Chapter-1「邂逅」

―2―

 「彼」が次に目を開けたとき、何となく視界がぼやけていた。ニ、三度瞬きをして、瞳が焦点を結ぶと、自分の目に映っているのが見慣れぬ天井であることに気付いて、「彼」は跳ね起きた。
「気付いたか」
 声が掛けられた。冬の朝霜のように、静謐で冷たく厳しい声。そして、恐ろしい程に美しい声だった。感情は欠如していたものの、不思議と不快感は与えられなかった。「彼」は声の発せられた方向へと顔を向けた。
 同性の男であっても、目が惹きつけられるような美青年が、自分を見ていた。「彼」は首を傾げた。意識ははっきりしているのに、何処か混濁したような感覚があった。頭の中が、ある場所だけ靄がかって、霧が渦を巻いているような気がする。
 青年は腰掛けていた椅子から立ち上がると、テーブルの上に置いてあった瓶の中身をカップに注ぎ、寝かされていたベッドから立ち上がろうとした「彼」を軽く手で制して、手渡した。色と匂いからして、薬酒のようである。
「飲め。落ち着くぞ」
 無愛想な口調と態度だったが、その奥には限りない優しさがあると、「彼」には感じられた。素直に頷いて、「彼」はカップに口をつけた。
 つん、と薬草の匂いが鼻についたが、それほどきついものではなかった。


 レオンハルトは、改めて自分が助けた青年を見やった。
 眸を開いた青年が、誇り高い野生の獣を連想させたのは、その双眸のためだろうか。美しく、力強く、しなやかで、そして危険な。自分に害を及ぼそうとするものには、容赦なく牙を剥く、孤高の生物。簡単には他人の庇護を受け入れず、決して自分以外の存在には屈服しない。何よりも――その寂寥感。
 その雰囲気ゆえに、レオンハルトは、青年と自分が似ている、と感じたのだ。レオンハルトは静かに言った。
「何があったのか知らんが、無用心だな。あんな森の中に倒れていては、魔物や強盗に殺されても、文句は言えんぞ」
「……」
「身形は騎士のようだったが、何者だ?」

 「彼」は、自分の素性を訊かれたのだ、と理解した。しかし、答えられなかった。「分からない」。何が「分からない」のだろう。それすらも「分からない」のだ。「彼」は無意識の裡に、言葉を唇に乗せた。
「……そうだ」
 呟くように言って、「彼」は自分の掌をぼんやりと見た。そこに答えが書いてあるかのように。
「……何も覚えていない。……何も思い出せない……、……誰だ、誰なんだ……俺は……!!」
 自分の名、さえも覚えていないことに「彼」は愕然とした。
 自分が誰か、全く分からない。
 まるで、自分という存在が、今、初めてここに唐突に出現したかのように。


「……記憶喪失か」
 レオンハルトは、青年の手から空になったカップをそっと持ち上げ、テーブルの上に置くと、お手上げだ、という風に彼にしては至極おどけた仕草で、肩を竦めた。
「言葉のアクセントの具合からすると、西方大陸人らしいな」

 レオンハルト達の住む北方大陸の他、この世界には西方大陸、東方大陸、南方大陸、が存在する。何処から見て東西南北を決めるか、というと、これら四つの大陸の、ちょうど等距離の中央に「神の門」と言われる島がある、そう言われている。その島から見て、である。ちなみに、島が「神の門」と呼ばれているのは、この島は天界に通じる門だから、ということらしいが、実際にそれが事実かを確かめた者は、誰もいない。
 北方大陸は、西方大陸と、古くから往来があった。それで、レオンハルトは青年の言葉に、西方大陸人らしいアクセントを聞き取ることが出来たのである。

 テーブルの上には、青年の物である鎧一式が置いてある。そして、剣と――黄金色のペンダント。ペンダントには蝶番がついている。どうやらロケットらしい。様々な色彩の宝石が瀟洒に配置され、見事な細工が施された、見るからに「値打ち物」と知れる品だった。
「このペンダント、お前が首に提げていたものだが、ロケットになっている。――開けるぞ?」
 青年は、レオンハルトの言葉に力なく頷いた。パチン、と涼やかな音がして、ロケットの蓋がレオンハルトの手の中で跳ねた。

