Chapter-1「邂逅」

―8―

 その時だった。
 バチッ、という異音が、レオンハルトにも聞こえた。
 フーリックは反射的に手を引き、よろめいた。その手は、極めて高温の物体に触れたが如く赤く爛れ、白煙を噴いていた。カインの肩に、フーリックの手が触れるか触れないか、で、それは起こった。
 カインは、自分でも訳が分からず、ただ不可思議な色の瞳を見開いた。
「この……力は……」
 半ば呆然と、フーリックは自分の手とカインの顔を見比べた。
「ひどく混乱している……だが、何という強い力……。……この力があれば……」
「何?」
 不意に、カインの耳孔に、あの夢の中、闇から聞こえてきた声が甦ってきたのは偶然だろうか。

 オ前ハ逃ゲラレナイ。

 何から?

 オ前ノ“血ノ宿命”カラ。

 それは何か?

 ――分からない。
 分からないが、フーリックの顔が悪虐の歓喜に歪んだ笑みを浮かべたからには、まともなものでない、ということは確信できる。
 静かに、徐々に、カインの中を満たしつつあるものがあった。
 それは「怒り」だった。こいつ――こんな奴に! いつか、覚えがある感覚。
 動けない筈のカインが、一歩を踏み出した。白い聖なるオーラを纏っていた、彼の手にする剣は、いつの間にか、その所有者の、光の角度や強さによって色を変える瞳と同じく、幾つもの色が煌いては交錯する、虹のようなオーラを発していた。そのような魔力付与の魔法は、レオンハルトは知らない。それは、剣自体に備わった力なのか――それとも、カイン自身の力なのか。
「失せろ、邪悪な死霊魔術師!」
 カインの振り下ろした剣は、袈裟懸けに死霊魔術師を斬り倒した。いかな使い手であろうと、避けられるべくもない、完璧な速度と正確さと強さを兼ね備えた斬撃だった。

 血は奔り出なかった。自然の生命を持たざる者は、自然の身体の仕組みも持ってはいなかった。
「……見事だ、と賞賛するところなのだろうが、これでは私を滅ぼすことは出来ない。私は近いうちに、何処かで復活し、儀式を続けるだろう……。私を滅ぼすには、失われた、伝説の浄化の魔法を持ってのみしか不可能……。……また、会おう……」
「御託はいらん、さっさと消えろ」
 そう言い放ったカインの言葉に従ったわけではあるまいが、崩折れたフーリックは、床に倒れ伏す寸前に塵と埃になって消え、黒いローブだけがわだかまった。
「……西方大陸に戻る前に、奴と決着を着けねばならんな……」
 光の収束した剣を鞘に納め、カインは思い出したようにがくりと膝をついた。魔法による身体の束縛を強引に脱したので、肉体的にも精神的にも負荷が大きかったのだ。二、三度、大きな息をついて、軽く頭を振る。
「堕神アディリウス、か……」
 レオンハルトは呟いた。
 古来、魔は西方から出ずる、という。カインが西方大陸の出身なら、彼の神のことを知っていても、おかしくはないかもしれない。魔族として甦った皇帝の恐ろしさを、レオンハルトは肌身に染みて知っていた。勝てないかもしれない、とも思った。皇帝にその力を与えた魔族の王。その復活など……。
 許さない。
 阻止しなければ、と思う。自分が「静かなる魔法戦士」だから、ではない。ただ、そう思ったのだ。そのための力は、自分の裡にある。
 例え、力の目覚めのきっかけが呪いでも。
 そうだ、俺は守るために――力を欲したのだ。
 傷付けるためではなく。殺すためではなく。滅ぼすためではなく。守りたい、と。
 自分の大切な人達を、守りたいと……。
 ――俺は、守ることが、出来る。この力を、守るために使うことが、出来る。あの時とは違う。ただ、ただ力を欲したあの時とは違う。俺には、守るための力が、ある。


