Chapter-2「魔の娘」

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 夜が白々と明けかける頃、娘の眼がまだ醒めないうちに、レオンハルトは彼女の部屋を出た。テーブルの上に置かれた数枚の金貨が、彼の別れの挨拶の代わりだった。


 朝の歓楽街は、夜の喧騒と活気がまるで嘘であるかのように、倦怠と無力が漂うのが、目に見えるようだ。
 気だるい静寂に満ちた街路を抜けかけ、レオンハルトはやや上を見上げる。街路の確認のためだったらしく、角を曲がり、また歩き出した。
 湧き出したばかりの水を思わせる、朝の白い光が、朝焼けの残る空を徐々に青く染め上げていく。まだ半分眠った街の中を、レオンハルトは足早に歩き、一軒の宿屋の前に辿り着くと、その扉を開いた。
 宿屋のホールには、早発ちの客と早番の宿の使用人が、数人散在しているだけである。レオンハルトが、吹き抜けの階段を上がりかけたところで、頭上から声が掛けられた。
「朝帰りとは、いい身分だな」
 などと、低級な嫌味は言わず、ただ短く、「よう」と。

 繚乱と舞い落ちる枯葉の中に差し込んだ、秋の黄昏の光を凝縮したような美貌の青年が、声の主であった。
「起きていたのか、カイン」
 階段を上りながら、レオンハルトは言った。
「早くに眼が覚めてな。窓を開けたら、お前が帰ってくるのが見えた。それより――お前」
 レオンハルトが自分の隣に立つと、カインは、少しからかうような微笑を浮かべた。
「何だか、妙に甘い香りがするぞ、お前。女物の香水じゃないのか、これ? 夕べ一晩、帰ってこないと思ったら、お(たの)しみだったってわけか?」
「別に」
 あっさりと切り返されたが、カインは、別にかわされた、とは思わなかったようである。軽く肩を竦めて見せる。
「だろうな。お前がそんな奴だとは思わない。で、何か分かったか?」
 並んで部屋に入りながら、真顔に戻って、カインは訊いた。レオンハルトは、剣帯ごと剣を腰から外し、ベッドに放り投げ、自分もベッドの上に腰を下ろした。カインは、窓際のテーブルセットから椅子を引っ張ってきて、レオンハルトの向かいに置いて座る。
「有益なことは、何も分からなかったと言っていいな。分かったのは、分かりきっていることだけだ」


 二人が、このシプルの街に立ち寄ったのは、偶然ではない。

 シプルは、神殿の街として知られる。
 神々が集う街、と。
 この世界の主神と言われる神は、十八柱存在する。そのうち、北方大陸で、最も信仰されているのは、時の神アスタルド、農耕神ラスタニズ、光の女神シェリスナ、海神カルウェ。そのうち、アスタルドとシェリスナの本神殿が、このシプルにあるのだ。
 不死者は神の定めに従わない不浄の存在だ。だから、その消滅の手がかりが何か無いだろうか、と求めて、二人はこの街にやって来たのである。
 もっとも、神殿に赴いて、聖典や文献資料などを調べに行ったのは、レオンハルトだけだ。カインは、どうせ聖典など読めやしないから、と宿に残った。神殿からの帰りに、レオンハルトは曲がり角を一つ間違えて、歓楽街に踏み込んでしまった、というわけである。暗くなった初めて来た土地での、不測の事態だった。

「フーリックの奴の言っていた、究極の浄化の魔法、というのは何だ?」
「……言葉どおりの魔法、だ」
 カインの質問に、レオンハルトは微かな苦い感情を交えて、答える。
「北方大陸では、かつて、以前から住んでいた人間と、西方大陸からの移民達の間で、大陸の支配権をめぐって、十年以上も戦乱が続いたことがあった。あまりにも、人が多く死に過ぎた。溜まりに溜まった死者達の怨念は、ある時、遂に爆発した。あの死霊魔術師(ネクロマンサー)の館に出てきた死霊(レイス)など、生易しいと思えるような、恐ろしい不死の魔物となって、人の世界を壊滅しかけたんだ。その時、四柱の神の最高司祭達が作り上げた魔法が、その究極の浄化の魔法だ。その魔法を使い、死者の魂を浄化することが出来たわけだが」
「その魔法は失われた、……と。何故だ?」
「――人は、人の手に余る力を持つべきではない、ということだな」
 異能者として生を受けた青年は、我が身を振り返るように、自嘲を声に多分に籠めた。
「その力は、必ず、凄まじい代償を必要とする。四人の最高司祭は、死者を浄化させるために魔法を行使し、その命を失った。話によると、身体の欠片すら、残らなかったそうだ。そして、“禁呪”として、かの魔法は封印された。――俺達が、封印を解くまで」
 レオンハルトのその言葉に、カインが不思議そうに、目を(しばた)かせる。
「……? お前達が封印を解いたのなら、失われていないんじゃないのか?」
「いや、失われた」
 小さく、否定の形に、レオンハルトは首を振った。

