「改めて、自己紹介するわね。あたし、ヘレナ。貴方は?」
「……レオンハルト」
「格好いい、いい名前ね!」
青年――レオンハルトは、娘の部屋の椅子に腰掛けていた。
部屋の中は、椅子が二脚と、小さなテーブル、低い戸棚と備え付けらしいクロゼット。そして、こればかりはやたらと幅をきかせているベッド。その他には、年頃の娘らしい装飾の類は一切無い。
たかが娼館と、一口に言う。しかし、中には貴顕の人間がお忍びで訪れたり、あるいは重要な会談に使われたりする、下手をすると貴族の城館にも見まがう、格式高い店もあるのだ。そういう店は、客が店を選ぶのではなく、店が客を選定する。また、そういう一流をもって任ずる店は、女にも上流の貴婦人に匹敵するほどの、気品や知識、風流を要求される。女自身を守る、鎧ともするために。
この娼館は、どちらかというと場末の方に属するだろう。女に求められるものは、一時の欲望を満たすこと。ただそれだけだ。だから、調度品などに金を掛けても意味が無い。そういう客が相手なのだ。もっとも、それにしても、この部屋はいささか殺風景に過ぎる観があるが。
「はい、サービスよ。大丈夫、変なものは入ってないから」
レオンハルトの前にグラスを置きながら、ヘレナは片目を瞑って見せる。グラスの中身は、大して高価でもない、店先で山積みにされて売られている果実酒だ。
ヘレナと名乗った娘は、異形の色彩を身に纏っていることを除けば、可憐と形容できる容貌を有している。中でも、やや吊りあがり気味の大きな瞳が、特に印象的だ。猫を思わせる赤い眸は、くるくるとよく動いて、この娘が闊達な性格を持っているだろうということを窺わせる。
「ねえ、凄いのねえ、貴方。顔も綺麗だけど、あの剣の腕!」
娼婦という商売で自分を養う身でありながら、娘はとてもそうとは思わせぬ無邪気な態度で、レオンハルトの怜悧な美貌を見上げる。
ふと、レオンハルトは自分の妹の、ユリアナを思い出した。ユリアナは、兄のレオンハルトと同じ、黒い髪に白皙の肌、黒曜石の瞳を持っている。髪の色以外は、彼の目の前にいる娘と、彼の妹は、まるで共通点がない。
ただ――彼を見上げる、その眼差しが、ひたむきな眼が。
少しだけ、似ていた。
「何時から、この仕事をしている?」
不意に切り出されて、ヘレナはどぎまぎしたように、レオンハルトを見た。
露出の高い服の胸元に手を当て、
「何時からって……。三年前ぐらい、十五歳の時からよ。見りゃ分かるだろうけど、このナリじゃね。まともな働き口があるわけないじゃない。こんな仕事以外」
「王都に行けば、仕事など幾らでもあるだろう。ヴィルヘルミナ女王は、寛大で聡明な方だ。外見で差別を受けることもあるまい」
かつて、“
それに、あそこには優しいフリードリヒやユリアナ、カール達もいる。
あの地ならば、娘は自分の本来の性質のままで、自分を切り売りせずとも、生きられるのではないだろうか。
しかし、
「無理だよ」
弱々しく微笑んで、娘はレオンハルトの向かいの椅子に座る。
「あたし、たくさんお金がいる。そりゃ、いい仕事じゃないよ、この仕事。でも、その分、
レオンハルトは、何も訊かなかった。ヘレナは、堰を切った水が溢れ出すように、自分の身の上を話し出した。
あたしの両親は、普通の人間だった。でも、どっちかに魔族の血が混じっていたらしい。そう聞いてる。それで、たまたま、あたしみたいのが生まれてきたってわけ。稀に、そういうこともあるらしいね。
父さんの顔は知らない。あたしと、双子の弟が母さんの中にいるとき、病気で死んじゃったから。あたしを産んだせいで、母さんは随分と苦労したと思うよ。あたしが生まれてすぐに、近所中から疎まれて、住んでた町を追い出されて、何度も住む場所を転々として。
でも、母さんは優しかった。あたしがいると迷惑だったろうに、それなのに、本当に普通の娘として、愛してくれた。弟も、あたしと違って普通の人間だったけど、あたしを嫌がったりしないで、姉さん姉さんって、大事にしてくれた。頭のいい子でね、今は大きい街の寄宿学校に行ってる。
三年前、母さんも死んじゃった。弟が学校に入ったのもその頃で、あたしは自分が食べるだけじゃなくて、弟の学費も稼がなくちゃなんなくなったの。選択の余地は、ほとんど無かったね。この仕事以外。
躊躇わなかった、って言ったら、嘘になるけど。でも、他にどうしようもなかったから。
幸い、ここの『お母さん』はいい人だったから。あたしを雇ってくれて、貴方は気付いてたみたいだけど、この胸のね。これは、大地母神の護符なんだ。これを付けてくれるよう、神殿にも頼んでくれたんだよ。せめてものお守りになるように、って。
あたし、産まれてから、ずっと、誰かの世話になりっ放しだから。たった一人の弟の面倒くらいは、ちゃんとみたいんだ。
それに、あと二年もしたら、弟も学校卒業するし。あの子とは一緒に暮らせっこないけどね。あたしみたいのが姉だって知れたら、せっかくいい学校まで行っても、ブチ壊しになるもんね、あの子の未来がさ。ま、そうなったら、足洗って、自分で畑でも作って、それで暮らしてけるかなって思ってる。お母さんもそれがいいって、言ってくれるしね。それまでは……。
月光と氷を刻んだ彫像のような、優美と冷徹と哀切を兼ね備えた青年の美貌は、その時、疑いなく黒曜石の瞳にあえかな悲愁の色を滲ませていた。
