華京騒動録   第一話 武侠と女優

七 あちらこちらで深夜の攻防
 華京(かけい)は、不夜城である。
 大抵の店は三更(午前零時頃)に営業を終えるが、繁華な場所では通暁、つまり終夜営業を行う夜市があり、その他にも「鬼子市(ゆうれいいち)」と呼ばれる、日が落ちてから開かれて、夜明けとともに引き払われる市がある。ただし、三更から五更まで各所の門が閉ざされる、という事実が示すとおり、一応、夜禁(やきん)の制が存在することはする。それが厳格に実施されていたかどうか、はまた別の話。一つには、先代の(おう)の時代と違い、市街の変化により、物理的な夜禁が難しかった、というのもあろう。また一つには、「曹三更」とあだ名される、犯夜の常習である官僚がいたりして、下々の人間に示しがつかなかった、というのもあろう。お上が何と言おうと、人々は逞しい。
 そんなわけで、華京は不夜城なのだった。昼間に比べれば、確かに人通りは少ないが、人の往来がなくなることはない(警邏(けいら)金吾街司(きんごがいし)含む)。灯火の数が減っても、絶えることはない。
 しかし、だからといって、いくら剣を負っているからと、女が一人で夜半の街を歩くのはどうだろうか。

 などというのは、祥竜(しょうりゅう)にとっては余計なお世話に他ならない。男の自分が、好きで女の格好をしているわけではないのだから。
 郭元遠(かく げんえん)邸第(やしき)を出て、最初は真っ直ぐ帰ろうかと思ったのだ。帰って、とにかく女の衣装を脱いで着替えて、一寝入りしよう。
 だが、夜道を歩いているうちに、一旦は退散していた怒りが、沸々と甦ってきた。郭元遠の様子に、馬鹿馬鹿しくなって雲散霧消したと思った怒気は、単に一時的に追いやられていただけで、昇華はされていなかったのである。
 ついでに小腹も空いてきたが、生憎と銭の持ち合わせが無い。しかも、香を嗅がされて無理矢理眠らされたせいか、全然眠くもならない。それがまた更なる腹立ちの元になり、怒りの悪循環。
 怒り心頭のまま、祥竜は桃花棚(とうかほう)への道を突き進んでいた。本来なら、「歩いていた」と表現すべきなのだろうが、とてもそういう穏やかな様子ではなかった。
 いくら見た目が美しい娘でも、恐ろしいほどの勢いで眉を上げて肩を怒らせていては、いかな無頼や浪子(遊び人)も余計なちょっかいを掛けられようもない。迂闊に声を掛ければ、その背の剣でばっさりやられかねない。そんな雰囲気を、祥竜は全身に漲らせていた。
(寝てようが、構うか。叩き起こしてやる、あの狸!)
 と、そこに桃花棚の座長がいるかのように、真っ直ぐきつい視線を正面に据えていた祥竜は、見てしまった。

「……麗佳(れいか)?」
「げ」
 半ば放心した声が、呟く。
 声同様、放心しきった顔の、彼の父親である項貴涼(こう きりょう)が、そこに呆然と立っているのを。

「麗佳ぁーっ!!」
「ち、違う、違う! 母上はもうずっと昔に死んで……、ええい、俺だ、気付け、クソ親父!!」
 何故、こんな時分のこんな所に、貴涼がいるのか。祥竜がそんな疑問を思い浮かべていると、避ける間もなく、彼は、がっちりと父の腕の中に抱き込まれていた。いつもよりも物凄い力で、簡単にはもぎ離せそうに無かった。
「呀(うわあ)! 放せ、だから俺は母上じゃないってのに!」
「麗佳、麗佳……!!」
「違うっつうの! よく見ろ王八蛋(大馬鹿)!! ていうか、酒臭ぇ!!」