 ロケットの中には、肖像画が入っていた。3人の人物が、精緻な細密画で描かれている。精悍な顔立ちの中にも高貴さを感じさせる、身分の高い騎士らしい男性。目も覚めるように美しいが、その美しさと同じくらいに気丈さが見受けられる女性。その二人が、いとも大事そうに肩に手を置いている、利発そうな可愛らしい子供。可憐な少女にも見えるその子供には、確かに青年の面影があった。
 蓋の裏側には、字が彫られていた。『カイン・H・ハーバート・アーヴィノーグ レアル暦1611年 6歳の誕生日に』と。
「これはお前の持ち物だ。即ち、これから分かることは、お前の名がカイン・H・ハーバート・アーヴィノーグであること。今年で21歳になること、だな」
 レオンハルトは青年――カインの呆然と開かれた左手にロケットを乗せた。カインは、呆然とした面持ちで肖像画を見つめた。言い様のない懐かしさと、奇妙に空虚な感情が喚起される。

 俺と……俺の両親……? しかし、何故俺はこれを、このロケットを肌身離さずに大切に持っていたのだろう?
 カインは、身震いした。何か、忘れてはいけないものを忘れた、という確信を持って。
「夢を……見たんだ……」
 そして、呟いた。独語とも、レオンハルトに語るともつかぬ声で。ただ、一語一語を噛み締める、そんな言い方で。
「俺はかつて……、忘れることも許されぬような罪を犯した……」
 罪。その言葉に、レオンハルトが何とも言えぬ悲痛な瞳をした。

 そう、罪だ。忘れようにも忘れられぬ、足元に紅い血の花が咲き乱れる、罪の記憶。失ってから気付いた、大切なもの。だが、俺には泣く資格はない。例え心ならずも、己で選んでしまった道なのだから……。

「……それなのに、俺は忘れてしまった……。これでは、俺は自分の犯した罪から眼を逸らし、逃げ続けなければならないのか……。俺は……卑怯だ……!!」
「カイン……」
 レオンハルトは、静かな声でカインの名を呼んだ。
「思い出したいのか?……それがどんなに辛く苦しい記憶でも?」
「……?」
 訝しげに、カインはレオンハルトを見上げた。何故そんなことを訊くのだ、と言いたげに。
「――自己紹介がまだだったな。俺の名はレオンハルト・ベルンシュタイン。そして、俺も大きな深い罪を犯した身だ……」
 カインは軽く目を瞠った。
 レオンハルトの抑揚のない言葉の中に、秘められた傷を見たからだ。それはおそらく、レオンハルトにとっては死んでも語りたくない、彼の心の中に抉り込まれた傷であろうことも、カインには何故か自然に分かった。その傷を、レオンハルトはあえてカインの前に見せようとしている。それは、一体どういう意味を持つのか。
「もう二年も前のことになる。俺はフロレンツ王国の一地方に住む、只の猟師の息子でしかなかった……」