「究極の浄化の魔法――あの魔法は、魔法の力に優れた、神に仕える者の生命を、聖なる力に転化して、負の生命体を浄化させる。封印を解くとき、一人の高司祭が、その身を犠牲にした。一度死んだ皇帝を浄化させるためにだが、彼は、自分が心を寄せる一人の女の力とするために、魔法を甦らせようとしたんだ。しかし、それだけでは足りなかった。もう一人の司祭が犠牲になった。その司祭は女性で、高司祭に思いを抱き、彼に殉じた。魔法はそれで甦った。……だが、あまりにも哀しい、……恐ろしい力だ。俺達は、もう一度魔法を封印し直した。だから、失われた」
「なるほど、な」
 カインが小さく頷くと、黒い髪が小さな音を立てて揺れた。朝日を受けて青紫色に見えていた眸の色が、淡い鈍色(にびいろ)になる。胸の上に提げたペンダントを片手で弄びながら、カインはレオンハルトの顔をまっすぐに見た。
「つまり、信仰心のほとんど無いに等しい、お前や俺では、その封を解くことは出来ない、というわけだ。仮に封を解くことが出来たとしても、死んでしまう。奴もそれを知って……」
「多分な」
 忌々しそうに、レオンハルトは軽く唇を噛んだ。
「過去に、転生の秘術(リーインカーネイション)に成功した魔法使いは存在しない。少なくとも、文献などには残っていない。だから、あの魔法以外に、奴を消滅させる手段が、分からん」
「俺達の条件は、圧倒的に不利、というわけだな。――いや、ちょっと待てよ……」
 何か思いついたのか、カインは形のいい顎に指を当てて、考え込む仕草をした。それも程なく、再び口を開く。
「命を掌るのは、確か、大地母神だろう。主流ではないとはいえ、この大陸でも信仰されているよな? ひょっとしたら、何か分かるかもしれん」
 そう言ってから、カインはふっと疑問の表情を作った。何かが脳裏に引っかかった様子だった。口の中で、「大地母神」という単語を繰り返す。
 ラシクーサの街から、ここシプルの街に向かう途中も、カインはこんな風に何かをきっかけとして、自分の記憶を捜すことがあった。もっとも、いずれも「何か解りかけているのに、解らない」という感じだったが。

「……堕神アディリウスを封じる結界を作ったのは、大地母神だった……よな?」
 ややあって、カインは自信無さげに口を開いた。確認を求めるように、レオンハルトを見る。しかし、レオンハルトは首肯しなかった。
「俺は不信心者だから。この大陸での非主流の神のことは、あまりよく知らない。カイン、それは、お前自身の知識じゃないのか」
「……だが、確信を持てない。いつも、こうだ。後一歩、という所で、はっきりとは何も分からない……」
 苛立たしげに、カインは靴の踵を鳴らす。
「焦る必要は無いさ。一気に全部、思い出そうなんて、思わなくてもいい」
 そんなカインに対して、レオンハルトの口調に、明らかな暖かみが含まれる。平坦な中に、あらゆる感情を押し隠した美しい声は、心を開いた相手にだけ、本音を覗かせる。
「ああ……」

 ただ、それだけの短い返事の声。それなのに、そのカインの声に、胸を突くような響きが聞こえたのは、気のせいなのか。どんな痛罵も、責めも、謗りも、黙って受けてきた者が、受け慣れない優しさに少し戸惑う、ような。
 無意識に、レオンハルトはカインの名を呼んでいた。
 先ほど、レオンハルトが感じた哀切など、もはや微塵も覚えさせられない様子で、カインは「どうした?」と言った。
「……何でもない」
 ドサリ、とレオンハルトは、ベッドの上に長身を投げ出しながら、そう答えた。
「少し、眠っていいか。夕べ、寝てないんだ」
「そうだ、お前、一晩中、神殿にいたんじゃないだろ。何処へ行っていたんだ」
 やや身を乗り出すようにして、カインが訊く。
「……ちょっと、な。魔族の血を引く娘に会って」
「? 魔族? 見て、分かるのか?」
「魔族の血を引く者は、大抵が肌が黒く瞳が赤い。だから、その外見で血筋が分かり、疎まれる。……お前も、たまに瞳が赤く見えるときがあるから、気をつけた方がいいかもな」
「え?」
「知らないということはないだろうが、覚えていないから分からないか。お前の眼は、光の加減で色が違って見えるんだよ」
「そう、なのか……。でも、俺は魔族じゃないとか、自分のことを覚えていない奴が言う台詞じゃないよなあ」
 カインは頭を掻く。
 彼の瞳の光彩が、虹を帯びたように様々な色に輝く。夢のような輝きが、カインの生来の美貌に、嫌が上でも神秘性を与える。それも、何処か悲しげな。


 美しすぎると、幸せにはなれないかもしれない。
 そんなことを言ったのは、誰だったか。
 ただ「普通に」美しいだけなら、大抵、人並み以上に幸せになれるだろう。しかし、見るだけでも畏れを感じさせてしまうような美貌なら? それこそ、「人の手に余る」美貌は。
 相変わらず、杳として知れないカインの過去が、決して幸せなものではなかったらしいことは、旅の途中で、レオンハルトは容易に推測できた。不意に、背後から声を掛けられたりすると、取り乱しこそしないものの、動揺が認められる。また、自分の肌を見られたり触れられたりするのを、例えレオンハルト相手でも、極端に嫌がる節がある。
 普段は、過ぎるほどに豪胆なくせに、その隙を縫うように見せる、意外なほどのカインの脆さは、どう考えても幸せな人間のものではありえない。

 不意に、いたたまれない気分になり、レオンハルトは瞼を閉じた。同情? 憐憫? 俺は、何時からそんなに他人に偉そうな感情を抱けるようになった?
 そう思うと、予想した以上の疲労が、身体の裡から湧いてきた。
「レオンハルト?」
 カインが声を掛けても、寝たふりを決め込んでいたが、レオンハルトは緩やかに眠りに落ちていくのが、自分でも分かった。
 小さな溜息をついて、カインは立ち上がった。それから、大きく伸びを一つした。
「眠りで得られるものが、安らぎだといいんだがな……」
 低く呟くと、淋しげな微笑を残して、カインは部屋を出た。