Chapter-1「邂逅」

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 ラシクーサは、商人たちの街である。整備された港湾があり、他大陸との玄関口という立地条件において、様々な大陸から交易人が訪れ、または旅立ち、取引をする様々な商品が集められる。その中で才覚を表した者が富を集め、豪商として名を上げ財産を築き上げることになる。彼等の邸宅が軒を連ねた様は、フロレンツ王国王都ロートリンゲンの威容に、勝るとも劣るものではない。
 商人達は、互いの利益を損ねないために組合(ギルド)を作り、傭兵を雇って自警団を組織し、自衛している。そのためか、彼らは王国の法よりも、自分達で作った規則を尊ぶ傾向があった。
 賑やかな自由の街、ラシクーサ。
 その街の空の色が、落日の残光を受けた夕焼け、深い蒼から紺、紫がかった濃い藍、と色を変える時刻。二人の旅人が、閉ざされかけた街の門をくぐった。ただの旅人ではないことは、落日を鈍く揺らめかす、身に着けた鎧と、腰に帯びた剣で分かる。この街を訪れる者の多くは、商人か傭兵だ。腕自慢の傭兵がまた来たのか、と人々は気に留めることもない、筈だった。
 しかし。
 夕暮れの街を家に急ぐ人、商談を纏めて宿に向かう商人、景気付けに酒場へと繰り出す者――様々な人間が、二人の戦士風の旅人とすれ違ったとき、思わず振り向き、その後姿が見えなくなってしまうまで、見送ってしまうのだ。
 戦士――その無骨な響きには、およそ不似合いな美しい二人の青年を。

 夕暮れの涼気を孕んだ風が吹きぬけ、二人の黒い髪を揺らしていった。目の上に落ちかかってきた髪をかきあげたカインは、その瞬間、ふと遠い目をした。赤光の名残を横顔に受け、記憶を失った青年は、何を思ったのだろうか。
 レオンハルトは、何とは無い妙な空気を感じていた。何処がどう、という具体的なものではないが、それだけに気にならないでもなかった。

 何となく口をきかず、二人は酒場のドアを開いた。「少し休むか」という、互いに無言の意思表示。
 酒場の中は、喧騒に満ちていた。が、それは二人の青年が現れるまでのこと。男のざわめきが引き、女の声が絶えた。吟遊詩人は歌の続きを忘れたかのように、リュートを爪弾く手を止めた。カウンターの奥のマスターも、テーブルの間を忙しく動き回る給仕の娘達も、皆、動きを止めた。二人が並んでカウンターの左端の席に着くまで、呪縛にでもかかったかの如く、誰も動かなかった。動けなかった。当然といえば当然だろうか。入ってきたのは、ただただ見蕩れてしまうほどの美貌の青年二人だったのだから。
 沈黙は、やはり美しい声に破られた。
「ワインを」
「俺もだ。あれば、白」
 その声に、マスターが自分の商売を思い出したか、「は、はい」とやや上ずった声で答える。それに弾かれたように、人々は中断していた話に戻り、テーブルの上のカードの賭けが再開され、吟遊詩人は歌の続きを始め、娘達はちらちらと二人の青年の姿を窺いながら仕事に戻り、ようやく酒場らしい猥雑な雰囲気が戻ってきた。

 ざわめきに乗って、吟遊詩人の歌が流れてくる。英雄詩(サーガ)だった。最も人気のある、“暗黒戦争”を描いた歌は、最高潮に達しようとしていた。
 現世における小さな魔界と化したブルグント皇宮(パレス)に、四人の勇者が乗り込み、魔界の貴族として蘇ったグレゴール皇帝と壮絶な戦いが繰り広げられる。皇帝の力は圧倒的で、何度も勇者達は打ち倒された。しかし、彼らは決して諦めず、遂には魔法戦士の剣が皇帝を捉え、不屈の剣士が振るう聖なる剣で皇帝は斬り斃され、勇者達が凱歌を上げた。
 レオンハルトの唇に、苦い表情が浮かぶのを、カインは見た。笑うとも、自嘲ともつかない表情だった。もし、吟遊詩人や聴衆が、二年のうちに、半ば伝説となりつつある英雄の一人「静かなる魔法戦士」が、すぐそこに居る美しい青年である、と知ればどう思うだろう。

