Chapter-1「邂逅」

―1―

 北方大陸に於いて、大陸全土を巻き込んだ、フロレンツ王国とブルグント帝国の戦争は、“暗黒戦争”という芸の無い呼称を以って、もはや歴史上の一事件として、人々の記憶からその凄惨さを失いつつあった。かつての戦争の記憶は、吟遊詩人の手によって英雄詩(サーガ)として、一つの「思い出」という出来事になろうとしていた。

    長く続いていた平和を打ち破りしブルグント皇帝グレゴール
    魔界の王と結託し 魔物の力を借り
    大陸を扼し 世界を手中にせんと
    麗しき森と湖の王国フロレンツに攻め入った……

 それは、突然の事であった。ブルグント帝国は、周辺の小さな都市国家を瞬く間に灰燼と化し、怒涛の勢いで大陸最大の国・フロレンツ王国の王都まで猛々しい侵略の牙を向けた。この時、フロレンツは不意を衝かれたとはいえ、その防戦ぶりは賞賛に値するものだったといえよう。しかし、魔族を中心に構成されたブルグント軍の兇暴さは、人智を越えていた。結局、王は戦死し、フロレンツ王国軍は敗北を余儀なくされ、王の次女・ヴィルヘルミナ王女を仮の女王として、辺境にあって未だブルグントの脅威に曝されずに済んでいた同盟国、カスティーリエン王国まで国土を放棄して撤退した。
 カスティーリエンは、峻険な山脈で他の国々と隔てられていたため、帝国の侵略を受けるのが遅かった。もっとも、それは単に時期の問題で、ブルグント帝国は着実に大陸全土を制圧しつつあった。
 しかし、運命の女神は弱きものに味方をしたのか。

    帝国の無惨な蹂躙の前に、敢然と立ち向かいし者達の姿があり

 その者達は、四人の若者だった。彼らは、あるいは運命の女神に、愛されていたのかもしれない。不可能だと思われた帝国の侵略を押し返し、フロレンツ王国の領土を奪回し、遂には魔界と化した帝都まで乗り込んで、グレゴールを倒したのである。

    一人は聖なる剣を操る逞しき不屈の剣士
    一人は弓持ち癒しをすなる美しき娘
    一人は戦斧を携えし心優しき戦士
    一人は剣と魔法を意のままにする静かなる魔法戦士

 そして、若者達の苦難の旅路は栄光のうちに終わりを告げ、幕を下ろす。
 しかし、物語は終わっても、人の世の営みは終わらない。戦争によって荒廃し焦土となった土地の復興、麻痺していた政治機構の復活、疲弊した人々の安撫。すべき事はたくさんあった。
 何よりも。
 皇帝が斃れ、契約の相手を失った魔物達は、元の魔界に戻ることもままならず、今なお、人間の世界を闊歩しては、人々に脅威を与え続けていたのである。
 全てが、終わったわけではなかった。

 
◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 昼なお暗い森の中を、好んで進む者など、酔狂というより自殺行為に近い。“暗黒戦争”の終結から二年。魔族の力を借りたブルグント皇帝グレゴールが倒され、森は、魔族にとって、彼等を駆逐しつくそうとする人間達の目から隠しおおせる、最善の場所だった。森に潜む、決して少ないとは言えない魔物達は、己の属する世界とは違う世界に存在しなければならないことで、生来の兇暴性を剥き出しに増殖させる。それが故に、森の奥深くに足を踏み入れる人間など、命が惜しくない者しかいない。
 自殺志願者。魔物退治で一攫千金を狙う、命知らずの無謀な冒険者。通常の社会では生き辛くなり、そういう人間から金目のものを巻き上げることを生業とした盗賊。
 しかし、今、灌木をかき分け、蔓を払いながら、森の中を進む人物は、そのどれでもない様に見える。

 鎧を着込んでいる。旅用のマントの間から、右腰に剣を提げているのが分かる。装いとしては冒険者が一番近いだろうが、受ける印象は「冒険者」という言葉から連想されるものとは、どうも違う。その身体つきはお世辞にも逞しいとは言えない。寧ろ、長身のためにその体格の華奢さが際立つようだった。
 張り出した木の枝が、その人物のマントのフードを引っ掛け、跳ね上げた。隠されていた風貌は――若い男のものであった。

