切先は黒金剛石の額環を引っ掛け、レオンハルトの額から引き剥がし、その勢いで床に叩きつけて粉々に壊した。小さな呻き声を上げて崩れかかるレオンハルトを、カールが支えて、ユリアナに託した。
「皇帝、レオンハルトを縛っていた呪縛の鎖はもうない! 全ての憎しみの源よ、消えろ!!」
 激しいが短い、短いが激しい戦いが、皇帝とフリードリヒとの間に交わされる。遂に、フリードリヒの剣が皇帝を貫いた。



 レオンハルトが意識を取り戻したとき、彼の身は後ろ手に縛り上げられていた。ヴィルヘルミナ王女の前に引き立てられたレオンハルトは、ただ、
「殺すがいい」
 静かな声で、そうと言った。憎悪の視線が自分の全身を突き刺していることを、知りながら。
「俺を生かしておいても、何の益にもならない。俺を殺せば、過去の悲しみもいくらか和らぐだろう。殺せ」
「やめて、兄さん!」
 ユリアナが黙っていられない、という風に飛び出してくる。
「兄さんが本当に悪いんじゃないわ。本当に憎むべき敵は、皇帝のはずよ。兄さんを許してと言うんじゃないわ、けれど、せめて憎まないで!」
 皇帝が復活し、ブルグント宮城一帯が小さな魔界と化した、という凶報がもたらされるに及び、フリードリヒも懸命に訴えた。
「戦いはまだ終わっていないのです。レオンハルトは帝国軍にいた人間、内情には詳しいはずです。罰して殺すより、生かして用いる方を選んでください! お願いです、俺達はレオンハルトが死ぬのを見るために、助けたんじゃない!」
 ヴィルヘルミナ王女は、フリードリヒたちの必死の懇願を受け、レオンハルトが試練に打ち勝つことで、レオンハルトが反乱軍に身を置くことを許した。
 無論、レオンハルトは心中、快としていたわけではない。自分が生きていることが、呪わしかった。ただ、自分に死んで欲しくないと思っている人達がいるからこそ、自分は「生かされている」ということだ、とそう思っていた。
 そして、レオンハルトは皇帝を倒した祝宴で浮かれる人々の中、別れも告げずに独り、去った。
 もう俺は、誰にとっても必要な人間ではない。ユリアナには、フリードリヒがいる。

 誰かが、自分の名を呼ぶ声が聞こえる。しかし、全ては夢だ。全ては幻だ。
 レオンハルトは、自分の思い出を納めておく場所に、自ら鍵を掛けた。もう、そこには何も届かない。
 また、誰かがレオンハルトを呼ぶ。レオンハルトは、振り返らなかった。