「俺は、他人に讃えられるに相応しくないからな」
 贖罪のつもりで、皇帝を倒した。それは、ただの私怨にも似た行為で。そして、それだけでは自分の罪の重さを消すには、全然足りなくて。だから、讃えられても、それを受け取ることは出来ない。
 白い、レオンハルトの指が紅い酒の入ったグラスを弄ぶ。
「……はじめ、俺は生きていられないと思った」
 カインに話しかけている、というより独語に近い、レオンハルトの呟きを、カインは黙って聞いていた。
「名も知らぬ人々の命を、俺は数え切れないほど奪ってきた。何度も、何度も死のう、と俺は思った」
 静かに、カインはグラスの酒を呷る。
「しかし、死とは何もかも失い、無に帰ることだ。それ故にこそ、死は最も簡単な逃げ道でありうる。死をもって贖罪とするなどと、聞こえはいいが、滑稽な話だ。死んで、何もかも失った人間が、どうやって罪を償うんだ? ……目に見えぬものに憎悪を抱くより、見える相手を憎む方が、生きている者も感情のやり場があるだろうさ。それに、死を贖罪とするなど、そんなものは罪を罪と認め、なおかつそれを真正面から見据えるのが怖くて、死で以って逃げようとする臆病者の行為じゃないのか。己の罪から眼を逸らさず、死よりも辛い生を選ぶことが、俺は贖罪だと思った」
 そう思えるまで、随分時間がかかった。自分の意志で犯した罪でないとはいえ、それで親しい者、愛する者、大事な者を失った人々が納得するだろうか。そして、自分の命を失った者。

 罪を許して欲しいとは思わない。思えないのだ。レオンハルトは、忘れられない。罪の記憶を全て抱え込んだまま、手放すことが出来ない。多くの人々を死に至らしめたことは無論、自分は最も裏切ってはならぬ人々を裏切ったのだ、と。だから、レオンハルトは最愛の妹にも「許してくれ」とは言わなかった。何より、自分自身が許せないのに、他人に許しを乞うことは、彼には出来なかった。罪の意識を抱えたまま、これからの命を生きる、レオンハルトはそう決めていた。魔族の残党を狩り、王権の目の届かない所で、泣いたり苦しんだりしている人々を救い、それで少しでも生きている人々が「生きていること」に希望を抱いてくれれば。
 レオンハルトにとって、生きていることは苦痛でしかない。が、死は何の解決ももたらさないこともまた、彼は知っていた。生きること、それは自分自身で課した罰。

 「不屈の剣士」フリードリヒは言ってくれた。もう、いいだろう、と。お前の心の痛みは、お前だけのものかもしれない。でも、だから、それを捨てることが出来るのも、お前だけなんだ。誰が何と言おうと、誰がどう責めようと、俺達は知っている。お前が、どんなに果敢に戦ったかを。俺達も、何度もお前に助けられたんだ。もう、これ以上、自分を責めるな。

 「美しき娘」ユリアナは、優しく兄に言った。兄さん、他人の顔を見るのも辛いなら、何処か静かな土地で暮らしましょう、昔のように。私は知っているわ。兄さんは、何も変わっていない。優しくて強い、私の兄さんだわ。

 「逞しき戦士」カールは、言葉の代わりに、茶色い目に精一杯のいたわりを込めて、レオンハルトを見ていた。

 その全てに、レオンハルトは背を向けた。
『俺は、もう一つの世界を知ってしまった。もう、元の、昔の俺には戻れない――俺は、罪無き人々の血で汚れきっている。お前達の優しさは嬉しいが、俺は俺の罪を忘れることは出来ない。そして、その昏い重荷を背負っていける限り、俺は、生きていける、生きていっていいのだ、と思っている……』
 祝宴に浮かれる人々。その歓喜に紛れて、レオンハルトは密かに旅に出た。何処へ? 目的の地は無い。そんなものは求めていない。いつか、疲れきって斃れるまで。


 空になったグラスを、レオンハルトはカウンターの上に置いた。グラスが、微かに乾いた音を立てる。
 カインは、レオンハルトの言葉を聞きながら、無意識に鎧の上から胸元に下げたペンダントを押さえた。
 カイン自身、何かひどく曖昧なくせに、それだけは明確な「罪の意識」を抱えている。とはいえ、記憶がない分、薄ぼんやりとして定かではないから、レオンハルトほど深刻ではない。それが白日の下に晒される日が来た時、俺はどうするのだろう。

 贖罪のために生き続けること、それをレオンハルトが決意したのは、これ以上、大事な妹達を悲しませたくなかったからだ。大切な者を永遠に失う心の傷みを、彼は知っていた。
(アルテミシア……)
 あの金細工の髪は、二度と自分の手に触れることは無い。あの貴石の青い瞳は、二度と自分を見てはくれない。あの薔薇色の唇は、二度と自分の名を呼んではくれない。……あの何よりも愛した笑顔は、二度と自分の前に浮かび上がっては来ない……。
 君を、愛していた。いや、愛している。
 だが。