 まだ少し重さがあったが、印を正確に結ぶくらいには、身体は動いた。レオンハルトは魔法解除の呪文を唱える。フーリックの意志の残滓のように身体を縛っていた重みが、スッと消えて、彼は立ち上がった。
「カイン、大丈夫か?」
「ああ……」
 レオンハルトが手を差し出すと、カインは意地を張るでもなく、素直にその手を借りた。
 その時のカインの微笑に、レオンハルトは唐突に悟った。何故か胸中にこびりついていた、不安の正体を。
 カインは、研ぎ澄まされた鋭い刃に似ている。
 美しく、危険な光を宿して輝き、不用意に触れようとするものを、容赦なく斬る刃。だが、鋭すぎる刃は、その切れ味ゆえに――ひどく脆く、折れやすい。そんな「危うさ」が、カインにはある。

 お前のその強さは、何を心に抱いてのことなのか、カイン。
 失われた罪の記憶の向こうに。
 何処かで、お前は諦めている。何かを。
 だが、これだけは確かだ。
 お前の過去に何があったとしても、お前が命と引き換えにするようなことを、俺は望まない。だから――。
 行こう。共に。結末を、俺達の手で与えるために。
 声には出さず、レオンハルトは口の中でそう呟いた。

「まだ生き残っている人がいるかもしれん」
 カインが、ふと首を廻らした。
「いかがわしい祭祀を行うなら、地下が常套だな」
 レオンハルトはそう答え、二人は地下に降りる階段を探し始めた。

 空虚なほどにだだっ広い屋敷だった。人が生活している、という匂いが無い。ただ、商人組合の総領であるヘーゲルが住んでいる、という体裁を整えるためだけの屋敷のようである。主が去ったからか、ここに来た時に、レオンハルトが感じたほどの「死」の気配は無かったが、だからと言って、「生きている」感じも無かった。
 鉄の扉の向こうに、地下へと続く階段を大した徒労も無く発見し、二人はそれを降りていった。真夜中である上に、昼間でも陽の射さぬ地下に、レオンハルトが作り出した魔法の照明だけが、ぽつりと浮き上がる。
 かなり深い階段だったが、ようやく突き当たりに大きな扉が見えた。カインが軽く押すと、黒い鋼作りらしい扉は、頑丈そうな外見に反して、特に抵抗も無く中に向けて開いた。
「……!」
 息を呑んだのは、二人ともほぼ同時だ。
 床に描かれた巨大な魔法陣、正体不明の頭蓋骨、奇怪な色の薬品、巨大な祭壇に置かれた呪具と思しき品々。数々の「いかにも邪悪な儀式に用いられそう」なそれら――魔王降誕のための祭祀場の様子は、後になって目に入ったものだった。
「……何て、ことを…………」
 呻いたきり、カインは表情を消した。どういう表情をして見せたらいいのか、分からなかったからだ。
 生命を失った人体が、幾つも幾つも鎖に繋がれ、無惨な万歳の姿で壁に吊り下げられ、あるいは床の上に転がっていた。彼等の怨念が、あるいは死霊と化しても無理はないかもしれない。いや、怨念を残すことも出来ないかもしれない。それらは全て、元の姿も判別し難い、干からびた木乃伊となっていた。流れ出る筈の血も乾き、腐敗臭を発することも無く、朽ちることも許されない。それだけに、屍山血河の死骸の山より恐ろしい、「無」の墓場だった。
 レオンハルトは、静かに何かを呟いた。注意深く聞いてみると、僧侶が葬儀の際に唱える、葬送の祈りの言葉に似ていた。
 そして、彼が手を一閃すると、炎が生じた。激しく燃え盛る、赤い普通の炎とは違う。透き通った、白銀色の炎。柔らかな光を放つその炎は、死者を荼毘に付す際に使われる、「聖炎」の魔法である。
 炎は次々に遺骸を包み込んでいく。(しず)かに、音も立てずに。

