Chapter-2「魔の娘」

―1―

 その夜。
 夜が絶好の稼ぎ時である娼館の並ぶその街路は、著しく生彩を欠いていた。
 たった一人の、青年のために。

 剣を腰に吊り、戦士の身形をした青年は、女を買いに来た、という風も無く、ただ黙々と歩を進めているだけだった。それだけなのに、男あしらいにかけては海千山千の娼婦達が、誰一人として声すらかけられないのだ。
 あまりにも青年は美しすぎた。その美しさは冬の月光の結晶のように冷たく厳しく、周囲を拒絶すると共に、何とも寂寞(せきばく)とした雰囲気を醸し出している。
 そのせいだ。声をかけることも憚ってしまう、そんな、美貌と身に纏った空気のためだ。
 青年の歩みに従うように、白っぽい沈黙が花街の通りを埋め、彼の姿を垣間見た女達は、切なげな溜息をついた。
 その一切が視界にも入らないかの如く、青年は足を止めず、振り返りもしない。

 が、唐突に青年は立ち止まった。観察力のある人間なら、青年が僅かに怪訝そうな表情を浮かべたことに気付いたかもしれないが、よほど注意深く見ないと分からないほど僅かだった。
 青年が視線を動かした先で、一軒の娼館のドアが、派手な音を立てて開け放たれた。媚薬と香水を混ぜたような香料の匂いが広がり、人影が飛び出してくる。
「しつっこいね、あたしじゃないって何度言えば分かるのさ! 変な言いがかりは大概にしてよ!!」
 それと同時に聞こえてきた、やや蓮っ葉な口調の女の声。いや、それは、女と呼ぶにはまだあどけなさを留めた、十七、八歳くらいの娘の声である。
 街路に走り出てきた娘は、青年の姿を目ざとく見つけて、素早く駆け寄った。
「ねえお願いよ、助けてよ! ただで助けろなんて言わない。だから助けて! あいつ等、あたしを殺すつもりなんだよ!」
 青年の胸に縋りつくようにして、娘は哀願した。芝居っ気は全く無い。泣くような叫びだ。現に、娘の飛び出してきた娼館から、剣呑な雰囲気の男が五人、女将らしいやや太り肉の女が何やら制止の声を上げるのを、無理やり押しのけて出てきていた。
「ね、ねえ、お願いったら! あたし、まだこんな所で殺されるわけには……、死ぬわけにはいかないのッ!!」
 返答が無い青年に、苛立つよりも絶望を感じたのか、娘の絶叫は涙声であった。
「俺の後ろに下がっていろ」
 更に娘が言葉を重ねようとした時、静かな声がした。青年の声だった。全身に漂う気配と同じく、冷たくて厳しくて、ひどく哀しい、美しい声である。
 言葉の内容そのものよりも、その声自体に、娘は安堵した。この人は、恐れていない。
 青年の指示に従って、娘は長身の青年の影に隠れるように、彼の背後に回った。青年の体格は華奢にも見えるが、その背は意外に広い。

 娘が、自分を殺そうとしている、と言う男達は、すぐに街路に佇む青年――というより、その背後にいる娘に気付き、大股に近寄ってきた。
「その女、こっちに渡しな」
「この辺りの“束ね”の用心棒よ。腕は結構いいわ」
 娘は小さく、青年に囁いた。
 どちらの声にも、青年は返答しなかった。ただ、短く問うた。
「何があった?」
 と。
「はッ、大の男が五人がかりで、一人の娘っ子を殺そうとするなんて、おかしいって? だったら、よく見てみろよ、その娘を」
 男の一人が、腰に手を当てて、娘を睨みすえる。
 その言に従ったわけでもあるまいが、青年は娘に眼を向けた。まともに青年と眼が合い、娘は気恥ずかしそうに顔を伏せる。無論、青年のあまりの美貌からして仕方あるまいが、娘の様子は、それだけが理由ではなさそうだった。
 娘は、青年の白磁にも似た白い肌とは、対照的なまでに黒い肌をしていた。陽に焼けた色ではなく、生まれつきこうだった、という、黒い色素を持つ肌である。
 そして、赤い瞳。
 それは、人にある単語を連想させる容姿だ。
「その娘は、魔族なんだよ」


 魔の血が混じる者は、肌が闇に染まって黒くなる。
 青い冷たい血を持つ彼らは、人の赤い血を浴びて、瞳が赤くなる。


「……それだけが理由か?」
 青年の口調は何気無かったが、恐ろしく凄絶な響きを伴っていた。青白い怯えが、屈強なはずの用心棒達を身震いさせた。
「い、いや、だが、ここの所、あちこちの店で女や客が殺される事件が相次いでいる。女将に訊いたら、その時、いつもこの娘は客を取っていなかった。一度や二度は偶然だろうが、それ以上は」
「あたしじゃない! 理由が無いじゃないの! 何であたしがそんなことしなきゃなんないのか……」
「魔族の人殺しに理由があるのかよ! ともかく、このまんまだと、お前は自分の“家”の女将に迷惑を掛けるだけじゃなくて、下手すりゃこの辺り一帯が商売出来なくなるんだよ!!」
 娘の抗議は、荒々しく否定された。が、
「この娘が人殺しなら、今頃、お前たちの命はとっくにないだろう。理由の無い殺人をやってのける娘なら、自分が逃げるために簡単に人を殺せるはずだ」
 娘は青年を見上げた。美しい姿と声を持つ青年は、娘が魔族の血を引くと知っても、娘を庇い、助けようとしているのだ。打ちひしがれそうになっていた、娘の赤い瞳に希望の光が差した。
「けどよ……この女、街の人間ほとんどに疑われている。そんな娘を放置しておいたら、“束ね”としても沽券(こけん)に関わ……」
「この娘を殺した後で、仮に真犯人が現れたとしたら、どうする? 娘に詫びることも無いだろう。ただ自分達と違う、魔族の血を引く、という一事のみで、自らを守る力も持たない娘を殺そうとする輩が、沽券などと笑止。断じて、この娘は渡さん」
 抑揚の殆ど無い、淡々とした青年の声音は、彼が憤りを感じていない、ということではなかった。
 彼の、黒曜石を象嵌したような瞳は、冷たく凍えた光を宿している。その光の強さが、はっきりと、無表情の青年の美貌の上に、慄然とさせられるほどの怒りの感情を示していた。
「例え純血の魔族であろうと、神の護符を肌に刻んだ娘が邪悪なものか。不服だと言うなら、俺を倒して、この娘を連れて行くことで、証明して見せろ」
 滔々と流れる大河を思わせる、青年の語調は淀みなく凛然として、躊躇いも無い。
 青年は腰の剣を外した。ただし、鞘ごとである。それを右手一本で青眼に構えて、「来い」と青年は言った。