 白磁のように、抜けるような白さの滑らかな肌。艶やかな黒い髪。優美なラインを描く、顔の輪郭。形のいい鼻梁。そして、何よりも、その瞳。長い睫毛に彩られた黒曜石と同じ色の瞳は、冬の湖を思わせる。深い静謐に澄んでいて、神秘的ですらあった。
 美しい――あまりにも、美しい青年だった。ただ、その美しさは陽光の下で輝く女性の美に類するものではない。青年の美しさは、冬に似ていた。そう、冬の月光に微かに照らされる、決して笑い声を上げることは無い、端整で精緻な大理石の彫像のように。その口元は美しいが、固く引き結ばれていた。その瞳の輝きは、冬の月光に似た、冴え冴えと冷たい光を宿していた。そして、何よりも青年は、周囲を厳しく拒絶するような雰囲気を身に纏っていた。とてつもない寂寥感と共に。
 それ故だろうか。青年が、無事に五体満足で、夜の森、という危険極まりない場所を独りで歩いていけるのは。

 青年は、レオンハルトという名を持っていた。

 青年――レオンハルトは、ふと足を止めた。普段、あまり表情を浮かべない彼の顔に、微かな困惑と、疑念が浮かんだ。
 人が、倒れていた。
 それ自体は、森の中では決して珍しいことではない。森の中を進んでいて、死体の一つや二つに出会うのは当然、というか約束事のようなものだ。レオンハルトがうっすらと困惑の表情を作ったのは、彼が出会ったのが死体ではなかったからである。

 倒れていたのは、まだ若い、レオンハルトと幾つも違わないだろう年齢の青年である。身に着けている鎧の形状からすると、騎士か、あるいはそれに類する身分の者のようだ。ただし、その鎧は何処かしら異国風のものに見える。彫りの深い、鋭く端整な美貌。貴公子然とした容貌ながら、その裡には侮りがたい野性味が同居していることも、容易に窺い知れた。髪の色は、レオンハルトと同じ、黒。闇と同じ色、漆黒。そして、青年は、何となくだが、レオンハルトに似ていた。無論、顔の細かい造作が、ではない。イメージが、更に詳しく言うなら、その厳しい雰囲気が、似通っていた。

 レオンハルトは、青年の傍に屈みこんだ。青年の唇に指を当ててみると、規則正しい呼吸音が伝わってくる。負傷した者のような、不規則さはない。
 そのことに、レオンハルトは軽い衝撃を覚えた。驚愕と表現するには、現実離れした感覚だった。
 力を使い果たして、気を失っている――それだけの事なのか、ただ? その事実が、簡単には信じられなかった。とてつもない幸運だ、としか言いようが無い。もし、彼を見つけたのがレオンハルトでなかったら。目覚める前に、息の根を止められて魔物に食われるかもしれない。殺されて身ぐるみを剥がれるかもしれない。あるいは、全く見知らぬ、有り難くない場所で目を醒ます羽目になったかもしれない。目を閉じていてもそうと分かる、これ程の美貌であれば。

 レオンハルトは、簡単に青年の身体を検分してみた。しなやかな青年の身体には、外傷一つ見当たらなかった。
 一体何故、こんな所に……。この青年に対し、レオンハルトは少量の興味と好奇心を抱いた。人と距離を置くことを常とする自分が、他人に僅かなりとも関心を持つとは。その事実に一番驚いているのは、レオンハルト自身だった。
 ともかく、生きている命をこのような場所に放っておくわけにはいかない。青年を抱え起こそうとして、レオンハルトは奇妙なことに気付いた。

 青年は、左手に固く、強く剣を握り締めていた。それも、まるで死すとも離すまい、と悲壮な決意を漲らせたように。そして、剣は、切先といわず、刃といわず、根元といわず、鍔といわず、魔物特有の青い血液がこびりついて、黒っぽく凝固していた。にも関わらず、辺りに魔物の死骸など見当たりはしない。だとしたら、この青年は、何処からやってきて、どうしてこんな所に倒れているのだろう。周囲には、死闘の痕跡の欠片も見られない。ただ、青年が倒れているだけ。一体、何が起こったと言うのだろうか?
 抱え上げかけた青年の身体を、もう一度そっと横たえると、レオンハルトはなるべく優しく、青年の指を剣の柄から剥がしにかかった。もういいのだ、という風に。もう剣を握り締める必要は無いのだ、と。レオンハルトはいとも簡単そうにその作業をやってのけたが、実際は失神してまでも剣を手放さない人間の指を動かすなど、相当骨の折れる作業である。
 ふと、レオンハルトは眉を顰めた。青年の掌には、爪の痕がくっきりと――血に彩られて残っていた。そこから、ある感情が伝わってくる。

