華京騒動録   第一話 武侠と女優

四 美女と美女と美女
 世界最大の大都市、地上の夢の都・華京(かけい)
 この都に住む大部分の人々の、一日の始まりは、毎日五更からである。夜の時間は、日没後から夜間を五つに分けて定められ、その時間の区分を更という。よって、各更は季節によって変化する不定時だ。五更は、春分の季節では午前三時頃に当たる。それはさておき、ともかく華京は、夜も遅いが、朝も早いのだ。
 五更になると、華京のあちこちで、寺院の朝の勤行(ごんぎょう)の行者が、鉄の札か木魚を叩いて、人々に朝を知らせて回る。これを「報暁頭陀(ほうぎょうずだ)」という。朝廷に出仕する官僚や、早朝から店を出しに行く人々は、この音を聞いて起きる。
 各所の門は、三更(午後十一時頃)から五更までは閉められるが、それが開け放たれる。それに伴って、店も開き出す。粥・飯・点心の店などが主だが、洗面の水や湯茶、煎じ薬を売る店もある。これらの店は、朝帰りの人間や、夜勤明けの役人、夜間巡警の終わった兵士などを客としてあてこむ。こうして、華京の人々は、夜明け前から活発に活動を始めるのである。


 さすがに、そんな時刻に起きはしなかったが、大抵、(ひる)近くまで寝ていることが多い祥竜(しょうりゅう)にとって、この日は珍しく、驚異的に早起きだった。欠伸をしながら外に出る。と、丁度、店の前の掃除をしていた、向かいの薬舗(やくほ)(薬局)の娘である黄彩春(こう さいしゅん)に、その姿を目に止められた。
「あら、祥竜さん、おはよう。珍しいのね、こんなに朝早く」
 髪を双髻(そうけい)に結った頭を軽く下げ、彩春は祥竜に会釈する。
「ああ。まあな」
 またしても出そうになる欠伸をかみ殺し、祥竜はいかにもやる気の無さそうな顔で、彩春に頷き返した。「やる気の無さそう」な態度は、格好にも表れていて、今日は剣も背に負っていない。

「早いってことは、何処かに行くの?」
 普段、朝寝ばかりしている人間が、珍しくいつもより早く起きて来る、ということは、結構、それだけで他人の好奇心を惹くものだ。
「あーうん、ちょっとな。桃花棚(とうかほう)に」
「え、桃花棚!? あそこって、五更前には並んでおかないと、入れないっていうじゃない。それに、祥竜さんが雑劇見に行くなんて、意外ー! 祥竜さん、いつも人の多い所は嫌いだって言ってるのに」

 例えば、皇帝の行幸に際しても、普通は、御街(ぎょがい)に、その色とりどりにきらびやかな行列を見物に行く。御街とは、宮城の正門から外城を一直線に結ぶ、「皇帝のお成り道」のことである。従って、普段は厳しい通行の規制がある。見物も、道の両側の、黒塗りの矢来(やらい)が据え付けられた御廊(ぎょろう)からになる。
 皇帝の行列ともなれば、豪壮華麗なこと、華京の市民にとっては――いや、(こう)王朝の人民全てにとって、滅多に無い素晴らしい見世物だ。そして、一天万乗の君を讃え、「万歳爺(皇帝陛下)、万歳!」と唱えるものだが。
 が、祥竜は「人でぎゅうぎゅうの所に行っても、窮屈な思いするだけじゃねえか。腹の足しにもなりゃしねえ。嫌いなんだよ、人ごみ」と、誘われても行かない。
 そういう祥竜であるから、大袈裟ではないか、というほどに彩春に目を丸くされても、致し方ないことではある。
暁華(ぎょうか)さんに、来いって言われたんだよ」
「ふーん、じゃあ、お仕事なのねやっぱり。でも、いいなあ。帰ってきたら、感想聞かせてね」
「起きてられたらな」
 昨日は昼寝もして、睡眠は充分に取ったつもりなのだが、精神的な疲労のせいか、どうも眠気がすっきりと解消されない祥竜だった。
(どっちにしても、親父が来てるんだから、厄介ごとは御免だ。仕事はしたくねえぞ)
 と、決意も強く、祥竜は彩春に手を振って、桃花棚に向かった。


