華京騒動録   第一話 武侠と女優

六 姫様な若君
少爺(しょうや)(若様)……」
「……少爺はよせ、と言ってるだろ、いつも」
 いずこからともなく呼びかけられた女の声に、目を醒ました祥竜(しょうりゅう)は苦々しげに答えた。
 頭が重いのは、嗅がされた香のせいだろう。
「ならば、お嬢様、とお呼び申し上げた方が、よろしいでしょうか?」
「怒るぞ」
 笑いを微かに含んだ声に、祥竜は顔を顰めながら、身体を起こした。懐の首剣は取り上げられていたが、衣服に乱れは無い。……つまり、まだ女物の衣装を着たままだった。
 祥竜が寝かせられていたのは、架子牀(かししょう)といって、天蓋つきの寝台だった。掛けられた(とばり)は上等の薄い絹で、細やかな刺繍で花模様が縫い取られている。(ふすま)(掛け布団)も、やはり絹。
 辺りは暗く、覆いを被せられた常夜の蝋燭が燃えていることから、まだ夜は明けていないのだろう。四更(午前一時頃)を二点(一点は更の五分の一)も過ぎた頃だろうか。蝋燭は、この時代、高級品の部類である。普通、灯火には油燈が用いられる。随分な金持ちの家らしい。他にも、その灯りに照らし出される調度品といったら、金銭(かね)のかかっていないものなど無いのではないか、というようなものばかりだ。螺鈿(らでん)を施した椅子、いかにも名のある画家の手になったと見える衝立、手の込んだ細工の、花を(かたどった灯篭……。
 それらを無感動に眺めやって、祥竜は房室の片隅の影に声を掛けた。

孝姫(こうき)
「はい、公子」
 その呼びかけに応じたように、女の姿が現れた。
 ぴたりと拝跪(はいき)の礼をとった女は、影から生まれ出たように、すらりとした長身を真っ黒な装束で包んでいる。動きやすさだけを考慮したような装束には、箔も刺繍もない。やはり動きやすく纏められた黒い髪にも、女性らしい釵子(さいし)(かんざし)などの装身具は一切無い。僅かに、唇に淡い紅が刷かれているのが、彼女の怜悧そのもの、といった印象を少し和らげていた。そのいでたちからして、細作(しのび)の者と知れる。年の頃は二十代半ばといったところか。
「ここは、何処だ」
「郭駙馬(ふば)邸第(やしき)の、離れの一室でございます」
 駙馬とは、皇帝の娘婿のことである。皇帝の姻戚であるため、よほどの能力に秀でていない限りは、位階が高くとも政治や軍事の実権を与えられることは少ない。また、自分の身は臣下でありながら、妻は公主(皇帝の娘。内親王)なのだから、往々にして妻の尻に敷かれた恐妻家が多い。地位と名誉はあれど、という複雑な身分だ。
「郭駙馬……、確か、郭元遠(げんえん)、って名前だったな。緑珠(りょくしゅ)公主の夫だったか」
「はい」

 古来の礼として、諱名(きめい)というものがある。実名は「(いみな)」といい、「忌み名」に通じ、名を直接呼ぶのは大変無礼なこととされた。それが許されるのは、親や主君などの目上の者が、目下の者を呼ぶときに限られる。もっとも、士大夫であれば、(あざな)や号、官職名で呼ぶのが普通である。字などつけない、あるいは名も持たないような一般庶民の間においては、そこまで厳格な礼は求められないが。
 これは余談になるが、一天万乗の君、皇帝陛下の御名になると、「忌諱(きき)」といって、呼ぶどころか一字を書くことすら憚られることになる。いや、憚られるどころか、処罰の対象にまでなるのだ。現在の皇帝の名は慶だが、その当今の聖上が即位した時には、慶と名のつくあらゆるものが、似た意味を持つ字に置き換えられた。
 祥竜は、その皇帝の娘婿である人物の名を、直接口にした。のみならず、孝姫と呼ばれた女が、それを咎めもしない。

「……郭駙馬は、雑劇を観ぜられるのが、お好きな方でございます」
「……ああ、郭元遠の名を聞いたら、大体の事情は予想できる。要するに」
 項祥竜、二重にはめられたわけである。

