華京騒動録 第二話 穆門大街の殺人
一 少年は見てしまった
(何で、こんな、ことに、なっちゃったん、だろう)
走りながら、弾む息と同じように、思考も切れ切れになる。
背に負った籠が大きく揺れて、中に入れてある杏子も転がりまわる。ああ、もうこの杏子、傷んで売り物にならないなあ、などとぼんやり思った。
「待ちやがれ、この孩児(!」
口汚い罵声が背後から追ってくるが、基本的に待てと言われて待つ者は、あまりいるまい。刃物を手にした相手に言われるのなら、尚更である。
人間、命が係っていると、思いもかけない力が出るものだ、とか、そもそも必死なのに、何でこんなこと考える余裕があるのだろう、とか。
とりとめもなく思いながらも、とにかく、少年は走っていた。まだ決して長いとはいえない自分の人生の中で、最大の危機から逃げるべく。
かなりの距離を走って、息は苦しいし、胸は激しい動悸を刻み、脚は疲れきって今にも膝が砕けそうだ。しかし、ここでもし自分が殺されるようなことがあれば、母がどんなに悲しむことだろう! その思いが、少年の限界に近い体を、辛うじて支えていた。
それにつけても、江湖(世間)は冷淡である。
いかにも人相の悪そうな男二人が、年端も行かない少年一人を、刃物を振りかざして追っているというのに、誰一人として助けに入ろうとしてくれない。そりゃ、とっ捕まえられて男達に引き渡されるよりは、遥かにましだけれど。
とはいえ、まあ、大方の人間としては、どうも堅気ではなさそうな男達を見ては、あまり係わり合いにならないのが利口だ、と判断するものだ。少年にとっては気の毒だが。
少年は、せめて追っ手を撒けないか、と大勢の人出で賑わう、都一番――つまり、光(帝国一番の名刹(である伸国寺(の門の中に飛び込んだ。折りしも、この日は八の日で、寺の広大な境内が、民衆の取引市場に開放される四日のうち一日。常から人通りの多い境内は、何時にも増して人ごみでごったがえしている。幸い、少年は小柄だから、これだけ人が居れば、その中に紛れてしまえるだろうと思った。
その、ちょっとした安堵感が良くなかったのだろうか。少年は、よろけた。よろけてしまったら、疲れきった脚は、途端に縺れてしまった。
(も、もう、駄目だ!)
前のめりに倒れながら、少年はぎゅっと目を閉じた。
しかし。
「うわっ!」
「ぎゃっ!」
少年のものではない、別の悲鳴が二つと、どさどさ、という重々しい音の連続。少年の上には刃物は落ちてこなかった。
「おいおい、穏やかじゃねえな。天下の伸国寺の境内で、刃傷沙汰に及ぼうってのか?」
不敵そうな若者の声が、何処か楽しげに、それでいて不機嫌に言う。少年が転んだまま、少し呆然としていると、
「大丈夫かい?」
と、優しげな声がして、少年を助け起こしてくれた。手を差し伸べてくれたのは、声同様に人の良さそうな顔をした、大柄な青年だった。
「あ、す、すみません」
差し出された手に掴まり、少年は起き上がって振り返った。
鞘ごとの長剣が差し伸べられていて、少年を追っていた男達が、折り重なって倒れている。どうやら、その長剣に足を払われてこけたようである。しかも、ご丁寧に向こう脛を打たれたため、咄嗟に立ち上がれないらしい。
長剣の柄を握っているのは、髪を無造作に結った、いかにも武侠風な若者だった。顔立ちそのものは、貴顕の公子と言っても通用するほど、いたく品があって整っているが、そこに貼りついた表情は、あまりにも奔放不羈(だ。
「しかも、たかが孩子(一人によ」
若者は手元に引いた長剣を背に負うと、いかにも相手を小馬鹿にした調子で、鼻で笑った。
「哥(さんよ……、あまり他人様の事情に首突っ込むのは、賢いとは思えないね」
ようやく、起き上がった男が、恫喝めいた台詞を口にするが、脚を半ば抱えたままでは、格好がつかないこと甚だしい。若者は感興をそそられた様子もなく、つまらなそうな顔で、男を見下ろしている。