 その青年の態度に、今まで威圧されていた用心棒達は、余裕が回復したらしい。あからさまに、口ぶりが嘲弄するものになる。
「剣も抜かず、娘を後ろに庇って、俺達五人を相手にしようってのか?」
 しかし、青年は相も変わらず、(ごう)とも揺るがぬ素っ気無い表情で言い放った。
「それぐらいのハンデはくれてやる」
 青年自身にとっては、それは単に事実を述べただけだ。だが、その言葉と発せられた口調、淡々として感情の表れない美貌は、相手を徹底的に小馬鹿にした態度、と取れなくもない。男達の顔に怒気が漲ったのは、言うまでもなくそう取ったからだ。
 男達はまとめて、孤剣一振りの青年に、自分の武器を振り下ろす。娘は小さく叫び声を上げて、青年の背にしがみついた。
 ガツッ、と耳障りな音を立てて、用心棒達の五本の刃は、青年の剣の鞘と噛みあっていた。それにしても、青年の膂力の何たる凄まじさ。女性のように華奢な体格でありながら、青年は、片腕一本で五本の剣を食い止める剣を支えつつ、微動だにしないのである。いかにも筋骨隆々、といった男達が、どんなに腕に力を込めても、だ。
 青年が剣を跳ね上げた。
 傍から見ると、軽い動作に見えるが、屈強な男達がまとめて吹っ飛ばされたのだ。軽いわけがない。
 どっ、と倒れ伏す男達に、青年の声が投げかけられる。
「まだ、やるか?」
 言外に、俺は構わんが、と青年は穏やかな声で言う。それは、不吉な死の予感を孕んでいた。男達は、半ば放心したようにへたり込んでしまった。
 何て奴だ。こいつ、本当に人間か? あんな細い体の何処に、あれだけの力があるんだ? 俺達が十人でも、ひょっとしたら、こいつ一人に勝てないんじゃないか。
 要は、蟻が百匹いても、巨象一頭に敵うわけが無いということだ。
 ほとんど腰を抜かしてしまったような用心棒達に、青年は笑いもせずに剣を元の位置に戻して、自分の腰に吊るした。そして、男達は自分の判断が正しかったことを知った。
 青年は、右の腰に剣を吊るした。つまり、青年は左利きなのである。わざわざ、抜きにくい利き手の腰に剣を差す阿呆はいまい。
 利き手と反対側の手で、なおかつ片手で剣を扱うことで、青年は大幅に自分の力を制御していたのだ。それなのに、五人がかりで、まさに片手であしらわれたのである。愕然とする男達に一瞥も与えず、青年はさっさとその場から歩き去ろうとした。

 が、青年は再び足を止めた。娘が、青年の手を取り、自分の方に引き寄せるようにして引いたのだ。青年は娘を振り返った。
「待ってよ。助けてもらったんだから、お礼ぐらいさせて」
「俺は別に、礼が欲しくて君を助けたわけじゃない」
 青年の声に、やや当惑の調子がこもった、と思えるのは気のせいだろうか。
「そんなことどうでもいいのよ。あたしがしたいんだから。来て!」
「ヘレナ!」
 半ばはしゃいだ様子の娘に、娼館の女将が駆け寄って来る。ヘレナ、というのが娘の名なのだろう。
「あんた、大丈夫なのかい? 怪我は無い?」
「平気よ、お母さん。……ごめんね」
 娼婦達は、自分の働く店の女将を母と呼び、また女将も娼婦達を娘と扱う。女の身体を売って生きる彼女達は、本物の親子にも似た信頼で結ばれているのだ。
「無事なら良かったよ。もう、本当にねえ。娼婦(おんな)一人を、よってたかって殺そうだなんて……、男の風上にも置けないよ。あんた、この子を助けてくれたんだね。あたしからも礼を言うよ、ありがとう」
「いや……」
 青年は、あまり礼を受け慣れていないのか、それを受ける態度がややぎこちない。容姿といい腕といい、異性にも同性にも賛嘆されて然るべき青年であるのに。
「お母さん、あたし、この人にお礼がしたいの。いいでしょ?」
 さすがに、しっかりと娘の両腕で自分の腕を抱え込まれてしまっては振りほどくわけにもいかず、青年は、少しばかり困惑していた。が、女将に、
「出来たら、この娘の話を聞いてやって欲しいのよね」
 という眼で見られた。乗りかかった船だ、と諦めたのか、青年は娼婦の娘に引っ張られるままに、娼館の建物の中に入っていった。

 街路には、呆然とした体の用心棒達が残された。彼らを嘲笑うかのように、一陣の風が吹き抜けていった。