 雑劇好きな郭元遠は、観劇に行って、そこで桃花棚の蔡昭怜を見初めた。そして、極秘裏に妾に譲って欲しい、などと座長に申し出たのだ。表立って言わなかったのは、勿論、妻の公主が怖いからに他ならない。
 しかし、昭怜は一座の大事な看板女優である。求められても、おいそれと頷くわけにはいかない。莫大な金銭を積まれても、それで贖うことの出来ない「名声」「評判」がある。繁栄している都は、客の見る目も肥えているので、どんな稼業も生存競争が激しいのである。現在、昭怜は当代一の女優だ。いずれはまあ、散る花であるとしても、まだまだ散り時には早すぎる。
 その代わりと言っては何だが、昭怜から相談を持ちかけられるように仕向け、「身代わり」とする女侠を探すことを、座長は請け負ったのだ。何故、女侠かというと、女侠のような強い女であれば、正妻にびくびくすることも無いだろう、ということだ。昭怜の代わりであるから、美女であることは大前提。
 結局は、面白がった情報屋の暁華(ぎょうか)の茶目っ気のせいで、見目は麗しくとも、女を装ったに過ぎない男の祥竜が連れてこられてしまった。これは、暁華が裏の事情を知らなかったせいで、彼女も座長にはめられた、と言えなくもないわけだが。そして、更にその暁華にはめられた祥竜としては、気が治まる筈が無い。

「いかがなされますか?」
 そう問われて、祥竜は眉を跳ね上げた。
「どうもこうもねえ! 郭元遠もだが、あの座長の老滑頭(狸親父)! 俺に美人局(つつもたせ)をさせようってのか、っざけんな!! あーくそ畜生、どいつもこいつもっ!!」
 ついでに、さも腹立たしげに足を踏み鳴らす。美しい娘の姿で。


 孝姫は、祥竜の伯父に仕える細作である。元々は伏氏、というそこそこ名のある一族の出身だったのだが、家は彼女が十代半ばの頃に政争に負けて、没落した。政争に負けたとは物は言いようで、政争相手にはめられたのだ。それも、巫蠱(ふこ)の疑いを掛けられて、だ。巫蠱とは、まじないをして人を呪うことで、主に人形を使う。言うまでもなく大罪であり、これを行ったとされる者は、死罪に処される。万が一、呪詛の相手が皇帝だったりした場合は、大逆不道罪として、一族諸共処刑されることとなる。この時は、孝姫の父と兄二人、叔父など、一族の成人男子が極刑を受けた。呪詛の相手が、政争の敵とされたので、辛うじて族滅の憂目に遭わずには済んだのだった。
 彼女は、祖母が祥竜の伯父の乳母だったため、救い上げられた。撃剣を好くし、また、あまり表に出られない立場上、彼女は細作となって、恩人に仕えることになったのである。
 そうして、主人の甥御の護衛を仰せつかったのが、二年前。この都で暮らすことになったから、あれの父親を安心させるためにも、よろしく頼む、と。ただし、恐ろしく気が強い奴なので、助力を求められない限りは、あまり自分から手出しをせずとも良い、とも。
 主人とは違い、口は悪く、非常識なくらいに大喰らいで、喧嘩っ早く意地っ張りで、歩く騒動の種みたいな若者だが、裏表が無くて憎めない。何時しか、孝姫は祥竜を、手のかかる弟のような思いで微笑ましく見守っていた。あるいは、それは主人の配慮だったのだろうか。

 で、暫くは孝姫の見守る前で、憤懣(ふんまん)やるかたない、という様子で握り締めた拳を震わせていた祥竜だが、どうにか気を鎮めたらしい。
「……ったく、堂々と浮気する度胸も無いなら、大人しくしてろってんだよ」
「まあ、世の大多数の殿方は、公子の父君とは違いますから」
「当たり前だ。あんなのが江湖(世間)にたくさんいて、たまるか」
 実の父親を「あんなの」呼ばわりしておいて、祥竜は、不意に耳をそばだてる。
 足音が近づいてくるのを、彼の聴覚は捉えていた。その音の主は、十中八九、郭元遠であろう。
「孝姫」
 そう言って、祥竜は孝姫に向かって右手を伸べた。それだけで、委細を承知したように、孝姫は祥竜の(たなごころ)に彼の愛用している長剣を渡し、再び影の中に姿を消した。
「面倒なことになりやがって」
 何時ものように背に剣を負いながら、祥竜は憮然として呟き、この日、何度目か分からない舌打ちをした。




