美しい顔をした死神が、ただ、一歩を踏み出す。それだけで、傭兵達の恐怖の
カインは、右腕をかざした。後ろから彼に攻撃した傭兵の剣は、カインの右の籠手に当たって、音高く弾き返された。材質が何であるのか、カインの籠手には糸ほどの傷一つもついておらず、却って傭兵は全身に鋭い痺れを覚えた。
振り下ろされてくる剣を、カインは無造作に剣で払いのける。表情を揺るがせることもなく、その場から一歩も動かずに、カインは正確無比な斬撃を相手に叩き込む。一撃でことごとく傭兵を地に伏せさせつつ、カインは一人も殺してはいなかった。動けなくなるほどの傷は与えても、致命傷は与えていない。それは、彼の技倆が、恐ろしいほどに冠絶していることを証明している。
腕を売り物にする筈の、傭兵相手にも手加減が出来るのだから。
それはレオンハルトも同様だったが、技の切れ、速さ――総合的に見た「強さ」は、カインの方が勝るようだった。ただ単に、正規の訓練を受けたから、それだけではない「強さ」である。
尋常でない「強さ」には、それなりの理由がある。レオンハルトのように。そう考えると、「強さ」というものは、ひどく哀しくもあり、虚しくも感じられる。
十数人いた傭兵達は、長くもない時間のうちに、全員が地面の上に転がされることになった。失神したり、傷の痛みに立ち上がれなかったり、事情はまちまちだが。
最も失神の浅そうな男を、カインが爪先で蹴りつけた。低く呻いて傭兵は目を覚まし、乱暴な扱いを恨めしそうに、カインを見上げた。
「さあ、さっきの問いの答えだ。言え」
感情の欠片も含まない、冷厳な声で、カインは言った。そのくせ、口元には微かな笑みを刻んでいる。その様は、何処か人を酩酊させるような
一旦は外れた箍が戻ったか、傭兵ははぐらかさずに口を開いた。
傭兵稼業とは、命あっての物種である。騎士とは、根本的に戦う目的からして違う。騎士は己の忠義や信念、名誉や誇りのために剣を捧げ、戦う。しかし、傭兵は命と金のために戦うものである。自分の命が危ない、と見たら後先顧みずに逃げる。無駄に死んでも金は入らない。生きていれば、また、稼げる。そういう場面が今である。命と秤にかける程、雇い主に立てる義理もありはしない。
そもそも、自らの浅はかさをこそ、悔やむべきだろう。美しい二人の青年を、ただ美しいだけだ、と侮ったことを。
「……
剣を鞘に納めたレオンハルトは、それを聞いて小さく嘆息した。
欲望というものは、時に人を魔物よりも残酷にする。同胞である筈の人を商品として扱うことに、何ら痛痒を感じないほどに。
カインも僅かに形のいい眉を顰めたが、それについては何も言わず、問いを重ねた。
「そいつは、何処にいる?」
「街の北の高台にある、一番でかい屋敷だ」
カインは振り向いた。僅かに反応が遅れた。失神から目覚めた傭兵の一人が、カインに斬りつけてきた。咄嗟にカインは避けたが、切先が、鎧に覆われていない、彼の首筋の肌をかすめていた。小さな浅い傷を生じさせたに過ぎないそれに、カインは小さく呻いて、膝から崩折れる。
剣の
崩れかかるカインに、素早くレオンハルトは手を伸ばして支えた。半死人のような顔をしていた傭兵が、たちまち生気を漲らせる。いかにレオンハルトが優れた剣士であろうと、剣を抜くべき左手でカインを支えている以上、打つ手が無いように見えた。
見えたのは誤りである。
レオンハルトは低い声で、何か呟いた。すると、周囲の空気が動いた気配がして、立ち上がろうとした傭兵も、カインに斬りつけた傭兵も、再びばたりと倒れた。
レオンハルトが口にしたのは、眠りの魔法の呪文である。彼は英雄詩に「剣と魔法を意のままにする静かなる魔法戦士」と歌われる通り、剣だけでなく魔法も扱えるのだ。
更に、レオンハルトは、先の呪文とは違う響きを持つ言葉を紡いだ。それは、呪文というより、僧侶が神へと捧げる祈りの言葉に似ていた。すると、レオンハルトの右手からほわりとした光が発せられて、それに触れたカインの四肢に、感覚が戻る。
――魔法に詳しい者がこの現場にいたら、不審に思ったかもしれない。
魔法とは、呪文という、魔法を作用させるための言葉を唱えることで、人智を超えた力を発揮する技術である。