 運命の変転、ブルグント帝国の侵攻。その時、妹のユリアナと狩猟に出ていたレオンハルトは、危うく難を逃れたのだ。しかし、彼らを慈しみ育てた村は、一切を破壊しつくされていた。優しい父母も殺されていた。両親の惨たらしい亡骸を前に泣き崩れる妹の姿に、レオンハルトは強く願った。
 力が欲しい! 力があれば、愛する者を悲しませることはない。こんな辛い思いをすることはない。誰も失わず、誰も悲しませない。愛する者を守れるぐらい、強くなりたい――力が欲しい!
 奇跡的に瓦礫の下で生きていた幼馴染のフリードリヒと、村外れに住んでいて助かったカールとで、彼らは比較的治安の約束された、カスティーリエン王国を目指すことにした。恐らく帝国軍がじわじわと確実に勢力を広げていくこの大陸で、それがどんなに無謀で危険な行為であっても、死に絶えた村で生きていくことは、到底出来そうになかったから。
 しかし、旅立って一週間もしないうちに、やはりと言うか、途上で帝国の黒騎士団に襲われ、その兇刃の下に抵抗の術も持たぬ彼らは倒された。その後のことは、レオンハルトには分からない。気付いた時には、たった独りで帝国の地下牢に放り込まれていた。
 レオンハルトは絶望に駆られた。誰も彼も、失ってしまったのか、と。だから、皇帝に見えたとき、皇帝を殺そうとした。ただ、憎悪と怒りとで。しかし、所詮は叶わぬことだった。魔界と通じるほどの力を持つ皇帝グレゴールに対し、レオンハルトはただの無力な若者でしかなかったのだ。逆に押さえ込まれ、額に黒金剛石の額環をつけられた。宝石には、魔力が宿ると言われる。黒金剛石は、魔の宝石と呼ばれる石。凄まじい力をレオンハルトは得たが、代償として暗黒の魔力による“制約(ギアス)”の呪いを掛けられたのである。レオンハルト自身の意志は抑えつけられ、皇帝の意のままに動く人形として。

「――多くの人を死に至らしめ、実の妹さえも、俺は手に掛けようとした……」
 フリードリヒ達は、死んではいなかった。運命の女神に愛された者だからか、彼らは死ななかった。やがて、ヴィルヘルミナ女王率いる、大陸解放軍の主力として、帝国軍の“闇将軍(ダークジェネラル)”レオンハルトと相対する時を迎える。

 どうして!? 兄さん、どうして!?

「今でも、妹の泣く声に身が竦む思いがする――」
 レオンハルトの額から額環を剥がし、皇帝を倒したことで、彼に掛けられていた呪いは解けた。しかし、彼は自我を封じられていても、全てを覚えていた。帝国軍に身を置いていた自分が何をしたか、全てを。
 彼は死を望んだ。愚かな自分には、それが一番相応しい結末だと思った。
 だが、フリードリヒ達は、レオンハルトの死を望まなかった。俺達は、お前が死ぬのを見るために、お前を助けたんじゃない、と。
 フリードリヒ達の懇願もあり、レオンハルトがヴィルヘルミナ女王の与えた「試練」に打ち勝ったことで、彼は英雄詩に謳われる、四番目の英雄となったのである。そう、「剣と魔法を意のままにする静かなる魔法戦士」、それがレオンハルトだった。
 グレゴール皇帝は、人間としては死んだが、その後、魔界の力を与えられ、魔族として復活した。ブルグント帝国帝都周辺には、小さな魔界が出現した。四人の英雄――フリードリヒ、ユリアナ、カール、レオンハルトは、多くの人々の助けを得て、皇帝を倒した。
 その後、フリードリヒやカールは再興なったフロレンツ王国の軍部に迎え入れられ、ユリアナはフリードリヒと結ばれた。レオンハルトは、勝利の宴に人々が歓喜する中、独り、ひっそりとフロレンツを去った。

「俺はいたたまれなくて、旅に出た。そして、今、ここにいる」
 カインは、無意識にペンダントを握り締めた。レオンハルトは、つとカインの傍を離れると、閉ざされていたカーテンを開けた。空は、鈍色の雲で覆われていた。
「愚かだった」
 レオンハルトの声は、あくまでも淡々としている。
「俺は、力が欲しかった。強大な力を得たいと願う人間の動機は、何かを守りたくて守りきれなかった時かもしれない。それを悔やみ、力を欲する。しかし、そうして得た力は、自分が憎んだものと同一とは気付かんものだ。……俺がそうだった。俺は力を得たが、それは戦いを終わらせる為のものではなく、俺が死ぬ程――殺したい程に憎んだ、帝国の、皇帝の力と同じだった」
 ただ黙って、カインはレオンハルトの話を聞いていた。
「それでも、彼らは――人皆が咎める俺の過ちを、責めなかった。俺を苦しめるから、と見まいとしてくれた。俺を、昔のように受け入れようとしてくれた。改めて、俺は知った……己の罪深さを……。俺は、最も裏切ってはならぬ人々を、裏切ったのだ、……と……。そして、俺は、妹達から逃げた……」
 カインを振り返ったレオンハルトの眸には、激しい自責の念と、相手を思いやる真心が同時に存在していた。
「失くしたものを取り戻す術はない。だが、新しいものを身につけることは出来る。辛い過去を失ってしまったのなら、いつまでもそれに縛られる必要はないだろう」
「……もし、自分がその立場だったら、それが出来ると思うか?」
 弱々しく笑って、カインは静かに問いかけた。レオンハルトは口を噤んだ。