老爺(ろうや)(殿様)! 老爺、お探しいたしました、……何をやっておられるのです?」
 祥竜がじたばたもがいていると、若々しい男の声が呆れたような響きを伴って、近づいてきた。
 声の主は、一見、単なる白面郎にも見える青年だったが、実は身ごなしに隙がなく、相当の武芸者であることが、見る者が見れば分かるだろう。まだ三十歳に届かないすっきりとした容貌、鋭く引き締まった長身に、粋な具合に(さん)を着崩して、腰には朴刀(ぼくとう)を提げている。朴刀とは、この当時、最も一般的な武器の、刃が短く広い刀で、主に護身のために用いられる。
游敬)ゆうけい)!」
 祥竜は、父親の腕の中から懸命に首を伸ばして、青年に呼びかけた。一瞬、彼は誰に呼ばれたか、分からなかったようである。が、すぐに、自分が探していた主人が愛しそうに胸に抱きこんでいる、娘の格好をした人物に気付いた。
少爺(しょうや)……どうされたんですか、その格好は」
 宋游敬(そう ゆうけい)は、驚いた、というより明らかに面白がっている口吻(こうふん)だった。主人の息子に対して、それはいささか礼を欠いた態度であるが、祥竜は気にしない。元々、媚び諂われるのが嫌いな性格でもあるし、主君をからかうくらいの度胸がないと、貴涼付きの護衛はやっていけないだろうと思うからだ。この場合、自分のことは遠くて高い棚の上である。
「趣味ででもやってるように見えるか」
「だとしたら、随分、自虐的なご趣味ですな」
「そんなことより、何で親父がこんな所にいるんだ」
「ああ、古いご友人と、久方ぶりに杯を酌み交わしておられたんですが。酔いを冷ましてくる、と外に出られて。それきり戻ってこられないので、在下(それがし)がこうして探しに参ったわけです」
「……それで、普段以上に言葉が通じないのか……」
 祥竜は、うんざりした顔で、強かに酔って己の妻と息子を混同している、父親を見た。貴涼は先ほどから、「麗佳」としか言わない。しかし、よりにもよって、何でこんな格好の時に都合よく出くわすのだろう……。

「在下は、少爺の母君を存知は申し上げませんが、今の少爺と、さぞ似ておられるのでしょうなあ」
 腕を組んでにやにや笑いながら、游敬は、何とか父の手から脱出しようと悪戦苦闘する祥竜を眺めている。
「馬鹿言ってないで、手を貸せ、游敬」
「手を貸せとおっしゃられても、老爺に直接手を触れるような非礼は、出来ませぬが」
「俺が許す。ていうか、今更そんな礼を気にするような柄じゃないだろう、お前」
「随分な仰り様で……」
 そう言って腕を解き軽く肩をすくめ、それでも游敬は主君と若君の間に割って入った。「失礼いたします」とごくごく小さな声で申し訳程度に言い、ひょいと貴涼の腕を引き剥がす。祥竜も頑張っていたため、それほど労苦は要しなかった。
「しっかりなさってください、老爺。戻りますよ」
「游敬……? あ、いや、その、麗佳、麗佳が」
「飲みすぎで幻でもご覧になられたのでしょう。さ、老爺」
 游敬は、巧みに祥竜を貴涼の視界から隠すようにして、主君の身を移動させた。
 ほっと息をつき、祥竜は助かったぞ、と目だけで礼を述べる。そういうところは義理堅い若者だった。
「少爺、一つ貸しですぞ」
「親父につけておけ」
 歩み去ろうとする背中に、游敬が声を掛けると、祥竜は振り向きもせずに言ったが、ふと思い出したように戻ってきた。
「游敬、金を貸してくれ」
「……返して頂く当ての無い金は、貸すとは言わないと思いますが」
「細かいな。だったら、景に戻る前に取り立てに来い。返すから」
 苦笑一つしながら、それでも游敬は懐から財布を引っ張り出して、祥竜に放り投げた。綺麗な放物線を描いて飛んできたそれを、祥竜は、はっしと受け止める。
「多謝(ありがとうよ)!」
 悪びれもせずに謝辞を口にして、祥竜は軽やかに身を翻した。
「まったく、おぬしも俺も、手がかかるくせに、妙に憎めないご主君を持ったことだな。孝姫(こうき)殿」
 今度こそ、祥竜の後姿を見送って、游敬は「手がかかる」主君を半ば抱えるようにして、歩き出した。彼の言葉に、何処かから「全くです」と、笑いを含んだ声が応じて、夜の中に溶けていった。