技術というが、そもそも適性のある人間でないと、魔法を使うことは出来ない。適性とは、ある一定以上の魔力を持って生まれてくるか否か、だ。しかし、それもきちんとした訓練を受け、正しい呪文や魔法の行使の方法を学ばないと、その才能を活かすことは出来ない。
また、魔法とは一つの力ではなく、幾つもの系統がある。例を挙げるなら、魔術師の使う
加えて。
魔法を発動させるのは、精神の力である。人間という器の中に収めておける力は、その容量に差こそあれ、やはり限りがある。精神が発達すると、その分、どうしても肉体的には弱くなる。魔法戦士という存在は、肉体と精神が均衡が取れて優れている、稀有な存在である。当然、数は少ない。
もっとも、それだけに、武術・魔法、個々の能力で言えば、それぞれの専門家には本来、及ばないものだ。
である筈だが。
にも関わらず、魔法戦士であるレオンハルトが黒魔法である眠りの魔法を唱え、白魔法である身体の異常を治す魔法を唱えたのだ。かつ、彼は剣の腕も凄まじく優れている。「剣と魔法を意のままにする」という英雄詩の賛美は、決して誇張ではなく、あるがままの事実を述べているのだ。
しかし、その力を行使するたび、レオンハルトは自分が未だにグレゴール皇帝の呪縛から逃れられない、ということを苦く思う。
卓越した剣技も、幾種類もの魔法を行使する力も、皇帝による「
異能者、という存在がある。
桁外れに優れた才能を、生まれながらにして持つ者を指す。レオンハルトは、その異能者だったのだ。生まれつき、とてつもない魔力をその身に備え、それでいて、黒騎士の斬撃を生身でまともに受けても、はっきりと息があった程の、強靭な身体を持つ、類稀な異能者。そして、異能者であることを体現したような、端整極まる美貌。
異能者であるからこそ、彼はその事実を見抜いた皇帝によって“
「……どうかしたか、レオンハルト?」
カインの声で、レオンハルトは我に返った。
「……何でもない。それより、お前、さっきの傷は……」
頭の中に湧き起こる、今更ながらの自分への嫌悪や侮蔑を、レオンハルトは静かに追いやった。
カインの首筋につけられたのは、皮膚一枚を切っただけの、浅い糸のような傷だった。だが、髪が触れる箇所だけに、そのままにしておいてはいささか不快だろう、と、レオンハルトは思い、その傷を治そうとした。自身の力が目覚めるきっかけは、決して喜ぶべきものではなかったが、その力で救える者がいるなら、力を行使することにレオンハルトは躊躇いはしない。
「……?」
確かに、カインは斬りつけられ、傷口から体内に侵入した痺れ薬の効果で、四肢が動かなくなった。それなのに、カインが受けた筈の傷は、彼の肌の上の何処を探しても、見当たらないのだ。あの程度の傷なら、一週間もしないうちに確かに跡形もなく自然に治るだろうが、それでも、こんな短い間に治ってしまうというのは、普通はありえない。
レオンハルトの戸惑いの気配が伝わったか、カインは不審そうな表情で、レオンハルトを見た。二人とも長身だが、レオンハルトの方がやや背が高いため、若干ながら、カインがレオンハルトを見上げる形になる。
「傷が治っている」
簡潔な事実のみを、レオンハルトはカインに告げた。その一方で、レオンハルトは内心、首を捻らずにいられなかった。
俺がカインを森の中で見つけたとき、カインの掌には傷があり、消えていなかった。
ひょっとしたら、記憶を失ったという事実以上に、カインという青年には、何かもっと大きな秘密があるのではないだろうか。
レオンハルトに言われ、カインは自分でも不思議そうに、自分の首筋を撫でていたが、そのうちに、今は考えても仕方が無い、という結論に達したようである。
「ともあれ、行くか。北の高台の、一番大きな屋敷だったな」
「ああ」
そう、カインが促すと、レオンハルトは頷いた。
その夜、ラシクーサの街は、かつてない大騒動に包まれた。
――とは、夜の終わりに与えられた結末である。その美しい外見からは、とても想像がつかぬ程に危険極まりない二人の青年が、商人組合の長の邸宅の門の前に立った時、街全体は眠りの静寂の中にあった。