■ ■ ■ ■ ■ ■


 数千人は軽く収容できる巨大劇場・桃花棚は、朝から超満員である。色絹や旗や花飾りで、華やかに飾り立てられた劇場の前は、初回の公演に入りきることが出来なかった人間で、ごった返していた。
「祥竜くん、こっちこっち!」
 ここに来る途上で買った蒸餅(現在のマントウ)を食べながら、人ごみにうんざりしていた祥竜は、自分を呼ぶ声の方向に首を廻らせた。
 暁華が、上げた手で祥竜を手招きしている。祥竜は暁華に歩み寄った。
「ちゃんと来たわね。感心感心」
「言っとくけど、俺は仕事を請ける気はねえぜ」
「まあ、それはともかく、せっかく来たんだから、評判の蔡昭怜(さい しょうれい)の演技を見ていきなさいな。そうそうある機会じゃないわよ」
 是とも否とも言わなかったが、祥竜は最後の蒸餅を飲み込んで、劇場の裏手に回る、暁華の後ろについていった。


 関係者用の裏口から、暁華と劇場内に入った祥竜は、桃花棚のこの日の第二回公演を最前列で観劇する、という他人が羨む幸運に恵まれた。本人がどう思うかはともかく。
 この日の演目は、七百年ほど昔の、有名な悲恋物語だった。
 男装して学校に学んだ女性が、同門の男性と恋に落ちる。しかし、女には婚約者がいた。どんなに互いの気持ちが真摯でも、きちんとした婚約を交わしていない男女の交際は、不義とされるのが、古来の礼である。庶民の家ならともかく、学問を修めることが出来るほどの家の生まれであれば、結婚を決めるのは本人の意志ではなく、親の思惑となる。男と女は引き離され、男はやがて地方の県の長官となったが、憂悶から病を発して死ぬ。女は、男が病死したことを知り、嫁ぎに行く途中、墓参りに行く。そして、女が男の墓前で号泣していると、地面が裂けて、女も共に埋められる――という筋書きである。
 桃花棚の看板女優、蔡昭怜が演じるのは、勿論、その悲劇の女主人公だ。
(なるほど、なあ)
 祥竜は舞台上の昭怜の姿を見て、彼女が何故、花形女優と賞されるのか納得した。
 彼女は、紛れも無い「花」だった。顔かたちが芙蓉の花のような、と最上級の形容で絶賛される、それだけではない。女優になるために生まれてきたのではないか、と思わせる、圧倒的な存在感が、その娘にはあった。手の動き、足の運び、話す言葉一つで、観客の目を釘付けにしてしまう。それは、天賦の才だ。
 だが、何故、命の危険に晒されるような目に遭うというのか。もし、その才能を妬んで、とかいうならば、ぞっとしない話である。
 ふと、祥竜はそこで我に返った。仕事は断ると決めているのだから、余計なことを考えるべきではない。
 ただ。
 記憶に無い祥竜自身の母親も、こういう場所で小唱(こうた)を唄う女性だったという。それを思い出すと、舞台上の女優の娘が、少し他人とは思えない心情も、祥竜には、あった。