 もう、――二度と、会えない――

 もし、自分が死んで、フリードリヒ達がそんな思いをすれば、死んでもなお、レオンハルトは彼等を裏切ることになる。傷付けられても、裏切られても、彼等はレオンハルトを信じてくれた。もし、彼等が居なかったら、レオンハルトは残酷な殺され方をして、無惨な屍を晒すことになっても、何ら厭う所はなかった。
 レオンハルトを信じ、見捨てず、苦しめることを差し控え、彼に向けられる憎悪や侮蔑に、臆することもなく庇い。そんな彼等を大切に思うから、レオンハルトは辛くとも生きよう、と思った。罪の意識に屈服するまい、と決めたのだ。
「――行くか」
 短く、カインは言った。
「ああ」
 レオンハルトが銀貨を取り出し、カウンターの上に置く。二人の青年は、入ってきた時と同じく、風を思わせる足取りで去っていった。それこそ、まるで美しい夢が醒める時、のように音もなく。




 二人が出てきた酒場の並びは、ちょっとした飲食店街になっている。その裏は、複雑な路地だった。何気ない動作で、レオンハルトとカインは、その路地へと踏み込んでいった。無論、自分達の周囲にまつわりつくような視線と囁きを意識してのことであった。
 立ち止まったのは、十数人程の、柄の悪そうな男どもに囲まれてからである。これが自警団の連中だとしたら、治安というより秩序を乱すだろうな。まあ、一口に傭兵と言っても、己の職に誇りを持っている者もいるだろうし、品性的にその辺のごろつきと変わらない者もいるだろうな、とカインは微かに皮肉っぽい笑みを浮かべたが、その表情はあまりにも微量だったので、男達は誰も気付かなかった。

「何か用か」
 内心の思いは綺麗に隠し、カインが声を発した。
「なに、用ってほどでもないがね。その格好、傭兵志望だろうよ? だったら、紹介の口があるんだけどよ」
 この場合、友好的を装った口調と態度は、脅迫とさほど違いは無い。でなければ、ただ二人の青年を十数人で囲む必要はあるまい。レオンハルトが「静かなる魔法戦士」と知っているなら話は別だが、そもそも彼の正体を知っているなら、不埒な考えには及ばないだろう。

 レオンハルトもカインも、非常に美しい青年である。その気にさえなれば、ただその姿一つで、一生不自由ない生活を送れるだろう程に。だから、その容貌を見ただけで、勝手に当人の意思とは無関係に、そのような生活を強制しようとする手合が、このようにして、いる。
「それとも、その剣は飾りかい? 飾りにしておくには、随分高そうな剣じゃねぇか」
「だったら、使えねえ剣を振り回すより、もっと楽な仕事を紹介するぜ」
「……ご親切なことだな」
 重々しい声で、レオンハルトは言った。その手には、何時の間にやら白刃が抜きつられていた。レオンハルトの深い瞳は氷よりも冷たく、その心にやましさを抱えた人間なら、正視し難いほどの威圧感があった。実際、傭兵のうちの何人かが後じさった。
「魔族の恐怖に脅かされているうちは小さくなっていて、それが滅んだら、自分のために他人を犠牲にすることに何の痛痒も感じない。そんな人間に、魔族を罵る権利は無い。魔族と同じか、それ以下だ――」
 レオンハルトの語尾は、風に千切れた。何のことは無い。レオンハルトが動き、鋭すぎる斬撃を浴びせかけたのである。あまりにも迅速な彼の行動に全く反応できず、その一刀の下に二人の男が斬り下げられた。しかも、わざわざ致命傷にはならないように、かつ戦闘力を確実に奪うように。
 傭兵相手に口を割らせるには、“力量”をはっきりと見せてやるのが最も手っ取り早く、かつ効果的である。
「な、何の真似だ!」
 傭兵達に動揺が走る。まさか、このように苛烈な抵抗を受けるとは、思っていなかったのだろう。
「俺も、お前達に用がある。正確には、訊きたい事がある。商人組合の、人身売買を統括している人間は誰で、何処に居る。俺達を売りつけようとするのだから、当然、知っているだろう」
 有無をも言わせぬ口調は、底知れぬ実力に裏打ちされたもの。腕に全く覚えの無い素人ではないから、傭兵達にも分かった。この、眼前の端麗極まりない青年が、何気なく手に提げている剣は、あらゆる動きに応じて閃き飛ぶことが。
 だが、と何人かが同じ事を考えた。
 もう一人いる。
「諦めの悪い連中だな」
 まさか、もう一人まで卓絶した使い手では無いだろう、という希望的観測は、あっさりと打ち砕かれた。カインに向かって実力行使に出ようとした方も、簡単に返り討ちにあって、倒れ伏した。
 カインが、鋭い笑顔を浮かべた。美貌であるだけに、意識して表情を作ると、実質以上に危険そうに見える。いや、実質的に危険な若者なのかもしれないが、彼自身ですら、正確な自分の正体は知らなかった。それでも、彼は確信していた。自分が、この程度の連中に負けるはずが無い、と。
 その冷たい微笑に、もし、死神というものがこの世に存在するなら、こんな顔をしているのかもしれない――傭兵達は、そう思った。こいつになら殺されても仕方が無い、そんな気になったからだ。背筋に生じた霜は、甘美な死の誘惑を含んでいた。
 カインが、一歩踏み出した。