 レオンハルトにとって、それは確かに、辛い過去だ。だが、忘れたい、とか、捨ててしまいたい、とか思ったことは、彼は一度もない。
 そして、分かっている。誰よりも一番、自分がその過去に縛られていることを。過去に足を取られたまま、一歩も前に進めないことを。ただ、いつも自分を責め、自分を憎み、自分を追い詰めている。自分の弱さ、自分の望んだものがもたらした結果、それ故に何にも代え難い程、大事な人達の側から去らねばならなかった自分を、レオンハルトはずっと憎んでいるのだ。
「辛い過去は忘れてしまえば、楽かもしれない。しかし、それは、自分のそれまでの命の痕跡を根本から否定することにならないか? どんなに辛くても苦しくても、構わない。――自分が大切にしていたものまで、忘れ果ててしまうわけにはいかない。そして、罪を償わなければ……」
 カインは、寧ろ自分に言い聞かせるように、そう言った。

 その時、空を覆っていた雲に切れ目が出来て、一条の光の帯がこぼれ出た。光がカインの横顔を照らし、レオンハルトは息を呑んだ。カインの顔が、この世にこれ以上に高貴なものはあるまい、という具合に見えたから、それだけではない。カインの眸が、普通の人間ならあり得ない色――黄金の色に輝いたのだ。そして、カインが視線を動かすと、瞳の色は、血のような真紅、果てもない蒼穹と同じ青、萌え出した若葉の緑、と次々と色を変えた。多面体の水晶の如く、光の具合と角度によって、カインの眸は様々に色が違って見えた。
 そのうち、雲が流れ、再び光が閉ざされた。改めて見ると、カインの眸は、不可思議な黒紫色だった。
「どうかしたか?」
「……いや」
 無論、自分の眸の変化など自分で見られる訳もないから、カインはレオンハルトが自分の目を見て黙り込んでしまったのに、不審そうに首を傾げた。レオンハルトは、小さく頭を横に振った。

「覚えているよりも、忘れてしまった方が辛い、か。それは分かったが、この地はお前の生まれ故郷ではない。お前の捜し求めるものは、ここにはない。これからどうする?」
「俺の出身が西方大陸なら、そこに戻るさ。戻って、俺の過去を訊ねる。それしかあるまい」
「……そう簡単に出来れば、何も問題は無いが……」
「問題が、あるのか?」
「西方大陸との定期便が、ここ四年ほど根絶している。管理していたのはフロレンツだからな。他大陸と交流している場合じゃないのは、今も同じだ。港町に出て、遠洋航海技術を持った船と、乗組員を独自に探す必要があるだろうな。無論、それにはかなりの額の報酬を要求されるだろう」
 突如として、妙に現実的な話を持ち出され、カインは目を瞬かせた。それから、さも可笑しそうに笑った。
 先ほどの弱々しい笑い方とは違い、力強い、光のある笑顔で。
「世知辛いことだ。まずは金儲けか」
 カインがベッドから滑り降りる。
 その時、ワッという大声が、窓の外でした。レオンハルトが外の様子を確かめるべく、窓際まで近寄ったとほぼ同時に、部屋の外で何か言い争う声が聞こえてきた。聞こえ方からして、階下からこの2階まで移動してきているようだった。
 レオンハルトは、形のいい眉をやや顰めた。いつの間にか、カインの手には剣が握られていた。