 上演は無事に終わった。
 どさくさに紛れて、祥竜は帰るつもりだったのだが、事前にそれを察知した暁華に、がっちりと腕を掴まれては、それはままならなかった。そのまま、祥竜は楽屋脇の、座長の房室へと引っ張り込まれていった。
「……暁華さん」
「なぁに?」
「あんた、どーーーーーーしても、この仕事、俺にやらせたいわけ?」
「ええ、どーーーーーーしてもよ」
「理由を聞かせろ、その理由を!」
 などと、祥竜が暁華に食って掛かっていると、扉が開いた。舞台化粧を落とし、衣服を市井(しせい)の女のものに着替えた蔡昭怜は、飛び抜けて美しいことを除けば、ごく普通の娘に見えた。
 昭怜と共に房室に入ってきたのは、壮年の座長。その座長が戸惑った様子を見せたのは、何も、情報屋の美女と、武侠と思しき若者が、どうにも基本的取り決めが出来ていないようにしか聞こえない、言葉の応酬をしていたから、ではなかった。
「暁華さん、その……私が紹介して欲しい、と頼んだのは女侠の筈だが……」
「ええ、でも、彼なら大丈夫でしょう? 決して、花花公子(女たらし)などではないことも、私が保証しますわ。彼は、項祥竜。その筋では有名な剣客です」
 その「彼なら」って、どういう意味だ。しかも、女侠の代わりかよ!?
 祥竜はそう突っ込みたかったが、迂闊に口を開いても、あまり良い事が無いような気がしたので、とりあえず黙っていることにした。

 見習いらしい少女が、茶と菓子を運んでくる。菓子は、酥蜜餅(そみつへい)(クッキー)、甘露餅(かんろへい)(甘く軽い揚げ煎餅)。
 座長に促され、卓をはさんで、祥竜の向かい側の椅子に座った昭怜が、ぽつぽつと事情を話し始めた。

「それ」に気付いたのは、つい十日ほど前のこと。
 昭怜達のような雑劇を生業にしている者は、教坊で稽古をする。教坊というのは、役所の一種である。宮中で音楽や舞踊等を専門に行う、特定の身分の者を養成する所だ。宮中にある内教坊に対し、市中に設けられた外教坊の方である。巨大劇場の花形ともなれば、そこでの稽古を許される。
 その教坊からの帰り道、昭怜は、(くつ)の音が自分の後ろからずっと聞こえてくるのに、気付いた。
 はじめは、偶然、帰り道が同じ人がいると思って、気に留めなかった。
 だが、それが何回も続くと、若い娘が不気味に思うのは当然だろう。昭怜が教坊から帰る時間は、いつも同じではない。それなのに、いつも決まったように、後ろから鞜音はついてくるのだ。昭怜が走ると、鞜音も走る。立ち止まれば、止まる。
 花形女優にそういう相談を受けた座長が、楊暁華に、不安がる昭怜の護衛をする、武侠の紹介を依頼したのである。

「で、命の危険まで感じたってのは?」
 口を開いたのは祥竜である。あら、という眼を暁華に向けられて、誰のせいだ、と祥竜は返した。
 何にせよ、腹をくくるしかなさそうだった。諦めたともいう。暁華の笑い方が少し気にはなるが、ここまで来て仕事を断るのは、武侠の名折れ、という以前に人の道に反するだろう。
「一度だけなんですけど……、思い切って振り向いてみたんです。暗かったのと、ちょっと遠目だったので、相手の姿ははっきり見えなかったんですが、あれは刃物の光でした……」
 微かに肩を震わせて、昭怜は答える。祥竜は不機嫌そうだった顔を、やや緩めた。
「俺は何処までやればいいんだ? 単に彼女についててやればいいのか、それとも、彼女を脅かす相手をふん捕まえて、金吾街司(きんごがいし)(京城の警備部隊)に引き渡すまでか?」
「無論、後顧の憂いが無いように、相手を捕まえていただけると、大変有難いですが……、ただ……」
 少し言いにくそうに、そこで座長が口ごもった。
 その様子に、昨日から付いて回っていた、祥竜の「不吉な予感」が、音を立てて大きく膨らんでいく。
「昭怜は、今、女子寮に住んでいるんです」

 は?