■ ■ ■ ■ ■ ■


 游敬に借りた金で包子(パオズ)を買い、祥竜はとりあえず、不機嫌の原因の一つを取り除く。特に愛想を振り撒いたわけではないが、美しい娘の姿をした彼に、店主がおまけをしてくれたので、それは得をした。
 買い求めたうなぎの包子で腹ごしらえを済ませた祥竜は、相変わらず歩きにくい(くん)に口中で文句を言いつつ、桃花棚にまで辿り着いた。ちらほらと気の早い連中が、夜を徹して開場を待っている。この日が、今やっている演目の千秋楽だからだろう。それを尻目に、祥竜は棚の裏手に回った。
 楽屋裏では、下積みの端役や、道具係達が雑魚寝している。なるべく彼らの眠りを妨げないように、一応は気を使いながら、祥竜は昼間に案内された、座長の部屋に向かった。


 他の一座の者と同じく、穏やかな眠りについていた桃花棚の座長は、不意に目を醒ました。
「おい、起きろ」
 急にそんな声がしたせいである。しかも、聞き覚えがある声、ときた。
「!?」
 ぎょっとした座長は、思わず跳ね起きる。
 枕元に置いた燭台の細い灯に照らし出されたのは、美しい女侠に扮した、昼間の武侠の若者――。
「俺が今、こんな所にいるのが、不思議なようだな」
 若者の声が低まる。嘲笑が滲んでいるのが、激発よりも遥かに不吉だった。
「幾らで俺を売ったんだ? え?」
「な、な、な」
「とぼけようとしても無駄だぜ。あんたが俺を売った(かく)駙馬(ふば)と俺は、ちょっとした知り合いでな。事情は全部分かってる」
 座長は言葉を失ったように、口をぱくぱくさせている。
「安心しろ、この件に関して、郭駙馬は今後も、何も口外しない。出来よう筈もない。それはいいが……」
 不意に、祥竜は座長の胸倉を掴み上げた。ついでに、声の調子が変化する。
「ばれなきゃいいと思ったんだろ!? ふざけんな!! よくも男の俺に美人局の真似なんぞをさせようとしてくれたな、ああ!?」
 殊に今の外見では、想像も出来ないだろう膂力で、がくがくと座長を揺さぶりながら、祥竜はまくしたてた。その勢いに圧倒されてか、座長はただただ前後に揺さぶられるばかり。
「大体な、俺は官人絡みの仕事は請けないのが信条なんだよ! それを、無茶苦茶にはめやがって!! しかも、ここに来る途中、こんな格好で、最も会いたくない人間に会うし!!」
 最後のは単なる八つ当たりである。