 悲憤、というと良いのだろうか。血を吐くような激情。癒し得ない悲しみ。胸を貫く怒り。消し難い憎悪。そういった感情を全て含みつつ、そのどれもが遠く及ばないもの。
 瞬間、レオンハルトはひどく哀しい眼をしたが、やがて小さな溜息を一つつくと、口の中で何か呟いた。傷ついた青年の左手を取り、その上に自分の右手をかざす。と見る間に、レオンハルトの手から春の陽光を思わせる、優しく穏やかな金色の光がふわりと発せられた。その光が青年の傷に触れると、スッとその傷は消えた。
 それに満足したのかしないのか、レオンハルトは無表情のまま、青年の剣についた血糊を布で丁寧に拭い、鞘に戻してやる。
 青年を抱え上げ、無造作に歩き出す。



 「彼」はひたすら、暗闇の中を走っていた。いくら走っても、この闇から逃れられないことは知っていたが、立ち止まると、闇の中に捕まってしまう。
 それは嫌だ。
 それは恐ろしい。
 それは許されない。
 だから、「彼」は走った。
 そんな「彼」を嘲弄するかのように、「彼」の頭上に声が降りかかってきた。

 無駄ダ。

 声はそう告げた。押し潰されそうな暗闇の中、それでも「彼」は振り向きもしなかったし、走るのを止めようともしなかった。

 逃ゲラレルトデモ思ッテイルノカ。

 声は何処か楽しげに言う。既に自分の手の中に収めた獲物の、必死の抵抗を楽しんでいるという、この上も無く残酷な仕打ち。
 「彼」の秀麗な容貌には、焦燥が強く滲んでいた。捕らえられたら、仲間にされる。大切に育まれてきた優しさも、希望も、誇りも、全て失われる、奪われてしまう。“自分”の“存在”そのものを否定することになる。だが、だからと言って、どうしたらこの暗闇から逃れられる?

 オ前ハ逃ゲラレナイ。

 「彼」は、次第に自分の周囲が狭まってくるのを感じた。来るな! 「彼」はそう言ったつもりだったが、言葉は声にならなかった。

 オ前ハ逃ゲラレナイノダ。

 同じ台詞を繰り返し、声は笑った。無慈悲な笑いだった。それと同時に、闇が「彼」に襲い掛かってきた。「彼」は闇を払いのけようとしたが、逆にその腕を捉えられてしまった。離せ、と「彼」は叫んだが、やはり声は出なかった。両手が縛められたように、ぴくりとも動かない。気が付くと、足も固定されてしまっていた。離せ、と「彼」は再び声にならぬ声で、言った。
 「彼」のしなやかな身体は、背後から抱きすくめられていた。猛烈な脱力感が、「彼」の全身を駆け巡った。しかし、「彼」は抵抗を諦めず、四肢に力を込めて、もがいた。

 忘レタノカ。

 声が「彼」の耳孔に毒気を注ぎ込んでくる。やめろ、聞きたくない。もうたくさんだ。「彼」は耳を塞ぎたかった。が、手は見えざる力で固定されていて、所有者の意志には従ってくれなかった。

 オ前ハ、オ前ノ望ム道ニハ進メナイ。覚エテオクガイイ、オ前ハ、オ前ノ“血ノ宿命”カラ逃レルコトナドデキナイ。自由ニナドナレハシナイノダ……。

 黙れ、言うな。「彼」は燃え盛る瞳で、闇を睨みつけた。その途端、「彼」の身体は強く背後へ引かれた。

 忘レルナ、オ前ハ……。

 その刹那、「彼」の意識は炸裂した。誰かの顔が、脳裏に浮かんだ。それは、たった一人のようでもあり、複数のようでもあった。男かもしれないし、女かもしれなかった。
「やめろッ!!」
 「彼」は叫んでいた。声を出して、初めて。その声を出させたのは、憤怒か、憎悪か、恐怖か、それとも――。
「やめろ、これ以上俺に罪を重ねさせるなッ!!」
 魂全体で、「彼」は叫んだ。
 びしり、と闇に亀裂が走った。亀裂から闇は罅割れ、弾けて割れて、跡形も無くなった。代わりに、溢れたのは――光。目も眩む、光。

“帰ってきて……”

 光の向こうから、そんな声がした。闇の中の声とは全く違う。何処までも優しく、祈るように。まるで、「彼」を救うかの如く。
 だが、「彼」は光の世界に行くことが出来ない自分を、知っていた。ただ、唇を噛み、辛そうに切なそうに寂しそうに、俯くだけであった。
「済まない……」
 「彼」はぽつりと呟いた。
「済まない……」
 「彼」は瞳を伏せた。