「護衛ですから、暫く共にいてもらうということになりますが、そういう場所が場所だけに、男性の出入りはちょっと……」
「ええ。ですけど、外見が女性に見えれば、問題はありませんでしょう?」

 ちょっと待て。

「……聞いてねえぞ、そんな話」
「言ってないもの」
 渋面の祥竜に、しれっと暁華が答える。
「俺なら、ってそういう意味かよ!?」
「そういう意味よ」
「きったねえ、はめたな、暁華さん! あんた、絶対面白がってるだろ!?」
「はめただなんて、人聞きの悪い。人助けが仕事でしょ、君の」
「論点を誤魔化すなッ!!」
 依頼人を前にして交わす会話ではない、少なくとも。
 あっけに取られる昭怜と座長に気付いて、祥竜は小さく舌打ちした。
「……あんた達は、それで問題無いのか?」
 俺には大いに問題あるけどな! という点は口に出さず、祥竜は僅かに期待を籠めてそう言った。
「……よろしいので?」
 と座長が言ったのは、肯定の答えである。もはや後にも引けず、祥竜は頷くしかなかった。せめてもの救いといえば、ずっと不安げな面持ちだった昭怜が、この期に及んで、やっと微かな笑顔を見せたことだろうか。祥竜の様子が可笑しかったのか、安堵したためか、それは不明だが。


「祥竜さんは、刺青をなさってないんですね」
 祥竜を「女侠」に仕立て上げる手伝いをしながら、昭怜は言った。
 身体髪膚(しんたいはっぷ)、之を父母に授く。敢えて毀損(きそん)せざるは、孝の始め也。――ただし、女子が耳にあなをあけて()(玉の耳飾り)などをつけるのは例外である。母親が娘に対する愛情は最も深いものであるから、娘が美しく着飾るために耳に孔をあけるのは、不仁ではないとされる。
 それが、前の王朝の末期から軍において、兵士に刺青するという風習が出来た。刺青というのは、親から貰った大切な身体に彫り物をする、孝の観念からすれば、言語道断な行為である。まして、文身(ぶんしん)(いれずみ)するのは異民族の風習であり、それ故に「(げい)」といって、華人から追放する、という刑罰の証であった。しかし、この時分には、武侠たちに、一種の示威として刺青が流行している。一説には、光王朝の太祖皇帝も、その身に、見事な刺青を負っていたという。
 上着を脱いだ祥竜の肌には、その刺青が無かった。
「親父がうるさいんでね」
「親孝行なんですのね」
 祥竜の父親である貴涼(きりょう)を知っている人間であれば、祥竜の言葉にさもありなん、と思っただろう。
 (くん)(スカート)を身に着け(当然、下には袴を履いている)、衫子(さんし)(女物の裾の短い上着)を着る。いつもは無造作に、ただ束ねているだけの祥竜の髪に、昭怜は丁寧に櫛を通し、結い上げて、簪で留めた。
「祥竜さん、凄く美人だわ」
「いや……褒められても、困るんだがな……」
 薄化粧まで施され、そう、眉を顰めた祥竜の横顔が、驚くほどに自分の母親に似ていることを、祥竜自身は、無論知らない。

 装いを整えて、昭怜と共に出てきた祥竜に、暁華は笑いかけた。
「まあ、まさに、天然の美貌、海棠(かいどう)の花、って感じだわね、祥竜くん?」
「……恨むぜ、暁華さん……」
 実に恨めしそうに上目遣いで、祥竜は暁華を見た。もっとも、いかにも不服そうなのは、祥竜一人だけである。何処から見ても、凛と美しい娘の姿をした祥竜だった。
秀昂(しゅうこう)には、仕事で暫く戻れないって、言っておいてあげるからね」
「そりゃどうもご親切に!」
 ――かくして、武侠・項祥竜は、女侠として、女優・蔡昭怜の護衛を勤めることと、相成ったわけだった。  

次頁へ 前頁へ 表紙へ

Copyright (C) Ryuki Kouno