「……」
「あ?」
 祥竜が息継ぎするために、一旦言葉を切ると、ぼそりと座長が何かを呟いた。
「……単に、名や金銭のためではなかった……」
 その座長の声と表情に、嘘偽りではないものを見て取った祥竜は、座長の胸倉から手を離した。人物を見る目は、幼い頃から養われてきている。そういう教育を受けてきた。いずれにせよ、起きぬけの頭で咄嗟に嘘はつけまい、と判断したのだった。
「無論、万歳爺(天子様)の娘婿殿の申し出を断ることが出来なかった、というのはある。……それ以上に、昭怜(しょうれい)は……。……可愛い、娘だ」
「は?」
 意表を突かれて、いささか間の抜けた声を祥竜が出す。
「……幼い頃から、育ててきた。他人が何と言おうと、あの子を、自分の可愛い娘だと思っている。だからこそ」
「だから、昭怜を売れなかった?」
「出来ることなら、あの娘が自分から好いた男と、添わせてやりたい」
「ははあ……」
 何となく毒気を抜かれた態になった祥竜だったが、すぐに人の悪げな笑みを浮かべた。
「その可愛い娘に、自分の代わりに他人を金銭で売った、なんて知られたらまずいよなあ」
「なっ」
 思わず絶句する座長。
「黙っていてやらねえこともないぜ? 俺を売った金、そんだけで手を打とうじゃないか?」
 ……はっきり言って、そこらのやくざ者の強請(ゆすり)と大差ない言い草である。しかも、わざとらしく、背の剣の柄に手を掛ける仕草までして、だ。もし、この祥竜の言動を目の当たりにしたら、彼を溺愛している父親は、「そんな風に育てた覚えは無いぞ」とさぞかし嘆くだろう。
「……銀二十両」
 座長は、がっくりと肩を落とした。すなわち、敗北の証である。
「はッ、駙馬ともなれば太っ腹なこった」
 小箱に入れてあった銀を箱ごと受け取り、祥竜は軽く鼻を鳴らした。一応、蓋を開けて中身を確かめてから、それを仕舞いこんだ。
「じゃあな。今後は、甘い儲け話なんかに耳を貸さないことをお薦めするぜ。ここは、この世のあらゆる幸福があるとともに、あらゆる不幸がある都、華京だからな」
 年若いくせに、いやに世故に長けたような台詞を吐いた祥竜は、自らの大声が呼び寄せた人が、座長の房室の前で不安そうに不審そうに様子を伺っているのを気にも止めず、堂々とした態度で外に出て行った。いや、堂々というか、単に態度がでかいというか。


(しかし)
 そんな彼でも、迷うことはあった。
 今は女の格好だが、もともと着ていた服は、昭怜に預けてある。それで、劇場隣の女子寮内にある、昭怜の房室の前まで、来たことは来たのだが。
(どうしたもんか……)
 現在の外見はともかくとして、心身ともに立派な男である自分が、夜、寝ている婦女の部屋に押しかけるわけには、さすがにいくまい。その程度の常識くらい、祥竜にもあった。
 そうして、扉の前で柄にもなく迷っていると、扉が向こうから開いた。
「祥竜さん?」
「お、おう。無事だったか」
「祥竜さんこそ。なかなか戻ってこないから、心配してたのよ」
 心配していたと言う言葉通り、昭怜はまんじりともせず、祥竜の帰りを待っていたのだろう。美しい顔の中の、眸が少し赤い。
「ん、まあちょっとな。それはともかく、片付いたからよ。もう安心していいぜ」
「まあ……。じゃあ、お疲れでしょう、入って。生憎、お茶とかは出せないけど……」
「や、着替えに戻っただけだし。構わねえよ」
 昭怜に招じ入れられるままに、彼女の部屋に入りながら、祥竜はうざったそうに、娘風に結われた(まげ)を解いた。ざっと背に落ちた艶やかな黒髪を、いかにも手馴れたように無造作に束ねる。
 化粧を落とし、女物の衣装を何時もの衣服に戻すと、ようやく人心地がついたように、祥竜は大きく息を吐いた。
「でも、少しもったいないわね。美人だったのに」
「勘弁してくれ。もう二度とごめんだ……」
 服を替えるために、一旦下ろしていた剣を負い直した祥竜は、短い挨拶をして帰ろうとしたが、昭怜に呼び止められた。
「あの、祥竜さん」
「ん? 何だ?」
「あの……迷惑でなかったらでいいのだけれど……、また、雑劇、見に来ていただけるかしら?」
 そう言う昭怜が、いやに真剣だったので、祥竜は少し驚いたように、目を瞬かせる。
「ああ、別にいいけど……」
 世間ずれしているようで、女心には全く疎い武侠の若者は、女優の娘が自分の返答に何故顔を輝かせたのか、さっぱり分かっていなかった。



 建物の外に出た祥竜は、大きく伸びをした。
 もう少ししたら、五更――夜の終わりを知らせる報曉頭陀(ほうぎょうずだ)の、鉄牌(てっぱい)や木魚を叩く音と読経の声が、あちこちに響き渡る頃合だろう。
 何処で揉め事が起ころうが、何処で誰が困ろうが、落ちた日は昇ってくるものである。

 今日もこうして、華京の一日が始まる。

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Copyright (C) Ryuki Kouno