 カインは、その光景を厳しい眼差しで見守っていた。眼を背けてはならない。見ろ。見て、網膜に灼き付けるんだ。こんな光景を生み出した奴への怒りを忘れず、抱き続け、――決して許すな。かつて、自分とて、このような罪を犯したかもしれないのだ。死者を甦らせることは出来ないが、これ以上の犠牲を、同じような運命を繰り返してはならない。
 レオンハルトが、軽くカインの肩に手を置いた。黒曜石の瞳には、抑制されてはいたが、カインと同じ感情がはっきりと表れていた。カインは、遺体を燃やし尽くして消えゆく炎に向かって、剣を抜いて騎士風の、哀悼の礼をした。
 それを合図にしたように、二人は地上へと続く階段へと、身を翻した。




「あの場を、そのままにして来て良かったのか?」
 犠牲になった人々の遺体は火葬してきたが、それ以外の儀式の道具などは、レオンハルトは手をつけずにそのまま置いてきた。
「儀式を行う人間がいなくなれば、ああいう道具は見た目の奇怪さと裏腹に、何の意味も効力も成さない。それに……突然の商人組合のギルドマスターの“失踪”を、訝しんで調べる連中に、何らかの証拠を残してやったがいいだろう」
「ああ……」
 そうか、とカインは頷いた。
 恐らく、ここに来た目的は果たされただろう。フーリックがヘーゲルと名乗り、人身売買を行っていたのは、神霊降臨(コール・ゴッド)の儀式の生贄に捧げるための人間を集めるためだ。そして、効率よく人間を集める目的で、“副次的”に商売にしていたわけである。金で動かせる人間を使うために。
 少なくとも、主導者が居なくなったのだから、大っぴらにこの部門を続けていくわけにもいくまい。その主導者が、怪しい儀式を自宅で行っていたなら、尚更だ。官憲にその事実が知れれば、いくら自由の気風が高いラシクーサの街の商人組合と言えども、追及を免れないのは明らかである。大人しくしている他、ないだろう。
「負いきれるか、この重い秘密を?」
「負うさ。それに俺は――」
 微かに、しかしはっきりと、並々ならぬ信頼を声に込めて、カインは答えた。
「俺達は、独りじゃない、だろう?」
 独りで抱えるには、辛く重すぎる秘密でも、分け合える相手がいるなら。
 歩いて、行ける。共に。




 未来がどうあろうとも、過去がどうであったろうとも、青空はどこまでも青空であった。カインは、その青空を透かす日差しに、眩しそうに眼を細めた。レオンハルトは、その青空の色に、同じ色の瞳を持っていた女のことを思った。

『嫌なことも汚いことも許したくないことも、たくさんあるけど、でもやっぱり、それを拒むものも、この世には同時にあるのよ』
『信じられない、絵空事だ、と言われても、私は好きよ。“希望”という言葉が』
『だから、私は貴方と会えたんだわ、レオンハルト』

 あの、空の色を映した、真っ直ぐな瞳を愛した。いつも“希望”という色に輝いていた、あの瞳を愛していた。
 アルテミシア。
 彼女を失ってから、その言葉の意味を噛み締めることは無かった。
 ……“希望”。
 ふ、とレオンハルトは端整な唇に笑みを刷いた。苦みと懐かしさが入り混じった笑いだった。懊悩と絶望の果てに、もう一度、この言葉を思い出すことになるとは。
 信じてもいい、今なら。陽の昇らない夜がないように、生きている限り、希望は必ず存在する、と。眩しいほどの明るい陽光は、希望の光。
 例え、行く手に待つものが暗黒の死であろうとも、決して、もう二度と、その力に屈服したりはしない。
 見失っていたものを、再び見つけたから。
『明日』という勝利を掴めなくとも、信じられるものがある。何よりも。


 それは、新しい旅立ち。
 二人の青年の足取りは、力強かった。 


『Shadow Saga』Chapter-1「邂逅」 fin
2002/05/19