「そこの小竪(、盗人だ。こっちに引き渡してくれるってんならともかく、変に庇い立てすると、哥さんのためにもならんぜ」
「あのなあ、おっさん。嘘ならもっと上手くつけよ。その孩子が、人のものを盗めるような度胸があるには、とてもじゃないけど見えねえぞ。それにな」
若者は、すいと目を眇めた。
不意にその眸が輝いたかのように、一条の光が走った。その白光の流れた後から、じゃっという音が、やや遅れて聞こえて、ぱらぱらと黒いものが散り落ちた。
何時の間にやら、若者の手には白刃が抜きつられている。
「その程度の脅しに俺がすくみ上がるとでも? 一昨日来やがれってんだ。……その面で、人前に出られるんなら、だけどな」
周囲に集まっていた野次馬から、どっと笑い声が起こる。自分に害が及ばない限りは、他人の喧嘩沙汰も、立派な見世物の一種だ。それも、威勢と見目のいい若者が、見事な腕の冴えをもって、いかにも善民でなさそうな男の、左の眉と髭を切り落としてしまったのだ。何となく、ざまあみろ、と爽快な気分にもなろうというもの。
「今度は、右眉も落としてやろうか?」
「なっ……!」
無惨な様になってしまった自分の左半面に手をやって、男が絶句する。
「それが嫌なら、とっととこの場から失せるんだな」
にや、と笑って見せた若者は、抜け目なく男達の取り落とした得物を足で踏み抑えている。二人は、凶悪な目つきで若者を睨みつけたが、やがて目配せを交し合い、足早に名刹の境内を後にした。
「何だ、捨て台詞の一つくらい吐いていけよ、気の利かねえ」
項祥竜(は、流れるような動作で剣を鞘に納めて、せせら笑った。
果物売りの籠を負った少年は、何かよく分からないがとにかく助かったらしい、とようやく安堵の息を大きく吐いた。
「ほらよ。飲めよ、おごりだ」
「ありがとうございます……」
祥竜は、木瓜汁(の入った椀を、少年に差し出した。
木瓜汁は、夏の飲み物だが、初夏のこの頃にもぼちぼちと出始める。生の水木瓜と薬木瓜から、酸味を浸出させた漿水(である。今日で言うところの、スカッシュのようなものだ。
伸国寺の大衆市場では、最近流行の鳥や犬猫の愛玩動物をはじめとして、家具に道具類、衣服、書籍、絵画など、ありとあらゆるものが商われているが、寺の境内だけあって、さすがに酒や生臭物は置いていない。
「ったく、武承(さんのお使いじゃなけりゃ、こんな酒も飲めねえ上に人だらけのところ、来ねぇよ」
祥竜のぼやきに、荷物の包みを抱えた秀昂(は苦笑した。
「どうせ暇なんだから、いいじゃないか」
どうやら、自分を助け起こしてくれた青年と、追っ手の男達を追い払った武侠の若者は、連れ同士だったらしい。そう理解した少年は、深々と頭を下げて、礼を述べた。
「あ、あの、助けていただいて、ありがとうございます」
「あ? ああ、気にすんなよ。偶然居合わせただけだしよ」
鷹揚に、祥竜は少年に向かってひらひらと手を振った。それから、やや関心を惹かれた様子で、少年を見る。
「俺は項祥竜。こいつは張秀昂だ。お前の名前は?」
「……李、李明鳳(、です」
「何か、いやにめでたそうな名前だな」
「……よく言われます」
「名前の割には、お前自身はあんまりめでたそうじゃないが」
「……それもよく言われます」
思わず、肩を落とす明鳳だった。自分の運は、名前に全部吸い取られているんじゃないか、と思わずにいられない今日この頃である。近所に偉い学者の人が住んでいて、その人がつけてくれた有難い名ではあるのだが、必ずしも、名は体を表す、とは限らないようだ。
「で、何で追われてたんだ? お前、何やらかした?」
「はあ、それが……」
明鳳は、祥竜と秀昂を交互に見て、少し言いよどんだ。
「言っちまった方が楽だぜ? 言ってもいいのかな、なんて気にすんな。どーせ、元々は無責任な野次馬にすぎねぇんだし、俺達」