 郭元遠は非常に上機嫌だった。
 桃花棚の座長との申し合わせ通り、蔡昭怜の護衛という名目で雇われた女侠は、まだちらりと見ただけだが、確かに美人だった。眉の辺りが少々きつい感じだったが、それも快活そうでいい。妻である公主は、美しいことは美しいのだが、どうも人形のようで生彩に乏しい。
 決して、妻を疎んじているわけではない。第一、そんな恐ろしい真似は出来ない。緑珠公主の母親は()美人(女官の官位の一つ)で、決して身分の高い女性ではなかったが、父親は何せ皇帝陛下である。
 だが、男女の間というのは、実に微妙なものだ。郭元遠は、妻を嫌ってはいなかったが、彼個人の好みとしては、もっと生き生きした女性の方が好きだったのである。そういうわけで、いかにも闊達そうな女侠を、一目で気に入った。
 そんなわけで、すこぶる上機嫌で、郭元遠は女侠を寝かせた房室の扉を開いて、中に入った。

「……?」
 蝋燭の揺れる火影に、人の形が照らし出されている。
 と、郭元遠が確認するかしないかの間に、冷たいものが喉に突きつけられていた。それが、女侠の手に抜きつられた剣の刃だ、とは分かったが、何故、そんな物騒なものを女が手にしているのか。武器といえば、懐に首剣を持っていたというが、それは取り上げさせたはずだ。
「郭元遠」
 疑問を抱く前に、名を呼び捨てられた。あまりといえば、あまりにもな無礼に、郭元遠は声を上げようとしたが。
「大声を出す前に、ようく見ろよ、この顔。見覚えが無いか」
 という声と共に、ぐいと白刃が押し付けられる。荒事に慣れていない男は、刃の冷たさに怒りよりも恐怖が勝った。ぞんざいな物言いをする女侠の声に従って、その顔をまじまじと見つめる。
「ま、……まさか、まさか、こ、こ……」
 途端、郭元遠の全身が硬直した。恐怖とは別の感情で、その声が震えた。

 祥竜は剣を引き、にやりと笑う。
「ちゃんと覚えていたようだな」
「な、何故、こんな所に」
「何故と言って、お前が連れて来させたからだろう」
「い、いや、そ、そうではなく……!」
「まあ、俺が、項祥竜と名乗って、都で布衣(ほい)(庶民)も同然の暮らしをしている、なんて大声で言えることではないのは、確かだが」
 へたり込んでしまった郭元遠に、祥竜は剣を鞘に収めてから、二歩、歩み寄った。
「運が悪かったということだ。お前も、俺も。ま、お前はこれに懲りて、下手に奥方以外の女に手を出そうなんて、考えないことだな。どうしてもってなら、もっと上手くやれ」
「しょ、少爺」
「案ずるな。お前が俺に不利益を働かない限り、黙っていてやる。騒ぎになって困るのは、俺じゃなくてお前だしな」
 聞きようによっては、脅迫にしか聞こえない事を、さらっと祥竜は口にする。
 本来、この邸第の主人は郭元遠である。だが、これではまるで立場が逆転しているようだ。郭元遠は冷や汗をだらだら流しながら、ひたすら祥竜の前で畏まっている。祥竜は、それがごく自然で当たり前のことのように、傲然たる様だった。その様子は、主君と、それに(かしず)く臣下の図によく似ていた。
 ……もっとも、この場合は、祥竜の格好だけを見て言うなら、主君というより姫君かもしれない。
「そんな、まさか少爺に、そのような不逞を」
 郭元遠は、祥竜に許しを請わんと、ただ平身低頭する。
 傍目から見ると、滑稽甚だしいのだが、郭元遠は真剣だった。もしも、この若者の、己に対する心証を悪くしてしまえば、身の破滅に繋がり得るからだ。しかも――彼の妻と、祥竜は互いに知らぬ間柄ではない。とにかく、とんでもないことになってしまったこの不始末を、何とか無事に収めようと、彼は必死だったのである。
 蔡昭怜を手に入れる代わりとして、連れて来られた(かどわかした、という方が正しいが)女侠の正体が、かの公子だったとは……!

 やがて、そんな郭元遠の様に、祥竜は馬鹿馬鹿しくなった、とでも言うように大仰な溜息をついて、くるりと背を向けた。祥竜の気配が遠ざかるのに気付いて、郭元遠は恐る恐る顔を上げる。
「少爺、ど、どちらへ」
「帰るに決まってる」
「か、帰るとは……何処へいらっしゃられますか」
「お前が想像しているような場所でないことは、確かだ。だからといって、くれぐれも、今回のこと、口外しない方がお前の身のためだぞ――色んな意味で」
 今度はあからさまな脅迫をして、祥竜はもはや振り返りもせずに、房室から出る。そのまま、(きざはし)も使わず、欄干に手をつき、回廊から院子(庭)に身を躍らせた。
「あ、少爺!!」
 止める暇もあらばこそ、という素早さである。夜の闇は、たちまちのうちに祥竜の後姿をその中に飲み込んだ。

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Copyright (C) Ryuki Kouno