多分、そんな風に他人に憐憫の情を抱くのは、とても傲慢なことだろう――きっと。
少なくとも、レオンハルトは自分自身については、そう思う。情動は、自然の心の動きではあるが、レオンハルトは、心のどこかで、それを戒めていた。自分には、そんな「上等な」感情を持つ資格は無い、と。
「あたしに、同情した?」
「……」
類稀なる白い麗容は、黙坐していると、本当に天工の手になった彫像とも、見紛いそうである。
「同情でもいいわよ。あたしに優しくしてくれる人は、誰でも好きだわ」
それは、いかにヘレナが今まで、「優しくされてこなかったか」を証明する言葉だった。その様子を、レオンハルトは目にしたばかりだ。こと、“暗黒戦争”前後は、昔よりも、今よりも、ずっと酷く扱われてきただろう。
心中、レオンハルトは溜息をつかずにいられなかった。彼の妹は、愛するフリードリヒと結ばれて、幸福に埋もれているだろうに。ただ、その外見上を理由として、幸福な未来を頑として閉ざされている娘がいる。レオンハルトに何が出来るというわけではないが、それが判りきっているだけに、なおさら彼はやりきれない気がした。
レオンハルトの鼻先で、甘い香りが揺れた。ヘレナが、レオンハルトの胸に身を預けてきたのだ。
「お礼をするわ」
ヘレナの声が、低まった。美しい眉を、レオンハルトは微かに顰めた。
「好きにして」
普通の男だったら、そう言われるまでもなく、娘の身体を抱いていたに違いない。しかし、そういう意味では、レオンハルトは無反応だった。
代わりに、静かに優しく、しかしはっきりと、レオンハルトはヘレナを押し離した。
それは、ある意味、女の矜持を傷付ける行為である。しかし、ヘレナは怒るよりも、戸惑いを感じた。
レオンハルトの手が、あまりに優しかったから。
「どうして……?」
赤い瞳に、むしろ切ない表情を浮かべて、ヘレナはレオンハルトを見上げた。
「俺は、君を抱けない」
「……どうしてよ……」
問いさして、不意に、ヘレナは気付いた。眼前の、端麗極まりない美青年は、その美しく切れ上がった瞳で、男としてではなく、兄が妹を見るのと同じように自分を見ていることに。
そして、レオンハルトは、言った。
「俺には、愛する女がいるから」
と。
「じゃあ、どうして、そんな大切な人を何処かに置いて、こんな所にいるの」
「……彼女は、あの戦争と共に、炎の中に消えた」
平坦な声音は、その中に込める感情が分からなかったからだ。
今更、どんなに「愛している」と言っても、その声が届くわけはなくて。
あの時、抱き止めることが出来ていたら、こんなに後悔しなくて済んだのだろうか。
無いものねだりは世の常だ。
愛している。
だが、今の俺に、君にその言葉を告げる資格は、……無い。
……つくづく、馬鹿な、愚かな男だ、俺は。
返るはずの無い過去に、しがみついて手放せない、愚か者だ。
「……ごめんなさい、辛いこと思い出させて」
愁痛の霜が降りた秀麗な
それは、男に一夜の夢を与えることを生業とする娼婦として、あまりにも初歩的な失敗であったし、何よりも、ずっと青年の端整な口元に漂っているえもいわれぬ悲哀が、あまりにも強まったから、であった。
「気にするな」
相変わらず抑揚の無い声で、レオンハルトは静かに言った。
唐突に、レオンハルトは立ち上がる気配を見せた。戻るべき場所がある、と言うように。それはあまりに自然な仕草で、唐突だったにも関わらず、少しも違和感を感じさせなかったが。
「――待って」
それでも、ヘレナは青年の手を取らずにいられなかった。
「お願い、一晩だけでいいの、ここにいて。一緒にいて欲しいの」
そう言って、彼女が懇願するのを、レオンハルトは振りほどきはしなかった。
「あたし……、あたし、本当は、独りでいるのが、怖い。夜に独りでいるのが、怖い。……本当は。ねえ、お願いよ。今夜だけでいいから……」
ヘレナは、瞳に盛り上がってくる、熱いものがあるのを自覚したが、それを止めることは出来なかった。しゃくりあげそうになりながら、必死に堪える娘の肩に、レオンハルトは静かに手を置いた。
「――泣きたい時は、泣いた方がいい。我慢ばかりしていると、何が本当の気持ちか、分からなくなる……」
静かな声の中に、はっきりと感じ取れる優しい響きを聞き、ヘレナは、ほんの少し前に出会ったばかりの青年の胸に縋りついた。涙は、後から後から溢れ出てくる。
魔族は、涙を持たない種族だ。レオンハルトは、それを知っている。
この娘は、魔族の特徴を外見に持っていても、ただそれだけの、人間の娘なのだ。
ただ、レオンハルトは黙って、娘のなすがままにさせていた。娘が泣き疲れて、そのまま眠ってしまうまで。
起こさないように、そっとレオンハルトは体をずらし、ヘレナを抱き上げて、ベッドに横たえた。ふと、妹にも、昔、同じようなことを何度もしてやった思い出が、胸の裡に懐かしさをこみ上げさせて、レオンハルトは微苦笑する。
自分で望んで、独りになったのに、ちょっとしたことで妹達を思い出している。
もう、戻らない日々。
戻れない日々。
心の奥底では、戻りたいと願いながら、俺は今でも、自分に嘘をつき続けているよ、アルテミシア。
あの時、君を行かせるのではなかった。自分の我儘だ、と君を追えず、本当の気持ちに嘘をつき、君を失ったのに、俺は未だに懲りていない。