祥竜の言葉に、内心を見透かされた思いで、明鳳はやや赤面した。
「そんな大層な話ではないんですが……」
ともかく、眼前の年上の二人連れは、どちらも悪い人ではなさそうだ、と明鳳は思い、自分が追われていた理由を話した。本人が言うとおり、複雑な話ではなかったが。
李明鳳は、母親と二人暮しである。父親は、彼が一歳になるかならぬかの頃、京師において猛威を振るった疫病で死んでいる。華京(は、非常に発達した都市の証明として、上下水道の施設が整備されていたため、衛生環境が良い。従って、この時に流行したのは、不衛生から来る類の悪疾ではなく、流行性感冒――所謂、悪性のインフルエンザであろう。多くの人々が、この病に倒れたので、明鳳の身の上は、特に珍しいものでもない。
母一人、子一人の生活は決して豊かとはいえなかったが、光王朝では救済制度を設けており、餓死するような羽目に陥らずに、今まで生きてこられた。母は縫い物の仕事をして、明鳳は知り合いの果樹園の持ち主から果物を分けてもらい、それを売って家計の足しにする、そんな生活を送っている。
さて、今日も何時ものように籠に果物を入れて、行商に出ていたところ。明鳳は釣銭を零し、ころころ転がっていくそれを追って、小巷((路地)に入っていった。家の墻((垣)にぶつかり、ようやく転がるのを止めた小銭を拾い上げて、明鳳が何の気なしに、ふと顔を上げると――。
「……死体が、家の裏手から、運び出されているところだったんです。多分、殺されて……血まみれの男の人が……」
「死体、ねえ」
祥竜は顎を撫でた。
「よく覚えてないんですけど、僕、多分、その時声を上げたんだと思います。そしたら……」
「要するに、それを見た口封じに、さっきの連中に追われてたってわけか」
「多分……」
「しかし、そこまでする必要がある死体って……」
秀昂が首を傾げる。
「要するに、そいつが死んでるってことがばれたら、色々まずいんだろうよ。殺した連中にとっちゃあ。そういう手合いにしたら、一人殺すのも二人殺すのも同じことだろうしな。相手が孩児だろうと何だろうと。ま、珍しい話でもないわな」
面白くもなさそうに、さらりと祥竜は言う。
「お前、時々、物凄く突き放した言い方するよなあ……」
呆れと感心をない交ぜにしたような表情で、秀昂は祥竜を見た。
「しょーがねえだろ。俺だって、生まれてすぐの嬰孩(赤ん坊)の頃に、母上と一緒に殺されそうになってんだし。俺は助かったけど。ともかく、それぐらい、やる奴ぁやるってこった」
「祥竜……」
秀昂と明鳳が、揃って目を丸くして自分を見ているのに気付いて、祥竜は一瞬、不得要領そうな表情を作り、すぐに、ああ、と笑った。
「んだよ、拙いことを聞いた、なんて顔すんなよお前ら。もう今更、のことなんだしな。そんなんより、お前、明鳳。お前のことだ」
「えっ……と、な、何でしょう?」
不意に話を振られて、しどろもどろになる少年を、商売人としてどうだろう、と祥竜は思った。
「お前、あんまり運が無さそうだし、ひょっとしたら、面倒くせえことになる可能性あるかもなぁ」
「いっ!?」
「脅すなよ……」
祥竜の言葉に、思わず明鳳が身を引いてしまった。秀昂は少年を宥めるように、物柔らかい苦笑を交えて、その肩を軽く叩く。
「あくまでも、推論の一つを述べただけだぜ、俺は。まあ、でも……」
まるきり、悪戯小僧そのものの笑い方をして、退屈嫌いの剣士は頭の後ろで手を組んだ。その仕草も、市井の悪童と同じである。
「無聊の慰めには悪くねえかもな」
「お前、面倒ごとになればいい、とか思ってるだろ」
「少し」
祥竜に“相棒”と見做されている秀昂は、しょうがないな、と言いたげに軽く肩をすくめる。
そして、李明鳳は、何だか妙なことになりそうな成り行きに、何度も目を瞬かせた。
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